終章
第58話 希望
「ね、お父さん、あれでしょ?」
目を輝かせて、沙希は窓の外を指差す。
旅客機の翼の下、途切れた雲の向こうに広がっているのは、たしかに北海道の大地だった。短い夏の盛りで、雄大な平原を緑が覆っている。
「楽しみでしょ、沙希ちゃん。やっと会えるんだもんね」
通路側の席から、やさしげに微笑む淳子が娘にたずねる。沙希は、心持ち顔を赤らめてうなずいた。
この夏、小さい沙希は十二歳になった。聡美と俺の間に産まれた赤ん坊は、こんなに溌剌とした少女に育ってくれたのだ。
沙希はいつも元気があり余り気味で、夏が始まったばかりなのに、もう小麦色に焼けている。水泳教室を欠かさないせいだ。
天然パーマは聡美に似ているが、色は黒。いつもはリボンで止めてるが、今日はそのまま肩までたらしているので、ちょっと大人っぽい。産まれてこのかた病気らしい病気を知らないところなどは、父親譲りということにしておこう。
小さい沙希は、日を追うごとに聡美や沙希に似てくる。まるであの二人が、元気になって生まれ変わってきたかのようだ。淳子も、元気な娘の姿を見て涙ぐむことが多い。きっと同じことを考えているのだろう。
聡美や沙希の命日や誕生日には、俺や淳子が思い出話をしあうことが習慣になっている。小さい沙希は、聡美のことは写真やビデオや俺達の話でしか知らないし、自分を産んでくれた母親だと言うことを、知識として知っているだけだ。そして、実の父親が俺だと言うこともまだ知らない。だから育ての親の淳子をお母さんと呼び、聡美のことは聡美ママと呼んでいる。
……遠からぬいつか、この娘に話す日が来るだろうが。
沙希。
聡美。
この十二年は、おまえ達がくれた、最高のプレゼントだったよ。小さい沙希と、淳子と一緒に、夢のように幸せな日々が続いてきたんだ。
平凡とは平穏を意味するのだと、つくづく思う。そして、波の穏やかな日には水が澄んでいるように、平穏な日々にこそ、見えてくるものもあるのだとわかった。
小さな沙希が歩くようになり、喋りだしたとき。「おとうさん」と、初めて呼んでくれたとき。そうしたこの子の成長の一瞬一瞬が、たとえようのない喜びを与えてくれた。
「お父さん」と呼ばれるたびに、いつも聡美を思い出す。こんな風に、声で呼んでくれたくれたことは、ほとんどないけれど。だから俺は、聡美にしてやれなかった分も含めて、二倍の愛情を注がずにいられない。
沙希、聡美、本当にありがとう。
「早く会いたいな、お兄ちゃん……」
シートの肘掛に頬杖をつきながら、沙希はつぶやいた。
今、この子は胸をときめかしている。まだ初恋と呼ぶにも幼すぎる気持ち。もっと淡い、憧れとでも呼ぶべきものだろうか。長年の文通相手に、ようやく会えるのだから。
文通といっても、最近珍しい紙に手書きで送るものだ。電子メールがあたりまえの時勢で、なんとも古風なことではある。しかし、手書きならではのよさもあるのだ。
始まりは、俺とキヨさんが送りあっている年賀状や暑中見舞いだった。自然と、書かれる内容は子供の成長に関することになる。キヨさんの末の男の子、俺の名をとって名づけられた聡君と、小さい沙希の話題だ。
やがて、子供達が大きくなってくると、自分達同士でも年賀状を送るようになった。たどたどしい文字で葉書に書かれた、沙希の言葉。二歳年上の聡君の方には、いつも干支の絵が描かれていた。かわいらしいネズミの絵に始まり、牛、虎、兎と続いてきた。自分で描いたのだという。そこには、はっきりと才能が見て取れた。
沙希は大喜びだった。年賀状や暑中見舞いが来るたびにお礼の返事を書き、いつしかそれが毎週になっていったのだ。今では日記に近い感じになっている。聡君の絵葉書も、すっかり定期便になっていた。
そしてこの春、沙希は自分の写真を手紙に同封した。
翌週、送られてきたのは葉書ではなかった。丁寧に包まれたキャンバス。初めて描いた、油絵だという。
俺も淳子も、感動してしまった。繊細なタッチで描かれた少女が、窓際のソファに腰掛けて、ちょっとおしゃまに頬杖をついてこちらを見ている。
アパートのリビングで俺が取った写真が元だったが、少年の目にはこんなに鮮やかに映っていたのだ。
沙希の喜びようは、言葉も出ないほどだった。このときから、絵の上手なお兄ちゃんは、幼い沙希にとって特別な人になったようだ。直接会える日を、ずっと心待ちにしていた。
もっと早くに、清永先生夫妻を訪れるつもりだった。それが延び延びになってしまったのは、俺達の仕事のせいもあった。
俺も淳子も、今ではホスピスで緩和ケアを中心にした仕事をしている。癌で死んでいった沙希や聡美に対して行っていたケアを、組織的に広く行えるようにしたかったからだ。
今日明日も知れない患者を相手にする毎日。そのため、どうしても長い休みが取れなかったのだ。
今回、事情があってようやく長期休暇が取れたので、こうして連れてくることができたのだが、こんなに喜んでくれて、嬉しい限りだった。
俺達一家は、八月一杯、キヨさんの家に厄介になることになる。
夏の千歳空港は大勢の人でごった返していた。これでは出迎えを見つけるのが容易ではないな。……などと思っていたら、沙希が俺のTシャツをつんつん引っ張った。
「お……お父さん、変な人がいる」
沙希は怯えた声でささやいてきた。
最近は、北海道も物騒になったのだろうか。俺はアドバイスをした。
「目を合わせるんじゃない」
沙希はさらに怯えた声。
「だって……だって、こっちを見てるんだもん」
俺は沙希の見ているほうに目をやった。
うん、確かに変な人がいる。一目でわかる。
ごつい体つきで、派手な色のアロハシャツに半ズボン、おまけに傷だらけの顔にサングラスで、腕組みまでしている。間違いない。人ごみがよけていくのまで、あの時とまったく同じだ。
違いは、ちょっと白いものが髪に混ざってきたこと。
「清永先生!」
声をかけると、キヨさんは腕組みをしたまま歩いてきた。
沙希はすっかり怯えて、俺にしがみついて泣きそうになった。
「お、お父さん、こっちに来るよ」
「呼んだんだから、当然だろ」
キヨさんは俺の前までくると、サングラスをはずしてニカッと笑った。
「おう、来たか不良じいさん」
そう言って俺をがばっと抱きしめ、背中をバンバン叩く。
「あのー、中年真っ盛りに言われたくはないんですけど」
「なに言ってやがる、俺の教え子の中で、おまえほど早く孫をこさえた奴ぁいねえ」
後ろで、淳子が腹を抱えてけらけら笑っていた。あの時のことを思い出しているんだろう。
そう、聡美と一緒に来た、最初で最後の北海道旅行を。
「で、こっちが沙希ちゃんか。大きくなったなぁ」
沙希はびっくりしていた。話の展開が理解できないのだろう。教えてやらないと。
「沙希、この人が清永先生だよ。お父さんが中学生のときの担任で、聡お兄ちゃんのお父さんだ」
まだ混乱している。大好きなやさしいお兄ちゃんと、そのごっつい父親のイメージがどうしてもつながらないのだろう。まじまじと見つめた後、ようやくお辞儀したが、まだかなり警戒している。
「で、こちらのご婦人だが、やっぱりおまえ、再婚したわけだな。うん」
そういえば、あの時も再婚したと誤解されたっけ。
「はい、妻の淳子です。よろしくお願いします」
殊勝な顔をして自己紹介する。……したたかなやつ。
「さあさあ、そろそろ行きましょう。ね? ね?」
俺はキヨさんの背中を押しながらロビーを出た。
……だが、またしても大事なことを忘れていた。
「がははははははっ!」
キヨさんの高笑いが響く。沙希は目をぎゅっとつぶって、俺の腕にしがみついてる。
「きゃーきゃーきゃー」
悲鳴をあげながら喜んでるのは、もちろん淳子だ。
しかし、今回は車に酔いやすいメンバーがいないのが救いだった。
清永邸……東京の感覚から言ったら邸宅だ、そこでは真知子先生と息子たちのうち上の三人が出迎えてくれた。大学と高校に通っている三人は、キヨさんに似てごつい体つきだった。気のいい青年たちだが、沙希はちょっと怖いらしい。
あと二人。懐かしいカップルが出迎えてくれた。
「霧島先生!」
「先生、お久しぶりです」
田原と飯島少年。いや、もう少年ではなかった。飯島正太郎&涼子夫妻だ。この二人は、北海道の五年間で培った恋を、ようやく実らせたのだ。
俺は信じてる。この二人の愛こそ、誰よりも豊かな実りをもたらしてくれると。今、二人は北海道に腰を据えて、聾唖者向けの福祉事務所で働いている。
二人は、成長した沙希を抱きしめて感涙にむせんだ。俺たち同様、聡美の面影を沙希の上に重ねて見たのだろう。沙希は初対面だったが、直接は知らない実の母親の話を二人から聞けて嬉しそうだった。
それでもやがて、沙希はそっと聞いてきた。
「お兄ちゃん……どこかな?」
少しでも早く会いたいのだろう。俺は真知子先生に聞いた。
「聡君はどこに?」
微笑みながら、真知子先生は答えた。
「朝から写生に行ってるの。沙希ちゃんにプレゼントするからって」
沙希は目を輝かした。聡お兄ちゃんの絵の、一番のファンがここにいる。
「迎えに行ってみる? 沙希ちゃん」
嬉しくて声も出ないらしい。ただ、こくこくとうなずくだけ。
場所は、キヨさんが知っているという。俺達は車から荷物だけ降ろすと、キヨさんに再び送ってもらった。飯島夫妻も同行してくれた。
ところが、俺たちが車に乗り込んですぐのこと。
「……しまった」
飯島がつぶやいた。涼子が夫の顔色の変化に気づく。
「どうしたの、正ちゃん」
俺は思い出した。
「飯島君、君、未だに……」
車が急発進する。とたんに、飯島の顔がますます青ざめていく。
「……車に酔いやすいんだね」
あいにく、薬は鞄の中だったが、言うだけ言ってみよう。プラシーボ効果よ、もう一度。
「薬があるけど、いる?」
飯島は必死に首を振る。脂汗が出てきた。
「ト……トローチなら、いりません」
ばれてるか。それもそうだ。
「かわいそうな
涼子に抱きしめられながら、飯島は必死に耐えていた。……これなら、まんざら不幸ばかりでもないだろう。
距離がさほどなかったので、悲劇はなんとか回避できた。真っ先に車から降り立った飯島は、涼子に支えられながらよろよろと歩き出した。一刻も早く、遠ざかりたいらしい。
車を降りて、俺は周りを見渡した。ここは……。
丘の上、谷間を一望できる木陰に、絵筆を振るっている少年がいるのが見えた。
「お兄ちゃん!」
嬉しさのあまり、沙希は叫ぶと走り出した。
北国の短い夏を受け止めようと茂る緑の中、青草を踏みしめながら。少年は気がついたらしい。振り返ると恥ずかしそうに笑った。白い歯がまぶしい。どうやら、この子だけは真知子先生に似たらしい。
少年のすぐ手前で、沙希は草に足を取られてつまづいてしまった。よろけた拍子に、少年の腕の中に飛び込んでしまう。
しばらくそのまま。おそらく、二人ともどうしていいかわからないのだろう。やがて、おずおずと身体を離し、目と目があう。とたんに、真っ赤になってぱっと離れた。
まるで、昔の俺達のようだ。俺と沙希、飯島少年と田原涼子。そして……聡美。みんなそれぞれの気持ちを育てて行ったのだ。この二人がこれからそうするように。
ただ、沙希と聡美には十分な時間がなかった。急ぐしかなかった。そのために、あんなに苦しんだのだ。
だからいいんだよ、小さい沙希。ゆっくりその気持ちを育てていけば。
……君達の時間は、たっぷりあるのだから。
「あの子達の時間は、たっぷりあるわね」
淳子だ。いつのまにか傍らにきていた。
最近、こんな風に二人で同じことを考えたりすることがよくある。きっと俺達の心の中には、お互いの分身が住み着いているのだろう。俺の中に沙希や聡美が生きているように、淳子もいるのだ。そして、淳子の側にも俺が。
一つだけ残念なことがある。おそらく俺には、愛する娘の恋を最後まで見届ける時間がないということだ。今年の春の人間ドックで、癌の再発と転移が見つかったのだ。それが、今回の長期休暇が取れた理由だった。
聡美が死んだ翌年、俺は胃癌をわずらった。そのときは手術で快癒したはずだが、またもや医者の不養生を決め込んでいるうちに、再発し転移していたらしいのだ。そのいくつかは、かなり面倒な位置にある。
まあ、俺もようやく、癌になるほどの善良な人間になれたのだろう。……こんなことで喜ぶ馬鹿が、善良と言えるならば。
とはいえ、この十余年で医学は大きく進歩を遂げた。そうやすやすとは死なせてくれない。たぶん、あと数年はもたせてくれるだろう。
俺自身にとっては充分すぎる時間だ。沙希や聡美に分けてやりたいくらいだ。
心残りは、残していく大切な二人のことだけ。俺は淳子を抱き寄せて言った。
「おまえには、あんまり時間を取れなかったな、ごめん」
やさしい瞳。
こんなときの淳子は、沙希によく似てきた。昔のあっけらかんとした性格はそのままなのに、ときおり見せるこの表情は……心の中の、沙希がそうさせているのかもしれない。
「いいの。聡さんには、もう充分してもらったから」
やっぱりおまえも、充分主義者だな。それに、きっと俺も、ようやく。
俺達は、連れ立って少年と沙希のところへ歩き出した。
……充分主義と言えば、あのパンダマン大野氏の創設した「サトミ公式サイト」は、驚いたことに名前を変えて今でも続いていた。聡美の葬儀は家族と友人だけの密葬だったが、インターネット上ではかなり大きなイベントが行われたらしい。どうやら、「充分主義」は無宗教の宗教みたいなものに祭り上げられてしまったようだ。
複雑な気持ちだ。これだけ多くの人が、沙希や聡美の生き方に共感してくれるのは嬉しい。でも、二人とも生身の人間なのだ。
俺が充分主義と名づけたものは、生身の二人の人生そのものだ。決して、体系立てて他人に伝えられるものではない。
だから、俺達家族はこの運動からは距離を置いている。否定はしない。だからこっちもそっとしておいて欲しい。ただそれだけだ。
大野氏をはじめ、生前の聡美を知っている人たちとの交流は続けているが、そこまでにとどめたいのだ。思い出は、思い出として語りたい。
その俺自身も、もうじき思い出す側から思い出される側に移ることになる。そうすると、俺のとりあえずの天国は、淳子の思い出の中になるのだろう。
……悪くない。
「なーに笑ってんの?」
淳子が俺の頬をつつく。
「俺の天国」
「え?」
「おまえの思い出の中が、俺の天国なんだな」
理解したらしい。笑って言った。
「こんなちっぽけな天国じゃだめよ」
幼い二人に向けて手を振る。
「ほら、天国の候補者達よ」
そうだ。いつか、この子達に語り聞かせる日が来るだろう。そのために、俺はこの駄文を書き綴ってきた。
あまりにもあからさま過ぎて、他人に見せるのは恥ずかしくてたまらないが、この子達にだけは知っておいて欲しい。
……沙希と聡美の物語を。
その二人は、描き上がったばかりの絵を、仲良く並んで見つめていた。その絵を見た瞬間、俺も、淳子も、飯島夫妻も息を飲んだ。
新緑の谷間を背に、木陰にたたずむ一人の少女が描かれていた。
「聡美ちゃん……」
田原……いや、飯島涼子が涙ぐんだ。その夫がそっと抱きしめる。じっと絵を見つめたまま。
高校生くらいの聡美が、健康そのものという感じの笑顔で、その絵の中で息づいている。いつか見た、あの夢のとおりに。
(みんなが持ってる心はつながっていくのよ)
夢の中の、聡美の声が心の中で響く。
……ああ、そうだ。ほんとにそうなんだね、聡美。
少年は、小さい沙希の数年後を描いたのだ。この場所に。まるで、聡美が生き返ったかのように。
俺は、まだ見ぬ未来を、見ることの叶わぬ過去を、このとき垣間見ることができた。そう確信した。
俺は、娘の肩に手を置いた。微笑みながら見返してくる、小さな沙希のつぶらな瞳に向けて願う。祝福を込めて、力の限りに願う。
幸せになって欲しい。
今度こそ、幸せになって欲しい。
小さい沙希。
おまえの中には、母と娘の二世代にわたる宝が詰まっているのだから。
沙希と、聡美と、俺達が過ごしてきた、この輝く日々が。
輝く日々 ~Shining Days~ 原幌平晴 @harahoro-hirahare
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