低頭族

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「あー、なるほどね、うまく言うもんだ」

 俺はテレビ番組の解説に頷いていた。中国語圏ではいつもスマホを見ている連中を「低頭族」と言うらしい。何故か日本では流行っていない言葉だが、漢字圏ならではの言い得て妙という感じだ。「低頭族」というと、ちょっと侮蔑した感じがするが、俺はそうは思っていない。まあ、新聞や雑誌がスマホに代わっただけと思っている。これも時代の流れだ。本人が良ければとやかく言う必要は無い。

 ただ、低頭族は静かに増殖してきた。散歩をしていると、前からくる若者は低頭族、右から来るおっさんも低頭族、左から来る中学生も低頭族だ。いきおい、いつも俺が避けて歩くことになる。なんだか不公平だが、けんか売ってもアホらしい。

 そんな程度に思ってやり過ごしていたが、その後、低頭族はじわじわと俺の生活にも影響を与えていく事になる。


 通勤でいつものように電車に乗っていた。でも何かが違う。適当に混んでいて、みんなスマホを見ていて、寝てるやつもいて、吊広告が並んでいて・・・・・・。待てよ、広告がなんだか少ない。ところどころ空きになっている。都心の通勤電車にしては珍しい。景気が悪いせいだろうか。

 駅から会社に向かう途中も、電車の中の事が気になっていた。小心者の俺は、自分がリストラされるんでは、などど早くも現実的な事として考え始めていた。見渡せば、この辺りの野外広告も少し減ったような気がする。

「広告も求む 03-XXXX-XXXX」

 が目に付く。

 会社への人の流れはいつも通りだった。別に少なくなっている訳ではない。みんなスマホを見ながら、足早に会社に向かっている。会社もいつも通りだった。忙しく仕事をこなしながら、少し安心した。


  一ヶ月くらいが過ぎてからだろうか。いつものように通勤電車に乗ると、さらに広告は減っていた。頭上の広告は数えるくらいしかない。これは明らかな変化だ。会社へ向かう途中の野外広告もさらに減った。というかほとんど見かけなくなった。俺は本気で心配し始めた。

「大不況が迫っているのかもしれない」

 しかし、間もなくこれが杞憂だった事が分かる。それは電車の中だった。つり革に掴まりながらなにげなく足元を見ると、そこに広告があった。いつもなら頭上にあるはずの広告が床面に描かれているのだ。他の乗客の足が邪魔になって断片的にしか見えないが、これは広告だ。見渡せば、床の所々に広告が描かれている。

「あれ、どうして今まで気が付かなかったんだろう」

 もしや、と思って駅から会社に行く途中の歩道の路面を注意して見てみた。予想通りだった。路面には点々と広告が現れた。俺の「大不況」の心配は霧散していった。

「なあんだ、広告あるじゃん。場所が上から下に変わっただけ」

 納得して安心したが、でも、なんでこんな事になっているのか。その答えにもほどなく気付く。

「低頭族だ」

 低頭族はほとんど前を見ない。下ばかり見ている。だから広告のスポンサーも宣伝効果を上げるために、広告を床や路面に展開し始めたのだ。


 そこからはもう時間は掛からなかった。広告の「移動」は加速して行き、もう電車もバスも屋外も目線より上には一切の広告が無くなった。皆、床面・路面に描かれている。景観上は、これはこれで頭上がすっきりしていい。広告群から「見下ろされている」感覚も無い。

「床や路面では汚れるので保守が大変だろう」

 俺は起きている異様な事態の本質とは関係無いことを思った。「本質」に対しては「思考停止」がせいいっぱいのなしうる防御策だった。


 そんなある日、やはり通勤途中で俺はちょっと衝撃的な光景を目の当たりにした。家から駅に向かう途中の横断歩道の信号機が無くなっていたのだ。いつもなら、横断歩道を挟んだ正面に、赤と青の歩行者用信号機がある。これが撤去されていたのだ。車の多い通りなので、信号が無いとなかなか渡れない。俺が躊躇していると、後ろから来た「低頭族」の一団は左右の確認もせずにさっさと渡り始めた。

「あっ、あっ、危ない」

 そう言いかけたが、よく見ると車は来ていない。

「前も見ずに良く分かるものだ」

 俺は変に感心して、後について渡ろうとした時、後ろに続いていた低頭族の一群は車道の手前で一斉にピタッと立ち止まった。俺だけが車道に何歩か踏み出していた。

「えっ」

 刹那、俺の目の前を車が次々と猛スピードで通過して行った。俺は大慌てて後ずさりした。

「ああ、寿命が縮まったよ。まあ、いいや。この連中が歩き始めたら、直ぐに付いていこう。それなら安全だ」

 とりあえず、会社に行かなければならない。慌てて落としてしまった鞄を拾おうとした時、やっと何が起きていたのかを理解した。信号機が足元に埋設されていたのだ。俺のように前を見て歩いていてはこれに気付くはずはない。一方、低頭族なら直ぐに分かる。


 変化は広告や信号機に留まらなかった。スーパーのレジでは、金額の表示は床面或いは下方に移動していた。いちいち下を見なくてはならず不便だ。一方、面白い変化も起きていた。いつもの食堂に行った時だった。これまたいつもの定食を頼むと、ストローが付いてきた。もちろん普段は付いてこない。

「あれっ」

 俺は店員が間違えたと思い、ストローを返そうとした。店員は言った。

「スマホを見ながら味噌汁を飲みたいというお客さんが増えたんですよ。だからストローを付けています」

 なるほど。これなら顔を上げずに味噌汁が飲める。居酒屋ではもっと面白い光景が生まれていた。お客は、日本酒、チューハイ、ウィスキー、ビールなど、どれもこれもストローで飲んでいるのだ。もちろん、脇に置いたスマホをいじりながら。俺は他人事ながら思った。

「日本酒くらいなら分かるけど、ビールをストローはちょっと」


 久しぶりに水族館に行った時も驚いた、というか不可解だった。水槽の説明文が床面にあるのだ。これはなんだか良く分からない。というのも、低頭族のお客さんがいつも下を見ているから説明文を下にしたと思うのだが、水槽は正面だ。結局両方見るという事だろうか。それとも説明だけ読んで水槽は見ないのだろうか。

 後日、水族館はこの矛盾とも言える状態を正面から解決して見せた。全ての水槽を床面に埋めたのだ。つまり、お客さんは常に水槽の上を歩く。これなら低頭族でも説明文と水槽を同時に見られる。ただし、いつもお魚の背中だけを鑑賞する事になるが。


 俺にとってはなんだか世の中が段々と不便になって行くように思えたが、低頭族に「最適化」されていく社会を歓迎する人達もいた。例えば視覚障害者だ。一見無関係に思えるが、俺は説明を聞いてなるほどと唸ってしまった。視覚障害者用のタイルというものがある。凸凹の造りになっていて、視覚障害者はこれを辿って歩くことが出来る。「先進的」な低頭族達は、このタイルを使い始めた。つまり、前を見ていなくてもこのタイルを辿れば歩ける。

 視覚障害者を数で遥かに凌駕する低頭族は、自治体や社会に無言の圧力をかけ、視覚障害者用のタイルは急速に増えていった。視覚障害者と低頭族が同じタイル上で出くわす事もあったが、タイルの絶対数が飛躍的に増加した事の方が視覚障害者にとっては遥かに大きなメリットだった。


 Jリーグのスタジアムは熱気を帯びていた。満席のスタンドではファン達が選手のプレーを追っていた。スマホで。

 スタジアムも低頭族対応サービスを編み出していた。ヘッドセットカメラの貸し出しだ。観客は、予め指定のアプリをスマホにインストし、現地でヘッドセットカメラを借り受ける。これにより、下を向いていてもカメラはフィールドを映し出せる。もちろん頭を動かせばカメラを自分で好きな方向、好きな選手に向けられる。一方、カメラで撮影した映像はスタジアムのWi-Fiを通してスマホの片隅に表示させる事が出来る。ファン達はスマホをいじくりながら、でもプレーを観戦できるという訳だ。


 スタジアムのアイデアを拝借したのが旅行業界だ。旅行者にヘッドセットを貸与して、旅行を楽しんでもらった。これすれば、例えば観光バスに乗ってずっとスマホをいじっていても、ちゃんと車窓の風景をスマホの片隅に映し出すことが出来る。これは好評だった。

 現地では、目印の旗とメガホンを持った案内係が、お決まりの調子でしゃべっていた。

「右に見えますのは〇〇寺、左に見えますのは△△神社でございまーす」

 後ろをぞろぞろと付いていく一団はずっと下を向いたままだが、彼らのヘッドセットカメラはちゃんと言われた方角を捕らえ、手元のスマホに映し出している。皆、ゲームやSNS、株価のチェックなんかをしながら観光できるので、このガイドツアーはひときわ人気が高い。

 このサービスには、録画機能も付いていた。利用者は家に帰ってから、現地で「スマホを通して見た画像」と全く同じ画像を「スマホを通して」見る事ができる。なんとありがたいサービスだろう。


 スマホの製造業者も低頭族対応製品を発売した。このところ伸び悩んでいる出荷数を挽回する戦略的な製品だ。名付けて「サンカメ」。三箇所にカメラを搭載しているから、サンカメという。普通はカメラは画面側と反対側の二箇所にある。しかし、サンカメは、その間にもう一つのカメラを装備した。スマホの「厚み」の部分だ。なので、スマホを普通に手に持った状態では、カメラは正面斜め上を向くことになる。どのように使うかと言うと、友人と会って話しをするとき、スマホから目を離さず、下を向いたままでその友人を自分のスマホ画面に表示できる。要するにテレビ会議のような感じだ。目の前の相手の画像をカメラで、音声は直接と言う訳だ。これにより、友人同士、恋人同士は、会った時にお互いスマホをいじくりながら、でも相手を画面で見ながら話ができる。

 街ではこの機能を使った会話が至る所で見られるようになった。カップルは、カフェのテーブルでずっとスマホをいじりながら会話を楽しんでいた。いじらしい光景である。

 コンビ二でも活用された。店員と顔を合わせることなく、終始下を向いて、でも店員をちゃんと見ながら買い物が出来た。宅配の受け取りなんかにも便利だ。

 サンカメは大ヒット商品となり、製造が追いつかない状態が長く続いた。なお、このメーカーは海外にも進出しているが、海外ではさっぱり売れない。今のところ、原因は不明だ。


 ほとんどの人が低頭族となりつつあった頃、さらなる技術革新が起きた。例えば信号機だ。信号機が路面に埋められた時にはいささかショックを受けたが、まあ、分かっていれば下を見れば済む事なので日常生活に支障は無い。しかし、この信号がスマホに表示されるようになったのだ。つまり、もはや横断歩道には「信号機」なるものは無かった。信号を見たければ、スマホに信号アプリをインストしなければならない。いきおい、街を歩く時はスマホを四六時中持って頻繁に見る事になる。

 スーパーのレジでも、下方への表示は廃止された。その代わり、そのお客のスマホに合計金額などが表示される。

 実質上ほとんど全ての人がスマホを携帯するようになった今日、国や自治体、そして業界も経費削減のためにこのような施策を次々と打ち出していた。ここまでは「スマホを常時携帯している」が前提の社会になりつつあった訳だが、この技術革新で「スマホを常時見ている」を前提とした社会に移行しようとしていた。まさに社会が低頭族に「最適化」しつつあった。


 そんな風に社会が遷移して行く中で、俺は低頭族の一員となっても良い気になってきた。いや、既にもう半分は低頭族になっていたのだから、この技術革新に背中を押された格好だ。ここまで社会が変革してくると、迎合してしまった方が楽チンだ。実際、日々の生活は快適でスムーズになる。まあ、時代の流れだ。そして俺は低頭族の仲間入りをした。


 いつもの駅からは人の集団が脈を打つように断続的に押し出されてくる。職場へ向かう人々だ。俺もその中にいる。さて、どこにいるのか分かるだろうか。そのダークスーツの人? 後ろの青いジャケットの若者? 探せないでしょう。それはそうだ。この集団を横から見ても、上から見ても、通り過ぎて行く何百人もの人々の「顔」は誰一人として見えない。見えているのは頭の後ろと背中だけだ。でも、俺は確かにその中の一人だ。


「顔の無い群れ」は、ゆっくりと流れていた。その足元では「サンカメ」の広告が最新機種の発売を知らせていた。

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