夏子
武市真広
夏子
上田夏子は風聞の絶えない女だった。私の一つ上の先輩にあたるこの女学生は、無口で不愛想な性格のために噂が噂を呼んだのである。数々の噂に関して彼女は肯定も否定もしなかった。
他の生徒たちが彼女に疑惑の目を向けるのが私には耐えられなかった。彼女は決してそんな人間ではないと何度も心の中で反論した。面と向かってそれを言えなかったのは、否定するだけの根拠を持ち合わせていなかったからだが、それ以上に自分の好意が露見することを恐れたからだ。私は臆病な男だった。
放課後になると私はいつも真っ直ぐ部室に向かった。夏子は決まって私より先に部室にいる。そして決まって何かしら本を読んでいるのだ。毎日変わらずそこにいるという安心感と来たら! 彼女は明日も明後日も私が来ると同じように椅子に座って本を読んでいるだろう。そして、愛想笑いを浮かべて「今日も早いのね」と言うのだ。
私はみっともなくはにかんだ。もし相手が同じクラスメイトであったならば、プライドのために私は決してそんな顔はしないだろう。だが、夏子が目の前にいると、プライドや意地で心に鎧を着せたところで、何の意味もなさないように思われた。彼女の両の目に全てを見透かされてしまうだろう。
初めて夏子と出会った時もこの部室だった。初めて顔を合わせた時、私は彼女を心底恐れた。感情の乏しいその顔は、しかし、無言のうちに私に告げていたのだ。「貴方の心なんて私にはちゃんとお見通しなのよ」と。つまらないプライドで自分を守った気でいた自分はすっかり自信を失った。もしかすると他の者も私の心の内を見透かしているのではないかと恐れた。
恐怖がどういう経緯で夏子への好意に転じたのだろう。無表情──それが彼女の同級生には不愛想に映った──の内に彼女が何を考えているのか読み取ろうとする試みは早々に挫けた。私は余計な気を回すことで己が疲れることを馬鹿げたことだと思っていたし、また夏子もそうした気遣いを嫌というほど受けて来たらしく、決して好まなかった。私は彼女と自然に接するようにした。
夏子と出会って一年が経った夏のある日のことだ。
「貴方、今日は何か予定があるの?」
部室に来て早々に夏子は私に訊ねた。
「……今日は特にありませんね」
私は嘘を吐いた。夜から行きたくない予備校の授業があったのだ。
「じゃあまた一緒に帰らない?」
「良いですよ」
私は即答した。そして頭の中で予備校にいるべき時間をどうやって潰すか思案した。
部活──といっても部員は私と夏子の二人しかいないのだが──は、ただ狭い部室の中で本を読むだけだった。顧問がいるわけでもなく、ただ単に使われていない物置部屋を勝手に占領して部活と称しているに過ぎない。ここが私と彼女を繋ぐ唯一の接点だった。
この日もお互い本を読んであまり言葉も交わすことなく、一七時の下校のチャイムが鳴ってから、私と夏子は学校を後にした。
駅のホームに着いた時に人目を確認する癖が今ではすっかり身についていた。誰かがこちらを見てこそこそ話している姿が見えたら、たとえ夏子自身が気づいていなくても場所を変えた。
今日は幸いにもそうした人影は見えず、駅のホームには私と夏子しかいなかった。西日が街を赤く染めている。ビルも道路もみな等しく赤々とした色に染め上げられている。私たちもそうしたものの一つになりたいと思った。
やがてホームに電車が静かに滑り込んできた。人工物の象徴たる電車は、陽の光などまるで意に介さないように決まった時間通りに停まる。私にはそれがやけに忌々しく感じられた。
夏子が先に電車に乗った。私も後に続いて乗り込んだ。車内には私たちの他に誰もいない。扉が閉まってから電車はゆっくりと動き出した。
夏子の横顔が西日に赤々と染められている。自然の光に彩られた女性を称賛する言葉を自分は知らない。知っていたとしても言葉で飾り立てて何の意味があるだろうか。私は夏子のことをどんな言葉でも表現し切れないと思った。
数秒の間、私は見入っていた。夏子が気づいて私の方に視線を向けて来たので顔を背けた。……しばらくの無言。
「……私の顔がどうかしたかしら」
「……夕日が綺麗で」
「あなた、嘘つきね」
その声は抑揚の欠けたものだったが、私はそこに優しさを認めた。
「あなたは意地悪です」
私の精一杯の反撃に夏子は僅かに口元を緩めた。
「次で降りましょうか」
いつも降りる駅はまだ先だった。
私は同意した。彼女が行くところだったらどこへでも行こうと思った。すぐにこれは詩的な感傷だと恥ずかしくなったが、あながち嘘というわけでもない。
そこは人の少ない駅だった。電車を待つ人も無く、駅員の姿も見えない。私たちは無言のまま改札を出た。
駅から住宅地の中を坂道に従って歩いていく。その道中も何らの言葉も交わさなかった。夏子が自分をどこへ連れていくのか興味はあったが訊いてみようとは思わなかった。どこだって良かった。
やがて広いところに出た。日は沈みかけていた。手すりのところまで来ると街が一望できた。沈みつつある日の光を受けて、街は最後の輝きを見せている。しかしそれも徐々に夕闇の中に没していき、闇の中で自らの存在を示す蛍のように灯りが点り始めた。その一部始終を私たちは言葉も無くじっと眺めていた。
時間が過ぎていくのがとても早く感じた。ここで死ぬまでずっと二人でいたかった。死ぬまで……。不思議とそれがすぐのことに思えた。空が明るくなって、そしてまた暗くなる。その繰り返しがあっという間に過ぎていく。そんな感覚だった。これは詩的な感傷だろうか。
夏子は何を考えているのだろうか。そっと顔を見てみるが、暗闇の中で表情は判然としなかった。ただ、色の白い彼女の手の甲が闇の中でもはっきりと見えた。
「……帰りましょうか」
夏子はそう呟いた。私は短く答えてそれに応じた。
「夏子さん」
歩き出す彼女を私は呼び止めた。
そして、ずっと思っていたことを、伝えようとした。けれども口ごもってしまい、すぐには言葉が出ない。……意を決した瞬間、私はまるで時間が止まってしまったように感じられた。
「……好きです」
……沈黙、長い沈黙。その中で、自分の声が夏子に届かなかったのではないか、という馬鹿げた想像を一瞬でも思い浮かべたことを、私はきっと後悔し続けるだろう。
「私も」
それは抑揚のないいつもの声だった。その声が私にはとても嬉しいものに思えた。
……雲に隠れていた月が顔を見せて、私たちに月明りを投げかけた。この時の照らし出された夏子の顔を私は一生忘れないだろう……。
終
夏子 武市真広 @MiyazawaMahiro
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