第3章 『幸福』
朝食を取り終えた男は中年男性たちにら案内され、例の“お父さん”の家に向かった。
男はもはやどうなっても構わないという心持ちになっており、彼が怪しい団体のボスだろうが悪質な教祖だろうがどうでもよかった。
彼の家は村で1番高い丘の上にあり、いかにも見晴らしが良さそうであった。
インターホンを押すとお父さんはすぐに出てきた。
彼は男の顔を見るとパッと笑顔になり、すぐにリビングへ上がらせた。
男をここへ案内してくれた中年男性は、先程の建物へと戻っていく。
「ようこそいらっしゃいました。お茶でも出しますので、どうぞお掛けください」
彼は朗らかな笑顔を向けてそう言った。
男と2人きりになった途端、明らかに表情が柔らかくなったように見える。
その顔を見て、男はハッとした。
彼はこの村にいる他の者たちとは違う。
何の根拠もない直感であったが、男にはそれが紛う事なき事実であるという確信があった。
お父さんはまもなく湯呑みを2つ持って戻ってきた。
2人はダイニングテーブルを挟んで向かい合い、静かに緑茶を喉に流し込む。
「驚かれたでしょう」
お父さんが唐突にそう言った。
男は一瞬、どれのことだろうと悩んだ。
「まあ驚くのも無理ないでしょう。なんせ同じ人間が何人もいるのを目の当たりにしたんですから」
どうやら予想通りだと分かり、男は何故か身構えた。
他の住民たちと同一人物に違いないのだが、何故か1人だけ年老いていて、人々が“神のような存在”と敬うのは、彼が特別だからなのだろう。
「……あなたは何者なんですか?そしてここは一体何なんですか?」
お父さんはその質問には答えず、お茶を啜ったあとにこう呟いた。
「私としたことが、お名前を窺っていませんでしたね。私は佐藤と申します。あなたは?」
男は質問に答えてもらえなかったことを不審に思ったが、彼が自分と同じ姓を持っていることに驚いた男は、思わず自身の名字も佐藤であることを告げた。
そういえば今まで意識していなかったが、ここに来てから名前を聞いてきたのは彼が初めてだった。
「…佐藤さん。あなたはここに来てどんな印象をもたれましたか?」
「印象と言われましても…。何が何だか分からないとしか言えません」
「いえ、『なぜ同じ人間が何人もいるのか』とか、『なぜ私だけ歳を取っているのか』とか、『そもそもこの村は何なのか』といった疑問は、一旦頭の端のほうに寄せておいてください。私が聞きたいのは、彼らを見てどういう印象を持ったか、ということです」
そんなことを言われても、と正直思ってしまった。
しかし彼の声を聞くと、なんだか従わなければならないような気がして、男はここに来てからのことを思い返した。
どういうわけか、彼になら何でも話せる気がする。
「……正直、羨ましいと思いました」
「ほう、それは何故?」
男は黙って思考を整理する。
彼はその様子を穏やかな顔でお茶を啜りながら見ていた。
「実は言うと、ここに来る前に私は死のうとしていたのです。でも目覚めたら何故かここにいました。死のうと思ったのは、なんとなく生きているのが嫌になったからです」
「ふむ、何故生きているのが嫌になったのかな?」
「“多様性”という言葉を盾に各々で好き勝手に生きている人々と、それに比べて大して恵まれてもおらず、平々凡々な人生を歩んでいる自分に嫌気がさしたんです。そして私は日常的に、『誰しもが同じ人生を歩むよう誰かがプログラミングしてくれれば、こんな気持ちにならずに済むんだ』と考えていました。そんな私にとって、ここにいる彼らはすごく理想的に見えたんです」
「へえ、どんなところが?」
「全員が平等で、争いや妬み嫉みとは無縁で、余計なことは考えずに周囲に紛れて生きていくことができるからです。ここの環境はまさに私の理想なんですよ。どうせこれまで生きてきた世界に未練なんてありませんし、」
男は思わず夢中になって話してしまった。
こんな話を人にしたのは初めてだし、ここまで包み隠さずに自分の本音を伝えてしまったことが急に恥ずかしくなった。
「なに、恥ずかしがることはありませんよ。あなたのお気持ち、よく分かります」
彼は男の心を読み取ったかのようなことを言い、笑顔で頷いた。
その顔を見ると、男はなんだか安心した。
「あなたが今おっしゃったようなことを、私も昔に考えていたことがあるんです」
彼は遠い目をしてそう言うと、絵本の読み聞かせの様なトーンで語り始めた。
・・・・・・・・・・
―――彼は20年ほど前、商店街の一角で働く妻子持ちだったという。
しかしある時、妻と子育ての考え方の違いで口論になり、子供がまだ小学生だった頃に離婚してしまったとのことだ。
最愛の子供は妻のほうに引き取られてしまったという。
そして妻の実家の家業で収入を得ていた彼は、妻子や自宅と共に職まで失ってしまった。
住まいは離婚前に1ルームのアパートを借りたため何とかなったものの、当時30代半ばだった彼が新たに職を見つけるのは難しく、しばらくはアルバイトなどをして食いつないでいたらしい。
元々貯金も少なかったため、毎日生きるのに必死だったそうだ。
バイト先と自宅を往復し、時々ハローワークに行って就職先を模索するだけの日々に、彼はだんだん嫌気がさしていった。
しかし辛いのはそれだけではない。
30代半ばのバツイチで一人暮らし、そして定職に就かずに派遣のバイトでその日暮らしをしている彼に対し、世間の風当たりは厳しいものだったという。
当時の彼は自分が世界の最底辺なのではないかと錯覚してしまい、周囲の幸せそうな人々と自分とのギャップに苦しんでいたそうだ。
そして間もなく、彼は自殺を試みた。
次に生まれ変わった時は全人類が平等で、他者との差を実感せずに生きていける世界で生きていければいいなと願いながら。
そして目が覚めると、彼はこの家で寝ていた。
窓の外を見ると見覚えのない村で、人っ子1人いなかったという。
起き上がって家の中を探索すると、奥の部屋に集合住宅の浴槽ぐらいの大きさの水槽があり、そこには水のような透明な液体がいっぱいに入っていた。
彼がその液体を眺めていると、ふいに自分の髪の毛が1本抜けて、その水槽にぽとんと落ちてしまった。
するとその水槽内で髪の毛がみるみる膨張し、ものの5分程度で成人男性ぐらいの大きさの人間になったのだそうだ。
そして水槽から出てきた人間の顔を見ると、それは紛れもなく自分だったという。その人間はその時彼が着ていた上下灰色のスウェットを着ていた。
それを見た瞬間、彼はここなら理想の世界を作り上げられると思ったのだ。
彼は自分の髪の毛を抜けるだけ抜いてその水槽に入れ、自分とまったく同じ人間を量産した。
そして彼らにこの村で生活をさせ、自分もそこに住むことで理想の世界を作り上げたのだ。
格差も争いもない、個性のない村を―――。
・・・・・・・・・・
お父さんは話し終えると、もうすっかり冷めてしまった緑茶を啜った。
彼の話は常軌を逸していたが、男はそれ以上にある1つの予感を胸に抱いていた。
男はそれをいち早く伝えたかったが、彼は再び話し始めた。
「私はこの村こそが自分の理想だと信じていました。まさしく今のあなたのようにね。でも、個性という概念がなくなったこの村で何年も過ごして初めて、私は元の世界の価値を知ったんです」
「元の世界の価値?あなたはそれに絶望して自殺を図ったんじゃないんですか?」
「たしかにここは平和です。他人と自分を比較して悩むこともないし、世間体を気にする必要もないし、同じ人間しかいないから争い起こらないし、自己嫌悪という概念すらない。でも、それだけなんです。ここには、世界に個性があることで生まれる彩が存在しないんです」
「個性があることで生まれる彩?そんなもの、我々のような人間を苦しめるだけの…」
「あなた、本は読まれますか?映画やドラマは見ますか?音楽は聴きますか?ゲームで遊びますか?これらは全て、人間の個性が生んだ産物です。それだけじゃありません。友人関係、恋愛関係、先輩後輩関係など、人生の柱とも呼べる人間関係は個性があるが故に生まれたものです。現にここに住んでいる彼らは、別に仲良くしているわけじゃないんです。だって同じ人間なんですから、話をしたって何の盛り上がりもないでしょう?」
男はあの中年男性たちの様子を思い返した。
確かに彼らは食堂でも雑談などはしていなかった気がする。
会話はしていたものの、これといって楽しんでいる様子はなかった。
それよりも彼らは自分たちとは違う人間である男に興味を示し、輝いた目でたくさんのことを質問し、男の話に耳を傾けていた。
「食堂での彼らの様子を見て驚きましたよ。あなたを囲んでいる彼らは、今まで見たことがないくらい充足感に溢れた顔をしていました。私はそこで思い出したんです。人間は社会的な生き物であると。彼らにとってこの村の常識は覆りませんが、生物的な本能には逆らえなかったんでしょうね。本能に従った結果、あなたという他者に魅力を感じたんです」
お父さんは天井を見上げてため息をついた。
僅かに見える瞳には、後悔の色が宿っている。
「佐藤さん。我々が地獄だと思っていたあの“多様性”で溢れた世界は、実は幸せな場所だったんですよ。この村をこんな世界に仕立て上げた私は間違っていたんです。彼らには悪いことをしました。彼らはきっと、あなたという他者と出会えてようやく幸せを感じたのです。自分の知らない世界を知って、ようやく満たされたのです」
男はハッとした。
この村に来て1番幸せを感じた瞬間を思い出したのだ。
それはこの村が自分の理想だと感じた時でも、中年男性たちに労われた時でもなかった。
「お父さん。あなたは悪くありません。ここの人たちは確かにこの村の常識しか知りませんが、私が来なくなって彼らは他者の存在を感じていたはずですよ」
「そんなことは…。だって彼らは私と同一人物なんですよ?原理は分かりませんが、私の髪の毛、つまり私の細胞から生まれたんですから」
「ええ、それはそうなのですが、彼らは間違いなくあなたを“特別な存在”と認知していました。だって彼らにとって、あなたはお父さんなんですから」
「そ、それは私が勝手に呼ばせているだけで…。彼らが私と同一人物であることに変わりはありません」
「そのちょっとした違いが、彼らがあなたを特別慕っている理由なのです。彼らは私の前でわざわざあなたを話題に上げて、神のような存在とまで言っていたんですよ?」
「か、彼らがそんなことを…」
お父さんは信じられないといった表情で目を大きく見開いていた。
そんな彼に対し、男は自信を持ってこう言った。
「それに、この村の存在意義はまだあります。それは、私に幸福を与えてくれたことです。私は彼らと話した時、久しぶりの新鮮さと充足感を覚えました。彼らが自分に興味を持って接してくれたことが、本当に嬉しかったんです」
これは嘘偽りない真実であった。
お父さんはポカンと口を開け、目にはまだ涙が溜まっていた。
「それにもうひとつ、嬉しかったことがあるんです」
「もうひとつ…?」
「ええ、それはお父さんに会えたことです」
「いやいや、私なんて大した人間じゃないよ」
「いいえ、ここの住人が言うお父さんとは違います。あなたは私のお父さんでしょう?」
お父さんは開いた口が塞がらないといった顔で、男の目を見ていた。
男はそんな彼に対し、自分の下の名前を伝えた。
昔母親から聞いた話なのだが、男に名前を付けたのは父親だったらしい。
お父さんは男の名前を聞いた途端、目に溜めていた涙を一気に零した。
「あなたやここの住民たちを一目見た時に感じた懐かしさと、先程の話を聞いて確信しました。なんせ会うのは20年以上ぶりで始めは気が付きませんでしたよ。お父さん、久しぶり」
男は随分と歳を取った父親を優しく抱きしめた。
お父さんは声を殺して泣いている。
「さあお父さん、もっといろいろな話をしましょう。そしてここの住民たちに、いろんなことを教えてあげましょう」
お父さんは優しく頷いた。
男は生きているという実感を噛み締めつつ、彼の背中をさすった。
・・・・・・・・・・
ピッ、ピッ、ピッ、ピ―――――。
「23時35分、ご臨終です」
「発見されたときはまだ息があったようですが、やはり手遅れでしたね…」
「ああ。でもほら、彼の顔を見てごらんなさい」
「あら、なんだか幸せそう」
「うむ。こうなってしまったのは残念だが、おそらく彼にとってはこれが幸せだったんだよ」
『個性のない村』 完
個性のない村 樋口偽善 @Higuchi_GZN
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