第2話
「結局、ハナコさんとは何なんだろう?」
がらんどうの教室の黒板、落書きだらけのそこに短いチョークで何やら描きつつ、青年はぽつりと呟いた。
「それを彼女に問うのは、少し意地悪かもね。あなただって、同じようなものなのに」
彼の後ろには、悠然と微笑む少女──四番目の花子さんと仮定されていた──が立っている。もともと上背の高い青年は教壇に上っているものだから、彼女は先程よりもずっと小さく見えた。
青年はしばらく沈黙を貫いた。かりかり、と黒板にチョークを走らせる音だけがやけに大きい。
「海の向こうから来たお兄さんには、わかりづらいことかもしれない。でも、怪異というものは大抵そういう風にして成り立っているの。曖昧で、不安定で、不確実」
青年が
「初めは、単なる噂話かもしれない。はたまた現実で起こった出来事が歪曲されたものかもしれないし、あるいはその地域の催しが外部の者にとって異質と受け取られたが故に広められたのかもしれない。怪異を語る理由なんてどこにでもあって、それは何もなくても、そこに人がいるだけでも生まれるものなの。たった一人の感情が伝播して、肥大して、誰も見たことのない怪異を生み出してしまうことだってある」
あの子もそうかもしれない、と少女は目を伏せた。
「子供たちの噂話。廃校へ探検に来た人たちの憶測や妄想。それらが凝り固まって出来た煮凝りがあの子。あなたが確固たる目的を、花子さんという固有名詞を用いたことで人の形を持ってしまったのかもしれない」
「……俺のせいだって言うのかい」
「うーん、あくまでも推察だよ。わたしには、あの子について語る権利なんてないし……。花子さんについて語れるのは、本物の花子さんだけだと思うから」
「ハナコさんも、君が言う煮凝りかもしれないだろ」
少女は目を瞬かせた。そして、そう解釈するのも悪くないね、と目を伏せたまま微笑を浮かべた。
「ええ、何だって構わないの。怪異は語られて、怖がらせるものだから。起点を探すのは野暮というもの」
「君は怖くないのかい? 自分が何者かわからないかもしれないのに」
青年の声は、僅かに震えを帯びていた。何かに怯えているような口調だった。
少女はくすりと笑ってから、ふるふると首を横に振った。青年には見えていなかっただろうが──きっと、背中で感じ取っていることだろう。
「自分が何者かわかっていても、恐ろしく思うことはあるよ。でも、それも慣れてしまえばどうということはない。だから、わからないことに対して神経質にならずとも、なるようになると思うの」
「……? 君は、怪異ではないのかい?」
背を向けたまま、青年は問いかけ続ける。
「だったら、俺の質問に対する答えや──その姿は、一体どういうことだい? 多少のずれはあるけれど、君はトイレのハナコさんによく似通っている。君もトイレのハナコさんの一部だと、俺は考えていたけれど……まさか、違うのかい?」
「当たりで外れ」
矛盾だよ、と青年は抗議した。掴み所のない少女の言葉は、
彼が後ろで顔をしかめていることに気付いているのだろうか、少女は麗らかに告げた。
「間違いを恐れるのはあまりおすすめしないかな、お兄さん。世の中は、ひとつしか答えがない問いだけじゃない。わたしはトイレの花子さんの一部だけれど、自分が何者なのかを知っている。……その起点がわからないだけ」
「起点を知らなくて、自分が何者なのかとはっきり言えるのかい?」
「ええ。だって、少し前まで、この辺りの人たちはわたしのことを決まって同じように呼んだのだもの」
わからなくてもそういうことになってしまうよ。少女は少し──ほんの少し、諦めたような口振りで言う。
「お兄さんの故郷では、あり得ないことかもしれないけどね。ここでは、色々なものに神様が宿っていると信じられている。自然、人工物、精神、目には見えないところ」
「……神道かい?」
「人々はそう呼んでいるらしいね。──いつの間にか、わたしはお手洗いにいる神様ってことになっていた」
同じような神様はいるけれど、と少女はあっけらかんと言い放つ。
「もともとは別のものを
「神様──なのかい、君は。だったらヤシロに祀られていても良いじゃないか」
「良いの。厠神はお手洗いにいるのが普通だから、お花を飾ってくれるくらいで十分。……それに、この辺りに住んでいた人たちは皆ここを離れてしまったから。わたしにはわたしなりの在り方があるの」
その結果、花子さんって存在に呼応しちゃった訳だけど──と少女は気恥ずかしそうに頬を掻く。
青年はいてもたってもいられなくて、少女に向き直った。その顔はくしゃくしゃで、今にも泣き出しそうな危うさを
「俺は、俺たちはどうすれば良い? どう在るのが最善なんだ? 俺はただ、ニホンの怪異について知りたいだけだったのに。どうしてこんな話を聞かなくちゃならない?」
「大丈夫。ここに来たのは正解ではなかったかもしれないけれど、決して間違いじゃない」
「どうしてそんなことが言えるんだい? 知っていても忘れる恐怖があり、知らなければ自らを知りたいという不安に
「……お兄さんは、すごく人間に近いね。きっと、人の思いを受けて生まれたんでしょう。それはきっと、あなたの在り方の根幹」
それがあなたの物語なの。
少女は優しく、それでいてはっきりと断定した。
「わたしたちは何物でもなく、何物にもなれる存在。個であり、集合体でもある。それゆえ語られ、どこへでも行ける。──あなたがまさにそう。もともとはただの落書きでしかなかったのでしょう、あなたは。それが、いつの間にか都市伝説のように扱われた。それゆえに、あなたは人のような姿でここに立っている」
「俺はミームだ。怪異とは違う」
「似たようなものだよ。だからこそ、自分が何者か確かめるために、確固とした形を持つかもしれない『わたしたち』を訪ねた」
「でも、根本的な解決にはならなかった。むしろ悪化したよ」
「そうかもね。外から付与される情報は、いつでもわたしたちを振り回す。わたしも何回か名前を変えられた時は混乱したなあ」
そう言いながら、少女はどことなく嬉しそうだった。きっと、彼女は人が好きなのだ。
「あなたも足跡を残せば良い。それを見て喜ぶ人もいれば驚く人もいるでしょうし、時には怖がる人もいるかもしれない。わたしたちに法は通じないのだから、あなたの良心が咎めない程度に好き勝手やれば良いの」
「滅茶苦茶言うなあ。君、本当に俺と初対面かい? わかってて言ってないだろうね」
「ええ、初対面。だから名前も知らない。わたしは海の向こうの言葉がわからないから、あなたが何を残しても読み取れないの」
だから教えて、と少女は頼んだ。上目使いだが、媚びる気配は微塵もなかった。
随分な先輩に目を付けられたものだ、と青年は内心で嘆く。彼が語られ始めたのはごく最近──とは言っても、花子さんよりは少し歳上だ──である。短期間で名前を得た怪異がどのようなものかと見に来てみれば、一回りどころではない程年季の入ったモノに出会ってしまった。
まあ、自分が何者かわからないのが怖い、という悩みは少し、ほんの少し和らいだ気がしないでもないが──決着は自分で付けろということだろう。
青年はすう、と息を吸い込んだ。そして、はにかみながら大きな鼻の下を擦った。
「俺はキルロイ。──キルロイ参上、ってね」
黒板には、大きな鼻をした何者かが、塀の外側からこちらを見つめる落書きが描かれてあった。
トイレの花子さんたち 硯哀爾 @Southerndwarf
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