エピローグ

 あの日から三日が経ち、この三日間を何をして過ごしていたのか思い出せなかった。唯一、思い出せそうなことはテーブルの上に散乱したカップラーメンの空容器の個数の分だけ、俺の胃袋の中に入ったということだけだろう。


好きこのんで買ったはずのカップ麺の味も胃に入ってしまえばみな同じだと、今更ながらに思う。この孤独と不安を抱えながら過ごす時間は、いつ以来だろう。




 病院からの帰り、車中で俺は気まずさを感じていた。送迎を断ったものの仙波さんが半ば強引に俺を家まで送ってくれた。二人きりになった車内で片道一時間半の道中で何を喋ればいいのかと頭を抱えそうになっていた。


その不安とは裏腹に、仙波さんからすぐに、俺への質問が飛び続けた。それは俺の幼少期の話、学生時代、社会人と順に成長をたどり、女装に行き着いた経緯を、興味本位ではなく、事実確認程度で聞いていた。




 病院で話した内容では、もちろん納得がいかないだろうと覚悟もしていたし、責められる覚悟もしていた、けど仙波さんは口をひらけば、「なるほど」や、「そうか」のどちらか二言のみで特に俺の女装を責めることは、無かった。


 同情なのか、この先の関わりなどない人間に興味がないだけなのか、どちらか分らずに、俺は車が家に近づくにつれて、胸の中で虚無が膨らんでいることに気が付いた。




――つばさはもう、退院したんだろうか。




 俺のスマホに、香織からは連絡が無かった。期待なんかしていない、といえば大嘘だ。もしかしたら、またここに来てくれるんじゃないかと期待もしていた。けど、その期待は時間が経つにつれて自分の過信と妄想でしかなかった。


それに、惜別の品として俺の付けていたブレスレットを渡した。最初はつばさのブレスレットが壊れていたとは思わず、快復を願ってつばさの手首のサイズに合うように調整しておいた。


そのつばさの壊れてしまったブレスレットを、家に持ち帰り自分用に直した。互いのブレスレットを交換できたことは、今の俺にとっては幸福なのかも。




 世間はお盆休みになる頃、香織の会社も休暇を取ると聞いていた。もしかしたら、実家へ帰省しているのか、はたまた仙波さんも一緒に旅行など楽しんでいるかもしれない。


俺も暇な時間があるなら横浜にいってブラブラでもしようかと思った。そういえば夏になる前に香織のお店で浴衣を二着買ったことを思い出す。


結局、渡せないまま、今は和室の押し入れにしまってある。ペチュニア柄の親子ペアの浴衣を香織とつばさにプレゼントしようと買ったものの、渡すきっかけが見つからなかった。




 自分たちが作った浴衣を受け取って果たして嬉しいものだろうか、真っ先に頭に思い浮かんだ疑問がこびり付いて離れなかったのが、渡せなかった一番の理由だ。


よくよく考えると、香織から貰った浴衣がもう一着あったな。全てピンク色の大小の浴衣は俺には身に着けることができない、思い出の品だ。




 部屋に充満した食べ残しのスープの香りが、現実へと引き戻した。何もしていないのに腹が減るのは何故だろう、食欲だけは正常に時を刻む、これは腹時計というのか。


ふと時計を見ると午後三時を回っていた。昼ごはんは食べたっけかなぁ、ていうか、何時に起きたんだっけ。


外は今日も異常な暑さで、午後のこの時間帯では下の公園で遊ぶ子供たちは誰もいない。なにが楽しくてこんな暑さの中で外を出歩くのか分らない。


ただ、扇風機のはき出す風と窓から吹きこむ風にさほどの違いがないように思えた。珍しく土ぼこりを巻き上げるほどにカラッとした乾いた空気と風に、暑い中であっても過ごしやすさを感じた。




 キッチンに足を踏み入れて、冷蔵庫を開ける。ブーンと低く唸るモーター音と涼しい風が肌をなでた。すっからかんの冷蔵庫をみて、ため息が出た。


「なにも食べ物がない。買い物に行かなきゃなぁ」


 窓の外を見て、またため息が零れた。今から買いに行くか逡巡ののちに、行かないことに決めた。




――ピンポーン




 今さっき外に出ないと決め込んだのに、ドアを開けなきゃいけないのか、と俺は悪態をついた。郵便物かなにかかな、両親がまた米でも送って来たんだろう。前もって送るなら連絡をくれと何度も言ったのに。


 寝間着のまま寝癖もそのままに俺はドアを開けた。




「はーい」


「あっ、寝てた、のかな?」


「健太さん、寝てた!」




 幻なのかと、目を瞬しばたかせ、手でこすった、が、幻でも何でもなかった。香織とつばさが立っていた。


「え、あ、いや、起きてましたけど。ど、どうしたんですか?」


 香織は手に大げさな紙袋を持ち、朱に近いピンク色のTシャツとデニムジーンズといった今まで見たこともない軽装だった。言葉が悪いが、今まで見てきた中でとても似合っている。


横に立つつばさも黄色のシャツにギンガムのスキニーパンツだった。手首には俺があげたブレスレットが日を浴びてキラキラと輝いてみえた。その装いに、どことなく女の子らしさを感じた。




「ほら、私の会社、今は夏季休暇中でしょ? だから、ちょっと寄ってみたの」


 平静を装いながら香織は話をしようとしているが、その内容がうまく伝わってこない。休みだから俺の家に寄った理由が、分らなかった。


 暑い玄関先で話をするのも二人に悪いので、家の中に入ってもらうことにした。そして、リビングの汚さに思いだし、少しの間、玄関で待っていてもらった。




 カップ麺のスープの香りが部屋に充満していたので、急いで消臭剤を撒き、扇風機のつまみを「強」にあわせ、さっきまでの俺の心境と同様に、淀んでいた空気を扇風機の風がかき回しはじめた。


だいたい一分半待たせただろうか、俺の慌てぶりを二人は面白そうに眺めていた。




 二人を椅子に座らせて、話を元に戻した。


「それで、今日はどこかに出掛けていたんですか」香織に膝の上に、大事そうに抱えられた大きな紙袋はその土産品なのかも知れないと俺は思った。


「ちょっと、会社にね」と、香織は紙袋をゆらした。よく見ると、それは香織の会社のロゴが入った袋だと、分った。


「それよりも、この間はごめんなさい。それっきりで連絡もしなくて。あのね、仙波さんが、疑ったりしてゴメンって伝えて欲しいって云ってたの」


やや上目使いの大きな黒目を目じりにいくつかの筋を作りながら、許しを乞うように香織は言った。特に謝罪を求めるつもりもないし、それよりも、「犯人が分かったんですか?」そう、知りたかった。




「実は、健太さんが家につばさの着替えを取りに来た日、コンビニに寄らなかった? たぶん、その時の店員が犯人だったの」


「え? そうなんですか」全く覚えのない、気にも留めなかった意外な人物が、いたずら電話の犯人だと知らされた。


「それで、つばさと親しそうにしていた健太さんをみて、私に、その、つばさが男の人といたってことを教えた人なの」


「そう、だったんですか」そこで、突然の女装がバレた経緯が初めて分かった。




 なにがどうしてそうなったのか、俺の知らないところで急展開が巻き起こっていたことに、過去の自分が同じ過ちを犯していた事も思い出した。


「それで、どうしてその店員が電話の犯人だと分ったんですか?」


「リダイヤル!」


「りだいあるー」つばさが復唱した。すこし間違ってるけどな。




「リダイヤル?」


「そう! その人、コンビニの電話から掛けてたみたいで、他の店員さんが店長の携帯に掛けたつもりがリダイヤルしてて、私の携帯に掛かってきたの」


「なるほど」


「たぶん、ポイントカードを作る時に住所やら携帯番号やら書かされたから、そこから目を付けられちゃったのかも」ウカツだったわ、と片足で地面をける素振りをみせ、悪態をみせてしまったことに香織は慌てて反省した。俺は少し笑ってしまった。


「コンプライアンスに違反してますね。その人、どうなったんですか?」


「直接出向いて言ってやったわ。『陰湿な男には興味ないから』って」


「は、はぁ」耳の痛い言葉だ。男なのに女装をしていた俺も、陰湿な男だし。そんな興味のない男の目の前に、どうしてやって来たのだろう。




「あの、それで、今日は?」


「今日って、暇、かな?」香織はよそよそしく俺にこの後の予定を聞いてきた。暇もなにも二人が来ない限り、俺には一切の拘束されるような事由はない。無職状態だ。


「もちろん、です」


「じゃ、じゃあ」香織は言い淀んで、パタリと口を閉ざしてしまった。


「花火いこー!」代わりにつばさが単刀直入に用件を切り出してくれた。


「花火、ですか?」俺は香織に顔を向け訊ねた。確かに、横浜で夏の花火大会が開催されるのは今日だ。初夏の三人で行ったあの場所で、今日も、違った催し方で開かれる。




「無理なら、大丈夫だから」


「いえ、行きます!」間髪いれずに、俺はその申し出を受け入れた。どんな心境の変化なのか、何の説明もないから分らないが、香織が俺を誘ってくれているのだ、みなみさんではなく、健太としての俺を。




「じゃあ、これ着てくれると嬉しいな。あ、つばさが健太さんに着て欲しいって」慌てて手に持った紙袋を、香織は俺の目の前に差し出した。中には清涼な薄水色に染められたペチュニアの浴衣と黒の帯が入っていた。


「俺で、良いんですか。俺なんかで」


「俺なんか、なんていっちゃダメだよ。誰もが必死で生きてるんだから、そう教えてくれたのは健太さんでしょ」そう言われて、少し考える。で、やめた。




 香織がそう思ってくれるなら、特段、俺は否定しないこととした。俺も大切なことを教わったから。香織の傍らで眠たそうにあくびをするつばさをみて、『ありがとな』と心の中でつぶやいた。


 夏の午後、強すぎた日差しも、時間が流れるにつれて弱くなっていくだろう。窓から爽やかな風が吹きこみ、部屋の壁に掛かったカレンダーを捲った。季節に似合わないカラッとした心地のよい風だった。


いや、そんな気がしただけかもしれない。二人を目の前にして気持ちが楽になったのかも。




「あ、それなら俺も渡したい物があったんです」俺は和室の押し入れから、香織の持ってきた全く同じの紙袋を持ってきた。


「実は二人に、と思って、前に買ったんです」


「え? もしかして」香織は察したのか、気恥ずかしそうな笑顔を見せた。花火大会に身に着けていくといえば、『ailecreation』のペチュニアの浴衣と三人の中で相場は決まっていた。






 ビルの陰に溶けこんでは、また夕陽に照らされてと、三人の影がアスファルトの歩道にゆれながら長く伸びる。


 カエルの合唱のようにリズミカルな下駄の地面をたたく音とつばさの笑い声が、高い夏空へと駆けのぼる。


 空に浮かんだ入道雲が、その音を飲み込みさらに大きく膨らんでいく。


 あの雲は、どこかに雨を降らせるのだろうか? その雨は、生命を育む雨になり花を咲かすのだろうか?


 僕は、貴方にとって大切な人になり恋を実らすのだろうか。


 そして君は、僕の人生にとって、かけがえのない大切な宝物となったんだよ。




 君に贈るなら、ペチュニアの花言葉が良い。




ペチュニアの花言葉『あなたと一緒なら心が和らぐ』




fin


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君に贈るなら、ペチュニアの花言葉が良い 月野夜 @tsukino_yoru

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