第52話 苦悩

「先生……一体、聡美ちゃんに何を……」

 震える声で、香川は言った。両手で後頭部を押さえながら。


 俺は聡美を振り返った。何も聞こえていないので、その顔は安らかに眠っているようだった。しかし、引き裂かれたブラウスと腹までめくれあがったスカート、そして開いた股間から滴っているものは、荒々しい衝動が幼い身体を突き抜けていった証拠だった。


 近親相姦。レイプ。誰が見てもそう思うだろう。


 香川は、落とした紙袋のそばにへなへなと座り込んだ。代休を取った俺のために、昼食でも用意するつもりだったのか。紙袋からは赤い液体が滲み出していた。トマトケチャップかなにかだろう。こうしてみるとあまりにも血液に似すぎている。

 香川は震える声でつぶやく。

「嘘です……よね、先生がこんなことするはず……」

「俺がやったんだ」

 自分でも驚くほど、平静な声だった。

「嘘……」

 香川は震えながら涙を流していた。


 なんで俺は、こうしてくり返しくり返し、香川を傷つけることばかりするのだろう。なんで香川は、俺を断罪しないのだろう。

 こんなに、俺は有罪なのに。

 そのとき、隣の聡美が身じろぎした。俺の様子から、香川のことに気づいたらしい。驚愕に見開いた目に涙を浮かべ、拳を口に押し当てながら、もう片方のギプスの腕で肘をついて体を起こしている。


「聡美……ちゃん?」

 香川は聡美に向けて手を差し伸べた。悲痛なまでの哀れみの表情。

 聡美は、起き上がろうと苦労している。脚を閉じようとして、何度も顔をしかめ、そのたびに苦しげな声が漏れる。ひどく痛むのだろう。見ていられない。

 俺は、聡美の両肩を抱えてたたせてやった。

『ありがとう』

 そう紡ぐと、よろよろと自力で香川のところへ向かう。

 破れたブラウスを両手でかき寄せてはいるが、まくれあがったスカートはそのままだった。その内腿を、流れ出した精液と血液が伝い落ち、カーペットにいくつもの染みを作っていく。

 落ちた紙袋をよけ、香川の隣にまでようやくたどり着くと、そのままそこにくず折れる。

「聡美ちゃん!」

 しっかりと抱きかかえる香川。聡美に頬擦りする。二人の涙が溶け合う。


 だが、聡美は自分から身体を離すと、香川に向かって紡ぎだした。

『ごめんなさい、淳子ちゃん』

「聡美ちゃん……?」

 香川には意味がわからないらしい。泣きながら、聡美は告白を続けた。

『淳子ちゃんもお父さんのこと好きなのに。わたしが取っちゃったの』

 香川は混乱していた。聡美は構わず続ける。

『わたしも、お父さんのことが好きなの。男の人として、好きなの』

 口元を手で押さえたまま、香川はつぶやいた。

「そんな……」

『だから、わたしがお願いしたの。お父さんの赤ちゃんが産みたくて』

 片手で、自分の股間から流れ出ているものをすくい取り、香川に示す。

『これが、欲しかったの』

「嘘!」

 香川が絶叫した。目を覆いながら天を見上げて叫ぶ。

「親子でしょう? あなた達は親子じゃないの! なんで、こんな……」

「親子じゃないんだ」

 俺の言葉に、香川は凍りついた。

「そんな、ばかな……だって、沙希さんは……」

「沙希は、別な男にレイプされて聡美を身ごもったんだ。ずっと聡美には隠してきたんだが、知られてしまった」

「そんな……そんな」

 身体を二つ折りにして泣きじゃくる。その肩に聡美は手を置いた。

「聡美ちゃん……」

 香川は聡美を見上げた。聡美は紡ぎつづける。

『お父さんは悪くない。わたしが悪いの。小さい頃から、お父さんが好きだったから』

 香川は体を起こした。聡美の手話に聞き入る。

『あの頃はまだ子供だったから、自分の気持ちが何か、わからなかった。でも、夜お父さんとお母さんがしていることを見て、わたしも同じことをして欲しくなって……』

 ためらい、手話を続ける。

『お母さんがシャワーを浴びに行った間に、お父さんの横に寝たの。お父さんはやさしく抱きしめてくれた。それだけだったけど、はじめは怖かったけど、すごく嬉しくて』


 俺は思い出した。夢の中で、子供の沙希を抱きしめたことを。あれは、聡美だったのだ。

 ……あの時から、こうなることは決まっていたのだろうか。


『それから……一人で寝てると寂しくなって、ときどき自分で触るようになったの』

 聡美は罪の告白を続けた。罪などではないのに。誰も責めようがないのに。

『だから、お父さんは何も悪くないの。わかってね、淳子ちゃん。全部わたしが悪いの』

 聡美の目から涙が溢れる。

『ごめんなさい……赦してください』

 そのまま、聡美は香川の膝に泣き崩れた。香川は聡美を抱きかかえたまま、自分も泣きつづけていた。


 香川が聡美を風呂に入れている間に、俺は部屋の掃除をした。ソファとカーペットの染みは、完全には落ちそうもない。これからずっと、この染みを見るたびに、今日のことを思い出すだろう。

 二人が風呂から上がってきた。ほんとに、こうしてみると仲のよい姉妹にしか見えない。バスタオルを巻いただけの姿で、聡美の部屋へと入っていく。


 部屋から二人が着替えて出てきたときには、昼食ができていた。香川が作ろうとしていたものには遠く及ばないだろうが、とりあえず温かくて空腹が満たせれば、これからのことを落ち着いて考えられるだろう。

 今後の三人の生き方を。

 俺達は、黙ったままもくもくと食べた。それは気まずい沈黙と言うより、言葉にする必要がなくなったからだろう。聡美も香川も穏やかな表情だった。俺も静かな気持ちだった。

 食事が終ると、香川が黙って席を立ち、食器を洗い始めた。俺はソファに腰掛けた。聡美は俺のほうを見ている。問いかけるような目。

 これからどうするの?

 だが、俺にもわからなかった。これからどうすればいいのだろう。

 聡美は聡美だ。俺のすべて。俺が生きる意味。命そのもの。

 だが、もう娘とは呼べない。かといって、恋人でもない。聡美に感じているものは、恋ではない。中学時代に沙希に対して感じていたものがそうならば。

 沙希に対しては、狂おしいまでの渇望をいつも感じていた。一つになりたいという欲求。それが俺を突き動かし、沙希のために何かをしたいと、俺を走りまわさせたのだ。

 聡美に対しては違う。愛しい気持ちは変わらないが、沙希に似た姿や仕草、性格を持ってはいても、まったくの別人だ。

 聡美は、初めから守るべきものだった。何があっても、何を犠牲にしてでも、この娘だけは幸せにしないといけない。そう感じていた。だからこそ、俺は臨終を迎えた沙希の手を離し、この娘を抱きしめたのだ。

 もし今、沙希と聡美が崖から落ちそうになったとして、どちらかしか助けられないとしたら。……俺は迷わず聡美を選ぶだろう。

 沙希を見捨てて。あの沙希を。俺をあんなに愛してくれた沙希を捨てて。

 頬に手が触れた。眼を開けると、聡美がそばにひざまずいていた。心配そうに俺を見つめ、頬をなでている。そのときようやく、俺は涙を流していたことに気づいた。


 聡美の後ろには香川が立っていた。静かに俺を見下ろしている。

 香川。おまえも、俺にとってなんなんだろう。

 恋人ではない。香川に対して恋愛感情を持ったことはないし、おそらく今後もない。だが、彼女は俺の一番信頼できるパートナーだった。他に誰がいる? さっきのような現場を見た後で、こんなに穏やかに接してくれる人が。

 香川は、俺にとってもう一人のかけがえのない存在になっていた。沙希とも違う。聡美とも違う。母親のような、姉のような、時には妹のような存在。

 そっと両手を広げ、聡美と香川を両側に迎える。二人を抱き寄せ、二人のぬくもりに包まれて、安らぎを感じながらも、俺は考えつづけた。


 これからどうしたらいいのか、と。

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