裏切り者

惟風

裏切り者


 キッチンでヤカンがシュンシュンと湯気をあげ、十分に沸騰していることを知らせている。


 スマホの画面には神経質な義母からの着信が表示され、ブブブブとテーブル上で震えている。


 ベビー布団に寝かせている娘の沙綾さあやが、顔を真っ赤にしてギャンギャンと泣いている。


 そして、インターホンが鳴った。



 空腹で頭が回らない。何を優先して動けば良いの。

 私は朝からほとんど何も食べていなくて、生後三ヶ月の沙綾が昼寝をしている隙に買い置きのカップ麺を食べようとお湯を沸かしていたところだった。

 生まれた瞬間からよく泣き、睡眠が浅く、抱っこされていないと不機嫌になる娘と日中は二人きりの生活。覚悟はしていたけれど、やはり愛情だけでは中々辛いものがある。

 昼夜の無い授乳に睡眠時間と体力を奪われて、もうヘトヘトだ。

 楽しみと言えば、食べることくらいしかない。たとえ健康的ではないと言われようと、今、食べたいものを食べるのだ。

 確固たる思いを胸に、非常食用の戸棚から豚骨味のカップ麺を出し、食卓に箸と共に置いてある。

 それを恨めしい気持ちで見つめた後、様々な種類の音にうんざりしながら、先ずガスの火を止め、沙綾の掛け布団をめくった。電話は無視することにした。二度とかけてこなくても良いくらいだ。

 オムツにくっきりと浮かんだ線と、微かな臭いで不機嫌の原因がすぐにわかる。

 インターホンがまた鳴ったが、それも聞こえないフリをした。大事な用事なら再訪するかメモを入れるかするだろう。

 ハイハイ気持ち悪かったね、と努めて優しい声で娘に話しかけながら、淀みなく新しい紙オムツに交換する。それでも沙綾の機嫌は戻らず、腱鞘炎気味の手で抱き上げた。

 気持ち良く寝ていたところを生理現象の不快さで起きてしまったのだから、そりゃ怒りもするよねえ、とぼうっとする頭でどこか他人事のように考える。

 リビングを歩きながら一定のリズムで揺らしていると、やっと落ち着いてくれた。

 いつの間にか、スマホの着信は切れていた。

 インターホンのモニターを覗くともうそこには誰も映っていなかった。

 壁の時計を見る。時刻は15時を回ったところだった。長い時間に思えたが、一連の喧騒が同時に起こって止むまで、ほんの数分しか経っていなかった。

 と、再びスマホが振動した。今度は短く震えて止まった。

 見ると、夫からのLINEだった。

『母さんが、沙知子が電話に出ないってよー?寝てんの?あんまり母さんに心配かけないでね。』

 画面を数秒見つめて、ソファに放り投げた。

 すっかりご機嫌になった沙綾を抱きながら、ふふふ、と笑った。笑ったそばから、頬を温いものが伝った。それはつつつと顎まで滑っていき、あっという間にぽたぽたと私の足元を濡らした。

 滲んだリビングの景色と娘の顔を見ながら、私は尚も笑った。うふふ、ははは、あはあは。

 沙綾をベビー布団に降ろす。抱っこを打ち切られた不満を全身で表現する娘を背中に感じながら、浴室に駆け込んだ。

 浴槽の残り湯に頭を突っ込んで、力の限り叫んだ。

 声にならない声はゴボゴボと空気と一緒に口から勢い良く漏れていく。

 そうして、ようやく、自分を取り戻した気になって、タオルの柔らかさに感謝しながら沙綾の元に戻った。

 もう一度あやすのは案外早く済んだ。テレビの子供向け番組の録画を流して気を逸している間に、私はカップ麺へのリベンジをはかった。

 お湯を注いで待つ間、沙綾がテレビに飽きてぐずらないかとヒヤヒヤしたが、杞憂だった。画面の着ぐるみや歌のお姉さんの動きをジッと見つめている。

 慌ただしくはあるが、久しぶりに椅子に座って食べるカップ麺は絶品だった。

 古い育児知識で上から物を言う過干渉な義母や、どこか当事者意識に欠けている夫よりも、このカップ麺の方がずっと私の心を支えてくれる。

 お腹が落ち着いてくると、自分の身の回りのものに感謝する余裕が出て来た。

 的確に子供の気を引いてくれる教育番組、安全性の考えられたカラフルなオモチャ、計量の楽なキューブ型の粉ミルク。今は市販の離乳食が充実しているって聞くし、親子で遊べる知育アプリもオススメをネットで見た。もっとしっかり首が座ったら、抱っこ紐で沢山お散歩しよう。

 たとえ身内が頼りないとしても、現代日本の育児グッズは心強い私の味方だ。

 ベビー布団の方に目をやる。布団のそばに、開封済みの紙オムツの袋が置いてある。昨日、ドラッグストアで夫が安売りしていたのを購入してくれたものだ。「モレずに安心」と大きく印字されている。

 昔は布オムツをいちいち手洗いしていたそうだけど、今は安心の吸水性をうたう紙オムツが手頃な価格で手に入る。

 私は一人じゃない。

 義母はムカつくが無視すれば良い。夫は能天気なだけで、頼めばこうしてオムツも買ってきてくれるじゃないか。帰宅したらもう少し話し合おう。“話し合い”で済めば良いけど。

 とにかく、悲観しすぎないようにしなければ。

 カップ麺のスープを飲み干したところで、沙綾がまたふえふえと泣き出した。

 そろそろ沙綾もお腹が空いたかな、それともまた眠くなってきたかな、と思って抱き上げると、オムツの隙間からオシッコが盛大に漏れて私の腕にかかった。


「この裏切り者!!」


 私はオムツのパッケージを盛大に蹴飛ばした。










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裏切り者 惟風 @ifuw

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