俺の失恋した男とその男が弾くピアノの話

刻露清秀

 駅から一人アパートを目指していると、ピアノの音が聞こえた。


「あ」


思わず声が漏れた。アイツが、憑かれたように弾いていた曲だったから。俺はカバンからワイヤレスイヤホンを取り出し、スマホとブルートゥースを繋いで、ポップスを流した。


 アイツこと照江勢一は、野生のピアニストだった。高校一年生。普通の高校生ならまだ将来の夢なんて遠い未来の話だけど、クラシックの演奏家になろうと思ったら話は違う。音大に行くための先生についたり、コンクールに出たりして、その才能を開花させなければならない。難しい曲をたくさん弾かなければならない。照江は音楽教室こそ通っていたが、コンクールに出たことはなかったし、そもそも大学を目指すような社会性を持ち合わせていなかった。


 照江は問題児だった。本人曰く、昔からそうだった。小学生の頃からみんなで同じ方向を向いて教科書を読むことを嫌い、教室を抜け出して校庭で暴れた。情操教育として音楽を勧められピアノを習いだすと、今度は音楽室で暴れるようになった。習ったばかりの曲を、延々と引き続けるのだ。ならば音楽の道をと発表会に出れば、異様な空気に耐えられず過呼吸を起こした。有名な先生のレッスンを受けたこともあったが、厳しい指導に逆ギレして台無しにした。それでも手厚いサポートがあれば対策ができたかもしれないが、ごく普通の共働き家庭だった照江の家に、そんな余裕はなかった。


 そんなこんなで、俺と出会った高校一年生の時点で、照江勢一がプロのピアニストになる道はほぼ絶たれていた。しかしながら照江は未だに教室で授業を受けることができず、音楽室でピアノを弾いていた。なぜわりと偏差値の高いうちの高校に受かったのかといえば、筆記試験しかなかったからだ。照江は勉強ができないわけではなかった。


 照江と俺は同級生だった。学級委員を押しつけられた俺は、ホームルームにこない照江のことをそれなりに気にかけていた。照江は自己紹介の時から、出身中学も所属したい部活も口にせず、


「照江勢一、ピアノ弾きます」


とボソボソ呟いて、次の日から音楽室登校になったので、ある意味有名人だった。不健康そうな青白い頬と襟足の長い猫っ毛を、俺はぼんやりと覚えていた。


 初めて音楽室を訪ねたとき、照江は『エリーゼのために』を弾いていて、知っている曲を弾いていることに嬉しくなった俺は


「うちの給湯器の曲だ! 」


と声をかけた。照江は無言で俺を睨むと、曲の途中で演奏をやめて立ち去ってしまった。流石にまずいと思った俺は、次の日も音楽室を訪れた。


 うちの高校は音楽系の部活が弱小で、照江が入り浸っている第二音楽室は、二年生の選択授業でしか使われていなかった。俺が恐る恐る音楽室に入ると、照江は


「あ、給湯器」


と呟いた。


「その節はどうもすみませんでした……」


俺の謝罪を聞くと、照江は軽く鼻を鳴らして、またピアノを弾き出した。他の曲もたくさん弾いていたが、その時の俺には『エリーゼのために』しかわからなかった。


 照江をおいて帰ったところで、何か不利益が生じるわけではないのだが、場の空気に流されやすい俺は帰るに帰れず、奇妙なコンサートの観客になった。


 クラシックというものに造詣がなかった俺は、照江が奏でる音の洪水をただただ聞き流していた。照江の、指が美しいことを発見したのはその時だ。照江勢一は美少年というわけではなかったが、ピアニストらしい長い指をしていた。薄暗い音楽室の中でほの白い指は目についた。乳白色の指とシェルピンクの爪を追いかけているうちに、いつの間にか俺は魔法にかけられたように、音を楽しんでいた。


 作曲家の名前も、曲名も知らなかったが、音を追いかけるのは楽しかった。今の俺は照江よりずっと巧いピアニストの演奏を聴いたことがあるし、知識も段違いに増えたが、あの時ほど夢中になって音を追いかけたことがあっただろうか?


 長い指が鍵盤に触れるたびに、俯いた頭が揺れて猫っ毛が跳ねるたびに、俺はそれまでは持っていた照江への蔑みや憐れみの感情を手放し、王者に跪く奴隷のように、神の声に耳を傾ける巫女のように、その美しい音に酔い、旋律を渇望した。


 照江のピアノは、照江が人間として生きるための手段だった。どんな曲を弾いていても滲み出る、周りに馴染めないことへの焦燥や、普通の人々への愛憎はあまりに激しかったから、聞く人によってはノイズだろう。照江は同じ方向を向くことを拒否し、退屈な授業を聞くことを拒否しながら、同じ方向を向いて授業を聞く側の人間に愛されたがっていた。認められたがっていた。そして許されたがっていた。照江の音楽は愛してくれ、許してくれと乞いながらも受け入れられず、それを諦めることもできないでもがいている、照江という人間の悲鳴だった。


 その悲鳴の美しさに酔い、渇望し、共鳴したのが俺だった。


 最終下校時刻の鐘が鳴って、照江が演奏を止めたとき、俺は立ち上がって拍手をした。照江はまだいたのかとでもいいたげな顔で、立ち上がって帰ろうとした。


「どっち方面? 」


と俺が一緒に帰ろうとすると


「お前と反対方向」


と言われたが、これは嘘だった。同じ方面の電車に乗る照江を、俺は三メートルほど離れて見送った。照江は俺の最寄り駅から三駅先の駅を最寄りにしていた。

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