26年分の花束
逆めがね
愛とは、花束
「夫がいなくなりました」
私は震えながら、そう、警察に通報した。
携帯電話を持っているはずのの右手だが、感覚的には本当に持っているのかいないのか分からなかった。気を緩めたら落としてしまいそうで、私は力ずくで握っていた。
電話の向こう側の女性は、とても落ち着いている様子で私に質問をした。
「分かりました。では、旦那様のお名前と年齢、そして、いなくなった時刻を詳しく教えてください」
「はい……名前は武田
語尾が震えた。
「……記憶障害ですか。分かりました」
「朝はいたんですけど、私が買い物から帰ってきたらいなくなっていたんです」
今日、私は夫に「買い物に行ってくるから待っててね」と言って家を出た。夫は私の方をじっと見つめるだけで、返事も頷いたりもしなかった。
「だいたい、家を出たのは11時くらいですかね」と私は伝えた。
「分かりました。では次に、旦那様が今日身に付けていた服装や、髪型などを詳しく教えてください」
「服装は、上が青色で……下は……何だったかね……黒色のズボンだった気がします」
「……もう少し詳しく教えてくれませんか。例えば、青色のパーカーだったとか、ジーンズだったとか」
「その……私も若くないので、今の子たちが使う服の名前とかが全然覚えられないんですよ。ごめんなさいね」
「あ、いえいえ、すみません。分かりました。では、今教えていただいた情報をもとに捜索したいと思います。一日でも早く旦那様を発見できるように、全力を尽くしますので、奥様はご自宅で旦那様の帰りを待っていてください」
「はい、分かりました。宜しくお願いします」
電話は一瞬だった。
雲がいつもよりゆっくりと動いている。
夫を待っている時間、一秒が一分のように感じ、一時間が一日のように感じた。私の心臓は落ち着きがなく、逆にスピードを上げる一方だった。
夫は11月7日になると私にプレゼントを買って来た。
結婚記念日だからって、毎年。
結婚記念日であり、私たちが初めて出会ったこの大切な日を忘れない、優しく思いやりがある夫が、私は好きだった。愛していた。その11月7日の日だけ見せる、プレゼントを玄関先で手渡す時の夫のいつもと違う照れくさそうな顔。その顔を見るのが、プレゼント以上に楽しみで嬉しかった。
夫は感心するほど毎年忘れずに11月7日にはプレゼントを買って来た。
一番最初に貰った、当時流行っていた手鏡は、今でも大切に鏡台の上に置いてある。
けれど、私が20歳から始まったそれは、私が50歳の時に止まってしまった。楽しみだったのに、30回しかなかった。私は二度とおきることのない30回分の思い出を永遠に心の奥底にしまいこんだ。
夫は、夫が53歳の時に認知症になった。
物忘れが酷くなり、ティッシュを食べ出したり、起きもしないことを言うようになった。徘徊なんて、日常茶飯事だった。
そして病院に入院し、治療をすること5年。
私は毎日病室に行き、看病をし、全くといっていい程表情が無くなってしまった夫を支え続けた。おかげで病状は少しずつ良くなった。夫が退院したときは、これでまた幸せな日々が始められると私はいきいきしていた。
でも神様っていうのは意地悪だった。
残酷だった。
私はそれ初めてを知った。
夫が70歳の時に、私の前で夫は、車にはねられた。
それは一瞬の出来事で、あんなにもはじからはじまで飛ばされる人を、私は人生で初めて見た。
その交通事故で夫は、頭部を強く打ち、記憶障害になった。
普通は即死なんでしょうけど、幸運にも飛ばされた先が芝生だったから、夫は助かった。
病室の真っ白いベットの上に身動きも取れない状態で寝ている夫は、自分自身の名前も、人生のほとんどを分かち合ってきた私の名前も、何もかも、分からなかった。
そのとき、出会った瞬間から二人で積み上げてきたものが一瞬で崩れた。
私はあの日、一生分泣いた。
いや、来世分泣いた。
涙なんて、一晩中止まることはなかった。
それに時間が経っても、夫は失った記憶を取り戻すことはなかった。
そして、私たちは今に至る9年間、崩れたものをもう一度手探りで探しながら、お互いの関係をまた作り直して来た。
そして今日、突然夫は姿を消した。
私はずっと、朝も、昼も、夜も、寝ずに夫を待ち続けた。
記憶障害の夫は今、自分自身がいる場所も分からなければ、自分の名前も、自分の家の住所も分からない。それに11月になり、急に気温が下がり、薄着では出歩けなくなってきた。そんな夫が知らない街に出てしまったらどうなることか、考えただけで脳内がしずまらなかった。
夫は失踪してから5日後に隣町の歩道で見つかった。
この世界を何も知らない小鳥のように同じところを行き来していたらしい。
夫は保護されたままの姿で家まで帰って来た。
家の中からずっと外を見てた私は、夫の姿が見えた瞬間、急いで玄関のドアを開け、夫の近くへと向かった。夫の周りには、3 人の警察官がいて、夫のことを見守っている。
「久男さんっ!」
私は、夫の名前を叫んだ。
久男さんは、何も言わず、ただじっと私の顔を見つけてこちらに寄って来た。
そして、私にこう言った。
「結婚してくれてありがとう」
私はその言葉を聞いて体が動かなくなった。
ここ9年間、毎日「私はあなたの妻です」と言っても一日経てば忘れてしまう。
それに、私はもう5日も久男さんに会っていないため、絶対に私が妻だなんて、分からないはず。ありえないことを、久男さんは口にしたのだ。
「え……」
そして少し下を見た時、私は嗚咽を漏らしてしまった。
「今日は、結婚記念日だろ。花束だよ」
そう言って久男さんは右手に持っていた花束を私に差し出してくれた。
──26年分の花束だった。
それは私が好きなピンクの花束。
私は、今にも流れ出そうな涙を必死に止めながら、久男さんの顔を見つめた。
あの日と全く変わらない顔だった。
「ありがとうございます。でも、今日は12日ですよ」
私はそう言いながら花束を受け取った。
次の瞬間、私ははっとした。
一瞬にして私の心は締め付けられ、綺麗な花束を眺めていたら、一気に涙が溢れ出てしまった。私の肩は小刻みに震え、一粒一粒ピンクの花が私の涙を吸い取る。
「泣くんじゃない、可愛らしい顔が台無しじゃないか」
昔と変わらない、あの優しい声だった。
「私はもう76ですよ、皺ばかりで可愛くなんてありません」
「君は昔から変わらないさ。それに、この花束もかわいいだろう。君の好きなピンクだよ。……ありがとうな、今まで」
「いいえ」
私たち二人は、お互い支え合いながらゆっくりと玄関の扉を開けた。
「今日は結婚記念日ですもの、久男さんの大好物の炊き込みご飯とメンチカツを作りますね」
─終─
26年分の花束 逆めがね @sakasa-megane
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