第57話 追憶の重み

 霧島聡美。享年十五歳。


 俺の娘。

 俺の妹。

 俺の……すべて。


 ようやく聡美のことを落ち着いて振り返れるようになったのは、もう風が冷たくなってきた頃のことだった。今までは、葬儀の光景ですら、思い出すことがつらかったのだ。


 聡美の葬儀は、家族と友人だけのひっそりとしたものだった。一年近くも休学していたので、クラスメートの出席もほとんどなかった。

 田原涼子と飯島正太郎、そして手話サークルのメンバー数名を除くと、学校側からの参加者は、形ばかりになった三年生の担任をはじめ二、三人しかいなかった。


 俺の両親の嘆きようは、傍目には俺以上だったかもしれない。ほとんど会う機会はなかったのに、二人とも孫を思う気持ちは世間並み以上に持っていたらしい。

 俺は後悔した。もっと会わせてやるべきだった。元気だった頃の聡美の思い出を、もっと一緒に共有させてやればよかった。


 それに。沙希の祖母、静江さんにも、感謝しないといけない。

 ひ孫にまで先立たれてしまった静江さんは、葬儀の時、ただ静かに聡美の頬をなでていた。

「安らかな死に顔だね。この子は充分生きた。わたしもね」

 そうつぶやいた静江さんの顔は、聡美に負けないくらい安らかだった。静江さんが亡くなられたのは、つい先日だった。

 俺と淳子は、静江さんの遺影に向かって深々と頭を下げた。

 長い間、ほんとにお疲れ様でした、と。


 だが、俺がほんとに悲しんだのは、また一人、沙希の思い出を持つ人がこの世を去ってしまったことだ。こうしていつか、沙希のことを覚えている人はいなくなる。……そしてやがて、聡美のことも。

 それはちょうど、水面に落ちる雨粒のようなものだ。雨粒は水に溶け込むが、その波紋はしばらくの間広がっていき、いつしか消える。

 それでおしまいだとしたら、悲しすぎる。


 聡美がインターネットにのめりこんだのは、そうした現実に対するあがきなのかもしれない。あの娘の書いた文章が、どれだけ長く残るかわからない。だが、少しでも多くの人に、母や自分、そして俺のことを知って欲しいと願っていたのだろう。

 そして、小さい沙希を残したことも、同じ願いからだ。新しい命を送り出すことで、自分の死を受け入れていったのだ。


 田原と少年は、ひたすらけなげに悲しみに耐えていた。悲しみと苦しみが、この二人の結びつきをますます強めていくようだった。

 そんなある日、学校の帰りに二人は一緒に俺たちのアパートを訪れてくれた。

 もう、この二人が聡美を送り迎えすることはない。それを思うと、胸が苦しくなってたまらない。俺と聡美と淳子、そしてこの二人とで過ごした、追憶の重みだ。


 それでも、来てくれたことは嬉しかった。リビングに通すと、二人はソファに並んで腰掛け、しっかりと手を握り合っていた。すこし思いつめたような表情が気になる。

「どうしたんだ、二人とも」

 淳子が入れてくれた緑茶を注ぎながら、俺は聞いた。小さい沙希を抱いた淳子が、俺の隣に座る。

「なにか、話があってきたんでしょ?」

 淳子の声に、二人は緊張した。じっと、淳子に抱かれた沙希を見つめている。やがて、飯島少年が口を開いた。

「実は……おれたち……」

 言いよどむ少年の横で、すっと背すじを伸ばした田原が言い放った。

「わたしたち、結婚したいんです」

 俺たちは唖然としてしまった。やっとのことで言う。

「それは……すばらしいことだけど……今?」

 間抜けな問いかけだ。おまけに、二人は真剣な顔でうなずいてる。

 俺が呆けていると、淳子が厳しい顔で二人に言った。

「どうゆうことだか、話してちょうだい」

 少年は、ちらりと田原の方を見る。田原は手を握り返してうなずくと、俺たちに向かって話し出した。

 ……少年、おまえ、尻に敷かれるぞ。

「わたしたち、怖いんです」

 ……田原の声に、注意を戻す。

「このままじゃ、いつか、引き離されちゃうんじゃないかって」

 田原の声は震え、涙が頬を伝った。

「だから……だから、その前に」

「だめよ」

 淳子は断ち切るように言い切った。

「そんなのはだめ。聡美ちゃんが、どんな思いでこの子を産んだと思うの?」

 鈍い俺にも、ようやく事情が読めてきた。

「君の、ご両親だね?」

 うなずくと、田原は泣き崩れた。少年はやさしく抱き寄せ、田原は顔をうずめて泣きじゃくる。


 田原の家は、かなりの名家らしい。

 おそらく、厳しい家風なのだろう。だから、両親から交際をとがめられたに違いない。そういえば、彼女はいつも、自宅にだけかけられる携帯を持たされていた。うちで夕食を取るときなど、帰りがけに電話をかけていたし、確認のために俺が出ることもあった。

 親の気持ちもわからないではない。娘に交際相手がいて、二人の共通の親友が妊娠出産しているのだ。警戒するのも当然だろう。


 泣きながら、田原はやっとのことで言った。

「父が、昨日、……転校の手続きを……」

 転校先は、遠く離れた全寮制の短大付属女子校だという。有無を言わさぬ、権力の行使。それにあらがうため、二人は最後の手段に訴えようとしているのだ。

 俺は言った。

「だとしても、それはいけないよ」

 二人の顔に絶望が広がった。俺なら理解してもらえると思ったのだろう。そう、俺には説教する権利はない。しかし、聡美の遺志だけは守りたかった。

「淳子の言うとおりだ。つらいのはわかる。だが、死んでしまうわけじゃないんだ」

 おそらく二人は、田原が短大を出るまでは、ほとんど会うこともできなくなるだろう。幸せなはずの青春時代を、無残にも奪い去られようとしているのだ。俺も、沙希や聡美と過ごせたはずの日々を思うと、胸が痛む。


 しかし、安易な手段は安易な結果しか生まない。


「たとえ、別れが避けられないとしても、期限が切られてるじゃないか」

 短大卒業まで五年と少し。俺と沙希が離れていた期間の半分以下だ。成人してしまえば、誰がどんなに反対しようが問題ない。

「第一、それならご両親に心配無用だと安心させなきゃだめだよ。心配したとおりのことをしたんじゃ、絶対に赦してもらえないぞ」

 聡美の悲願なのだ。この二人が幸せに結ばれることが。聡美はブーケを譲ったのだから。


「だめです……わたし、そんなに強くありません……」

 田原は震えていた。五年間の別離は、幼い二人には死刑宣告にも等しかったのだろう。

 なんとかしてやりたい。だが、心配の元凶の父親である俺が田原の両親に直談判したとしても、気持ちを変えられるとは思えない。門前払いを何度も繰り返すことになるだろう。

 どうしたものか……。


 そのとき、淳子が聞いた。

「田原さん、その女子校って、どこにあるの?」

 田原が答えたのは、札幌にあるミッション系の学校だった。

 北海道……これしかない。まだ間に合うか?

 俺は少年に話を向けた。

「飯島君、進路はどうなっている? 高校はどこへ?」

 少年は都立と私立の高校の名前をいくつか挙げた。

「もう一校、受けてみないか?」

「え?」

 きょとんとしていたが、はっと気がつく。一瞬希望に顔を輝かすが、すぐに悔しそうな顔になる。

「でも……おれんち、そんなに裕福じゃないから……」

 確かに、いかに土地が安いといっても、地方での一人暮らしは家計を圧迫する。第一、高校生では親も心配するだろう。かといって、全寮制の授業料も決して安くない。

「大丈夫、普通の公立校で。いい下宿先が見つかるさ」

 俺は電話のところに向かった。キヨさんに電話するのは、葬儀の時以来だった。


 二人を玄関で見送る。通りを並んで歩いていく少年と少女。見守っていると、沙希を寝かしつけてきた淳子が、そっと背中にもたれかかってきた。

「大丈夫よね、あの子たち」

「もちろんさ」

 キヨさんは、二つ返事で引き受けてくれた。受験さえ合格すれば、飯島少年は来春から札幌にある公立高校に通うことになる。キヨさんの家に下宿して。

 田原の方は門限などが厳しいだろうが、まったく会えないということはない。


 別れ際に、俺は二人に言ったのだ。

「聡美の思い出を、汚さないでくれよ。あいつはもう、君達の心の中でしか生きられないんだから」

 二人は、涙を浮かべながらうなずいた。

 だから、あの二人は大丈夫。

 二人の姿が角を曲がって消えるまで、おれたち二人は見送った。

「さ、入ろう。そろそろ冷えてきた」

 俺はドアを閉じた。

 その夜。俺たちは川の字で寝た。今、真中にいるのは小さい沙希だ。何も知らずに眠っている、小さい命。聡美が残してくれた、かけがえのない命。

 再び、追憶の重みを感じる。少年の日の沙希との思い出。聡美と三人で暮らした思い出。聡美との二人きりの思い出。淳子を加えた、再び三人の思い出。


 俺は……まだおそらく人生の三分の一程度しか生きていないが、こんなに多くの、かけがえのない思い出を持っている。


 妻も娘も癌で失った俺は、人から見たら不幸な男に映るかも知れない。しかし、思い出のうち、悲しみや苦しみがいかに多くても、充分に見合うだけの喜びがあったし、その苦しみですら、かけがえのない宝なのだ。

 俺は決して不幸ではない。田原や飯島少年に未来があるように、俺にも淳子やこの小さい沙希と一緒に築く未来がある。

 淳子と、小さい沙希の寝顔を見ながら、俺も眠りについた。


 夢の中で、俺は北海道にいた。

 真夏の太陽が照り輝いている。草の上を歩いていると、丘の上に涼しそうな木陰が見えてきた。足を速めて登ると、そこはキヨさんがキタキツネが出ると言った谷間を見下ろす場所だった。その木陰の石の上に、谷間を見下ろして腰掛けている少女がいた。

 懐かしい栗色の巻き毛が、腰までたれている。

「聡美」

 少女は立ち上がると、ゆっくり振り返る。その面影は、少し大人になっていた。まぶしいほどに美しく。

「お父さん」

 沙希とそっくりな、済んだソプラノ。聞きたくても、最後までとうとう聞けなかった声。

「やっと会えたね、聡美」

 こくり、とうなずく。そのしぐさだけは幼い時のままだ。

「ずっと待ってたの。ここで」

 聡美は振り返った。谷間を見下ろす。

「あそこがそうなの。わたしが、自分の気持ちにはっきり気づいた場所」

 谷間の中を通る小道。

「飯島君に告白されて、なんでこんないい人を好きになれないんだろうって悩んで。ずっとお父さんを好きだった気持ちが、その時、恋だとわかったの」

 聡美のすぐそばに立って見下ろす。そうだ、あの時俺は……。

「ここから見てたんだ」

 すっと聡美が身を寄せてくる。

「ずるいんだから」

 腕を取って、ぎゅっとしがみついてくる。この感触も懐かしい。

「でも……おまえの気持ちには気づかなかった」

「ぜんぜん?」

「まったく」

 聡美はくすくす笑った。


 笑い終わると、真面目な顔になってこちらを向く。

「ありがとね、お父さん。飯島くんと涼子ちゃんのこと」

「偶然のおかげさ」

 田原が送られる先が別な場所だったら、手も足も出なかった。

「ほんとにそう思う?」

「何が?」

「全部がばらばらに、偶然だけで起こったのかしら」

 俺は、沙希の蔵書にあった深層心理学の本を思い出した。

「すべての人の心は、深いところでつながっているって?」

 聡美は微笑んだ。

「そう。わたしは、お母さんの思い出……心を持ったまま、お父さんの心の中にいる。お母さんは美希お祖母さんの心。そうやって行くと、みんなが持ってる心はつながっていくのよ」

 確かにそうかもしれない。

 そういえば、田原はあの夏、北海道にいけないことを残念がっていた。それを両親に話したのだろう。だから、地方の学校に送るのなら、娘の好きな北海道を、と考えたのかもしれない。田原の両親は、娘の心の一部を持っていたのだ。

「なら……波紋が消えることはないんだな」

 俺たちの人生という雨粒が、世界という水面に落ちたとき、波紋が広がる。それは広がり、薄まっていっても、消えることはない。他の波紋と重なり合いながら、複雑で微妙な模様を描きつづけるのだ。

 ……永遠に。

 俺は聡美を抱きしめた。温かい感触。夢は、ほんとに便利だ。

 最後に聡美は、予言めいたことをつぶやいた。

「いつか、この場所で、また新しい恋が始まるわね」

 そうだとしたら、素敵だな。

 俺は目を閉じた。

 再び目を開いたとき、朝日の中で無心に眠る、小さい沙希の顔がそこにあった。


 聡美の面影は、ここに生きている。

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