繰り返すこと

菊川嘉見

繰り返すこと

 額の辺りに、微かな痛みを感じて、僕はキーボードを打つ手を止めた。時計を確認すると、五時二十八分だった。閉め切ったカーテンの隙間から、薄い光が漏れている。画面から意識が離れた途端に、額の痛みが重たさを伴って、じわじわと広がってくるのを感じた。それは眼球の周辺に沈殿して、黒く渦を巻き始める。かれこれ数時間、パソコンの画面とにらめっこをしていたのだから、無理もない。書きかけの原稿を上書き保存して、腰を上げる。寝不足でぼんやりする視界の端に、棚の上で鎮座する数鉢の植物が映った。そこは、カーテンさえ開けておけば十分過ぎるほど日差しのある場所で、実際、植物はよく育っている、と僕は思っている。正確な度合いは分からないが、気付くと以前よりも茎が伸びているのだった。僕はあまりこういうものに関心がなく、名前も入手経路も覚えていない。一人暮らしを始めるとき、園芸好きの母が緑と共に暮らすことの重要性を説いていた記憶があるから、そのあたりで置かれたのだろう。可哀想に、不精な僕の所為で、彼らは偶にしか水分が貰えない。

 ちょっとした罪悪感が思考の端をかすったが、気付かなかったことにする。水遣りは、後でやろう。まずは、この頭の重さをどうにかしたかった。眠ればいいのだろうが、徹夜で働いた頭脳は変に冴えてしまって、眠れる気がしない。頭痛薬は、何かを胃に入れなければ飲めない。以前、空腹の状態で飲んで、酷い目にあったから、それ以来気を付けている。

 取り敢えず、目薬をさそう。いくらか楽にはなる筈だ。

目薬はいつも冷蔵庫の扉の内側の、細々としたものを入れるスペースに置いていた。台所の方へ、よろよろと歩いていく。

 ――おかしい。

 足が重い。すぐそこにある筈の台所が、異常なほど遠い。実際の距離ではない。僕の足が上手く動いていないのだった。鉛のようになった足は前に踏み出そうにも、床から上げていられない。筋肉が役割を放棄したようだった。僕は困惑した。ただ座って作業をしていただけで、こんなになるものだったろうか。立ち上がらなかったのが不味かったのか。それとも徹夜をしたことか。頭が回らない。兎に角少しずつでも目的地へ近付こうと、摺り足で前進する。しかし、それも続いたのは僅かな間だけだった。目線が徐々に低くなっていた。上半身の質量を今更思い出したように、腰が悲鳴を上げていた。僕の両足はその上に圧し掛かる肉体に耐えられず、ついに壁に肩をついて身体を支えた。じりじりと壁に引き摺るようにして身体を運んでいく。冷蔵庫の前に辿り着いたときには、既に息も絶え絶えだった。

 冷蔵庫をこじ開けるようにして開く。いつも通りの場所に手を伸ばす。伸ばしたが、ほとんど空っぽのそこに、目薬はなかった。昨日は間違いなくそこにあったというのに。やはりおかしい。こんなことは予定にないのに。僕は眉間に皺を寄せた。変に力が入った所為か、頭痛が酷くなった。最悪だ。僕が何をしたっていうのだろう。

 何故ある筈のものがないのかは分からないが、目薬がないのなら、もうここに用はない。冷蔵庫に張り付いていてもどうにもならないので、机に戻ろうと足を動かした――つもりだった。足はびくともしなかった。まるで根っこが生えて床に固定されたように動かない。僕はずるずるとその場に座り込んだ。

「何だっていうんだ」

 吐き捨てたつもりが、力が入らずに予想外に細い声になった。疲労が祟ったのだろうか。そうだとしても、ここまで動けなくなることがあるだろうか。少なくとも、僕の知っている範囲では、ない。悪い病気にでも罹ったのだろうか。唐突に体が動かなくなるような。僕は医学には興味がないから、その方面の知識は乏しい。未知の病。内臓がぎうと握り込まれるような、気分の悪さを感じた。不快感はひたひたと大きくなって、精神の均衡を蝕んでいく。

「目薬をさしたいだけなんだぜ。それなのに、何故僕はこんなところで座り込んでなきゃあいけないんだ?」

「目薬が欲しいのですか」

 独り言の筈だった言葉に返答があった。僕は飛び上がるほど驚いたのだが、相変わらず身体は植物か石のようで、目蓋が少し痙攣したくらいだった。すぐ隣に見知らぬ青年がしゃがみ込んでいて、表情のない顔で僕を覗き込んでいる。

 ――誰だ?

この家には僕しか住んでいないし、出入り口は玄関だけだ。鍵を掛け忘れでもしていただろうか。そうだとしても、扉の開く音がしなかったのはおかしい。僕の耳が音を拾わなかっただけか? そもそも何故この青年は僕の家に入ってきたのか。

「そうだ、目薬だ。僕はね、延々画面を見続けて疲れているんだよ」

 思考が疑問符で溢れかえる中、僕の口がわめいた。訊くべきことは沢山あった筈だが、自分で意識している以上に僕は苛立っていたらしい。集中力がもたず、考えがまとまらない。青年の正体については後回しにすることにした。

「昨日は冷蔵庫に入っていたんだぜ。中身だってちゃんとあった。なのに、今は無いなんて、おかしいじゃないか」

 青年は無表情で、僕の聞くに堪えない文句をただ聞いている。

「だいたい、なんでこんなに足が重たいんだ? 確かに僕は疲れているけれど、別に全力で走り回っていたわけじゃあない。座っていただけだ。それなのにこれはどういうわけだ? まるで植物にでもなったみたいだ」

「実際そうじゃないのですか」

 青年が一言、言った。僕は虚を突かれて口を開けたまま青年を見た。相変わらず表情はない。さも当然といった風である。

「――そんなわけないじゃないか。僕は人間だ。植物じゃない」

「でも、根っこが生えているじゃありませんか」

「何だって」

 よくよく自分の足を検分すると、なるほど、足の裏から茶色の根っこが生えていた。それは床に食い込んで、本当に根を張っているような形をしている。咄嗟に引き抜こうと両手で右足を引っ張ってみたが、抜ける気配はなかった。なんてこった。僕は焦って他に変化しているところがないかを調べ始めた。足の甲、脛、腿、皮膚。今のところ足の裏の表面が緑色に染まり始めていることと、根っこが生えていること以外は無事のようだった。

 人体が植物に変じかけている。

 なんとも荒唐無稽な事態だが、自分に起きたことだから、信じざるを得ない。僕はうめいた。

 自分の状態を認識して、まず初めに考えたのは、今後の生活のことだった。ここから動くことができない。冷蔵庫の中身はほぼ空だ。今日の昼にでも買い物に出るつもりでいた。まあ、いい。食料は、無くても暫くは大丈夫な筈だ。飲み物はどうだったろう。記憶の中から、ポカリスエットが一本残っていたのをひねり出したところで、喉奥が緩んで、呼吸が楽になっていった。

 すぐに死ぬことはない。心臓の鼓動が徐々に落ち着いていくのを感じて、自分が死を恐怖していたらしいことに気が付いた。死への拒絶。別に死にたいわけではないが、必ず訪れるそれが、いつ来たとしても構わない気が、していた。高校生の頃、新作ゲームを手に入れるまでは死ねない、と言っていた同級生を思い出す。僕には未だにその感覚が分からない。あれをするまでは。これを見るまでは。死の恐怖は、ただの本能的な反射だった。僕の生物としての原始的な部分だけが、引っ繰り返った昆虫の脚のように、じたばたと藻掻いている。その脚を一本ずつ、つまんで、千切りとっていく。僕の感覚は解体され、無機質な鉄屑のように冷たくなる。

 もう一度、動かない足に目を遣る。先程確認したときと、状況はあまり変わっていなかった。急激に進行するものではないらしい。冷えた思考で、自分に残された時間を考える。飢えや脱水で死ぬのと、身体が完全に植物と化すのと、どちらが早いのだろう。

 ぴろん、と電子音が聞こえた。

 僕の携帯電話の通知音だった。机の上に置いたままだ。僕の足には根っこが生えているので、当然取りに行けない。どうしたものかと思ったところで、青年のことを思い出した。隣を見遣ると青年は足を投げ出した状態で座っている。眠いのか、目蓋が半分ほど下がっていた。他人の家でよくもまあここまで寛げるものだ。僕は彼の図々しさに感心した。

「君、頼まれてくれるかい」

「何でしょう」

「僕の携帯を持ってきてくれないか。机の上に置いてある筈だから」

 よく知らぬ相手に道具のように使われるのだから、文句の一つくらいは言うだろうかと思ったが、青年は無言で立ち上がった。少しして戻ってきた彼は、「どうぞ」と携帯電話を差し出した。通知画面には母からの連絡が表示されている。動画サイトのアドレスのようだった。僕は鬱々とした気分になりやすいから、面白い動画を見つけては、こうして僕に知らせるのだ。このまま僕が植物になったら、彼女はどうなるのだろう。連絡のつかない僕を心配してここに来て、台所にある不自然な植物を見つけるのだろうか。彼女は植物を大事にするから、屹度それも大事に鉢に植えてくれるのだろう。水を遣って、日の当たる棚に置くのだろう。あの棚に並ぶ植物たちの隣に。葉に細かい埃をかぶりながら、水を待ち続ける彼らの隣に。

 ――それは、良くない。

 望み薄だとは思いながらも、インターネットを起動させて、植物化について検索する。やはり、実際の肉体が植物に変化するような事象に触れた記事は見当たらない。画像欄には、身体の数か所から花や枝が伸びた、美しい少女の絵が並んでいる。

「君、何か知らないか」

 携帯を操作する僕をじっと見ていた青年に訊いてみた。彼に尋ねたところで、解決するとは思っていない。ただ、どうにかして空白を埋めたかった。

「貴方の足に生えた、その根っこのことですか」

「そうだよ、何か知らないか。その、原因とか、治療法とか、他に同じような症例とか」

「僕は医者じゃありませんよ」

 青年が呆れたような声を出す。相変わらず表情はほとんど変わらないが、不思議と声には感情が乗るようだった。

「医者の見解が聞きたいんじゃない。君の意見が聞きたいんだよ。ネットで検索しても何も出てこないし、僕はここ何年も同じ生活をしているから、最近何かやらかした、というわけでもない。心当たりがないんだ。君なら何か、客観的な考えが浮かんだりしないかい」

 青年は先程突然現れたのだから、完全なる第三者だ。身内でも、友人でも、何でもない。――ならば何故こんなところにいる? 突然降って湧いたように。そもそも彼は一体何者なのか。

「さて……。僕は専門家でも何でもないので、大したことも言えないと思いますが。……そうですね、心当たりがないのでしょう? ならば、それこそが原因なのでは?」

「それは……どういう」

「何年も同じ生活をしていると、言ってらしたでしょう。繰り返しのなかで、知らぬ間に何かが蓄積していって、結果そうなったのでは」

 そういうことだって、あるでしょう。

 青年の考えは僕の脳を打った。毎日、僕なりに真面目にやってきた筈だ。朝起きて、支度をして、食事をして、仕事をして、食事をして……。余所見をしそうになることもあったが、なんとか我慢して、偶に我慢できずに仕事を放り出してだらだらして、それでも締め切りを破ったことはない。酒だって、脱水症状が怖くて遠ざけてから、一滴も飲んでいない。その生活のどこが駄目だったと言うんだ。僕は混乱した。足が動けばきっと部屋中をうろうろ歩き回るに違いない。予想外のことが起こったとき、僕には手足を意味もなく動かすという癖があった。足が動かない代わりに手を開いたり閉じたりする。握り込むときには少しずつ力を入れた。そうして何かを固めようとしているようだった。

 青年は暫く開いたり閉じたりする僕の手を眺めていたが、不意に冷蔵庫の扉を開いて、ポカリスエットを取り出した。最後の一本。足の動かなくなった身では、何より貴重な品のひとつ。節約しなければならない。理性的な思考である。そのすぐ横で、今すぐにあれを飲み干してしまいたい衝動がとぐろを巻いていた。喉が乾いている。最後に水分を摂ったのはいつだったか。

「飲みます?」

 まるで自分のものを勧めるように、青年がペットボトルを僕に向けた。なんて礼のなっていない奴なんだろうと思ったが、疲労の溜まった口は鈍くなっていて、文句はおろか、肯定の言葉も出てこなかった。僕は黙ってそれを受け取り、半分ほどを一気に飲んだ。青年が気を回してくれたのか、蓋は開けてあった。残りの半分も飲めそうな気はしたが、最後の一本である、という認識が妙に出張ってきて、それ以上飲めなかった。鎌首をもたげた衝動が、残念だと嗤っている。そのままボトルを青年に渡すと、彼は当然のように僕の飲みさしに口をつけた。

「無くなったら、また買いに行けばいいんですよ。コンビニなんて、数分あれば行って帰ってこれます」

 減っていく中身をぼんやりと見ていた僕を、不安を覚えているものと思ったらしい。確かに、一番近いコンビニなら、そうだ。彼は周辺の地理に詳しいようだった。

 青年の、ボトルを掴んでいる右手の小指だけが、ぴんと立っている。それは僕と全く同じ癖だった。それは僕の小指ではないのに、僕がそこにいるような気がして、この上なく不快な気分になる。似たような癖を持つ人は他にもいるだろうが、それが目の前にいて、しかもこの空間には僕と彼しかいない。そのうえ彼は五体満足で、僕の人間としての足は死にかけだ。足を右手でそっと撫でて、症状の進行具合を確認した。人間の皮膚の感触が伝わってくる。まだ大丈夫だ。とはいえ、解決法がまだ見つかっていない。安心と焦りがない交ぜになって、僕は呻いた。

「実を言うとですね、」

 思い出したように話し出す青年の声は、ぼそぼそと聞き取りづらい。普段なら諦めて聞き流すのだが、何か重大なことなのだろうという気がして、僕は彼の声に神経を集中させた。

「僕はその植物化に行き合ったことがあるんです」

 僕の脳味噌の中を通って、背中の方へと、何かが抜けていった気がした。それを追いかけるようにして、唾液を嚥下する。

「――君は、知らないんじゃなかったのかい」

「知らないだなんて言ってませんよ。お医者のように原因だとか、治療法だとかを知っている訳じゃない――そう言ったんです」

 青年はこちらを見ない。彼の視線はペットボトルの口に固定されている。その奥では、微弱な手の震えを受けて、残りのポカリスエットが小さく揺れていた。

「そのときも、そう、丁度貴方みたいな状態でした。必要なときにだけ外に出て、食料だとかを調達して、家にこもる。只管片付けなければならない原稿を書いて、思い出したように食事をし、水分を摂る。似たような毎日を、延々と繰り返す。これは僕なりの考察ですが、こういう、固定された生活が、最初の原因なんですよ、屹度。そして、それに徐々に精神が乗っかっていく。身体が固定されていくのに合わせて、精神も固定されていくんです」

 僕は白い丸と黒い丸を想像していた。様々な速度で動く二つの丸は、自由自在に空中を飛び回っている。しかし段々と白い丸の動きが鈍くなっていき、少し遅れて黒い丸も速度を落とし、遂に二つが重なる。重なり、停止し、それは灰色の丸となって溶けていく。

「それは、誰の話?」

「もう、忘れてしまいました。何年か前の話です。二年か、三年か」

「その人は、植物になってしまったのかい」

 何となく、溶けた灰色が元に戻ることはないのだと思った。

「ええ、貴方のように、足から。全てがそうなるのに、どれくらいかかったかは覚えていませんが」

 動かない足に目を向けると、心做しか植物化の範囲が広がっているように見えた。このまま何もしなければ、この青年の言う何処かの誰かのように、僕もまた植物となってしまうのだろう。そんなのは御免だ、と思う。どれだけ可能性が低くとも、治療法を見つけて、人間として生き残らなければ、とも思う。だというのに、その思考の中に、全てを諦めて、このまま座り込んで、停止してしまいたいという僕も混じっているのを、感知してもいた。精神が固定されていくというのは、こういうことなのだろうか。停止していく僕は、もがく僕を無表情に見つめている。

 ――そんなに必死になって、治ったとして、それでどうするんだ。

 ――固定された身体で、また同じ日々を過ごすのか。

 人間には学習能力がある。原因が分かったのだから、次こそは上手くやれる筈だ。動かないことがよろしくないのならば、動けばいいのだ。簡単だ。

 ――死に損ないの精神で、本当にそんなことができるとでも?

「大丈夫ですか?」

「……何がだい」

「いえ、急に話さなくなってしまわれたので。内臓から植物化が完了するタイプなのかと」

 何でも無い顔で、青年は怖気の走ることを言った。彼はスプラッタ映画を見ながら肉料理が食べられる質の人間かも知れない。

「怖いことを言わないでくれよ。……それで、その人は? その、植物になってしまったのは分かったが、何か話をしたりしたのかい」

 僕は青年に話の続きを促した。今は、自分の状況を意識の外に置いておきたかった。

 青年が、何かを確かめるように、じっと僕を見る。やがて目を伏せて、口を開いた。

「今の貴方とほとんど同じような感じでしたよ。まあ、彼は、最初の貴方のように文句を垂れ流すようなことは、終ぞされませんでしたが」

 僕の反応をみっともないと嗤われた気がして、腹が立った。腹が立った筈なのに、僕の身体は少しも動かなかった。何か言い返すでも、青年を睨んでみるでも、簡単にできる筈だった。しかし、それが皮膚の外に発露する前に、蒸発するかのように何処かへ消え失せてしまったのだった。僕は動揺した。しかしその動揺もまた、身体の内側で雲散霧消する。精神が固定されていっているのだ、と思った。

「彼は、自分の足に根っこが生えているのを見て、穏やかに笑っていました。驚くということも、怖がるということもなかったので、理由を聞いたのを覚えています。安心したのだ、と彼は言いました。もう動き続けなくともよいのだ、と」

 僕は、パソコンの画面で続きが書かれないままになっている、書きかけの原稿を思い出していた。植物になってしまったその人にも、やりかけの仕事はあったのだろうか。彼はそれが嫌いだったのだろうか。僕はどうだろう。僕がこのまま植物になってしまえば、あの原稿は完成されないまま、ずっとあそこに放置されるしかない。それは少し可哀想な気がした。周囲の人間は、どうなるだろう。家族は、それが僕であったものだと、知っても、知らずとも、僕だった植物を家に連れて帰って、変わらず大事にしてくれる気がする。でもその他の人間は? 植物化の話なんて、聞いたところで信じやしないだろう。原稿を放り出して逃げ出した、屑野郎だ、なんて思うかも知れない。そんな中に残されるあの原稿を思うと、ますます哀れだった。

「今までやっていたことは貴方にとって苦しいことだったのか、とも聞いてみました。彼も、貴方と同じで、やりかけのものがあったようなので。苦しいことだ、と彼は言いました。苦しいけれど、嫌なことではなかった筈だった。それなのに、いつの間にか苦しさが膨れ上がってきて、自分ごと飲み込んでしまった。今の自分は自分ではなく、人の皮に苦しさを目一杯詰め込んだだけのものだ。だから、自分の仕事にとっても、こうして離れることはよいことなのだ――」

 僕は、眼前に僕と同じように動けなくなって座り込む、見知らぬ彼の姿を見ていた。その時の彼がもう彼ではなかったのだとしたら、本当の彼は何処に行ってしまったのだろうか。もしかすると、彼はずっとそこにいて、植物となってその肉体を止めることで、彼自身を取り戻したのではなかろうか。ならば、屹度彼は幸せだったのだろう。

 ――僕は? 僕が僕自身だろうか。それとも足から徐々に這い上がってくる植物が僕自身なのか。停止することがそもそもの願いなのか。それではこの僕は一体誰なのか?

 頭がおかしくなりそうだった。もしも植物化した彼の考えが正しかったとして、それではこの植物化は自分自身の願望の実現ということになる。彼は望みが叶い、治療などということは考えもせずに、穏やかに人間の皮を捨てたのだろう。僕のこれも、同じなのだろうか。僕は人間の皮を捨てて、永遠の停止を望んでいる? ――本当に?

「――その彼は、停止することを受け入れたわけだ」

「少なくとも、僕にはそう見えました」

「苦しさが集まってできた彼を、本物の彼自身が植物となることで止めたのだと、彼はそう思っていた」

「――そう、言っていましたね」

「では、それを君に語った彼は一体誰だったんだ? それもまた彼自身なんじゃないのか? 彼は苦しみに侵された彼自身を切り捨てただけなんじゃないか」

「貴方は、彼を間違っていると結論づけるわけですね」

 青年はまっすぐ見てそう言った。その声には、若干弾むような音が滲んでいる。興味を示したらしい。

「彼の選択が間違いだったのかどうか、それを決める権利は僕にはないよ。だって僕は彼じゃない。彼にとってはそれが最善だったのかも知れない。そうだとしても、僕は違う。僕がここで僕を諦めるのは最善ではない」

「しかし、貴方だって、それもまた良しと、思っていたでしょう。はじめから」

 青年は平然と痛いところを突いてきた。彼は僕になぞ毛ほども興味がないような素振りをしながら、その実よくよく観察していたらしい。なんて奴だ。僕は青年を睨みつけた。彼に効いているのかは、分からない。彼の表情は、矢張り声にしか乗らないようだった。

「確かに、そうだ。それは認めよう。今更否定したところで、意味はないからな。だが、僕にはまだ抵抗する力が残っている。停止から逃れようとする精神がまだ残っているんだ」

 ならば、抗わなければならない。裏返しになった虫が、必死に空を掻くように。

 僕は立たない足の代わりに腕に力を入れた。指先を動かし、肘を曲げ、腕を持ち上げる。腕は、まだ動く。僕には人間として思考する脳髄があり、物を書く手がある。あの原稿は、まだ終わってはいない。

「君、そこの、下の扉を開けて、包丁を出してくれないか」

 青年は首を傾げながら、「いいですけど」と言って僕の指した扉を開けた。包丁が一本、差してある。

「何をする気か、教えていただけますか」

 青年は包丁を取り出しながら訊ねてきた。今、僕は初めて彼の予想の外を動いている。この澄ました青年の思考に、墨を垂らしてやった気分がして、僕は愉快な気分になった。

「さあ、何だろう。当ててみ給え」

 青年は眉間に皺を寄せている。彼の中の見えざる敗北感が、そうしてその表面を動かしているのだ、と思った。僕は、彼に勝利したのだ、と。

 ――これで助かる。

 思考を離れた場所で、自分の声がそう安心を漏らすのを聞いて、僕は内心奇妙な感覚を覚えた。

 はて、彼に対する勝利は植物化からの解放につながるのだったか。そんなことは、関係ない筈だ。よい気分だったのが、急速にしぼんでいく。僕の選択は正しかったろうか。しかし、仕方がないのだ。包丁の仕舞ってある場所には、この足では届かない。包丁でないと、この鎖を切り落とすことはできない。早く、切り離さなければ。

 ――手遅れになってしまう。

「貴方は、それを選択するんですね」

 包丁を右手に握った青年が、僕を見下ろしている。彼の目線は足首辺りまで植物化の進んだ、僕の足があった。

「植物になった部分を切り離してしまえば、助かるんだと、そう思っているのでしょう?」

 青年は僕の前にしゃがんで、かろうじて人間の肌が残っている部分に刃を軽く当てた。皮膚が薄く切れて、紙で指を切ったときに似た気分がする。

「植物化は、それが現れた時点で、既に手遅れなんですよ。貴方には、最初から選択肢なんてなかったんです」

「君、原因も治療法も知らないと言っていたじゃないか。あれは嘘だったんだな」

「嘘なんて吐いていませんよ。原因は知りません。治療法だって、あるかも知れませんが知りません。ですが、植物化が始まってしまえば、どんな抵抗も無駄に終わることだけは、知っています。今まで見た皆さん、そうでしたから」

「……皆さん?」

「僕、植物化に行き合ったのが一度きりだなんて、言ってませんよね」

 僕の唇は彼の言葉に反応しようとして少し開いたが、結局何も出てこなかった。青年は、何度もこれを見てきたのだ。幾人もの人間が、植物となるのを。

「君は、彼らを助けようとは思わなかったのか」

 青年は目を細めた。次いで目を閉じ、深く溜息を吐く。

「それは、僕の仕事ではないので」

「仕事? 君には役割があるのか?」

 青年は答えない。彼は首を横に振って、僕に背を向けた。先程の扉を開けて、包丁を元の場所に戻す。

「貴方も、結局僕が何者なのか、訊きませんでしたね」

 そういえば、と思う。僕は訊かなかった。最初に彼を見たときから、ずっと疑問には思っていた筈だ。あまりにも青年が当然のように存在しているから、尋ねるのを忘れてしまったのか。それとも、青年の正体を知ってしまうのを、無意識のうちに恐れていたのか。こめかみの辺りに汗が伝うのを感じて、両方共が正しいのだと悟った。

「――君は、」

 声が擦れる。聞きたくない。僕ははっきりと認識した。これを聞いてはならない。知ってしまうことが、そもそもの終わりなのだ。彼と話をすることが、僅かばかりの延命であり、彼と話をすることで、幕引きが訪れる。

「君は、誰なんだ」

 青年は退屈そうに半分目を閉じる。彼の薄く開いた唇から、微かに息の漏れる音がした。

「貴方は、僕のことを死神か何かのように思っているようですけれど、違いますよ。僕は――そうですね、貴方であり、植物となった彼らであるものです」

「僕であり、彼ら? それは――理屈が合わない。僕は彼らではない」

「いいえ、合っています。僕は貴方がたであり、貴方がたは僕なのですよ。僕は忘れてしまいますけれど、貴方はすぐに知ることになる」

 青年は僕が普段触れることのない戸棚を開く。そこには幾つかの鉢と、鉢植え用の土の袋が入っていた。彼は慣れた手つきで袋を開け、戸棚の更に奥からスコップを取り出す。彼が僕を見る。やめてくれ。反射的にそう叫ぼうとしたが、声は出なかった。せめて彼から視線を外したいのに、何かで固定されているかのように自由が利かない。僕の目は彼を見続けている。彼は両手で掬うように僕を持ち上げた。

「ああ、そうだ。あの原稿のことならばご安心を。きちんと完成します。締め切りまで、まだ時間はありますから」

 何故、と思った。足先が何か狭い物に入れられて、土がかけられていく。腰の辺りまでが軟らかい土で覆われ、僕は腰の意味を消失し、暫く日光に当たっていないことを思った。程なくして僕は僕自体を喪失し、それを持っていたことすら、理解することもなくなるのだ。


 鉢植えの土を整えて、窓際の陽のよく差す棚の上にそっと置く。無意識に目蓋をぱちぱちと開け閉めして、目薬をさそうと思っていたことを思い出した。

 冷蔵庫を開け、よく冷えたその蓋をひねる。眼球に液を垂らすと、冷たさと若干の痛みが広がり、染み込んでいった。身体が疲れているのを感じ、休息が必要であることを知る。少し休んで、原稿の続きはその後にしよう。締め切りまで日数は少ないが、絶望的というわけでもない。

 目薬を冷蔵庫に戻すとき、飲み物がもうほとんどないのが目に入った。

 気分転換に、外に買いに行こう。ついでに、食べ物も幾らか買いたい。甘い物を買ってくるのもいいだろう。

 スーパーもコンビニも、数分の距離にあるのだから。

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繰り返すこと 菊川嘉見 @yoshimi_k

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