第54話 叶う願い、届かぬ祈り
秋が深まった十月、聡美はついに懐妊した。
予想通り、病院では大騒ぎになった。入れ替わり立ち代り同僚や上司が訪れて、中絶をするように俺を説得する。だが、俺は聡美の意思を尊重したい、とだけ答えつづけた。
父親が誰か、ということも詮索された。俺が名乗り出ても良かったのだが、聡美はそうしないように求めたので、結局、病院で知り合った男性患者で、既に亡くなっている、と言うことにしてしまった。
聡美は幸せそうだった。いつも落ち着いた笑顔をたたえている。飯島少年や田原へも、そろそろ事情を説明すべきだろう。聡美の幸せは彼らの幸せでもあるのだから。
ある日の夕方。久しぶりに全員が夕食に揃った。
俺と聡美、香川、そして飯島と田原。ここしばらくは、飯島と田原は聡美を送った後、すぐに二人で帰ることが多かったのだ。おそらく、二人きりで過ごす時間が欲しくなってきたのだろう。あるいは、聡美の前で平静でいるのがつらくなってきているのかもしれなかった。
食事が終ると、聡美は二人を自室に招いた。話があるのだという。妊娠のことを二人に打ち明けたのだろう。出てきたとき、飯島少年は呆然としていたが、田原は泣きじゃくっていた。
「先生……」
田原は俺のところに来てきいた。少年は、心配そうに後ろから肩を抱いている。
「聡美ちゃんのこと……本当なんですか?」
「本当だ」
聡美が打ち明けたのなら、否定するわけには行かない。
「相手がどんな人だか、知っているんですか?」
それに関しては、事前に聡美と打ち合わせが済んでいる。誰かに話すときにはつじつま合わせが必要だからだ。
「病院で知り合った若い患者だ。癌で既に亡くなっている」
「そんな……」
涙が浮かんでくる。
「聡美ちゃんがかわいそう……」
身体を震わせて泣き崩れる。飯島少年は田原を抱き寄せた。少年の胸で泣く田原。結構、さまになっている。成長したな、二人とも。
俺は噛んで含めるように話した。
「聡美は、悔いのない人生にしたいと必死なんだ。愛する人の子を産みたいとね。沙希が生きていたら、反対などするはずないから。……だから俺も同じだ」
田原は賢い娘だった。理解してくれた。だが、悲しみがそれで癒されるわけでもない。いつまでも少年の胸で泣く。少年も、抱きしめる以外のすべを知らない。
少年が俺に言った。
「いいんですよね、これで」
俺はうなずいた。
二人が帰ってしばらくすると、聡美が部屋から出てきて、俺に向かって手話を紡いだ。
『お父さん、淳子ちゃんと結婚して』
あまりに突然だったので、俺は思わず聞きかえしてしまった。
『お父さんに、淳子ちゃんと結婚して欲しいのか?』
こくん。聡美のこの仕草は、相変わらずかわいらしい幼さを感じる。
……母親になると言うのに。
後ろで香川が息を飲んだ。振り返ると、いつもの乙女チックモードのポーズ。しかし、表情が違った。驚きと戸惑いに震えている。
『いいの? ……聡美ちゃんは、ほんとにそれでいいの?』
香川のふるえる手話に、聡美はにっこり微笑んで答えた。
『わたしはお父さんと結婚できないし、お父さんには淳子ちゃんが必要だもの』
香川のそばに歩みより、手話を続ける。
『わたしも、淳子ちゃんといつも一緒にいたいから』
そう紡ぐと、聡美は香川に抱きついた。香川は涙を流しながら、聡美の髪をなでていた。
前から、姉妹のように仲のよい二人だった。母娘になるのも悪くないのかもしれない。
香川は沙希とはまるで違う……しかし、聡美が言ったように、今の俺にとって香川の存在は大きかった。
俺も心を決めた。聡美にも俺にも、香川が必要なのだ。愛とか恋とかのレベルではなく。
俺は二人を抱きしめ、香川に言った。
「俺からも言うよ」
「先生……」
泣き濡れた顔でこちらを見る。
「俺と結婚してくれ、淳子」
香川……淳子は、泣きながら微笑み、答えた。
「はい……先生」
「もう、先生はいい。お互い名前で呼ぼう」
淳子は、涙を拭って答えた。
「はい、聡さん」
俺達の結婚式は十月の末に行われた。
沙希とは最後までできなかった結婚式。聡美は、沙希の遺影を抱いて出席した。この結婚を沙希も祝福してくれている、という証に。
俺の両親のたっての願いで、式と披露宴は親類縁者を招いた、世間一般並みのものになった。
俺は、聡美の身体に負担がかからないか、それだけが気がかりだった。しかし、ピンクのドレスを着た聡美は幸せそのもので、結局、すべてが終るまで特に疲れた様子も見せなかった。
式の最後で、聡美と田原は俺と淳子に花束をくれた。花嫁のブーケをどちらが受け取るのか、俺は気になった。どちらが次に結婚するのか。
淳子は後ろ向きにブーケを投げた。まるで狙い済ましたかのように、ブーケは聡美の手の中に落ちた。来会者からの拍手。
頬を染めて微笑む聡美だったが、手にしたブーケを隣の田原に譲った。その意味を知ってるのは、この会場に四人だけだ。
俺と淳子、そして田原と飯島少年。淳子は俺、田原は少年の胸に顔をうずめて泣いた。聡美は、田原と少年を祝福するかのように抱きしめる。
披露宴では、手話グループの合唱が華を添えてくれた。田原と飯島少年のけなげな姿に、俺は目頭が熱くなった。淳子も泣いていた。
だが、聡美は、ただ静かに微笑を浮かべていた。その姿が、最後に入院したときの沙希の姿とだぶる。この世を去る決心をつけて、静かに後ろを振り返る姿に。
淳子も、俺の視線をたどり、合唱を見ている聡美の姿に気づいたらしい。俺の手をぎゅっと握り締め、震えていた。
聡美が遠くなっていく。
願いが叶うたびに。
思い残すことが減るたびに。
幸せを噛みしめながら、死を受け入れていくのだ。
……だが、俺の祈りは決して届かない。
新婚旅行は無期延期だった。
聡美を置いていけるわけがないし、今の病状では一緒に連れて行けるはずがないからだ。
そうしているうちに、ついに永久に連れて行けなくなってしまった。左大腿骨の腫瘍が再発し、聡美は歩けなくなったのだ。
前回、この場所には放射線照射を行ってあった。同じ場所に何度も照射することはできないし、沙希から受け継いだ体質で、通常の制癌剤は使えない。その他の治療法も、聡美の胎内で育ちつつある新しい命のことを考えると、すべて諦めざるを得なかった。
恐れていたとおりだ。もはや、癌細胞の増殖を手をこまねいて見ているしかないのだ。
俺は無力感にさいなまれた。淳子がそばで支えてくれなかったら、この時点できっとどうにかなってしまっていただろう。
骨の腫瘍は激しい痛みを伴う。我慢強い聡美は、脂汗を流しながら耐えていた。しかし、これでは胎児への悪影響が心配だ。聡美の体力も急激に落ちていく。選択の余地はなかった。鎮痛剤を積極的に使って苦痛を除去する、緩和ケアに移行するしかない。
胎児への影響を考えると、鎮痛剤のモルヒネを経口や点滴で与えるわけには行かなかった。そこで、硬膜外ブロックを適用した。痛みを脳に伝える脊髄にカテーテルを入れ、直接神経組織に鎮痛剤を注入するのだ。これなら胎児にまで薬が伝わることはない。
しかし、腫瘍に冒された骨はもろくなる。聡美の脚は、もはや体重を支えられなかった。学校も休学。おそらく、もう卒業はできないだろう……。
もはや、病院で行える治療法は無かった。そこで、聡美は懐かしいアパートに戻ってきた。今度入院するのは、出産の時だろう。その後は……今はまだ、考えたくない。
一日の大半をベッドに縛り付けられた生活。移動も車椅子。淳子の献身的な介護がなければ、到底無理だったろう。看護婦の仕事は結婚を期に退職していたので、すべての時間を聡美一人のために使えたのだ。
俺達は毎晩、寝室のベッドに川の字になって寝た。沙希が生きていたときのように。
母親になりつつあると言うのに、最近の聡美はむしろ子供にかえっていくようだった。俺に甘え、淳子には母親に対するように甘えている。
俺達の甘やかしようも、傍目にはどう映っただろうか。だが、しかたがないのだ。もうじき、何もしてやれなくなるのだから。
淳子はいまや、沙希の占めていた場所を埋めてくれていた。自分が、その役には及ばないと自覚しつつ。
淳子の中では、沙希はあくまでも自分の死を見つめながら家族を愛しつづけた、天使のような存在なのだろう。それもまた、沙希の一面だ。別な面、ちゃっかりしていた面、茶目っ気に溢れていた面は、おいおい知ってもらうとしよう。
……俺達の時間なら、いくらでもあるのだから。
その淳子は、聡美が俺とのセックスで苦痛しか感じていなかっとと知って、相当ショックだったようだ。
「そんなの、あんまりよ。あたしは……あの時だって、感じてたのに」
川の字に寝て、聡美を抱きしめながら、淳子は涙ぐんだ。あの時とは、俺との最初の時だろう。俺が、レイプ同然に抱いた時だ。
『わたしは大丈夫』
聡美は気にしていなかった。妊娠がわかってからは、セックスを求めてくることもない。
『だめ。好きな人に抱かれて気持ちよくなれないなんて』
淳子はこだわった。そして、提案した。
『教えてあげるから、いっしょにしよう』
俺は愕然とした。
「おい、ちょっとまて、そんな……」
俺は懸命に淳子を止めようとしたが、聡美の顔を見て言葉を失ってしまった。あの、お願いの目だ。聡美も、できるものなら感じてみたかったのだろう。それは、わかる。
淳子は聡美のパジャマを脱がしていった。これが、わからない。しかも……こっちの身にもなって欲しい。こんな状況では、できるものもできない。
『はい、どうぞ』
どうぞ、なんて言われても……。大体、いくらなんでも妻の目の前で、父親が娘に対してそんな気になれるものか。
聡美は、全裸で目を閉じて俺を待っている。
「無理だよ、こんなの」
「だめです、聡美ちゃんのためです。この際、あたしのことは忘れてください」
「無茶言うな」
「わかりました」
淳子はきちんと正座すると、とんでもないことを言い出した。
「あたしがします」
俺はギョッとした。
「お……おい、まさかそれって……」
こいつ、ほんとにレズビアンだったのか?
「あたし、その趣味はないですけど、聡美ちゃんのためなら何でもします」
……恐ろしい。こいつの愛情の底知れなさが恐ろしい。
『いくわよ、聡美ちゃん』
淳子の手話に聡美はうなずいて目を閉じた。何をされるのか、わかっているのだろうか……。
淳子の愛撫が始まった。次第に聡美の呼吸が荒くなる。なんか、見てはいけないものを見ている感じ。聡美の足が大きく開かれ、ついに淳子の指が入っていく。
「あうっ!」
苦痛にうめく。淳子は手話で力の抜き方などをいろいろ教え始めた。聡美は真面目な顔で聞いている。俺は……どんな顔をすればいいんだ?
淳子の愛撫が再会され、だんだん指が深く入り、本数も増えてきた。
「あぁ、はあぁ……」
今度は反応が違う。潤んだ目で俺を見つめている。両手を伸ばして俺を求めている。
「聡美……」
突然、俺の身体も反応しだした。
「先生、早く!」
ええい、先生と呼ぶな!
もうやけくそだった。聡美の上に覆い被さり挿入する。
聡美は叫んだ。だが、苦痛の叫びではなかった。
「聡美ちゃん、よかったね、よかったね……」
泣きながら淳子は聡美の頬にキスし、上半身を抱えて愛撫する。
聡美は、俺が果てるまでに何度かエクスタシーに達したらしい。
最後には意識を失ってしまったが、今度は満ち足りた笑顔だった。
そして、俺たちは再び川の字で寝た。……だが、こんな川の字って、あるんだろうか?
ある日、パンダマン大野氏がアパートを訪ねてきた。
聡美は相変わらずインターネットで一日の大半を過ごしていたが、その書き込みの評判があまりに高いので、聡美の専用サイトを作りたいというのだ。管理や運営は、大野氏を中心としたボランティアのスタッフが行うと言う。
俺は正直、あまり乗り気でなかった。言葉と言うのは一人歩きをはじめる。聡美の書いた文章が、第三者の手で広められると、ありのままの聡美とは違う、ネットワーク上のサトミという少女が存在を主張し始めるのだ。
しかし、聡美には別な考えがあったらしく、いくつかの条件を加えて大野氏の申し出を受けた。その一つは、自分が両親のこと……つまり、俺や沙希のことを書いた文章があるので、これは特定の人にしか読ませないで欲しい、と言うものだった。興味本位で読まれたくない、本当に共感してくれる人だけに読んで欲しいというのだ。
大野氏に異存はなかったので、あとは俺の許可次第だった。
俺は聡美を見た。いつもの『お願い』の目を覚悟していたが、そこに見られた眼差しはまったくちがうものだった。
すがるのではなく、ただ訴えている。落ち着いた、理知的な瞳で。それは、子供の目ではなかった。成熟した大人の目。そう、沙希の瞳にそっくりだった。
俺は許可するしかなかった。聡美をここまで育ててくれたのは俺じゃない。インターネットという環境なのだから。聡美は精神的な巣立ちを迎えている。俺という巣穴から。
あるいは……この世から。
こうして、聡美の公式サイト(というのだろうか、この場合)が発足した。病気をのぞけばごく平凡な女子中学生の文章が載っているだけなのに、アクセス数がうなぎ昇りだという。喜んでいいのか、どうも俺にはよくわからない。
サイトの掲示板には、聡美本人からのコメントもよく載せられているし、メールの方もものすごい数が来るようになった。ほとんどはボランティアの人たちがさばいてくれているが、夜遅くまでキーを叩いている聡美を見ると、病状が悪化しないかと心配になってしまう。
夜、川の字になって寝るという習慣は、聡美が臨月になるまで続いた。
だが、それまでの間に、聡美の体力は、お腹の子にどんどん吸い取られていくようだった。特に、歩けなくなって以来、両脚の肉はすっかり落ちてしまい、今では腕の太さほどもないのだ。
元々細かった身体はさらに痩せ細り、子供をはらんだ腹部と、母乳をたたえた乳房だけが大きくなっていく。
ベッドから車椅子に移すときなど、抱き上げるたびに涙が込み上げてくる。普通、妊娠すればそれ相応に体重は増えるのに、むしろ軽くなっていく感じなのだ。沙希を荼毘にふすときも、その軽さに涙してしまった。しかし……聡美はまだ生きているのに。
聡美は、幼くして母親となるために、確実に自分の命を削っているのだ。幸せな、満ち足りた表情のまま。
そして、十五歳の夏。
聡美はなんとか無事に女の子を出産した。
誰が、と言うこともなく、名前は自然に決まった。
霧島沙希。……二世と言うべきだろうか。
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