俺と照江の交流は、だんだんと他の人間の知るところになった。まずは音楽の先生。次に同級生たち。ほぼ教室にこない照江は、ミステリアスな同級生として、特に女子の興味を引きつけていたらしい。


「ねぇ、戸部くんってさ、照江くんと仲良いの? 」


同級生の女子、確か山がつく名字、仮に呼ぶならナントカ山からそう尋ねられた。


「んー、まあ」


否定とも肯定ともとれそうな返事を投げて、俺は会話を切ろうとした。


「えー!マジなんだ! 」


だがナントカ山はそこから話を広げ出した。


「照江くんってさ、いつもピアノ弾いてんじゃん?二学期の合唱祭さ、伴奏してくんないかなぁ」


弾くわけねぇだろ。そう思ったが、俺は空気が読めて気が弱い学級委員なので、そんなことは言わずに笑顔を作って


「そうだね、聞いてみるよ」


と答えた。ああ、そうだ。思い出した。ナントカ山は合唱祭の実行委員だった。


 うちの学校の合唱祭は適当だった。夏休み明けの九月にだらっと歌って、はい、おしまい。勉強と部活で忙しい高校生が夏休み中に練習なんてするはずもなく、せいぜいレクリエーションといったところだ。だが合唱に力を入れている中学出身だったナントカ山は、謎に張り切って、夏休み前から準備をしようとしていた。


 中間テストで久しぶりに同級生の前に姿を見せたことで、照江は注目されていた。成績がどうだったかは知らないが、俺の前の席でテストを解く照江のシャーペンは、すらすらと動いていた。


 雨の季節を経て、俺と照江はより親密になっていた。友達を名乗ったところで、照江は怒らないだろう。相変わらず失礼な態度だったが、刺々しい物言いは鳴りを潜めていた。だから


「合唱祭の伴奏弾けないかって、合唱祭委員が言ってた」


と話した時に


「考えてみる」


と言われた時も、俺に気を遣ってくれたくらいにしか思わなかった。


 その日の帰り道、照江はいつにもまして上の空だった。あんまりボーっとしているので、


「もしもーし」


と目の前に手をかざしてみた。


「ああ」


照江は我に返って俺を見た。


「……戸部は、合唱祭でるんだよな」


「まあね」


「あんまり乗り気じゃないみたいだな」


ご名答。昔も今も俺は、みんなで頑張ろう!みたいなノリの行事が大嫌いだ。


「まあね」


「そればっかりだな、適当なやつ。なんで学級委員なんかやってるのか不思議だよ」


そう言って照江は苦笑いをした。明らかにスカスカの学生鞄を肩にかけ、ふらふら歩いていた照江は、急に立ち止まって呟いた。


「このままじゃな」


その言葉の意味に気づかなかったわけじゃないけど、どうせ照江は退屈な授業なんて受けないし、照江のピアノが高校生の下手くそな合唱に合うわけない。俺はその言葉を聞かなかったことにした。


 だがその判断は間違いだった。次の日、照江は突然教室に現れると


「伴奏、やるから」


となかなかの大声で言って、去っていった。俺やその他の生徒と同じように、ナントカ山もこの突飛な行動に面食らっていたが、それでもその日のうちに楽譜をコピーし、


「照江くんに渡して」


と押しつけてきた。運悪くその日は俺の部活がなかった。


 第二音楽室の前にいると、ラヴェルが聞こえてきた。俺は扉の前でその軽やかな旋律に耳を傾けた。照江の弾くピアノの音は相変わらず美しかったし、その音楽を聞くことはこの上ない喜びだった。このままでいいじゃないか。俺は思った。その素晴らしさは俺だけが知っていればいい。ピアノの発表会で過呼吸を起こした照江に、伴奏ができるとは思わない。


 脳裏に乳白色の指とシェルピンクの爪が浮かんだ。あの美しい手は、扉を隔てた向こうで鍵盤を叩いている。もし照江が伴奏を弾いたなら、俺はあの手が紡ぎ出す音楽を、その他大勢の中に混じって聞かなければならない。上手くもない歌をみんなで頑張る同級生に混じって、精一杯声を張らなければならない。ステージの上、ライトに照らされて照江が弾くのが、有象無象のための音楽だなんて。耐えられないことだ。


 俺は手に持っていた楽譜を鞄にしまおうとした。照江には楽譜を渡さないで、ナントカ山には心変わりした照江に断られたと言えばいい。だが一曲弾き終わった照江はご丁寧に扉を開いて出迎えてくれた。


「待ってたぞ、戸部。手に持っているのは伴奏譜だろ?練習するから聞いてくれよ」


そう言われては誤魔化すこともできなかった。


 照江はちょくちょく教室に顔を出すようになり、ナントカ山が持ち込んだキーボードで伴奏をするようになった。最初は気乗りしていなかった同級生たちもだんだんとその気になり、放課後は教室に居残って練習をする生徒が増えた。照江は人の輪の中心にいて、楽しそうだった。


 もちろん俺と照江が疎遠になったわけではなかった。ナントカ山と照江が親しげに話していたので


「あの子のこと好きなの?付き合えば? 」


とからかった時も、照江は八の字眉毛で


「彼女のこと好きにはならないよ」


と言っていた。後に知ったことだが、その時の照江は、俺がみんなと仲良くなれるように図ったと思っていたらしい。聡いようで頭の中がお花畑だ。事実は反対である。照江が同級生から興味を持たれたのは全くの予想外で、俺には不愉快だった。


 照江は変わった。照江のピアノは、相変わらず照江が人間として生きるための手段だったが、焦燥や憎しみのノイズは小さくなり、希望や愛情がとってかわった。照江は同じ方向を向くことも、退屈な授業を聞くこともしなかったが、同じ方向を向いて授業を聞く側の人間に認められ、その居場所に愛着があった。


 照江の音楽はもはや悲鳴ではなかった。温かで希望に満ちた音は、それまでの照江の音楽を否定しているようでさえあり、俺は軽く絶望を覚えた。あの音楽を取り戻すには、どうしたらいいのだろう。そう思っていたある日、照江が階段でよろけたので、手を掴んで転ばないようにした。


「あ、ありがとう」


振り向かずに言った照江の耳は真っ赤だったけれど、俺は全く別のことを考えていた。俺の左手にはまだ、照江の右手の感覚がはっきり残っている。骨張った長い指、整えられたシェルピンクの爪、薄暗い音楽室であれほど神秘的だったあの手は、意外なほど温かかった。


 あの美しい手が折れてしまったなら、照江はまた悲鳴を聴かせてくれるだろうか?

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