セカイより3秒早く

セカイより3秒早く

 禾森ノギモリの美しさは、自分だけが知っていればいいのだ、と一昨日ふと思った。押し込めるように美しいという単語に禾森を区切るこの行為は好きではないけれど、それでも禾森を美しいと、僕は思ってしまった。


 陰でこそこそと言うわけでもなく、禾森のいる教室でちゃっかり聞こえてしまうような絶妙な声で悪口を言い続けるクラスメイトが憎い。


 お前ら、本当に何もわかってないよ。喉から勝手に出てきた言葉を口にはせず舌の上で転がす。禾森の隣の席に座って読みかけの本を開いた。

 禾森の隣の席、というのもまた面倒なことにクラスメイトの話のネタにされてしまっているようで、席に着けばこちら側への視線が強くなったように思えた。

 銀色の太陽が本からはみ出て、蛍光灯の優しそうに見える光に反射して鈍く光る。

 横の禾森を盗み見るとまっすぐに活字を追っていた。瞬きもほとんどしないで目は上に下に読んでいるのか不安になるスピードで動いている。落ちてくる横髪を耳にかけようとして、耳には届かないまま横髪はまた落ちていった。まるで音の全てが禾森には無いものと同じだとでも言うように、禾森と、開いた本しか禾森の世界の内側にはなかった。


 禾森とはただのクラスメイトで、それから家族同士の仲が他の家より少しいいだけ。家の方面が同じで、塾も一緒。共通点は多いようで少ないし、禾森と僕は近いようで遠い。

 禾森と話すのは塾から帰る15分間だけで、学校では会話すらしない。たった15分、僕と禾森はどちらからでもないような会話を始めて、友達みたいになる。毎週月、木、金、土曜日の15分だけ僕は友達という名目で禾森の隣にいられるのだ。

 今日は月曜日、今の時間は20時42分。

 スマホの液晶に兄さんから通知が入る。『早く帰ってこい』『まだ帰宅途中、あと数分くらい待って』アプリを開かないままロック画面で返信する。

 隣をバイクが通り過ぎていく。あと10数センチで轢かれているような距離。禾森がリュックを掴んで引いてくれたおかげで、僕は轢かれなかった。ありがとうと呟いたら、歩きながらスマホをいじるなと小突かれた。


「僕、べつに可愛くないし、性格もひどいからさ。」

 アスファルトの欠片みたいな小石を蹴りながら禾森はこっちを見た。禾森の声の中で、聞こえたフレーズはそれだけだった。禾森が勝手に話して、時々僕が勝手に反応する。

 丸みのあまり無い細い足とそれを隠すように長い、紺色のソックス。シンプルで白地が灰色になりだしたスニーカー。背が伸びて短くなったスカートは膝小僧すれすれまでしか隠せていない。

 紺色のリュックは背中より少し下でだらけている。太陽の形をとった3つのチャームがぶつかってリズムを崩しながら音を出す。

「可愛くないって何が?」

 禾森の価値観が知りたいわけでもなかった。ただ、会話をする選択をしただけ。

 一重に細い目、腫れぼったくみえる唇、凹凸のない横顔、出っ歯、治らない肌荒れ。ありふれていてそのくせ面倒なものばかり禾森は口にする。


 僕はその一重から覗く目が、本を読むときにだけ大きく開くことを知っている。まるで一瞬も逃したくない写真家のように、瞬きも忘れるくらいに本を眺めているじゃないか。

 腫れぼったいなんていうけど、その口から出てくる言葉は不意に音じゃなく言葉として発せられる。その無意識の単語の羅列が、いつも優しいことに禾森は気付いていない。その瞬間、少し低いざらつきのある声は、声としてではなく、言葉として空気を震わせていた。

 横顔に凹凸がないとか、出っ歯とか、肌荒れとか、そういう見た目よりもずっと、もっと違うところに禾森の美しさはあって、それは禾森にしかないものなのに、なんて思ったけれど、これは別に言わなくていいんだとわかった。禾森をこれ以上傷付けることは、何一つ望んでいない。


 禾森の言葉は僕に向けられているわけではない。この会話は誰にも向けられずに死にかけた言葉が空気に溶けるための行為だ。僕の返答を知りたくて聞いているわけではない、ただ、禾森にとって都合のいい相手なのだ。

 それでもいいと思っている僕も、もうすっかり禾森に毒されているのだろう。

 禾森の首で揺れる太陽をモチーフにしたチャーム。学校から出れば常に禾森の首には布地のチョーカーが付いている。第一ボタンを外す代わりに、ゆらゆらと太陽のチャームが揺れる。普通なら目につくシルバーの輝きも、持ち主のお陰で何もかも霞んでいた。


「365日をいつか振り返るとき、一日一日が違う色で色付けされていてほしいし、その色の名前を全部覚えていたい。

 僕はね、いつか死んでしまうその日まで、カレンダーに同じ色がないように生きたいんだと思う」

 そう言ったのは一昨日の禾森だった。

 今まで生きてきた毎日を、すべて思い返すことなんてできないのが普通だろうと反論したかったのに、それを言うのは間違いだと脳が判断した。

 僕だって今まで生きてきたはずの日々をひとつもこぼさずに抱えていたかったから。やりきれないって言葉はあながち間違いじゃなかった。でも僕は忘れていってしまうのだ。この会話すら、禾森と会話したという箱の中で文字化すらされずに、傷が入って音のおかしいレコード盤として放置される。僕の意志に反して。

「そうだな」

 絞りだした答えに、禾森は特に気にする様子もなく、いつも通りに帰路をなぞっていた。

 この空気感を気まずいと思うことがなかった。今まで一度も。それがいいことなのか、悪いことなのかはわからなかったけれど、禾森という存在を知るためにはいいことだと思った。


 禾森は突拍子のないことばかりを言う節がある。

 それはとても簡単な理由からで、きっと休みなく禾森の頭は動いていて、思考の川がとめどなく循環しているんだろうと推測している。禾森の脳内にはもう一つ宇宙があるのだ。

 禾森の美しさは、禾森が無意識にふと漏らした言葉や表情にある。言葉や表情がすべてではないのだとわかっていても、禾森の美しさが心臓や風を留める瞬間が、確かにある。


 誰も見ることができない世界、僕らが知覚するものより3秒早い世界にいるのが禾森だった。


 3秒後にしか僕らにはわからない世界で、禾森は生きているから3秒後に生きている周りの人間の中ではアウトサイダーみたいな役割を押し付けられている。実際は禾森がインサイダーなのかもしれない。ずっと外側にいるのは僕らだとしたら、それこそずっと愚かで人間らしい。

 だけど僕は特別だ。って勝手に錯覚している。この15分は禾森に追い付けなくても2秒先を見ているような気分になれる。


 また、聞こえないけれど動いた唇が見えた。真っすぐにどこかを見ながら禾森が足を止める。暗くなった道路に点々と灯っている電灯が禾森のことを無視していた。点滅していた青信号は赤信号に変わって、トラックや乗用車が通り過ぎていく。

 名前も知らない車、誰が乗っているのかも、何一つわからない沢山の無機物が流れていくのを禾森は何かを探すみたいに目で追っていた。


「禾森、何秒先に禾森はいる?」

 聞こえていますようにと祈りながら聞いた。今日くらいは、禾森の思考の川をせき止めてでも、禾森の世界を知りたかった。


「大丈夫、僕はいつも今にいるよ、僕の今に。」


 信号が青に変わった。当たり前のことのように言った禾森の今が、僕らの数秒先なのかと思った。禾森は天才なんかじゃないんだと信じたくて聞いたのに、禾森は天才じゃなくても僕と生きている軸が違うのだ。

 横断歩道を渡り切って、禾森は右に曲がろうと体を向けると、ふと気づいたように僕の方を振り向く。

「僕さ、時々きみのこと、同じ時間軸で感じることがあるよ」

 言い逃げて走っていく禾森のリュックの太陽が街灯の光を浴びるたびに反射して僕の網膜を傷つける。本物の太陽とは役目の違うその太陽が、僕にとっては空に図々しく居座る太陽よりもずっと太陽らしかった。


 禾森みたか太陽は、あまりにも美しすぎる。そして禾森の美しさは僕だけが知っていればいい。

 脛にぶつかる風が生温くて気味が悪い。風が吹いて煩わしいスカートが揺れる。


 禾森の3秒先に、僕はいたかった。

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セカイより3秒早く @tamakagiru

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