椅子

佐竹梅子

椅子

『――よいか、清輝よ。胡蝶宮には、決して近付いてはならぬ椅子がある。

 その椅子のために、これまで何人が命を落としたことか』


 教育係の伯父が、講義中にそうおっしゃった。

 これは教えなのか、閑話なのか。そしてお伽話なのか、噂話なのか。私にはなにも分からなかった。ただそれが正しいものとして耳を傾け続けた。

 数多の官吏を輩出してきた一族に生まれ、参内前から家門の中で徹底的に作法やしきたりを仕込まれるままに。


『まかり間違っても、その椅子に興味を持つでないよ。持たば最後……椅子は徹底的にお前を酔わせ、そして狂わせる

 ――行く末は、我が一族の破滅だ』


 ああ。宮中とは、なんと恐ろしいところなのだろう。年端もいかぬ少年の私を脅すには、覿面てきめんであった。



 ◆ ◆ ◆


 胡蝶宮。そう呼ばれる以前は簡素ながらも、控え目な上品さを湛えた宮殿であった。だが華美を好む皇太后によって、それは翅を開いた蝶のように化粧直しをされたのだ。多くの民を作業員として動員、国庫までも流されたという。


 大小建ち並ぶ宮殿のうち、一際輝くような区画がある。いつの間にか、そこを幽篁宮と呼ぶようになった。

 ――幽篁皇太后。その人の住まう宮殿である。


 四十不惑を目前にしても、肌は真珠に輝き、唇は雛罌粟色に、爪は割れた柘榴の果実を嵌め込んだごとく潤んでいる。前皇帝の后であり、現皇太后である幽篁は、大きな鏡台の前に座り、溜息をつく。


 右目の下にある黒子を消したくて、様々な生薬や食材、植物を取り寄せては体に摂りこみ、肌へ塗りこんだ。しかしそれは、いっこうに消えそうにない。


「妾の顔も、この黒点さえなければよいのにな。さすれば完璧じゃ。そうであろう?」


 側仕えのうち幽篁が最も信を置く宦官は、肩の張りをさすりながら「それも太后様が玉である所以なのでしょう」と目を細めて笑う。


「よく言うわ」


 鼻で笑うようにしてから瞼を軽く落とし、按摩の次工程に備えた。宦官は珠で作られた美顔器で、幽篁の額を優しくさすりはじめる。


「……それにしても、忠恕はまだまだ青いものじゃ」


 嫡男の忠恕は十六、さきごろ皇位についたばかりだ。

 忠恕皇帝万歳――臣下たちはそう口にするが、政の中枢神経は水晶で作られた簾を通して、すべて皇太后の目と耳に繋がっている。


「あのような上奏程度で声を震わせていては、先が思いやられる。ああ青いこと……だが、子育ては終わったのだろう。少し手寂しいな」

「では、犬や猫をお育てになってはいかがでしょうか。愛らしい小動物は、太后様の癒しとなるでしょう」

「そんなもので癒されるだろうか。妾が愛らしい令嬢の時分、鯉を飼っていたが、意思の疎通もできず退屈したものじゃ」


 いっそ毒でも流し込んでやろうかと思ったわ。皇太后の苛烈さは、宮へ入る前からの性分なのか。幽篁はかつてその気性から、鉄の皇后と呼ばれていた。現在は無論、鉄の皇太后である。


「しかし、鯉といえば色鮮やか。その眩さは生きる花がごとしではありませんか」

「ふん。妾の声が届かぬならば、始めからじっと黙る花の方がよほどよい」

 

 美顔器の次は、金盞花の花びらをふんだんに溶かし込んだ化粧水を塗り込んでいく。金盞花の華やかな香りが鼻腔を柔らかく撫でる。


「……そうじゃ、花といえば。解語の花じゃ! 女官でも育ててみようか」


 幽篁の瞼が勢いよく開かれる。名案だと言わんばかりに、その声は弾んでいた。


「女官、でございますか。ですが太后様には、香霧嬢という素晴らしき方がいらっしゃるではありませんか」

「あやつはな、優秀すぎる。妾が一を教えれば十まで己で考えてこなしてしまう。そう……一から叩き込み甲斐のある、娘のような女官を育てたい」


 すると戸の外で、拝謁を望む声がかかった。宦官ははたと顔を上げ、戸に向かって是の旨を伝える。

 軽やかでありながらも緊張の入り混じる足さばきで、青年が姿を現わした。青年とはいえ、まだ少年のような瑞々しさと、少女のような可憐さを残している。その青年を見遣ると、宦官は満足そうに頷いた。


「我が一族より新たに召し出しました。以後は私の下につき、太后様の御身まわりのお世話をさせていただきます」

「幽篁皇太后さまに拝謁いたします」


 深く跪いた青年の声は、やや高い。長く伸ばされた黒髪は三つ編みにしたことで、その艶が一層際立っている。


「よろしい。お前の一族であれば可愛がろう。名はなんと?」

「清輝と申します」


 青年が恭しくそう名乗ると、皇太后はひらひらと手を招いた。


「近くへ寄ることを許す」


 は……、短く答え、視線は伏せたまま、静かに寄る。

 さすが信頼する宦官の親族だ。身のこなしは充分教え込まれている。皇太后はほくそ笑んだ。


「皇太后さま?」


 幽篁は青年の顎に護指を宛がい、そっと引き上げた。清輝のかんばせは、まさに清く輝くといっても過言ではない。若く白い肌、黒曜石のように深みのある瞳が艶めいた。


「これは、なかなか器量のいい青年じゃ。……ふむ」


 護指を嵌めた指先で、頬をゆっくりと撫でていく。その鋭利な飾りの爪先が緩く肌に食い込み、清輝の肩はわずかに強張った。

 品定めするような視線が降り注ぎ、ほんの沈黙が永遠に鼓膜を覆うような気さえした。


「――決めた。お前を我が娘として育てよう」

「太后様、不敬ながら申し上げますと……清輝はわたくしと同じく宦官で」


 先ごろまでまったく揺れることのなかった宦官の心が乱される。もとより突拍子もないことをする皇太后ではあるが、まさかこう転ぶとは思わなかった。


「妾は忠恕という息子を育てた。だが、娘を育てたことはない」


 満足げに微笑んだ幽篁の視線が、清輝を捉える。寧ろ捕らえるといっても過言ではないだろう。


「妾はお前が気に入ったのじゃ。宦官ならば『娘』ということにしても、なんの問題もなかろう? 種を持たぬ花なのだからな」


 これを侮辱と聞く者もいるだろう。しかし皇太后は言葉に紗を被せることはしない。そしてその言は、実際にしてなにも間違ってはいないのだ。



「さっそく今から、妾の側に侍るがいい」


 皇太后はあっという間に清輝を気に入ったようで、「まこと美しいな。妾と共にあるときは、これをつけるように」と、真珠を砂粒よりも細かく砕いた化粧用の粉まで与えた。妃ですら手に入れるのは困難な高級品だ。ましてや宦官に与えるなど。知れば卒倒することだろう。


 皇太后の手ずから額、こめかみ、頬、鼻筋、顎を刷毛で撫ぜていく。清輝の肌は、たちまち幽篁と同じく、珠のような輝きを見せた。


「これは予想以上の出来じゃ。お前の美しさは、その衣を透き通って香るよう」


 清輝を褒めそやしていると、「皇太后様」と、涼し気な声が室内に響いた。先ごろ噂になっていた女官の香霧だ。


「時間か。これから妃たちと茶会があるのだ。共に参るのだぞ」


 皇太后は茶会にて、新たに手に入れた清輝を自慢することだろう。


「妃らも、喜ぶに違いない」


 そう笑う皇太后は残酷ながらも、やはり美しかった。


 胡蝶宮敷地内には、皇太后が茶会をするためだけに作らせた館がある。疑似的に張った池の中央に建つ豪奢な館だ。四方に植えた栴檀がにわかに甘く薫り、館を包んでいる。


 幽篁宮からそちらへ移動するだけでも、皇太后は輿に乗った。清輝は目通り初日ながら、輿に乗る皇太后の手を取りつつ、館まで歩くこととなった。


「皆そろいで。殊勝なことじゃ」


 円卓の周りには、すでに皇帝の妃たちが集まっていた。幽篁以外、座ることを許されないため、椅子は皇太后のもの一つだ。


 ――清輝は、伯父の話を思い出した。『よいか、清輝よ。胡蝶宮には、決して近付いてはならぬ椅子がある』――ぞくりと、背筋に虫が這うような感覚が走る。


 しかし清輝にとって、皇太后の椅子など一切魅力的には見えなかった。清輝は静かに息を逃して、胸を撫で下ろす。一族に破滅をもたらさずに済んだ安堵である。


「さあ、はじめるがよい」


 皇太后は、数十人と並んだ宦官によって、順繰りに運ばれたものしか口にしない。

 清輝はさっそく、幽篁に手渡す役を命じられた。大切な役目だ。仕損じれば、首は簡単に飛ぶだろう。真珠のように輝く茶器が、並び立つ宦官の手より渡される。

 極力指先が震えぬように耐えながら、茶器を受け取った。ゆっくり慎重に、けれど皇太后を待たせることなく渡さなければならない――茶器を置く――その刹那だった。がちゃん、と陶磁器がいやな音を立てる。


 皇太后の護指が、茶器の蓋を跳ねるように弾いたのだ。


「あっ」


 その拍子に器はひっくり返り、清輝の官服を濡らす。


「もっ、申し訳ございません!」


 清輝は熱さを訴える間もなくひれ伏した。ああ……もうおしまいだ。


「清輝よ。そう気落ちせずともよい。お前も、怪我はないか?」

「……え? は、はい……」


 あまりにあっさりとした反応に、思わず間の抜けた声がもれる。


「どうやら服が汚れただけのようじゃな。――香霧」

「はい。皇太后様」

「清輝に、妾の服を着せてやれ」

「こ、皇太后さま」

「詫びだ。一着くらいくれてやろう」


 紅の塗られた唇が、ゆっくりと弧を描く。その美しさに衿元から冷や水を差し込まれるような心地がした。

 わざとだ。わざと……皇太后の服を着せるために、茶を零したのだ。


「そ、そのような……皇太后さまのお召し物をいただくなど、できません」

「香霧、お前が似合うと思うものを見立ててやれ」


 怒涛の感情の揺さぶりに、清輝はまだ床に這いつくばっていたかった。けれど成す術もなく、女官の背中を追うしかできなかった。


 皇太后の衣装部屋は、まるで虹が架けられたごとく衣が並んでいる。いや、まだ虹の方が控え目で上品だろう。とにかく色という色が目を襲ってくるようだ。


「ふふ、皇太后様に目を付けられたのね。息苦しいかもしれないけれど、誰もが羨む幸運だわ」

 

 衣の色や数に圧倒されていると、女官はくつくつと笑いながら口を開いた。ぱっちりとした瞼は可憐だが、賢さと涼やかさを感じさせる佳人である。

 ああ、そうだった。と小さく言ってから、「香霧よ。皇太后様には目をかけていただいているわ」と名乗った。


「それではあなたも……幸運、なのですか」

「そうねぇ。幸運だけれど、いつご機嫌を損なって不幸に突き落とされるかも分からないから、不運かもしれないわ」


「そ、それでは……」


 己も、同じく不運ではないか。


「分かったなら、ご機嫌を損ねないうちに着飾らないとね。何色がいいかしら。好きな色はある?」


 そう問われても、女性の、ましてや皇族の衣装についての好みなど考えたこともない。


「どれを選んだところで、この数では覚えていないでしょうし、この際だから装飾品も好きに使っちゃいましょ?」


 鈴を転がす声が、心地よく響く。ざっくばらんに接してくるが、あの皇太后のお気に入りだ。きっと対等に渡り合えるような強かな女性なのだろう。


「綺麗だ……」

「え? どれかしら」


 香霧と視線がぶつかる。……思わず声に出てしまった。彼女を、香霧を綺麗だと思ったけれど、そんなことを再び口に出来るわけがない。


「あの……あの辺、かな」


 ぶら下がる衣装を適当に指し示して、なんとかごまかす。香霧は意外にも素直にそちらへ目を遣った。


 そうして身を包んだのは、生成りに牡丹の刺繍が艶やかな衣だった。さらには、首飾り、指輪、鞋までも揃えられて、あっという間に香霧の手によって着付けられていく。

 服が濡れただけなのだから必要ないと何度言っても、香霧は手を止めない。いっそ楽しんでいる様子だった。


 やがて茶会に戻れば清輝は美しさを褒められ、香霧は見立てを褒めそやされた。


「清輝は妾の娘も同然じゃ。そうしているときは、清香と名乗るがいい」


 清香。


 口の中で小さく繰り返してみれば、「香霧より一字をとった。妾にとっては、この小憎らしい香霧も娘のようなものだからな」と、幽篁は笑う。


「まあ! 小憎らしいだなんて。皇太后様にそんなにも想っていただけて、幸せの極みですわ」


 香霧のこの返しこそ戯れだと分かった。言葉で戯れているような、そんな空気が彼女たちを包んでいる。


 ……それからは、清輝でいることよりも、清香でいる時間が増えていった。ままごとの母娘三人で庭園を楽しんだり、並んで絵に描かせたりもした。


「姉上」


 香霧をそう呼ばされる度、清香……あるいは清輝の胸の奥底でなにかが爆ぜる。

 衝動的に手を伸ばしたくなるような、けれど、消極的に目の前から姿を隠したくなるような。


 恋をしていた。あまりに淡い恋を。

 宦官と女官――どのみち、この想いは叶わない。であれば、偽りでも『姉』と呼べることが嬉しく感じられた。


 ――しかし、その喜びも、あっという間に砕け散った。


「皇太后様がね……私を陛下の側室にとお考えなの」

「え……姉上、もしやお受けになるんですか?」


 驚愕に満ちた瞳で食い入るように問うと、香霧は一瞬呆けたのち、やんわりと口を開いた。


「なにを言っているの? 私に選ぶ権利はないのよ。……あなたとの姉弟遊びも、これでおしまいね」


 どうして、どうして、どうして。


 自分が宦官でなければ、香霧をさらうことも出来た。――だが、宦官でなければ彼女に出会うこともなかった。



 ぼんやりとした頭で、清香はふらふらと正殿へ向かう。

 なぜそうしたのかは分からない。しかし、向かわねばならなかった。


「これが、姉上をものにする男の椅子……」


 ゆっくりと、玉座の背凭れの縁を撫でていく。


「清香、」

「っ……皇太后さま!」

「意外だな。お前もその椅子に興味があったか」


 決して宦官などが触れてはならぬ椅子だ。しかし皇太后はそれを咎めるどころか、初めて見たほどに穏やかに微笑んでいる。


「妾は女じゃ。そこには座れない。それはお前も同じこと。男というには欠陥があり、女というには機能を持たぬ。もはやか弱い存在だ」


 幽篁はゆっくりと、なにか掴めないものを目指して指先を伸ばした。


「ずっと、ずっと……背後の水晶簾からその椅子を見ていた。焦がれていた。もしも…………妾の手を取り、ともにこの椅子に座れるとしたら、お前はどうする?」


 玉座を我が手に。この鉄の女と組めば、それができる――?


「わ、たしは……私には、無理です」


 そう、座ったところで香霧を娶れるわけではないのだから。


「軟弱な。……だが、妾の娘であれば、それでよい」


 皇太后は頷くと、あっさりと背を向けた。清香もその後を追う。

 かつて聞いた椅子は、やはり恐ろしいものに違いなかった。皇太后までも、あの椅子に酔わされ、欲するのか。


「喉がかわいたな。たまには……桂花酒の杯でも交わすか」

「……はい。皇太后さまのお心のままに」


 玉座――それは、どんな美酒よりも人を酔わせ、狂わせるのだろう。

 これからも、永劫に。



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