虫食いだらけの世界で僕はひとり砂を踏む

入江弥彦

バグ

 僕らの世界は、バグに侵食されている。



「リョウスケにバグがでたんだって」



 まるで明日の天気や、遠い異国の話でもするようにチナホが言った。頬杖をついて見つめる窓の先には砂漠が広がっている。地平線の端が明滅を繰り返していた。校庭というには広すぎる砂のなかでサッカーをしているクラスメイトが転ぶのが見える。



「バグって、あのバグ?」


「それ以外になにがあるのよ」



 冷静に、少し声を落として尋ねるとチナホは大人の女性みたいに肩をすくめて見せる。中学生の彼女には不釣り合いな仕草に見えたけれど、好きな人の仕草としてみてみるとこれ以上なく魅力的なのだから不思議だ。



「でも、それじゃあリョウスケは……」


「砂になっちゃうね」


「それは、その、彼女としては、えっと、辛くない?」



 必死にチナホを傷つけないように言葉を選んだつもりだったが、彼女は少し眉間にしわを寄せた。



「出ちゃったものはしょうがないでしょ」



 投げやりな返事を聞いて、チナホがどこか他人事のようにものをいう理由がわかった。彼女は大切な人を失う悲しみを表現する方法を持ち合わせていないのだ。


 世界に初めてバグが現れたのは、今から半世紀ほど前のことだった。人間の体や動物に長方形の亀裂が走って明滅する様子は、ゲームに詳しくない人が見てもバグと名付けるだろう。正式な名称があって、昔にずいぶんしつこく教えられたけれど、僕の記憶能力に問題があるのかもう覚えていない。


 バグが現れると数日から数か月で体が崩れていく。厳密に言うと砂ではないのだろうが、僕らはそれを砂と呼んでいた。窓の外に広がる砂漠もどこかの誰かだったものだ。昔の担任の先生かもしれないし、みんなで可愛がっていた猫かもしれない。



「今からリョウスケんとこ行くんだけど、ニゴウも来る?」


「……僕は遠慮しとくよ。よろしく伝えておいて」


「そう? じゃあ先に帰るね!」



 素直に行くと言えなかったのは、少しだけ、ほんの少しだけラッキーだと思ってしまったからだ。


 リョウスケが砂になったのは、それから三日後だった。バグの進行としてはかなり早いほうで、僕にできることと言えば声をあげて泣くチナホの背中をさすることくらいだ。



「これ、リョウスケが私とニゴウにって。手紙に書いてあって……」



 一通り泣いた後、少し落ち着いたチナホがそう言ってポケットから取り出したのは、砂の入った二つの瓶だった。家族の誰かか、もしくはチナホが詰めたのだろう。



「これが、リョウスケ?」


「もうすぐ誕生日だったんだよ、私」



 彼女の表情が肯定の証だった。泣いているとも、笑っているともとれる、いいようのない感情が混ざった顔だ。


 僕とチナホの手の中にある最期のプレゼントは、まるで呪いのように思えた。チナホに手を出すな、俺のことを忘れるな、ずっとそばにいる、そんな呪いだ。



「ねえ、ニゴウ。私がもし砂になったらさ、リョウスケと混ぜてよ」


「え?」



 それは、僕にとって死刑宣告にも似た言葉だった。



「もう少し大きい瓶でさ、同じくらいの量の私を混ぜてほしい。あ、白いリボンで蓋をしてほしいな、ほら、昔って女の子は白い服で愛を誓ったっていうじゃない?」



 名案だというようにチナホが手を叩く。



「なんで僕に頼むのさ」


「だって、ニゴウにはバグがでないでしょ?」


「わかんないよ、そんなの」


「でるとしても、きっと私のほうが先だもの。ねえ、約束して?」


「……約束するよ」



 チナホが瓶をカバンにしまってから、俺の返事に満足したように頷いた。





 彼女の目を盗んで鞄から瓶を取り出した。特に緊張することなく男子トイレに逃げ込み、瓶全体を眺める。油性ペンで書かれた愛の言葉だけが、僕の瓶との違いだった。


 チナホはいつ、この瓶がなくなったことに気が付くだろうか。血相を変えて僕に泣きついてくるかもしれない。そうしたら僕は、僕ならいなくならないよと言ってあげよう。誕生日だって、僕なら毎年何かを送ってあげられる。


 授業が始まって人気がなくなった廊下を進み、昇降口を出る。


 二つの瓶の蓋を開けてひっくり返すと、リョウスケだったものはすぐに他の砂に紛れてわからなくなった。


 バグは、生き物にのみ生じるらしい。


 僕を作った親は、その最初の犠牲者だった。







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