第56話 遅れて来たメール

 聡美が死んでからずっと、俺は仕事ができる状態ではなかった。

 そのため、その日は休みを取ってアパートにいた。


 淳子は小さい沙希を乳母車に乗せて、公園へ出かけていた。

 いくらなんでも、俺みたいに辛気臭いやつに四六時中付き合っていることはない。せめて小さい沙希だけでも、外の空気を吸わせてやらなきゃいけないからと、無理に送り出したのだ。

 そんな中、パンダマン大野氏から電話があったのは、昼過ぎのことだった。仕事中にかけてきたらしいく、急いでいた。


「実は、お兄さん宛てに聡美ちゃんからメールが届いてるはずです」

 前置きなし、単刀直入だった。

「メールですか?」

 聡美が、俺に?

「ええ。わたしらのサイトを認めてもらったときの、聡美ちゃんの条件の一つでして、時限メールという機能をつけてあるんです。聡美ちゃんがうちのサイトに一週間アクセスしないと、お兄さん宛に送られるようになってます」

 聡美が、そんなことを。

「それ……どうやったら読めるんですか?」

「あなたのために、三十日無料のアカウントが用意してありますので、それでわたし達のサイトにアクセスしてください。聡美ちゃんのパソコンに、全部設定されているそうです。あとはアイコンをクリックして、パスワードを入れるだけです」

 俺は聞いた。

「あの、どんなパスワードですか?」

 大野氏は答えた。

「それがですね。父親の名前だそうなんです」

 父親……?

「じゃ、仕事中なんで」

 電話は切れてしまった。


 聡美の部屋に入るのは久しぶりだった。あまりに思い出が強すぎて、入った瞬間に押しつぶされそうになる。だが、聡美が俺に伝えたがっているメッセージがあるのだ。読まなければ。

 聡美のノートパソコンは、田原の作ってくれたウサギのアップリケつきのカバーをしたまま、机の上に置かれていた。病院から持ち帰ってそのままだ。電源をつないでパネルを開く。

 そのあと、インターネットにつなぐために苦心惨憺した。TAとかいう箱やPCMCIAとかいう呪文をいじり回して、なんとかつながったときには夕方になっていた。


 大野氏が運営している「サトミ公式サイト」のアイコンは、最初から画面に出ていた。アイコンをダブルクリックする。ウィンドウが開き、徐々にサイトのトップページが表示される。その上に小さなウィンドウが開いた。パスワードを入れてください、とある。

 父親の名前。だが、俺の名前では秘密にも何にもならない。となると、実の父親の名前だろう。それなら、俺と聡美しか知らない。俺は、記憶をたどって浜田氏の名前を入れた。

 YOSHIAKI。

 ウィンドウが開き、少女の上半身の画像が映った。


「聡美……」


 思わずうめいてしまった。聡美がこちらを見て微笑んでいる。ウィンドウのタイトルは、「サトミの手話通訳」となっていた。

 そうか。これは大野氏が作ったという手話ソフトなのだ。たしか、聡美が動画の収録で協力していたはずだ。もう、完成していたのか。そのソフトで、メールの文章を手話に翻訳しているのだ。

 震える手でマウスをクリックする。元気だった頃の聡美が、表情豊かに手話を紡ぎ始めた。「大好き」では微笑み、「悲しみ」では涙までこぼすほどに。


 大好きなお父さんへ。

 このメールは、わたしがパンダマンさんのサイトに一週間アクセスしないと、お父さんのところに届けてもらえるようにしてあります。つまり、このメールを読んでるときは、わたしは意識不明か死んでるってことになります。ですから、このメールはわたしの遺言だと思ってください。

 わたしが死んだとき、一番心配なのは、お父さんのことです。お父さんのことだから、悲しみからなかなか抜け出せないんじゃないか、そう思ったからです。

 小さい沙希ちゃんが大きくなるまで、わたしが生きられればいいんですが、無理そうです。淳子ちゃんも助けてくれるけど、きっと何かが足りないはずです。

 お父さん。わたしに会いたいときは、できるだけたくさんの人に会って下さい。わたしは、お父さんや淳子ちゃんには、いつも甘えてばかりでした。でも、そうじゃないわたしもいるんです。涼子ちゃんや、飯島くん、手話サークルのみんな、学校の先生や友達。それに、インターネットにいる、たくさんの友達。みんな、わたしの一部分を、心の中に持ってます。

 この中でお父さんが会ったことがないのは、たぶんインターネットの友達だと思います。わたしのサイトをのぞいて見て下さい。お父さんはもう会員になってますから、どのページのどの文章でも読めます。

 どうか、わたしが何をやってきたか、知ってください。お父さんに、知って欲しいんです。わたしが、どんな女の子だったか。どんな夢があって、誰とどんな話をしたか。

 そうでないと、わたしも寂しいんです。お願いします。

 最後に。

 わたしのパソコンには、もっとたくさんの文章が入っています。わたしのサイトを見終わったら、読んでみてください。このメールと同じパスワードで読めます。

 それでは。

 愛してます。お父さん。


 俺は泣いていた。サイトを見に行くまでもなく。

 そうだ。俺は、聡美がインターネットでやっていることには、ほとんど無関心だった。あんなに熱心にやっていたのに。さぞかし、聡美は寂しく感じていたのだろう。

 あたりまえだ。この俺が認めてやらなきゃ、聡美は充分生きたことにならない。ごめん、聡美。おまえが生きているうちに気づいてやれなくて……。

 俺は、最後の部分をもう一回再生した。


 愛してます。お父さん。


 いつもの手話だ。元気な頃の聡美だ。

 ……これが、夢や幻でない、聡美の姿だ。永遠に朽ちることのない、あどけない姿。

 手話ソフトのウィンドウの下にある、聡美のサイトのウィンドウに移動する。そこには、聡美のいろいろな文章へ移動するボタンがついていた。

 俺は読んだ。片っ端から読んだ。聡美がどんな悩みを持ち、どんな考えをもち、どんなものに興味を持ち、どんな夢を抱いていたか。

 誰のどんな発言になんと答えたか。それが、どんな風に相手を勇気付けたり、喜ばせたり、怒らせたりしたか。

 そこに現れてきたのは、田原や飯島少年の話で垣間見ることのできた、思慮深く、大人びた、それでいて純真な少女の姿だった。物怖じせずに誰にでも話し掛け、思わぬ質問をしては相手を驚かせ、見落としたり忘れていた点を相手自身が見つけ出すきっかけになる。そんな光景がいたるところに見られた。

 俺はようやく、大野氏がなぜあれほど聡美に入れ込んでいたかを理解した。と同時に、聡美の死がより一層残念に思えてきた。あともう少し生きていられたら、もっといろいろなことができたろうに。それだけの可能性を、あの娘は持っていたのだ……。


 サイトをあらかた見終えたときには、もう深夜だった。部屋の入り口を見ると、淳子が置いたのだろう、すっかり冷めた夕食が置いてあった。空腹など、完全に頭から抜けていた。

 インターネットへの接続を切る。干からびたサンドイッチをかじり、冷たいスープをすすりながら、今度は聡美のノートパソコンの中を探ってみる。聡美が日記と呼んでいた、毎日見聞きしたことや考えたことが雑然と詰まっていた。

 そのほとんどは、俺に対する語りかけで書かれていた。俺へのラブレター。確かにものすごい分量だ。これを読みきるのは何日もかかるだろう。

 画面を見ながら考え込む。聡美にはこれだけの才能があったのだ。だが……結局、聡美自身は背を向けてしまったのだ。……俺のために。


 ぞくっとした。恐怖と言うより、畏怖だった。聡美にとって、俺はそれだけの価値があったのだろうか。

 ……あったのだろう。もしそうでなければ、聡美の人生はなんだったのだ。


 またしても、俺だ。聡美が充分に生きられていないとしたら、それは俺のせいなのだ。俺が聡美の死を嘆いて、こうして腑抜けている限り、あの娘は人生を充分に生き抜いたことにならない。

 夢にすら、幻にすら、聡美は現れることができない。俺がこんなに、あの娘の思い出にかじりついていては。


 放してやらないと。

 解き放ってやらないと。

 あの娘の思い出を……。


 晩秋の古本街での出会い。雪の中をおぶったこと。奥多摩での聡美。母の死を悼む聡美。

 怒りに燃える聡美。寂しがる聡美。中学生になった聡美。手話で合唱する聡美。

 死に怯える聡美。恐怖に耐える聡美。切なげに……俺を見つめる聡美。

 いくらでも、いくつでも、思い出せる。

 思い出し、涙を流すごとに、俺の心は癒されていく。


 ……気がつくと、夜は明けていた。隣の寝室から、小さい沙希のむずがる声が聞こえてくる。お腹がすいたのだろう。

 淳子も疲れてるはずだ。ゆっくり休ませてやりたい。

 俺はパソコンのパネルを閉じると、聡美の部屋を出た。キッチンでなべを火にかけ、寝室に行って小さい沙希をそっと抱き上げる。ちょっと重くなったかな?

 テーブルの上にクッションを置き、沙希を寝かす。あやしながらミルクの準備をする。沙希が笑った。その顔は……聡美にそっくりだった。

 聡美。そうだ、おまえはここにいたんだ。小さい沙希の中に。

 でも、この子はおまえのことを知らない。

 抱き上げてソファに行き、ミルクをあげながら沙希に語りかける。

 この子に教えてあげよう。語ってあげよう。この子の母親の、こんなに生き生きとしている思い出の数々を。

 ミルクを飲み終え眠り込んだ小さい沙希に、子守唄代わりに語り聞かす。ふと気がつくと、リビングの入り口で、淳子が俺たちを見つめていた。胸の前で手を組み、頬を染めて瞳を潤ませている。


 ……淳子の乙女チックなポーズが、今、初めて愛しく見えた。

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