第6話
雨の降る街を歩き、望は自分の部屋へとたどり着いた。髪も衣服も、何もかもがびしょ濡れになったまま望はその場に立ち尽くした。
『ごめん』
聡の部屋で見たパソコンの中身が、絶えず脳裏をよぎり、心をじわじわと締め付けてくる。望は思わずその場に倒れこむ。今までの自分の暴走具合を思い出し、手が震えた。
「俺は......」
望は自身の右手を見た。途端に昼間の出来事が彼の脳裏に鮮明に蘇ってくる。小さい背中。
「望さん、昨日はお手柄でしたね」
同僚に満面の笑顔と盛大な拍手で出勤早々に望の心は締め付けられた。その同僚に便乗でもするように他の部署からも称賛の声を浴びせてくる人々が押し寄せる。称賛の笑顔が精神を削る刃となることに彼らは気づかない。
「望、後で吸血鬼の鑑識結果出てくるからそれを確認したら今日は上がっていいぞ」
「はい」
上司である片山の言葉は、心にかかる重圧に耐えきれなくなる寸前だった望に安堵をもたらす。しかし、次いで巡査部長の口から出された言葉に望は今日一番の衝撃を受ける。
「それと、今回の君の行動を称賛して、君の昇格の話が出ている。楽しみに待っているといい」
「......は、はい。ありがとうございます」
望は軽い放心状態のまま鑑識課のある場所へと歩を進めていった。一歩、一歩、鑑識課の部屋へ近づくたびにからだのどこかで拒否反応が起こっているかのように体の動きが鈍くなっていく。
「中畑望です。先日の件でお話があると伺い、参上しました」
ステンレス製のドアを開け、冷蔵庫内部のように気温を低く設定してある部屋に望は足を踏み入れる。あたり一面白い壁で覆われた部屋の奥から、所々汚れた白衣を着た山岡直人がゴム手袋を脱ぎながら歩み寄ってくる。
「いやあ中畑さん、あんた凄いことしてくれたね」
開口一番、山岡はそう言った。彼の顔は興奮が抑えられないのか口角が吊り上がっていた。凄いこととは何か。望が疑問を口に出す前に山岡はべらべらと喋りだす。
吸血鬼の持っている生命力の10分の一程度しか生命力がないこと。言葉が通じること。どれだけ飢餓状態に陥れても、決して人の血を吸おうとしないこと。
「それは、すごい発見ですね」
「そうなんです! しかし、これだけではないんです! 彼は我々がずっと求めていた答え――即ち吸血鬼化現象の真実を知っていたのです!」
興奮気味に話す山岡。望は彼の発言に理解を示すことができなかった。ちょっと待て。望はそう言って山岡の次の言葉を制し、自身の脳内で今までの出来事を整理する。
「吸血鬼化現象の真実を知っていた......ってそれはおかしくありませんか?
彼は一番最初の吸血鬼ではないはずです。何故彼が真実を知っているんですか?」
山岡は、キヒヒと笑うと聡が語った全容を明かしてくれた。吸血鬼は身近な相手への負債感が積もりに積もって発症すること。親族を真っ先に殺戮の対象としてしまうのは、その負債感が最も強い相手であるから。
吸血鬼化現象が起きたのは政府の高等教育の義務化と私企業の人物採用の基準が大卒となったことに起因すること。
「とりあえず、今言ったことが吸血鬼化現象における全貌。若年無業者が増えた年の二年後、急に始まったあの騒ぎは、彼らの迷惑をかけている、という負の感情が積もりにつもった結果だったというわけです」
「じゃ、じゃあ。若年無業者で吸血鬼にならなかった人たちは......」
もう一度山岡は奇妙に笑い、当然、あなたの考えているような人種でしょうね。と答えた。
「いや、でも本当に助かりましたよ、中畑さん。あなたが持ってきてくれた『サンプル』のおかげで我々の研究は大幅に進んでいます。あと一年もあれば、完全に吸血鬼を排除することすらできるでしょう。
あなたの行動は、日本国民全員の命を守ることと等しい行為です。そのことを、少しは誇りに思ってください」
それではまだやることがあるのでと言い残し、山岡はまた奥の部屋に戻っていく。重厚な扉が少し開き、中の冷気が外に漏れだす。
一瞬だった。たった一瞬。望の視界に部屋の奥で力なく血塗れの腕を垂らす『彼』の姿が見えた。
瞬間、望の背中に、心に雷撃が奔った。望はその場で深々と礼をするとすぐに片山に早退の旨を伝え、早々に署を後にした。
ギラギラと空から降り注ぐ太陽光に汗を流しながら望は駅の改札をくぐる。停車中だった冷房の効いた電車に乗り込み、両拳を強く握った。
「聡は......兄さんは......」
奥歯を噛みしめ、望は何かを堪えるようにすでに白くなっている両拳にさらに力を入れた。電車は既に動いており、本来降りるはずの千歳駅に着いていた。
「会いに、行こう」
望は小さく呟き、昨日以来の札幌へと身を乗り出した。
「なんだよ、この体たらく......」
望は、日の落ちるさまを少し小高い公園のベンチで憔悴しきった顔で見ていた。言いたいことは決まっていた。謝罪のためのお菓子だって持っていた。けれども、もう一度あの扉を叩き、現実と謝罪を伝える勇気は、今の望になかった。
「悪いことをしたらごめんなさい。こんな当たり前のことが、なんでできないんだよ......」
冷たい個室で今も『サンプル』として生かされ、実験に使われている『彼』のことが胸を締め付け、早く伝えるべきだと焦りを生む。しかし、彼の現状《いま》を伝えれば彼の両親の怒りの矛先は、間違いなく自分に来る。
望は何度も葛藤する。彼らの怒りを、『私怨』で殺したも同然の殺人者が収めることができるのか、と。
「俺は、一生このジレンマを抱えたまま過ごすのか?」
未来永劫この胸苦しさを抱え続けるのか。そんなのは絶対に嫌だった。望はすっくと立ちあがり、公園入り口の階段を駆け下りた。
あの日 鋼の翼 @kaseteru2015
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