第55話 そして、家族で

 出産後も、聡美は入院したままだった。


 産後すぐに脊髄への転移が見つかったのだが、発見が遅れたために重い後遺症が残ってしまったのだ。

 もはや聡美は、自力でベッドから身体を起こすこともできなかった。下半身が麻痺してしまったのだ。

 ぎりぎりだった。もし出産前に麻痺が起こっていたら、帝王切開するしかなかっただろう。体力の落ちていた聡美に耐えられたかどうか。


 それに、下半身麻痺は身体感覚も奪っていた。母親になった聡美は、自分もおむつを変えてもらわなければならないのだ。十五歳の少女にとって、こんなにつらいことはない。

 そして……聡美はもう、ここから退院することはない。母が最期の時間を過ごした、ターミナルケア専用の病棟、ホスピスなのだから。

 それでも聡美は幸せそのものだった。小さな沙希がいるのだから。欲しくてたまらなかった、俺の子がいるのだから。

 投薬の影響も気にならないではなかったが、聡美の願いで、小さな沙希は母乳で育てられている。この子に乳を与えるのが、今の聡美に残された、最大の、そして最後の喜びだった。


 子供に乳を与える母親の姿は、文化や時代を超えて美の代名詞だったはずだ。聡美の姿も美しかった。神々しいほどに。だがそれは、キリストの磔の姿のようなむごさもあった。

 小柄な上に手も足も痩せ細った聡美だが、乳房だけは、肋骨の浮き出た胸の上に成人女性に負けないくらいに育っていた。まさしく、我が身を削って子供に栄養を与えようとしているのだ。すさまじいばかりの、畏怖すら感じるほどの母性だ。

 そして。逃れようのない倦怠感が、聡美の全身を包んでいる。悪液質という、癌の末期症状だ。癌の増殖を抑えながらも、身体の中で最も重要な脳を守るために、エネルギー代謝が不完全燃焼を起こしているのだ。食欲不振もひどかった。

 ステロイドなどのホルモン剤で打ち消したいのだが、母乳への影響が懸念される。そこで、感染症の危険を冒して鎖骨下静脈からの高カロリー輸液に頼ることになってしまった。もう聡美は、物を食べる楽しみすら感じられないのだ。


 飯島少年も田原も、毎日欠かさず聡美を見舞ってくれる。それはもう、苦行とでも呼びたくなるような行いだった。笑顔で聡美と小さな沙希を包んだ後、帰る二人は、しばしば抱き合って、傍目を気にする余裕もなく声を上げて泣いていた。誰もそれを責められない。かけがえのない親友を失おうとしているのだから。

 俺はというと……不思議なくらい落ち着いている。そばに淳子がいてくれるのが大きいのだろうと思う。しかし、それ以上に心を満たしているのは、聡美の満足そうな笑顔だった。

 遅かれ早かれ、こうした変化は訪れていたはずなのだ。仮に子供を産まなくても、その訪れを何年か遅らすだけだったろう。

 沙希の幻が言っていたことは正しかったのだ。最後の願いを拒否されたまま、こんな風にベッドに縛り付けられていたら、聡美は……そして俺は、どうなっていたろう。


 今こそ、充分主義が必要な時期だった。


 十月に入ったその日、俺はベッドの傍らに立ち、目覚めようとしている聡美を見つめていた。少し頬がこけた以外は、顔立ちは以前とまったく変わらない、十五歳の少女の聡美。

 しかし、俺は知っている。もしこのシーツを剥いでしまえば、非情な現実がそこにあることを。

 やせ細った手足。骨が浮き出た身体。なのに、そこだけが異様に豊満な乳房。聡美の下半身は、夜具も下着もつけていない。股間をおむつが覆っているだけだ。


 おむつの交換だけは、他の看護婦にやらせたくなかった。普段は淳子が、だめなら俺が行う。

 そんな時、聡美は幼児になりきってひたすら甘えるのだ。存分に甘えさせてやらないといけない。そうすることで、聡美は自分の惨めさから逃れようとしているのだから。だからこそ、俺達がやらないといけないのだ。

 夜中に換えたばかりだから、たぶん今は大丈夫なはず。俺は安心して聡美の目覚めを待った。


 窓から差す朝日がまぶしい。いい秋晴れになりそうだった。そう、沙希を荼毘にふして、聡美と一緒に立ち上る煙を見上げたのも、こんな青空だった。

 今ならもう、心の痛みを感じることなく、ただひたすら懐かしく思い出せる。目の前の悲しみが、あまりに大きすぎるせいかもしれないが。

 傍らのベビーベッドで、小さな沙希が泣き声を上げた。俺はそっと抱き上げてあやしてやった。子供など要らないなどと言ってはいたが、産まれてしまえばいやおうなく愛情は湧き上がってくるものだった。沙希と聡美のすべてが、この子に宿っているのだ。愛さずになどおれるものか。


 小さな沙希は、なかなか泣きやまなかった。お腹がすいているのだろう。なのに母親の聡美はまだ眠っている。耳が聞こえないと言うのは、やはり不便なものだ。

 幸いにして、小さな沙希には何の障害も見つかっていない。それだけはせめてもの救いだった。……あたりまえのことが、こんなにありがたく思えるなんて。


 いつまでも泣かせておくわけには行かない。ミルクを用意するか、聡美を起こして乳を与えるしかない。考えるまでもなく、聡美を起こすことにした。

 沙希をベビーベッドに戻し、聡美の肩をそっとゆする。少しうめいて、聡美はけだるげに目を開けた。

『小さい沙希が泣いてる。お乳をあげて』

 手話を送ったとき、聡美の様子がおかしいのに気づいた。しきりにあたりを見回している。不安げな表情。そして紡いだ手話に、俺は慄然とした。

『まだ夜なの? 真っ暗。おねがい、明かりをつけて』

 ……見えていない。聡美は失明したのだ。


 ついに、癌は脳にまで転移してしまった。視覚中枢が冒されたのだ。


 体中の力が抜けていく。俺はベッドにもたれてずるずるとくず折れた。

 あんまりだ。あんまりじゃないか。耳が聞こえないのに、視力まで奪うなんて。

 この娘が一体何をした? ただ、必死に生きてきただけなのに……。

 しかし……つらいのは俺じゃない。聡美のために、何かをしないと。

 それだけを考えて、必死に体を起こした。聡美は、沈黙と暗闇の中で、たった一人身動きもできずに震えているのだ。

 聡美の手を取る。聡美は必死にしがみついてきた。もう、自分の身に何が起きたのかわかっているのだ。……いよいよなのだと。


 懸命に聡美の指を曲げ伸ばしして、指文字を綴る。

『さとし』

 聡美も綴り返す。

『みえない』

 何を……何を言えばいい?

 かける言葉などない。ただ抱きしめ、くちづけし、肌を合わせるしかない。ぬくもりだけが、最後に残った慰めだ。

 淳子を呼ばないと。看護婦達のところにいるはずなので、ナースコールのボタンを押す。あわただしく淳子が駆け込んでくるまで、俺は聡美を抱きしめていることしかできなかった。

「聡さん、容態は?」

「視力を失った」

「そんな……」

 呆然としている。よろよろとベッドのそばにより、聡美の手を取り、指文字を綴る。

『じゅんこ』

 聡美の顔に、わずかに安堵が訪れる。

 そのとき、小さい沙希が泣き出した。前よりも激しく。

 淳子が聡美の手で指文字を綴った。

『さき ないてる』

 聡美の手が綴った。

『おちち あげたい』

 俺は淳子に向かってうなづくと、ベッドを起こすボタンを押した。聡美の上半身がゆっくりと起き上がる。

 淳子は沙希を抱き上げ、聡美の両腕にしっかりと抱かせた。だが、すでにこの子の体重すら支えられないほど、聡美の腕の力は弱っていた。そのまま淳子は支えつづけ、俺に目配せをした。阿吽の呼吸。俺は聡美の夜具の胸をはだけた。こぼれ出る、不釣合いに豊かな乳房。

 よほどお腹がすいていたのだろう。沙希は聡美の乳を勢いよく吸い始めた。聡美の顔に、うっとりとした表情が広がる。不安や恐怖を消し去る、幸せで満ち足りた笑顔。

 両手が塞がれているので、聡美は声で言った。

「きもち、いい」

 喜びに震える声。やさしく閉じた目から流れる涙。

 ほうっと息を吐き出し、そのまま首ががくりとかしぐ。


「……聡美?」

 どうしたんだ、聡美。

 息を吸ってくれ。……喋れなくてもいいから。

 目を開けてくれ。……見えなくてもいいから。

 嘘だろ、聡美。こんなに安らかな顔なのに。ただ、眠っただけなんだろう?

 起きてくれ。起きてくれ。

 小さい沙希が、またお乳を欲しがるじゃないか。

 お願いだから……。

 祈りつづけた。願いつづけた。握った手の脈は停まっているのに。

 小さい沙希は、それでも乳を吸いつづけていた。ぬくもりの失せていく母親の胸から、最期の命の証を譲り受けるように。

 淳子は、声を押し殺して泣いていた。俺はその肩に手を回す。

 聡美と小さい沙希を囲んで、俺達は抱き合った。

 家族として、最後に。


 聡美の通夜は、沙希の通夜を思い出してしまう分、二重につらかった。それに今度は、悲しみを分かち合える聡美がいない。その聡美が死んでしまったのだから。


 いまさらながら、自分がどんなに聡美を必要としていたのかを思い知らされる。沙希の時もそうだった。守ってやっているつもりで、俺はいつのまにか沙希に支えられていた。聡美もそうなのだ。俺は、震えるあの娘を抱きしめることで、泣きじゃくるあの娘を慰めることで、かえって自分が癒されていたのだ。

 俺は気づいてしまった。自分の中の聡美が、いつのまにか沙希よりも大きな部分を占めていたことに。沙希への想いも思い出も、まったく薄れてなどいない。

 だが聡美は……あの娘の生涯は、俺一人のためにあったのだ。物心ついてからずっと、写真や母の記憶の中の俺を慕いつづけ、俺の子を産むために、文字どおり命を投げ出してしまったのだ。


 ……沙希、ごめん。今度こそ、俺はだめそうだ。小さい沙希への愛おしさや、淳子のけなげさでは、この心の空洞を埋めきれない。俺はきっと、このまま狂ってしまうんだ……。


 せめて、幻でもいいから聡美に会えたら。そうしたら心が解き放たれるのではないか。

 そんな淡い期待にすがり、俺は霊安室で一夜を過ごした。淳子は、小さい沙希を世話するために別室に下がった。

 しかし……夜が明けるまで待っても、なにも訪れなかった。

 幻の沙希の言葉が蘇る。

(時が来ればね。聡美が、充分に生きた後で)

 まだ時は来ていないのか。それとも、聡美は充分に生きられなかったのか。

 誰か教えてくれ。


 聡美の棺は、沙希よりもはるかに軽かった。それどころか、荼毘に付したあとには骨がほとんど残っていなかった。

 全身の骨を癌に冒され、放射線を当て続け、寝たきりが続いたため、すべて燃え尽きてしまったのだ。骨壷に納めることのできたほんのわずかな骨を見つめ、俺は呆然としていた。


 火葬場から帰るとき、振り返って立ち上る煙を見上げ、たたずんだ。

 帰って来てくれ。

 帰って来てくれ、聡美。

 おまえのいない世界は、こんなにも空虚で寂しいんだよ。


 ……お願いだから。

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