第53話 二人の書斎

 あれから、表面上は以前と変わらぬ毎日が続いている。


 聡美はほとんど休まず学校へ行っている。飯島少年や田原は、聡美の雰囲気の変化に気づいているようだが、べつに何も聞いてこないのでそのままだった。

 香川も毎日やってくる。あの約束はまだ有効なのか、俺に迫ってくることはない。その代わりというのか、聡美への接し方は愛情のこもり方が尋常ではなかった。知らない人が見たら、この二人はレズビアンだと思いかねないほどだ。


 そして……表面下での変化。聡美はもう、自分の部屋では寝ようとしない。夜、香川が帰って寝る時間になると、いつも俺のベッドで待っているのだ。

 聡美とのセックスが甘美でなかったとは言わない。だがむしろ、痛々しさのほうが先に立ってしまう。俺の愛撫に反応はするが、挿入されても痛みしか感じていないようなのだ。なのに、狂おしいほどに俺を求めてくる。触れれば血がほとばしりそうなほど、張り詰めた気持ちで。

 聡美が欲しいのは快感ではないのだ。俺の愛を受け入れ、子供を産むこと。ただひたすら、それだけを求めている。

 だから……もし俺が望むなら、聡美は身体を切り刻まれても喜んだだろう。


 苦痛しか与えられないからなのか、俺はいまだに罪悪感なしには聡美を抱けない。それに、聡美が望んでいるにもかかわらず、俺の心の中ではまだ整理がついていないのだ。あまりに長い間、聡美は俺の娘だったのだから。どうしても、それをつい考えてしまう。

 その夜も、聡美の細い身体から身を離し、涙に濡れた頬をなでながら、罪悪感を噛みしめていた。

 俺は最後までいけなかったのだ。聡美は俺を受け入れ、意識がなくなるまで激痛に耐えつづけていたが、聡美が待ち焦がれていた精液は放たれないままだった。

 聡美は俺の子を産みたがっている。だが、いまだに妊娠の兆候はない。もう時間はあまりないのに……。


 ここしばらく、聡美の病状は安定している。精神的に落ち着いていることが、一番いい影響を及ぼしているのだろう。

 だが、これだけ転移や再発を起こしている以上、快癒と言うことはありえない。現に、ゆっくりとだが確実に、聡美の体力は低下している。

 ロシアンルーレットのようなものだ。腫瘍が次にどこにできるか、まったく予測ができない。それが子宮や卵巣などになれば、その瞬間に聡美の望みは断たれてしまうのだ。


 愛しい聡美。この子の願いなら、何でもかなえてやりたいのに……。


 眠っている聡美にやさしくキスをし、冷えないように裸の胸にシーツをかけてやる。残暑も終わり、そろそろ明け方は寒くなってきている。


 俺は起き上がるとパジャマを着た。眠れそうもないので、酒の力を少し借りよう。

 キッチンで濃いめの水割りを作り、半分を一気にあおった。さすがに、少しむせてしまう。寝室に戻ろうとして、ふと気が変わり、書斎のドアを開く。


 ここは俺と沙希の書斎だった。

 部屋の右側には俺、左側には沙希の机があり、書棚が取り囲んでいる。俺が医学書を相手に格闘している間、沙希は反対側で主に心理学の本を読みふけっていた。

 沙希は独学で学んでいた。放送大学や通信講座などもつかったそうだが、あの身体でよくやったと感心してしまう。それに、そうして大学生並みの知識を身に付けてはいても、それらをひけらかすことはまったくなかった。うんちくを語るのではなく、実生活の中で実にうまく応用していたのだ。

 たとえば、感情表現の下手な俺や、手話でしか話せない聡美の気持ちを汲み取るために。あるいは、日常出会う人々とのかかわりをスムースに行うために。

 沙希の椅子に座り、沙希の机に手をつく。回りを見回す。これが、沙希がもっとも落ち着く場所だったはずだ。背後に座る俺を背中に感じながら、大好きな書物に囲まれて。ほとんどは古本屋で購入したものだ。出歩くことのほとんどない沙希にとっては、古本屋めぐりはかなりのスリリングな冒険だったのだ……。


 だしぬけに、忘れていたエピソードが蘇る。取るに足らない、しかしかけがえのない、沙希の生前の姿。


 その日、非番だった俺は書店に注文した本を取りに行った。日曜日の昼下がり、暑くなく寒くなく、薄い雲が直射日光を遮ってくれる。沙希がもっとも好きだった天気だ。

 そのせいなのか、思いがけずアパートから離れたところで、沙希を見かけたのだ。

 古本屋の帰りなのだろう、何冊もの本の束を足元に置き、通りの向こう側の歩道橋の下から階段を見上げていた。

 まだ肺癌が再発する前だったが、体力的に無理がきかない。あの荷物では難儀だろう。手伝ってやるつもりで歩道橋の階段を上りかけると、沙希が通りがかった青年に話し掛けるところが目に入った。

 そいつは、二十歳くらいで大学生風の、真面目そうな好青年だった。おそらく、荷物を持ってくれとでも言われたのだろう。ぱっと顔を輝かすと、荷物を受け取り、階段を登りはじめた。沙希は何度も頭を下げながら、後について登っていく。

 俺はなんとなく顔を合わせづらかったので、階段の下に隠れた。

 二人は世間話をしながら降りてきた。

「……じゃあ、ずっとこの町に?」

「ええ、あまり出歩く体力がないものですから」

 しばし沈黙。そっと階段の陰からのぞくと、二人は階段を降りきったところだった。

 やがて、青年がおずおずと言う。

「ところで、あの……もし、良かったら、そのへんでお茶でも」

 ……下心丸出し。こいつめ、と思ったが、ぐっとこらえた。沙希がどう答えるか気になったからだ。

 予想通り、というか、沙希はあっさり答えた。

「ごめんなさい、娘と主人が待ってますので」

 沙希の見かけは十代と言っても充分に通る。まさか、結婚していて、なおかつ娘がいるとは思わなかったのだろう。青年は、まさに「鳩が豆鉄砲でも食らったような」という感じの顔で、あっけに取られていた。


 だが、ほんとに沙希らしいのはこの後だった。にっこり笑うと深々と頭を下げ、こう言ったのだ。


「あなたみたいに親切な人に会えて、ほんとに良かったわ。どうもありがとうございました」

 青年は、ちょっと残念そうだが、納得したようだった。一礼してきびすを返すと、足取りも軽く階段を登って戻っていった。おそらく、今日はいいことをした、と満足しながら。


 ……なるほど、こうして女性は強くなっていくのだな。


 俺は感心してしまった。これが、癌とともに十年以上も過ごすことで身に付けた、沙希の強さなのだ。人に頼ることをためらわず、しかも相手へのさりげない配慮を忘れない。


 青年の下心など、はなから沙希にはお見通しだったのだろう。むしろ、それを積極的に利用し、きちんと報いているのだ。

 医者の不養生という。俺も香川にしょっちゅう言われる。医学を自分の生活で実践している医者が、どれだけいるだろう。その一方で沙希は、いつも心理学の知識を総動員して、周囲の人々の気持ちを察し、みんなが幸せになれるように配慮していたのだ。自分自身も含めて。


 沙希。おまえならわかるはずだ。俺はどうしたらいい? 聡美の願いをかなえてやれば、それでいいのか?

 俺は……子供なんか要らない。それよりも、聡美に一日でも長く生きていて欲しい。妊娠すれば、癌の治療は難しくなる。放射線も薬物も、制約が増えてしまう。癌が増殖し出したら、手をこまねいて見ているしかなくなるのだ。


 その一方で、俺の子を身ごもることが、あの娘の幸せにつながるのなら……その幸福感が免疫力を強めて、癌細胞の増殖を抑えてくれるかもしれない。だが、あまり多くを望むわけには行かない。沙希と違って、聡美の免疫力は生まれつき弱いのだ。おそらく、それだけでは抑えきれない。

 どうすればいい。俺はどうすればいい、沙希……。


「聡美なら大丈夫よ」

 沙希の声。まさか。


 声のする方を振り向くと、書棚に寄りかかって本を読む沙希がいた。

 俺は気が狂ったのだろうか。沙希は死んだはずだ。こんな風に会えるはずがない。

 しかし……こんなに穏やかな顔をした幽霊も、いるはずがない。

 沙希は本を閉じ、胸に抱えるとこちらに向き直った。にっこりと笑う。

「わたしはいつも一緒。そう言ったでしょ?」

 ……俺の記憶の中に。

「そう。そこが、わたしの天国なの」

 なら、これは幻覚なのか。

「もう。変なところにこだわるんだから、完全主義者さん」

 どうでもいいことだな、たしかに。聡美のことに比べたら。

「あの娘は大丈夫よ。もう、目を覚ましたから」

 目を覚ました?

「自分の気持ちに気がついたから。あなたを愛してることに。あなたの子を産みたがってることに」

 それは……おまえの願いだったのか? それを、あの娘は受け継いだ?

「そうかもしれない……今となってはよくわからないけど」

 沙希は……沙希の幻は、考え込むように小首をかしげた。

「あの娘なりに、充分に生きようとしているのよ。それだけはたしかね」

 充分に生きる……か。あの娘も充分主義者かな?

「あなたもね」

 俺は、完全主義者なんだろ?

 沙希はクスクス笑った。

「あるときはね。でも、あなたは充分主義を理解してるじゃない」

 理解はしている。でも、そんな風には生きられない。

「あなたの時間は、まだまだあるから」

 俺は……そんなに生きたくないよ。おまえや、聡美がいなくなった後まで……。

「わたし達は、いつも一緒よ」

 聡美とも、こんな風に話せるのかな?

「時が来ればね。聡美が、充分に生きた後で」

 充分だなんて……あの娘の時間は、あまりにも少なすぎるよ。まだ十四歳なのに。

「わたしも十四で死ぬはずだった。でも、生きたの。あなたにもう一度会うために。あなたと聡美を会わせるために」

 別れるために会うなんて、残酷じゃないか。

「別れはいつか来るもの。早いか遅いかだけよ」

 俺は……一日でも長く、聡美と生きたい。あの娘に生きていて欲しいんだ。

「ベッドに縛り付けられて、あなたのために何もできずに生きるの?」

 ……俺のわがままなのか?

「聡美のために。あの娘が願うことをしてあげて」

 沙希は、持っていた本を机の上に置いた。

「読んでみて。きっと役に立つから」

 表紙には「家族の心理学」と書かれていた。

 沙希は、俺を抱きしめてキスをしてくれた。幻のはずなのに、温かい。

「じゃあ、またね」

 そう言うと、沙希の姿は薄れ、消えていった。


 気がつくと、俺は机に突っ伏して寝ていた。

 夢か。お約束どおりだ。

 ……でもまあ、夢オチにしては充実してたな。

 まだ夜明けまでかなりあるようだ。体を起こすと、机の上に置かれた本に気がついた。タイトルは「家族の心理学」。

 沙希が置いて行った本だ。いつここに?

 俺は本を取り上げて開いてみた。


「これは……」


 並んでいるのは、活字ではなく手書きの文字。丸っこい癖のある字。沙希の字だ!

 この本は沙希の日記だった。日記帳に書籍のカバーがかけられていたのだ。

 途中に何箇所か折り目が入っている。沙希が、ここを読めと示しているんだろうか?

 俺は読み始めた。


六月三日

 わたしの誕生日。聡と聡美が、わたしのために家事をやってくれるという。すごく嬉しかったけど、ちょっと心配。

 思ったとおり、聡美は失敗ばかり。でも、様子が変。聡がわたしにやさしくするのが気に入らないみたい。やきもちかしら?

 あの娘、父親に恋をしているのかも。

 女の子にはよくあることだけど……。


 沙希は気がついていたのだ。そして、聡美の気持ちはこの頃から……あるいは、それ以前から育っていたのか。


七月二日

 聡美に初潮が訪れた。聡はこっけいなくらいに戸惑っていた。愛しの完全主義者さん。完璧なパパなんて似合わないのに。


 後から書き足したらしい。この後だけ違うペンで書かれている。


 聡美が、わたし達のセックスをのぞいていた。ショックだった。でも、聡には黙っているつもり。父親にはどうしようもないから。

 あの娘の気持ちはどんどん育っている。早すぎて、危険な感じがする。


 ……やはり、沙希は気がついていた。


七月十七日

 ついにその日がきた。わたしの残った肺に、癌が転移した。このまま大きくなれば、一ヶ月かそこらで死ぬと言う。もっても二ヶ月。あまりに短い。

 心残りがないと言ったら嘘になる。もしできるものなら、聡の子供を産みたかった。聡美に、弟か妹を残してやりたかった。でも、贅沢を言えばきりがない。

 聡と一緒に聡美を育ててこれたのだ。これで充分。後は、この娘次第。

 聡美は、わたしに対して嫉妬のようなものを感じていたらしい。わたしがいなければ、聡の愛情を独り占めできるから。だから、わたしの癌が転移したのは、自分のせいだと思って罪悪感を持ったのだろう。ひどく苦しんでいる。かわいそうに。

 この娘は、わたしの願い。わたしの希望。わたしが死んでも、聡のそばにいてくれるから。

 だから、わたしは満足できる。充分に生きられた、と。

 ……願わくば、この娘も充分に生きられますように。


「ね、わかったでしょ?」

 振り返ると、再び沙希の姿が。しかし、ちょうど昇りはじめた朝日が差し込み、幻はかき消されていった。


 ……わかったよ、沙希。今度こそ。

 朝日の中で、俺は泣きつづけた。

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