クリーム色の壁とブラウンの扉

くろねこ教授

全一話完結

1,

 好きだ好きだ愛してるそんな言葉を何万回繰り返しても足りない気が僕はしている。

 絵里。

 いつから彼女を何故そんなに好きになってしまったのかと考えるけれどその疑問に答えるのは僕には難しい。ずっと遥か昔からの様な気もするしむしろつい最近にいきなりそんな感情に支配されてしまった様な気も僕はする。彼女に僕の全細胞が引かれていくのを僕は感じる。人間の身体は37兆2000億個の細胞から出来ていてその37兆2000億個の僕の細胞が一つ残らず彼女に引っ張られていくのを僕は感じている。僕の髪の毛がその毛先が根元が絵里に引き寄せられ指先が引かれ親指が人差し指が中指が薬指が小指が絵里に引っぱられて行き足が引かれ腿が膝が脛が踵が土踏まずが引っ張られるのを僕は認識する。

 足が引っ張られるまま歩いていくとやがて絵里と僕は出会う。四年制大学の受講を終えて帰宅しようとしていた絵里と同じく帰宅しようとしていた僕は当然の様に出会う。絵里は同性の友達数人と一緒に居て一緒に喋りながら大学の中庭を横切って駅の方に向かおうとしていた様なのだけれどもそこで僕が合流してくる事によって絵里の同性の友人達はばーいまた明日ねと絵里だけを残して去って行き絵里と僕は二人だけになる。それは絵里と僕が親しくなる前に僕と言う人間が絵里と言う女性をとても好ましく思っていて親しくなりたいと願っていると言う厳然たる事実をその友人達に僕が知る限りの一人残らずに恥ずかしげもなく伝えた結果として絵里と僕が親しくなったと云う経緯が有るから引き起こされた現象だと僕は推察する。故にその友人達は僕にとって恩人と呼んでも良い人達だと僕は認識する。

 ああ比留間君偶然だね。ああ偶然だね今偶然だねと言ったけれども本当は偶然じゃないんだ絵里を探していたんだ。ええっそうなの何か用事でも有った。もちろん会いたかったからだ絵里の顔が見たかったからだよ。何でそう言う事を真顔で平然と言うのかな比留間君のそう言う処が信じられないよ。絵里好きだ好きだよ愛してるその言葉を言うために探していたんだそう言ったら気持ち悪がられるかもしれないだろうだからそうは言わずに顔が見たかったからだと言ったんだよ。うわぁ気持ち悪がられるかもと思っているんなら言っちゃ駄目じゃない実際今少しばかり気持ち悪いかもと思っちゃったよ。

 そんな事を言いながら絵里と駅の方へと僕は歩いていく。

 こっちに来ちゃっていいの比留間君の家そっちの方でしょ。うん今日は行く処が有るんだ。へぇ何処なの。〇×町の◇番地に有るマンションだよ。へぇ偶然だねあたしのマンションも同じ住所だよ。はっはっは偶然だ。

 絵里が僕の方を睨むのを僕は眺める。絵里は笑顔も魅力的だけれども眉の寄った怒った様な顔もまた奇麗だと僕は思う。その眉間を突いてみたくなる衝動に駆られるけれども絵里と僕のいる場所を僕は認識しておりそれは駅に程近い人の多い商店街なので信じられない程の自制心を振り絞り僕の指で絵里の眉を突くのを僕は我慢をする。

 今日は駄目だよ昨日絵里の部屋に入る時約束したよね何もしないって比留間君はその約束を破ったよ。約束を破っただって僕が絵里との約束を破る筈が無い何かの間違いだよ実際僕は何もしなかったよ。したよ肩を抱き寄せてそのあのAをしたよ。Aってその昔恋のABCって呼んだりしたあのA。そうだよそのAだよ。キス口づけの意味で有る処のA。そのAだよ。そうかそれはしたけれどやはり約束は破っていないよそれ以上何もしなかった筈だよ。何でよ充分何かしてるじゃない。それは何もと言う言葉の意味を取り違えているよ例えば僕は今絵里と見つめ合っているし電車に乗っているし呼吸もしているし会話もしているけれどそれは何もしないと言う状態に入っていると思うよ。もちろん目線が合う事や会話をする事に関して言っていたりはしないよでも肩を抱き寄せる事やそのあのキスをする事は何もしてない状態じゃ無いに決まってるよ。そうなのかい僕は肩を抱き寄せる事やキスをする事は何もしてない状態に含まれる事だと思っていた。そんな訳無いじゃない。あの状況における何もしないという言葉は男女の性行為もしくはそれに類する行為をしないと言う意味だと僕は解釈したしそれが妥当で普遍的な解釈じゃないかと思うんだけどどうだろう。ちょっと男女の性行為なんて言葉を人前で言わないでもう絵里のマンションも近いのよご近所さんに聞かれちゃったらどうするの。

 絵里の恋のABC発言やキスと言う言葉を言う前にそのあのと言う前置きを付ける発言ご近所さんに聞かれちゃったらどうするのと言う発言は令和という時代の女子大生の発言としては感覚が古いのじゃないかと僕は思ったりもするけれどでもそんな処が僕にとって好ましい所であったりもするのだと再度僕は認識する。

 部屋に入っていいんだね。だってここまで来ちゃったじゃない仕方ないじゃ無いの電車代まで出しているじゃないそれともここから素直に帰ってくれるの。

 既に電車に乗って一駅の処に有る絵里の棲んでるマンションのエントランスの中に絵里と僕は入っている。

 絵里と一緒にいる目線が合う会話をする同じ空気を吸ってるその髪が風に靡くのを見る健康的な二の腕が上下に動くジーンズに包まれたお尻が歩く動作に合わせて形を変えるそんな光景が僕の目に入るそれら全ての僕にとっての幸せと感じる時間に比べれば電車代なんて恐ろしく些細な物だと僕は思う。そう思うけどその思考を言葉にして口に出したりは僕はしない。彼女の部屋の中に入る事が出来る一緒の幸せな時間を過ごす事が出来るその可能性を減らす行為を僕は慎む。

 クリーム色の壁とブラウンの扉の前で絵里がトートバッグの中からキーホルダーの着いた鍵を取り出し鍵穴に差し込み取っ手を引いて扉を開けるその一連の動作を僕は観察していて絵里の二の腕に僕の目は吸い付いて離れない。部屋に入ったと同時に絵里の二の腕に触れてそのまま絵里を僕は抱き寄せる。絵里の腕は信じられない程柔らかくて筋肉が無いかの様に僕は感じる。

 いきなり何してるの何もしないって約束でしょ。それは昨日の約束だよ今日は何も約束してないよ。駄目だよ昨日の約束には今日の事も明日の事も全部含まれてるの。そんな事無いよ昨日の約束は昨日の事だけだよそれに先刻話して合意したじゃない抱き寄せてキスする事は何かした内に入らないんだよ。そんな合意はしてないよ抱き寄せてキスするのはもちろん何かする内に入るんだよ。

 好きだ好きだ愛してるそんな言葉を僕は口に出す。絵里は奇麗で絵里のちょっと怒ったような顔に皺の寄った眉間に可愛らしく膨らんだ頬に口元から覗く白い歯に僕の視線僕の感情僕の知覚全てが吸い寄せられるのを僕は感じる。

 絵里が好きだ抱き寄せて力の限り抱きしめたい口づけを交わしたい柔らかな二の腕その剝いたばかりの果物の様な肉体をそのまま食べてしまいたい別に性行為の代替語として言ってる訳では無くて本当に真剣に口に入れて噛みしめて僕の唾液と共に混ぜあって胃の中に収めてしまいたいと僕は思う。これはカニバリズム食人欲求なのだろうかそれとも少し歪んだ形の性欲男の征服欲を僕は感じているのかと僕は疑問に思う。性行為の代替語として食べると言う言葉を一般的に男達が使っている事から僕が僕の感情を食べてしまいたいと言う言葉で表す事も普遍的な事に過ぎずその欲求も性行為への欲望の変換であるのかもしれないと僕は考える。でもだとするとこの僕の脳味噌で展開される絵里の柔らかな二の腕に僕の白い歯が噛みつき犬歯で持って皮膚を食い千切り引き裂き奥歯で嚙み砕き肉片にして僕のお腹の中に入れて行くそんな妄想があまりにも具体的である事の説明にはならないと僕は思う。やはり性欲等と言う一言だけで僕の絵里に対する感情好きだと言う想い全てを手に入れたい触れてみたい何一つ余すことなく自分の物にしたいと言う気持ちの全てを説明する事は出来ないのだと僕は考える。

 比留間君何を考えてるの目が恐くなってるよやっぱり今日はもう帰ってだって約束を破ったんだもの今日はもう御終いまた今度ね

 そんな絵里の言葉その響き絵里の口から出されるだけでただの音の連なりが魅力的な天上の音楽に聞こえて僕は陶然となる。


2、 

 なのに天上の音楽を聴く至高の時間に邪魔者が入る。扉が開かれる。クリーム色の壁とブラウンの扉そのブラウンの扉が開かれる。部屋に入った途端僕に二の腕を掴まれた絵里はまだ鍵を閉めていない。開かれた扉から男が入ってくる。男は刃物を持っており日本の銃刀法では正当な理由による場合を除いて刃渡り6センチ以上の刃物を携帯してはいけないのだから男は銃刀法違反を犯している。男が自分の部屋の台所に立っていたなら銃刀法違反にはならなかったであろう包丁は刃渡り15センチは有りその刃物を右手に構えて男は絵里の部屋に入って来る。その包丁は躊躇うこと無く僕の腹部へと差し込まれる。

 刃物は僕の肋骨に阻まれる事無くするするとお腹の中に吸い込まれ鈍い衝撃が僕の身体を貫きお腹に痛みと言うよりも熱さが生じるのを僕は感じる。生温かい感触が僕の下腹部から足へと伝わり僕のチノパンが赤黒く染まっていくのを僕は見る。人間の身体は外傷を受けると一次ショックを起こす体温が低くなり脈は下がり呼吸は浅くなると言う知識を僕は持っている。僕の身体は意思に反してそのまま倒れ込み絵里の玄関先に横になるのを僕は認識する。絵里の目が僕の体を見ており信じられない光景テレビドラマの中であるいは映画館のスクリーンの中では何度も見た事が有る光景で有る筈なのに現実に目の前で起こる事は絶対有り得ないと考えていた光景を見てしまったと言う事態に絵里がどの様な行動を取れば良いのか分からずにいるのだと僕は分かる。男が笑いそれは甲高い笑い声で少し調子外れなそれは笑い声と言う人に温かい感情を与える音声とはなっていずにむしろ不安や不快感を与える響きになっていて自然と不安な気持ちに僕はなる。

 あはははああは悪魔神様への生贄だ。

 その言葉で薄っすらとした情報を僕は記憶から引っ張り出す。悪趣味な連続殺人事件が起きており被害者は刃物で滅多刺しにされていて現場には逆五芒星の印であったり怪しげな呪文らしきものが残されていた事から犯人は精神異常者もしくは異常者を装った者の犯行と目されているその様な報道をテレビで聞くとも無しに聞いていた事を僕は思い出す。

 男の方に僕は目をやらない。出血から考えて意識を保っていられるのは僅かかもしれないと僕は予想する。ならば男を見る事に時間を費やさず絵里の姿を僕の瞳に精神に焼き付けて置きたいと強く僕は願う。どのような行動をしていいか分からない状態から絵里は脱しており脱した結果として悲鳴を上げて逃げるようなありがちな行動へ向かわず何故か一般的に逆切れと呼ばれるような行動を絵里が取るのを僕は観察する。

 何なのあなた勝手に人の家に入ってきてお巡りさん呼ぶよすぐ出て行って比留間君が大変警察いやそれより先に救急車を呼ぶべきね私電話するんだからすぐ出てって。

 それは僕にとっては面白いと思う行動だったし僕が絵里に更に惹かれる様な行動であったけれども生憎包丁を持った男は僕と同じ見解を持ちはしなかった事が僕には分かる。パーカーのフードで顔を隠し見えないけれど男の視線が絵里を睨んでいる事が僕には予想出来たしその眼つきが凶悪であろう事も推測されその視線で睨みつけられた事が絵里の顔に怯んだ表情が浮かんだ原因で有る事も僕には理解出来る。自分の倒れ込んだ体を起こしてその凶悪な視線が絵里に向かわない様にしなくてはいけないと僕は思うけれど意に反して僕の体は動かない。


3、

 この馬鹿女貴様の様な馬鹿女は悪魔神様に相応しくないが仕方が無い死ね死んでしまえそのまま野良犬に死体を喰わせてやろう有り難く思え生きていても何の意味も無いお前が野良犬に施しを与えることが出来るのだ。

 男はかすれ声で喋っておりその声はおよそ他人に理解されるため分かり易い抑揚を付けると言った話し方とは程遠く文脈とその言葉の意味を理解する為に俺は時間を必要とする。更に言葉の意味を理解しようとするよりも男の行動に俺は気を取られる。男は包丁を絵里に向けており躊躇なくその凶器が振るわれるのを俺の視線は捉える。首から左胸にかけてを男の包丁は切り割いており絵里の美しい首筋から血が溢れ出すのを俺は見る。白いシャツを着た絵里の胸元から血が流れ出し白いシャツが見る見る内に赤黒く染まるのを見て俺は悲しい気分になる。あの白いシャツを絵里の膨らんだ胸が押し上げている光景は例えようもなく魅力的であったのにその光景をもうニ度と見る事は出来なくなってしまったその事実に俺は絶望的な気分になる。

 あはははあはははあはははあはあはあお前みたいなのでも血は赤いのか。

 包丁を手に持った男が喋りながら笑っており普通に考えたならば嘲笑い貶す言葉であったけれども口から発せられた言葉はかすれており抑揚を持たず何の意味も持たない音の連なりの様に俺には感じられる。

 絵里が首元を抑えながら泣き笑いの表情でしゃがみ込みそのまま玄関先の床に倒れ伏すのを俺は見る。

 なにこれ首が切れているの私の血なの。

 そんな言葉を発しながら倒れる絵里を俺は見ていて言葉を聞いていてもちろん絵里の発する音は魅力的で有ったのだけれども残念ながら首を包丁で切られたためかその発音ははっきりせず声も小さく俺には聞き取り辛い。

 人間二人が血を流し血にまみれた玄関先で包丁を持った男が笑い声と言えないような声で笑い玄関から部屋の中へ土足で上がっていくのを俺は眺める。男は肩に掛けた鞄から筆を取り出し絵里の血に筆を浸し絵里の部屋の壁に何かを書き出していて玄関先で倒れ自分の意識の宿った肉体が徐々に体温が下がっていくのを感じながら俺はそれを眺める。それは魔法陣の様に見えなくもない図形であり稚拙なヘブライ語らしき物と英語のアルファベットが入り混じり数学的魔方陣の要素も組み込まれ書いている人間にとっては何かの意味が有るのであろう事は俺にも理解出来る。

 あははっはあはあはははあははあはあ。

 多分男なりに書きたい図形を完成させたのであろう男は笑っているのか息を切らせているのか分からない状態になっており筆で図形を書く事は止めていてそんな男を眺めたくは無いけれど俺は眺める。

 はははっはははははあやはり駄目かあの様な価値の無い糞の様な馬鹿女では駄目なのだくそしかし糞の様な馬鹿女しかこの世には居ないのだどうすればいいのだいや自分は悪魔神様を召喚し呼び覚ますと言う偉大な事を成し遂げようとしているのだその様な偉業が簡単である筈が無くだからこれも試練で有るのだ糞の様な馬鹿女を殺し続ける事がいずれ偉業の一歩に成るのだ偉業を成し遂げるとはその様な事なのだ。

 男は一人で喋っておりやはりその言葉には抑揚が無く意味を理解するのは俺には難しい。その様な無駄な音の連なりを発しながらも男は行動もしておりそれは俺の愛する絵里の体に触れシャツを切り割き剥ぎ取る事で腹部を外に出すと言う動作でありそのため絵里の白い肌引き締まったお腹と御臍が俺の視界に飛び込んでくる。通常であれば無限の魅力で最上の幸せを俺にもたらす筈のその光景はしかし絵里の肌からあの剝きたての果実のような瑞々しさが失われており青白く感じるその肌は幸福を感じさせる処か俺は悲しみを感じる。

 くははくくあひゃひゃはひゃひゃくくけけけけけけけ。

 男が絵里の腹部を包丁で切り割き更に絵里の白い肌を赤く染めるその作業は男に取っての偉業をやり遂げた後の息抜き的行動なのかもしれないと俺は推測する。しかしその様に目の前の男の精神の構造や行動の理由を考える事自体が無駄な試みで何の益も無い作業だと俺は理解している。

 人間は血液の20%を失うと出血性ショックを引き起こし30%ともなると生命の危険と言われ50%に達すると心停止の状態に陥ると言う知識が俺には有る。だから生命の危機と呼ばれる状態で近く心停止を起こすであろう俺の体は立ち上がるどころか腕一本動かない状態であると言うその常識に俺は従う。一方で悪魔崇拝者の成り損ないの男が絵里の可愛らしい御臍に包丁を刺し更に膨らんだ胸に刃物を突き入れ下腹部の下着を弄り回す光景は俺と言う人間が怒り狂う事に成っても当然であると俺は思う。

 だから俺の体を立ち上げ絵里の下腹部の下着を弄り回した挙句刃物を突き刺していた男の体に俺は手を掛ける。出血で人間の体が動かない事も常識で絵里の体を凶器で刺される事に怒り狂い黙っていない事も常識ならばどちらの常識を取るかは俺の判断で有り自由に振る舞って良い筈だと俺は考える。

 飛び跳ねた目の前の男がその愚かしそうな外見に似合わず機敏に動き自分を守る姿勢を取って距離を取りつつ俺の方向に包丁の先端を向けるのを俺は見る。

 何故だ何故動いているあの出血で動ける筈が無い既に死んでいる筈だ死人が動いているのか死人が動く筈が無い動くとしたら唯一つ悪魔神様の御力だ

 男が飛び退いた後の絵里の体を俺は見つめる。切り裂かれて人間の腹としての形状を留めていない絵里の腹部からは内臓が溢れ赤黒い血と油にまみれており俺と言う人間に無限の幸せを与えてくれた筈の可愛らしい御臍は既に見つける事が俺には出来ない。もしかしたら絵里を見つめるよりも俺に向かって凶器を構える男に対処する事の方が一般的な判断では優先的に行うべき事なのかもしれなかったが絵里を見つめる事の方が俺にとっては遥かに優先すべき事だと俺は考える。

 絵里好きだ好きだ愛してる魔法の呪文を唱えてみるが俺の情動は物悲しいままでその言葉を唱えるだけで精神が浮き立ち目の前の絵里を抱きしめたい口づけをしたい食べてしまいたいと言う情動が蘇って来ないのを俺は感じる。

 何が違うのかと俺は考える。もちろん絵里は傷つき腹部は損傷を受け内臓がはみ出て血と油に塗れてはいるがそれだけの差で有り数分前までの人間の女性である事には違いが無い筈だと俺は思う。それは逆に考えるとそれだけの差で揺らぐほどの愛しか俺は絵里に対して持っていなかったと言う事にならないかと言う疑問を俺は持つ。

 包丁を持つ男が俺の体を長細い棒おそらくは清掃用具と思われるそれで突いた事によって俺は思考を中断する。

 悪魔神様悪魔神様なのですか何故その様な男の体を使って降臨なされたのです。

 何故自分の崇拝の対象かもしれない存在に対して清掃用具で突こう等と考え付くのかやはり一般常識を外れた人間であるのだろうと俺は納得する。

 אני לא אל שדים

 I'm not a demon god

 男が魔法陣らしき物に描いていた言語に沿ってヘブライ語と英語で俺は答える。しかし男はまともに反応せずどちらの言葉も理解出来ていないと俺は理解する。何故ヘブライ語で呼び出した悪魔に日本語で会話を試みるのかその思考は俺には理解出来ないし理解する必要も無いと俺は思う。

 男が言う悪魔神がどの様な概念か分からないがそれに近い存在では俺は無い。日本語で言えば悪霊小悪魔ジン精霊と言った言葉が近い筈だと俺は思う。日本には一億三千万に近い数の人間がいてその中には俺に近い存在を宿している者も大勢いて正式な統計は不可能であるしどこまでを俺に近いと言うかにも影響されると俺は思う。目の前の男にも微小では有るが感じられ邪妖精位の言葉が近いだろうかそれとも夢魔心に住み着き歪んだ方向へ導くと人が呼ぶ存在を俺は感じている。

 悪魔神様では無い悪魔では無い神では無い何故この場に居る己悪魔神様を騙ったな自分を謀ろうとしたな。

 死んだ筈の人間が起き上がり自分を脅かしたその現実を男は激高する事で解決しようと試みていると俺は理解する。男が突き出してきた刃物を動かない筈の手で俺は受け止める。刃が俺の左の掌に刺さり抜けなくなり慌てて俺の手から刃物を抜こうと苦心する男を俺は眺める。男から左手をもぎ取ると俺の視界に入る左手には手の甲から突き抜けた刃物が有り抜けた部分の刃先だけで10cmは越えているのが俺に見て取れる。凶器を失い呆然とする男に左手の裏拳を俺は振るう。俺の拳が男の顔に触れる前に左手の甲から突き出た刃が男の顔に当たり刃物は男の下顎の骨に当たり骨まで切り裂く事は出来ないが男の頬から唇に掛けての皮膚は大きく切れたのが俺には見える。

 ぐぎゃはあうあうあうあうあうああああああ。

 通常から発する言葉が聞き取りにくい男は唇の肉を斜めに切られ血と唾液を口周辺に溢れさせており聞き取りにくい言葉が更に聞き取りにくくなっているが元々意味の有る事は喋っていない位は俺にも予想が着く。

 頬に手を当て蹲る男の頭にに俺は右手を当てる。4分の3ozグラム法で言うとおよそ21.262グラムが男の体から消失した筈だと俺は思う。男が頬に手を当てたポーズのまま前のめりに倒れそれ以降動かなくなるのを俺は見る。

 玄関先に倒れている人間の女性の死体に俺は近付く。動かなくなり音声を発する事が無くなり俺の情動を揺り動かす事が無くなった存在で俺には無価値で有ると俺は思う。しかし数分前までの情動を俺は覚えている。好きだ好きだ愛してるそんな言葉を何万回繰り返しても足りない気がする俺の感情を俺は覚えている。動かなくなった女性の死体と俺の感情を揺り動かした絵里この差はおよそ21.262グラムの何かで埋まるのだろうかと俺は考える。

 女性の肉体を俺は回復させる。材料は有ると俺は思う。転がってる男の死体を俺は食す。腕を足を肉を骨を血液を髪の毛を俺の口の中へと俺は入れていく。俺の腹に有った筈の切り傷が見る間に塞がって失われていた体内を循環する体液が補充されるのを俺は感じる。適当に俺の肉体を俺は千切る。女性の死体の損なわれた部分に近い部位である俺の首の肉を指で千切り取り女性の死体の首に充てる作業を俺はする。同様に俺の腹の肉を毟り取って女性の死体の腹部に俺の胸の肉を引き裂いて女性の死体の胸へとそれぞれ作業を俺は繰り返す。

 女性の死体は既に死体と呼ぶのが適当でないと俺は思う。心臓が動き出し血液が巡回しており肺が動き体内に酸素を取り入れ二酸化炭素を吐き出しているのを俺は観察する。その既に死体と呼ぶのが適当でないであろう女性の体におよそ21.262グラムの何かを俺の体から俺は移動させる。俺の体は凶器を持っていた男の肉体およそ60キログラムを咀嚼して体内に取り込んでおりそれ位は誤差の範囲に過ぎないと俺は考える。

 血と油に塗れた俺の手と体を慎重に洗い洗った手で絵里の体を絵里の寝具の上へと俺は運ぶ。寝具の上へ寝かせた絵里を見て俺の情動が動かされるのを俺は感じる。絵里の色付く頬に顔を寄せたいその可愛らしい顔を抱きしめたい二の腕を撫でさすりたい形よく盛り上がった胸肉に俺の顔を埋めたいと俺は欲する。

 このまま絵里の寝姿を眺めていたいがまだやる事が残っているのを俺は知っている。玄関に転がった男の衣服俺の口から胃に収めても良いのだけれどこの肉体の消化器官にはよろしくない事を俺は知っている。床に溢れた体液を拭い近くのドラッグストアで購入して来た消臭剤を俺は撒く。男の衣服をマンションのベランダで丁寧に俺は燃やす。衣服の灰と包丁を小さな紙袋に入れてコンビニエンスストアのゴミ箱に俺は捨てる。

 全て終えると既に街は暗く絵里の部屋に有った時計の針はは0時を過ぎているのを俺は見る。絵里の寝具に俺の肉体を俺は横たえる。絵里の寝具は一人用で俺は窮屈に感じるがその分絵里と俺の肉体が密着し言い表しようの無い幸福に俺は包まれる。


4、

 大学の受講を終えて校内の中庭を僕は歩く。37兆2000億個の僕の体内に有る細胞が引っ張られるのを僕は感じている。僕の引っ張られていく足の先に何が待っているのか僕にはもう分かっている。

 あっきゃーきゃー。

 僕の顔を見て絵里の近くに居た女友達が声を上げる。騒めきながら絵里から離れて行くいつもの事では有るけれどいつもより若干騒がしい気がして僕は違和感を覚える。絵里の友人の一人が僕に近付き囁くけれど何を言ってるのか早口で僕は聞き取れない。

 寝ちゃった絵里に何もしないなんて紳士じゃん見直したけど今度は二人とも合意の上で最後までやりなよ中途半端じゃ絵里だって落ち着かないよ。

 良く聞き取れなかったけれど多分こんな様な内容の事を囁いたと僕は推測する。絵里と僕は並んで歩きだす。絵里の頬はいつも以上に赤らんでいて少し興奮してるみたいだと僕は思う。もちろんその顔も魅力的で僕は絵里に視線を吸い寄せられている。

 好きだ好きだ愛してる。比留間君その言葉言い過ぎなんだよもっとさりげなく大事な場面で言ってよ。じゃあさりげなく好きださりげなく愛してる。今朝は御免なさい最低男とか強姦魔とか言い過ぎたと思う悪かったと思ってるのだって朝起きたら隣に比留間君が寝てるんだもの驚くでしょ驚いてつい言い過ぎてしまったの。うんそうだったねもう気にしてないというか最初から気にしてないよ。少しは気にしてよ比留間君だって悪いよいつの間に寝ちゃったのか覚えてないけど何も言わずに女性の隣で寝るのだってどうかと思うよ。そうだね一人用の寝具だものね窮屈だったかい御免ね。いやそういう意味じゃないよもうまあいいけど私の体に何の痕跡も無く奇麗だったし友達に相談したらその状態で何も無いなんて奇跡みたいだって言うしむしろ信じられない位紳士だから比留間君を大事にしてあげろなんて言われちゃったし。そうなんだ僕なんて普通だよ奇跡みたいに絵里に惹かれていて絵里と一緒に居ると有り得ない位幸せだって言う以外は普通だよ。だから言い過ぎなんだよ比留間君。

 絵里と一緒に話をしながら僕は歩く。気が付くともう絵里の部屋の有るマンションのエントランスに居て絵里は顔を赤らめて僕に言う。

 今日も泊っていく。うんもちろんだよ。じゃあ歯ブラシとかパジャマ買いに行こうか。うん一つ確認しておきたいんだけど。何かな。今日は何もしないって言う約束はしないよ。

 クリーム色の壁とブラウンの扉の前で絵里を僕は抱き締めた。

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クリーム色の壁とブラウンの扉 くろねこ教授 @watari9999

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