海還りの伝承
【旧】鹿田甘太郎
海還りの伝承
菫青石――アイオライトの伝承は、こう伝わる。
アイオライトは青のかかったすみれ色を放つ宝石であるが、視る角度に拠っては青とは全く異なる、灰白色や、褐色の顔を見せることもある。
その性質からアイオライトは「ビジョンの石」の異名を持ち、遥か昔、海を渡るものは進むべき方角を知るために、この石を掲げて方位を割り出していたという。
しかし、それは真実だろうか。
他の宝石でも持ちうる性質であろうに、なぜアイオライトを選んだのか。
そして、アイオライトを信じた海賊は、なぜ滅びてしまったのか。
◯
「君は、死体愛好家なんだって?」
人のざわめきより波の音が大きくなってきた頃、それは見えてきた。
海と砂浜の境界線をずうっと辿っていくと、海に向かって突き出した岬がある。海岸線を見張るように伸びる岬の、その先端には小さな建物があった。煉瓦造りで、一人暮らしするには十分な大きさといえる。近づいてみると、壁に寄りかかるようにして一人の少女が立っていた。白い髪は地を這うほど長く、目配せする双眸は蒼い。透き通る青ではない。もっと深い――深青色という言葉が似合う色だった。
「あなたは、町の人?」
少女は質問には答えない。
「旅人だよ。東の果てからやってきた」
「東って、どっち?」
「あっち」
家の扉は空いている。青年が覗き込むと、必要最低限の調度品が並んでいるのが見えた。階上へ続く階段もあったが、その奥は暗がりになっている。
「君は一人でここに?」
「そうでなければ、ここには誰も住まないわ」
なるほど、と青年が頷く。
「ここでは何かと不便だろう。町では暮らさないのかい?」
「町では暮らせない」
「どうして」
少女はにこりと笑う。
「私は、嫌われているから」
死体愛好家の少女。
それが、町から離れた岬に住んでいるという、不確かな噂。
◯
じきに『海還り』の祭礼が行われる。
人伝にそんな噂を聞いてやってきたのは、洋風建築が整然と並ぶ海沿いの町だった。緩やかな勾配の大地を、屋根の扁平な家屋が埋め尽くしている。大都市ではないが賑わいがあり、自然と活気で満ちている。漁業が盛んなのかと思ってみても、船どころか港も見られない。畑があるわけでも、鉱山が隣接しているわけでもない。青年は首を傾げた。
この町は、一体何を拠り所としているのか。問いかけに答えたのは、先程、海岸通りへの道を教えてくれた大工の男だった。
「この町は、おれたちの『終のすみか』なんだよ」
「終の?……」
「ここで生まれ、育った者はおらん。みんな他所の出自だ。おのれの人生に満足し、ここに骨を埋めようって奴らが集まっている」
「ということは、あなたも?」
「もちろん」
男はへへ、と照れくさそうに笑いながら、
「家内を亡くしてね。残りの人生は、自分のために生きてみようと思ったんで」
「自分のため、ですか」
表情は底抜けに明るかった。愛する妻を亡くした男の顔とは思えなかった。案外、そういうものなのかもしれない。青年はふむ、と唸る。
「そういえば、岬に行ってきたんです」
「何だって?」
男が目を見開く。聞こえなかったのかと思い、青年は繰り返す。
「岬に行ってきたんです。いましたよ。少女が、小さな家で――ああいや、一人で暮らすにはちょうどいいのかもしれませんが、とにかく住んでいました。岬の家に」
「あんた、本当に行ってきたのか」
「ええ。何か問題が」
「あるわけじゃねえが」
男の表情が変化する。道端で死んでいる猫を見かけたときのような、そんな顔だった。
「何か問題があるのでしたら、話していただけますか。小生、先日こちらへ来たばかりで、右も左もわかっていないのです」
「…………」
「話していただけますか」
沈黙。青年は繰り返す。
「では、特に問題はないということで」
「待て」
男が仕方なしという調子で口を開く。
「もう行ったというなら手遅れかも知れないが、教えるだけ教えておこう」
「手遅れ、というと」
ため息を、一つ。
「あの子は少し変なんだよ。なんでも、稀代の死体愛好家だって噂だ」
「だそうですね」
「俺が来る前の、ずうっと前からあそこに棲んでいるらしい。不便だし、何度も町への引越しを勧めたが、いつまでもあの岬にこもりっきりだ。人付き合いも悪いもんだから、よくない噂まで流れるようになった。あそこに住んでいるのは死神だ、ってね」
「それは悪い噂なんですか?」
青年が言うと、男は頓狂な顔をした。
「当たり前だ。死神だなんて言いふらされて、何がいいことか」
「ああいえ、気分を害されたのでしたらすみません。ただ、『終のすみか』って言われるからには、死神みたいな存在は必要だと思いますので、単なるジョークなのかと」
男はまた目を見開くと、少しだけ間を置いて笑った。
「旅人さんは冗談の質が違うね」
「それはどうも」
背後で鐘が鳴る。町の真ん中にある時計台だ。特定の時間を迎えたわけではないが、それでも数回に分けて、ゴォーン、ゴォーンと鐘の音が響く。鐘の音の余韻がすぎると、また人々の姦しい声、敷石を打ち鳴らす音、誰ともわからない人の笑顔が戻ってくる。青年が不思議そうに時計台を見つめていると、男が説明を挟んだ。
「祭りが近いからな。鐘に錆がないか、確認しているんだろうよ」
「祭りですか。ああ、そうでしたね」
海還り。近々行われるという、一〇〇年に一度の祭礼。
詳しい記録は残っておらず、仔細は明らかになっていない。ただ、執り行う内容を聞いて回った限りでは、日本の盆踊りや外国の謝肉祭と大差ないようだった。聞けば男も、海還りのためのやぐら造りに精を出しているのだという。その割に働いている様子はなく、町の人々もこれといって忙しい様子はない。
「あの子にも、来たらいいとは言ってみたんだがな」
「断られましたか」
男は曖昧に首を振る。
「断るどころか、会うことすら叶わなかったよ。確かにおかしな子で、そういう扱いをされてきたのは事実なんだ。おれはそうしてこなかったんだが、受け入れてはもらえなかった。気が向いたら、あんたからも言ってやってくれないか」
「僕から?」
男は、今度はしっかりと首肯した。
「旅人は流浪な生き物だ。凝り固まった町の連中が諭しに行くより、あんたみたいな人が訴えかけたほうが、よっぽど耳を傾けるだろう」
「はあ」
頼んだぞと背中を叩かれながら、青年は眉根を寄せる。
旅人は流浪な生き物。間違っているとも、正しいとも、青年は答えられなかった。
◯
岬へ行くと、やはり少女はいた。
同じように壁へ寄りかかり、じっと水平線を眺めている。飽きないのだろうか、と青年が不躾な思考を巡らせていたのがバレたのか、青年を見つけた少女の表情は、やや怪訝だった。
「あなた、また来たのね」
「旅人は流浪な生き物だから」
受け売りのように言い、少女から少し離れた場所に腰を下ろす。
目の前に広がる海はちょうど湾になっていて、ここより大きな岬が海を両腕で囲うようにしてできている。少女の家がある岬は、ちょうど中央を貫く形だ。湾は河口からの微生物やらが堆積するので生態系が豊かであり、必然的に漁業が盛んになるという話だったが、やはり船一つ見当たらなかった。
「君は、どうしてここに住んでいるんだい」
「住みたいところに住んでるだけ」
「なるほどね。じゃあ、どうして住みたいと?」
「海が見えるから」
なんともロマンチシズムな理由だ。青年がそう思う傍らで、少女は物憂げに話す。
「私のお母さんは、海で死んだの。たったひとりの大好きなお母さんだった。だからお母さんを忘れないように、忘れてしまうことがないように、海の近くに住んでいる」
「それは残念だったね」
青年はばつが悪そうに俯く。
「失礼を働いて申し訳ない。まさかそんな理由があるとは、露知らず」
「構わないわ。もう悲しくはないし、納得はしてる」
「母なる海だから――とは、言わないよね?」
青年がぼそりと言うと、少女は青年に目を合わせた。ひどく驚いた様子だった。
「あなた、超能力者なの?」
「旅人だよ」
ところで青年には気になることがあった。水平線には暮れの太陽が迫っている。
「質問の答えを聞いていなかったね」
「質問?」
忘れているようだった。青年はにこりと微笑む。
「君が、町で『死体愛好家』だと噂になっている話。それはもしかして、海で死んだ母親といつか出逢えるかもしれないとか、そういうファンタジックな理由?」
「ああ、それなら多分、私のコレクションのことよ」
コレクションとは、と青年が訊ねる前に少女はにこりと笑った
「見せてあげる」
少女は立ち上がり、家の中へと入っていく。青年は首を傾げながら後を追う。ぎっ、ぎっ、と階段の軋む音。あの時は暗がりに支配されていて見えなかった二階だろうか。
――まさかそこには、塩漬けになった死体が?
――僕も似た感じで、塩漬けにならないだろうな?
青年がさも訝しげに階段を上がったが、その先には予想だにしなかった光景が広がっていた。
目に映ったのは、いびつな象牙の群れ。または、鮮やかな白亜で彩られた、骨董品の数々。もしくは、出来もしない方向に捻じ曲げられたまま息絶え、朽ち果てた人骨。
そうとしか認識できなかった。
想像以上に広かった家屋の二階には、いくつかのテーブルがあり、その上に名状しがたい形をした白色の何かが、無数に鎮座していた。無数というのは数え切れないのではなく、すべてが同じように白いので、どれだけあるのか触れてみなければわからないのだった。
テーブルの上に、あるいはテーブルの下にも、挙句の果てには、天井から吊るされるようにしているものもある。隅の方に寄せ集められているのは、ガラクタなのだろうか。どれも前衛的な芸術品のようにしか見えず、青年は一瞬、ここは辺境の博物館かなにかと間違えそうになった。
少なくとも殺されるような雰囲気ではなかったが、胡乱であることに変わりはない。
「これは、一体?」
声は少し震えていたかもしれない。
青年が問うと、少女は唯一ある窓のそばで海を眺めながら、青年を一瞥したのち、そよ風のように消えそうな声で言った。
「見ての通り、死体よ。私が『死体愛好家』というのは、間違っていないわ」
「そうか、そうだね。いやしかし、長年旅をしてきたけど、こんな骨は見たことがない。一体どんな奇天烈な生き物の……」
「骨?」
青年がうんうん唸っていると、少女は何のことはないというように答えた。
「それ、骨なんかじゃないよ」
「骨なんかじゃないって、じゃあ、これは何だって言うんだい」
「樹木」
少女は言う。
無垢な笑顔を浮かべたまま。
「それは海岸に打ち上げられた、樹木たちの、死体なの」
◯
いくつか夜を越えたあと、青年は再び岬へやってきた。
少女はまた、海を見つめるようにして、家の壁にもたれかかっていた。満月の光が明るく、少女が青年に気づいたのも、にっこりと笑ったのも、はっきり見えた。
「あなた、まだここにいたのね」
「根無し草でも、腰を落ち着けたくなることはあるさ」
青年は大きなリュックサックを背負っていた。
「だけどそろそろ発つよ。今宵は『海還り』らしいから。見物したのち、明朝に」
「町へは行かないの?」
少女の問いに、青年は困った笑みで答えた。
「いようと思ったんだけどね。君と接触してたことがバレたのか、よくわからないまま追い払われてしまったよ。宿賃は払っていたんだけど」
「それは災難ね」
「そこで提案なんだけど、一晩でいいから、ここに泊めてもらえないかな」
「かまわないけど、うちには何もないよ」
「そりゃいい。何もないほうが話のタネが増える」
水平線を見やる。海はずっと穏やかだったが、今夜は一転して時化ていた。大荒れの予兆はなかったが、こんな日でも祭りは滞りなく行われるらしい。
「ところで『海還り』は、何を執り行うのかご存知かな」
「どうしてそれを、私に聞くの?」
もっともな返答だった。祭りは一〇〇年に一度なのだから。
「希望的観測さ。町の人には警戒されていて、誰も答えてくれなかったから、君ならもしかして知っているんじゃないかと思って。誰も知らないと言われれば、それまでだけどね」
「どうしてあなたは、知りたいと思うの?」
少女は言う。
「『海還り』に参加しないあなたには、何も関係のない話なのに」
「大アリさ。僕は旅人だからね」
「旅人だから?」
「旅人だから、伝承は語り継がなければならない」
青年は諳んじる。
「風を操る民の伝説。未来を見通す預言者の真偽。三〇〇年氷漬けになったままの歌姫。僕ら旅人はあらゆるものを追い求めて、あらゆるものをこの目で見たいと望んでいる。この世界で消えゆく運命にあるものを、僕たちはフォークロアで語り継ぎたいと思っているのさ」
「難しいことを言うのね」
「君のように、常人ならざる視点を持ちたいとも考えている」
少女の眉が動く。
「私の?」
「君は樹木の死骸を死体と言った。世の中の定義に沿えば、それは間違いだ。枯れ木を死体とは呼ばない。漂流した樹木を水死体とは言わない。それは誰が決めたことでもない。多数決は意味を持たない。人間が水死体で流木が水死体ではないというのは、もしかしたら人間の身勝手かもしれない。神から見れば等しく『生き物』に変わりないからね」
「……私、間違っていたの?」
「一般的にはね。ただ、間違いをせずに生きるものは、それほど賢くない」
沈黙。
波の音。
「人間も樹木も、すべてのものはやがて朽ちてしまう。だからその前に、僕はこの目で見てきたものを『詩』にしたい。而今より行われるはずの『海還り』もね」
「あなたは、旅人であって吟遊詩人でもあるの?」
「かもしれない。決めるのは僕じゃない」
大きな荷物から取り出したのは、小柄なジャンベだった。小慣れた調子で青年が叩くと、軽快な音が夜の海辺にこだましていく。リズムよく打ち鳴らしていくたびに、海面がうねり、より時化が大きくなっていくようにも感じた。一定の規律で、淡々と嵐の夜に鳴り響くその旋律は、宴の余興か。それとも、神を導く調べか。
「もう一度訊こう」
青年は、敬虔な表情で問いかける。
「『海還り』は、何をやるのか、ご存知かな」
「うん。知ってるよ」
深い青が、さらに濃く光る。
「『海還り』は、みんな海になるの」
壁から離れ、岬の先端に立つようにしていた少女は、背後の月を切り取る影になる形で、青年のことをまっすぐに見つめていた。深青色――アイオライトをはめ込んだような両目は燦然と輝き、影に落ちる中で猛獣の瞳のように、青年の視界を鮮やかに染めていった。
「君は神様か。それとも、それ以外の何かかな」
「私もわからない。でも私は、私が人ならざるものであることを知っている」
「母親が海で死んだ。あれは本当の話かな?」
「本当だよ。でも、話していないことがひとつある」
「当ててみようか」
打ち鳴らす手が、止まる。
「君は母親を追って海へ落ち、生きることも死ぬことも許されないまま、ここにいる」
ざわ、
空気が蠢いた。波飛沫の音が強くなった。空は瞬く間に明度を下げ、みるみる気温が下がっていくのを感じる。音を奏で続ける手に雨が落ちる。激しさを増す波の音とともに、無数の滴が降り注ぎはじめる。雨なのか、それとも高く打ち上げられた波飛沫なのか、青年にはもわからなかった。脇目も振らず、一心で演奏を続けた。
ずるり、と何かが地面を這っているのが見えた。白い髪の毛のようだった。それが少女のもので、身の丈よりも遥かに長く伸びているのが見ずともわかった。
雷鳴が轟く。
大空が唸る。
大時化の海を見下ろす岬で、少女はただひとり、何物に縛られることなく立っていた。
「あなたは、祈祷師? それとも除霊師?」
「さあね」
「ただの……旅人?」
「かもしれない。でも、君を救うことはできる」
目蓋を閉じる。
視界を暗闇で満たしても、鮮やかな二つの青ははっきりと見えていた。
「奏でるは、魂を癒やす鎮魂歌。君は、どれだけ踊ったら満足してくれるかな?」
「面白いことを言うのね。ありがたいけど、死んでも知らないよ」
「死なないさ。死ぬ気でがんばったらね」
「やっぱりあなた、ただの旅人じゃなかったのね」
「そうだね。もしかしたら、そうだったのかもしれない」
少女は三日三晩踊り続けた。
青年は三日三晩奏で続けた。
海は荒れ狂い、猛り、蒼き龍となって、海辺の町を飲み込んでいった。
○
青年はひとり、町を訪れた。
静まり返った町は、青年を迎えも拒みもしない。人はおらず、人が住んでいた痕跡さえも残さず、すべてが消え去っていた。祭礼のやぐらも、笑顔で語った男の姿も、青年が乗ってきたカブさえも残らず消滅していたので、頭を抱えた。これでは旅を続けられない。
「定めかな」
見つめる海は、穏やかだった。
青年は海を渡る決断をした。辺りから木材を集め、ありあわせの知識をもとに船を作った。少し考えて、少女の家の『死体』も材料に加え入れた。いつ沈んでもおかしくなさそうな出来栄えだったが、不思議と不安はなかった。
天気は快晴、風は西向き。出航の時は目前に迫っていた。
「なるようになるさ」
握りしめていた拳を、ゆっくりと解く。深青色の宝石がふたつ、朝の光を浴びてきらきらと輝いている。
「彼女の魂が新天地へと導かんことを」
◯
菫青石――アイオライトの伝承は、こう伝わる。
アイオライトは青のかかったすみれ色を放つ宝石であるが、視る角度に拠っては青とは全く異なる、灰白色や、褐色の顔を見せることもある。
その性質からアイオライトは「ビジョンの石」の異名を持ち、遥か昔、海を渡るものは進むべき方角を知るために、この石を掲げて方位を割り出していたという。
しかし、それは真実だろうか。
他の宝石でも持ちうる性質であろうに、なぜアイオライトを選んだのか。
そして、アイオライトを信じた海賊は、なぜ滅びてしまったのか。
――――真の伝承は、こう伝えられる。
海のサファイアとも呼ばれる、アイオライト。
それは、海の使いの眼をくり抜いて生まれた、海へ還るための石であると。
海還りの伝承 【旧】鹿田甘太郎 @Chameleon
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