第2話 バニラ

――嘘だろ。


 猪熊いのくまは通されたツインルームを見回した。

 奥のテーブルは薔薇が飾られ、一席だけ食事中なのが窺える。シャルトルーズ・イエローのスカートを舞わせ、三枝さいぐさがその傍らをすり抜けた。彼女がこんな色を纏うことも猪熊には驚きだった。


「誕生会、当日キャンセルって信じられる?」

「三枝さん、六月生まれなんですか」


 彼は迷って無難な返事を選ぶ。

 三枝はシャンパン・ボトルを空席のグラスへと差し伸べた。白いレースのケープスリーブが動きに伴い軽やかに揺れる。泡の立つが湧き上がる。

 その背徳的な作業を流れるように行い、暗緑にネイルされた指が飲みかけのグラスに戻ってボウルを這った。


「三枝で六月だから百合に因んだ名前なのよ」

「百合?」


 視線の先、朱を帯びた唇がリムに触れて仰ぐ。伏しがちな目元は酔いのせいか潤み、睫毛が濡れたように艶めいた。


「何か食べる?」


 彼が席に着いたのを見計らい、三枝は婉然とメニューを扱う。見られていることを感じながら、猪熊は視線を落とし、サラダの項で観念した。


「……三枝さんと同じのを」

「それなら味見、する?」


 三枝は柔らかなしなで皿を取った。スプーンで料理を掬うと彼女は視線を捉えた儘、それを猪熊の口元に寄せる。彼は気圧されたように銀のつぼを咥えた。


「うまい……っすね」

「オムライスとハッシュドビーフソース。私のお気に入り」


 口角が上がり、食器を置いた腕が猪熊の頭をくるむ。間近に匂い立つ甘さにくすぐられ、彼は唇に吸い寄せられた。ベッドが二人分の重みに鳴いた。






 肩に乗る頭の髪を猪熊が梳くと、細い指が指間に差し入った。応じて絡めた指を柔らかな肉は一瞬握り返してはぐらかし、それから再び巻き付く。

 重ねて求め合う中、機械的で心地良い感触が指を伝った。幾度目かのそれに猪熊が目を遣ると、オフホワイトに金唐草の指輪が彼女の右薬指に嵌っている。触れてみれば、縁の動かない儘、模様が滑らかに回った。


「女が嵌めた指輪を三回回すと願いが叶うんですって。だから、インナーリングが回るデザインになってるの」


 ゆっくりアラベスクを一回、二回、三回と回転させてみせた後、三枝は艶めかしく笑む。


「いつものとは違うんですね」

「あれはチリ・ファンタジー。これはバニラ・ファンタジー。唐辛子チリの赤とバニラの白みたいね」

「へえ……」


 猪熊は興味なく相槌を打った。すると、片胸に指先が添い、腋を乳房が擦り上がる。耳朶に息が触れた。


「知ってる? バニラは獣を寄せ、唐辛子チリは獣をけるって」

「もしかして俺を誘う為にバニラですかぁ?」


 猪熊は上機嫌で彼女に覆い被さり、全身で滑らかな肌理きめを味わう。


「三枝さんって、実はエロいんですね。指輪、切り替えのスイッチですか?」

「これ、入学祝いなの」


 くらますような三枝の返事を彼が受け流しかけた時、


「私達の」


 一言が囁かれた。吸い付く肌に溺れ、聞き捨てかけた音が遅れて意味を結ぶ。思わず動きを止め、彼は女を凝視した。

 猪熊の変化を認め、彼女は起き上がる。ベッドサイドライトが点けられた。


透子とうこは赤、香子こうこは白、それがうちの定番」


 皮肉と冷ややかさを滲ませた笑顔を見せつけた後、彼女は伸びやかに裸体を捻る。猪熊へ向けられた背の先、スマホを待つ、その微笑みが液晶に映った。速やかにロックが解除される。


「貴方も透子と私が判らないのね。見た目で判断するのに」


 暗緑の指先はくすぐるようにスマホを撫でていた。猪熊は彼女の言を判断する材を持たず、唯、目の前の現象を眺めるしかなかった。香子とは誰だ、姉妹か、人格が変わるのか、それともブラフか……緩慢な思考が渦を成す。


「貴方が来てから私、嘘も演技もなしよ? 私の儘なだけ。でも、貴方は透子がこうすると思うのね」


 彼女が動きを止めた時、バイブレーションが空間に響く。ジャケットが隣のベッドで存在感を訴える。猪熊が恐る恐る取り上げたそれを覗けば、


『ねえ、チリの指輪には何を願うんだと思う?』


 三枝透子の名と共に、その一文が照らし出された。




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見知らぬ指輪 小余綾香 @koyurugi

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