見知らぬ指輪

小余綾香

第1話 唐辛子

 プロジェクターの動作音に飽きる頃、会議室に仄かなハーバルウッディが漂い始めた。猪熊いのくまはノートパソコンの先を窺う。

 ブラウスの白をたわませることなく、涼しい横顔が前を見つめていた。そうして資料チェックが50ページに近付く頃、三枝透子さいぐさとうこからは香水が立ち初める。普段、隣り合ってさえ感じないあらわになる。


――何処つけてんだ?


 猪熊の目は横顔の産毛を撫で首筋へと落ちた。ギブソンタックから零れた黒髪一筋がうなじにしっとりと添う。視線はまった第一ボタンから前立てをなぞって下り、ネクタイに遣るつもりの手が開襟に触れた。


――もしかして俺にだけ匂わせてるんじゃ……。


 一瞬、期待がぎった時、三枝の切れ長な眦に黒目が寄り、視線が交錯する。思わずたじろいだ猪熊は笑顔を作った。が、何も知らない風な落ち着いた声が部屋に通る。


「ここ、色に頼り過ぎてるから表現を考えないと」


 スクリーンで緑の光点が丸を描く。


「捲って」


 三枝は瞑想する様に長い睫毛を伏せた。レーザーポインタを置く左手が右手に重なり薬指に触れる。

 濃紅のコーティングに金一色の唐草を描いた指輪がそこにはあった。いつも彼女が嵌めている、猪熊も見慣れた指輪だ。折々、それに触れて回すのが三枝の癖らしいことに彼は気付いていた。

 ネイルされていない指先が赤いリングを弄ぶ。応えてそれは軽やかに回り続けた。


「それ、カレッジリングですか?」

「え?」


 三枝は無防備に目を開いた。その珍しい表情に猪熊の顔は緩む。


「サイズ合わなそうなのに嵌めてるし、ペイント柄だからスクールカラーで卒業記念かなぁ、って」

「……入学記念かな」


 彼女は淡々と答えながらレーザーポインタを再び手に取った。

 その答えから三枝に進行形の相手はいない、と猪熊は当たりをつけ、声を抑揚させる。


「そっちか! 何処ですかー? 俺、社会人入学して、お揃いにしよっかなー」

、修正」


 低められた声と共に、緑の光がスクリーン上を跳ねた。





 猪熊が惰眠を貪っている時だった。

 スマホが重要連絡先からの着信を告げる。タオルケットごと体を捩ると、ディスプレイには三枝透子の名と共に、


『すぐ出られる?』


 とメッセージが表示されていた。その素っ気なさに三枝らしさを感じながら、猪熊は予防線を張る。


『出来なくはないです』

『着いたら連絡を』


 有無を言わさぬ返答の下、現れた住所に猪熊は首を捻った。


――千代田区……1-1-1って何だよ、この只者じゃねえ住所……皇居!?


 しかし、地図はその隣り、日比谷公園に面したホテルを示す。普段着で行ける気のしない名称に、猪熊は慌ててクローゼットから皺のない服を選び出した。クライアントとの急の案件を思い描いてネクタイを締める。

 その瞬間、誘われている可能性が脳裏を掠めたが、すぐに彼は意識的に頭を振るった。


『着きました』


 白と緑の爽やかなロビー装花の前で猪熊はスマホを取り出した。






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