いつか甘いごほうびを
「残り二十分」
先生の唇が動いたことで、思わずボーッとしていたことを自覚する。わたしはあわてて机のプリントを見つめた。
歴史は苦手だ。世界史は特に。自分が生まれ育った国のことすらよくわからないのに、他国の歴史まで記憶してはいられない。まだ二問しか解いていなかった。
『問③ 一九七一年フランス革命の発端となった民衆による襲撃事件の名称を答えよ』
これ、なんだったっけ……。なんとか牢獄。そう、なんとか牢獄襲撃事件だった気がする。でも肝心の名前が思い出せない。
「あと十五分」
先生が動かないわたしの手元を見ながら、淡々と告げる。
この問題は後回しにしよう。そう考えて次の問題に移る。
『問④ 国王ルイ十六世の権威が失墜し、王政が廃止される要因となった理由を述べよ』
これなら覚えている。一家そろって外国に逃亡しようとしたんじゃなかったかな。先生が解説していたはず。ヴァレンヌ逃亡事件。それを支援したのが、王妃の愛人と噂だったスウェーデン人。不倫は褒められたことじゃないけど、命を賭して愛される王妃がちょっとうらやましいなんて思ったっけ……。
「十分切ったぞ、
不意打ちで名前を呼ばれて、思わずびくりと肩を揺らす。先生がにやにやしながら、正面からこちらをのぞいていた。
「その様子じゃ、今回もおあずけになりそうだな」
先生はズルい。いつもそうやってわたしを試して。必死になってるわたしをからかって遊んでるんだ。
わたしはつい口を尖らせた。
「三十分で全問正解しろなんて、
目の前でずっと顔を見られていたら、集中できるわけがないのに。
家庭教師の湊先生は、余裕綽々で頬杖をついている。
「杏純が俺の授業をちゃんと聞いてたら、全問正解なんて楽勝だよ。ほらほら、もうあと七分」
先生の言葉に、わたしは再び視線をプリントに戻す。こうなったら、わかる問題だけでも解かなくちゃ。
『問⑤ ジャコバン派の中でも山岳派と呼ばれ、共和制となったフランスにて恐怖政治をおこなった政治家の名を答えよ』
『問⑥ ⑤の人物と同じく山岳派のサン=ジュストがおこなったルイ十六世処刑の決め手となったことはなにか』
『問⑦ 当時に作詞作曲された現在のフランス国歌の題名を答えよ』
……なにもわからん。
わたしがうんうんうなっていると、先生のスマートフォンが終了を知らせるアラームを鳴らした。先生はアラーム音を止めると、わたしからプリントを取り上げた。
「ほとんど解いてもないじゃん」
あきれ気味の先生に、わたしはむっとした。
「わたしが歴史嫌いなの知ってるくせに」
「だから勉強するんだろ。なんのための家庭教師だよ」
先生は指でわたしのひたいを小突いた。
「歴史はほとんどが暗記だ。とあるできごとをひとつのストーリーと考えて、物語のような感覚で時系列ごとに覚えていけば自然と身につくんだよ」
「わたし、湊先生みたく頭よくないもん」
「ばぁか。当たり前のこと言うな。俺より頭よかったら、俺はそもそも来てないっつの」
先生は外していたメガネを取り出した。
「とりあえず書いたとこだけでもチェックするか。無回答についてはあとでまた解説するとして……なんだよ?」
先生が言葉を切ってわたしを見た。先生がメガネをかける仕種を、思わずじっと見つめていたらしい。わたしはあわててなんでもないと答える。先生がにやりとした。
「杏純はやらしいなー。テスト中もずっと俺の顔見てたろ?」
「……見てないもん」
「はいはい、そうですか」
わたしのウソなんてお見通しの先生は、余裕たっぷりに笑っている。
「十問中正解は二問。ってかなんだよ、これ。パティスリー牢獄襲撃事件。ケーキ屋かよ。バスティーユだろうが」
「さ、最後にあわてて書いたから」
「へぇー、そう。俺はてっきりごほうびがガマンできなくなったのかと」
先生はそう言いながら、自分のカバンの隣に置いてあった箱を引き寄せた。
「あーぁ、今日は新作のマロンクリームケーキだったのに」
先生はこうしてテストをする日は、毎回ごほうびと称してケーキを持ってきてくれる。ただし、くれるのは先生の決めた合格点を超えたら。
「仕方ない、これは俺が食べるか。せっかく杏純が喜ぶと思ってたのになぁ」
残念そうな口ぶりなのに、相変わらずにやにやしてわたしの反応を見て楽しんでいる。
「これでまた次回までおあずけ、かな」
「……意地悪」
わたしがにらみつけると、先生は嬉しそうに目を細めた。
ねえ、先生は知らないでしょう? わたし本当は、ケーキなんてどうでもいいんです。わたしにとってのごほうびは、「頑張ったじゃん」って先生が、わたしの頭を撫でてくれることだから。
でもそれが叶わないならせめて、先生。
あなたの唇の横についたマロンクリーム、わたしの指で取らせてください。
うさぎさんの宝石箱(短編まとめ) うさぎのしっぽ @sippo-usagino
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