俺は照江の演奏会に参加するようになった。といっても時間が空いた時に第二音楽室に立ち寄り、勝手に座り込むだけだが。照江からはまるでゴミを荒らすカラスのような扱いを受けたが、俺がしつこく付き纏った結果、照江が折れた。


 そうこうするうちに六月になり、照江はドビュッシーをよく弾くようになった。照江の習性に、雨の日はドビュッシーの割合が増える、というものがある。照江は基本的に暗譜でピアノを弾くが、弾きたい曲は日によって変わるらしい。ピアノの前に座って長い指をぐるぐると回しながら、照江はほんの数秒、次に弾く曲を考える。その判断に影響を与えるのは、ほとんどの場合、天候だった。もっとも照江は同じことを延々と繰り返すのが苦にならない人間なので、一日中、下手したら一週間も同じ曲を弾いていることもよくあった。


 六月頃には照江と俺は少しだけだが会話をするようになっていた。ある金曜日、最終下校時刻の鐘が鳴った時、ふと思いついたように照江は言った。


「名前、知らない」


やっぱりな、というのが正直な感想だった。同級生とはいえ教室にこない人間が、俺の名前を知っているはずがない。


「戸部勇輝」


「たしかに勇気はあるな」


照江は鼻で笑った。照江勢一という人間は万事こんな風に失礼である。何に対してもこうなので、怒る気にもなれなかった。


「漢字は勇気の勇に輝くだよ」


と教えても


「へー」


としか言わなかった。そもそも俺が


「照江は本当にピアノが上手いんだな」


と話した時も


「なんで名字を知っているんだ、キモいぞ」


と酷い扱いをされた。同級生だと説明しても、キモいという評価は撤回されなかった。下校時は隣を歩いてはいたものの、会話はなく、照江の歩く速度に俺が合わせていた。照江は歩くのが遅いうえに、あっちへふらふら、こっちへふらふらと落ち着かないので、一緒に歩くのも簡単ではなかった。


 それでも照江の中での俺の評価はだんだんと上がっていき、ゴミを漁るカラスからよく餌をやる猫くらいにはなっていたらしい。そうわかったのはある日、楽器店に誘われた時だ。下校中、唐突に


「寄り道をしよう」


と言われた時は少なからず驚いた。


「いいよ」


と快諾し上機嫌でついていくと、そこは学校の近くにある楽器店だった。壁にかけてあるギターには目もくれず、照江はピアノの楽譜のある本棚の前で立ち止まった。


「照江も楽譜読むんだな」


と話すと、


「当たり前だ」


と返された。照江は表紙に横文字の並んだ楽譜を選んでいたが、俺は照江が他の棚にも目を走らせていたことを見逃さなかった。


「照江はクラシックしか弾かないの? 」


と尋ねると


「他のジャンルを弾かないわけじゃない」


という曖昧な答えが返ってきた。詳しく聞こうとすると


「戸部は普段はどんな曲を聞くんだ」


と質問された。記憶にある中で、照江が俺の名字を読んだのも、質問をしたのもこれが初めてだ。


「アニソンとか。アニソン歌手が好きで」


「ぽいな」


「どーせアニオタですよ」


当時はメガネをかけていたし、見た目もオタクっぽくしていた。


「うん。成績が良くて口数が少ないから真面目扱いされてるキモいオタクっぽい」


照江が失礼なのは元からだが、少なからず当たっていることに驚いた。


「真面目じゃないって言いたいわけ? 」


「真面目じゃないとは言わないけど、周りから見られている像とは別人だろ」


「周り、ねぇ」


お前は俺の周りのことなんて知らないだろうが。そう思ったのが伝わったらしく、照江は顔を曇らせた。


「そういう嫌味なところがキモい」


「ごめんごめん」


照江は悪意に敏感だった。照江は人間と関わることが著しく苦手だったが、人間に嫌われたがっていたわけではない。嫌われたらまともに傷つき、悪意に晒されればいたたまれなくなってしまう。態度が失礼なのも自己防衛の解き方を忘れたからだった。


 俺はといえば人間に嫌われようが好かれようが構わなかったし、なんなら周りの全ての人間を見下していたので、いちいち傷ついてやろうとも考えなかった。まあ中二病を拗らせていたと言われればそれまでだが、そういう厄介な性質は表面に現れないらしく、俺はそれまで真面目でそこそこ優秀な人間として、学級委員なんてやっちゃいながら過ごしていた。


「照江、俺のことよく見てるんだな」


「は? 」


照江は眉間に皺を寄せたが、それ以上何も言わなかった。


 午後から雨が降り始めた日、俺は傘を忘れて玄関から出られなくなった。その日は部活があったので、第二音楽室にはいかなかった。照江は何を弾いていたんだろう、ドビュッシーかな。そんなことを考えていると、ちょうど照江が現れた。俺と照江は出席番号が一個違いなので、下駄箱も縦に並んでいた。


「なんでいるんだ」


「傘忘れたから止むの待ってる」


「天気予報見てないのか?明日まで止まないぞ」


照江は傘立てからビニール傘を出した。


「照江、傘入れてくんない? 」


塾の時間が迫っていたので、ダメ元で頼んでみる。


「嫌だ」


ですよねー。仕方ない走るか、と覚悟を決めたところで、照江は鞄から折り畳み傘を取り出した。


「使ったら?返さなくていい」


ぶっきらぼうに言って目も合わせずに帰ろうとする照江を、俺は追いかけた。照江のさしている傘の方が貸してくれた傘より安物である。


「ありがとう。今度返すよ」


「別にいい」


「でもコレ高いやつじゃない?いいの?こっち使って」


「別に」


「俺は相合い傘でも良かったんだけど? 」


てっきり、は?とかキモいとかそういう言葉が返ってくると思っていたが、照江の反応は無言。


「俺のこと大好きかよ」


と茶化すと、鳩尾に水平チョップを食らった。普通に痛い。

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