誰が為に夜汽車は走る

空草 うつを

真夜中

 今日、失恋した。


 3年3か月と12日。1,622日間付き合ってきて、最後は10秒の会話で幕を閉じた。

 たったの、10秒間。


「俺と別れてほしい」

「どうして?」

「好きな人ができた」

「そっか……うまくいくといいね」

「ありがと」

「じゃあね」

「うん、じゃあ」


 あっさりと引き下がったのは、最後まで可愛い彼女でいたかったから。我儘なんて言わないし束縛なんてしない、嫌だともダメとも言わない従順な女の子。

 いつか貴方が過去の恋愛を振り返った時、昔付き合ってた中であの子は可愛かったなって言ってもらえるような子になりたかったから。


 でも、電話を切った瞬間、後悔した。

 もう少ししがみつけば良かった。貴方のことを幸せにできるのは私だけなのだと、貴方のことがどれほど好きか、何時間もかけて伝えればよかった。


 もう二度と声に出してはいけない貴方への思いが胸の中に溜まり続けている。吐き出せないから溢れかえって涙になって流れ出そうだ。

 我慢したのは、電車の中だったから。帰宅ラッシュの電車は混み合っていて、皆スマホの画面に夢中になっているから私の傷心など気にする人はいない。

 ドアに近い椅子の端に腰掛けて、仕切り板にもたれかかって涙が溢れないようにとしっかり目を閉じていた。


「次は、三鷹、三鷹。お降りのお客様は——」


 駅が近づいて、電車がスピードを緩めていく。この駅で降りなければいけないのに、まだ降りたくない気もする。このままひとり暮らしの部屋に戻ったら、重苦しい静寂と部屋に残った彼との思い出に押し潰されてしまいそうだから。

 見知らぬ土地に行きたい。誰にも干渉されることなく、傷だらけの心が癒えるまで涙と共に全てを流してしまいたい。


 ガタン、と電車が揺れると体が斜めに傾き、スピードが上がっていく感覚がした。同時に、体の奥まで轟くような重厚感のある汽笛が鳴り響いた。


 何事かと目を開ければ、さっきまですし詰め状態だった電車には私ひとりしか乗車していないことを知る。それも、乗っていたのは見覚えのないレトロな内装の客車。床も天井も全て木製、頭上にある橙色の電灯がぼんやりと車内を照らす。群青色の硬めの椅子はボックス席で、私は窓側に腰掛けていた。


 電車ならばモーター音がするはずだが、何故か蒸気の漏れるような音が聞こえてくる。窓の外には家々の灯りと共に、僅かに煙が漂っていた。

 カーブに差し掛かった時、先頭車両が姿を現す。客車を引っ張っていたのは黒光りした蒸気機関車。蒸気と黒煙を噴き上げて、シュッシュと音を鳴らしながら月が照らす線路を直走っていく。


「こんばんは」


 不意に声をかけられて振り向くと、通路に男性の車掌さんが立っていた。陶器のような透き通った肌、帽子の鍔から覗く切長の瞳はラピスラズリにも似た深いブルー、髪はまるで星が瞬いているような銀色をしていた。綺麗な人だとその瞳に見惚れていると、白い手袋をはめたすらりと長い指が伸びてきた。


「切符を拝見致します」


 ICカードで入場したから切符など持っていない。正直に言うと、車掌さんは私のジャケットの左胸ポケットを指差した。


「その切符を私に」


 半信半疑でポケットに手を突っ込むと、乾いた紙が指先に触れた。買った覚えなどない、手のひらに収まる大きさの長方形の分厚い紙に驚愕していると、車掌さんがするりと私の指から切符を抜き取っていく。


「私、その切符……知らなくて。お金払ってないんです」


 鞄から財布を取り出そうとする手を制止しようと、車掌さんが手を重ねてくる。じわりと広がる温もりに驚き見れば、ラピスラズリと目がかち合った。


「お金は結構ですよ。この切符は最後まで失くさないようお願いしますね」


 私の手元に切符を戻した車掌さんは、向かいの席に腰掛けた。長い足を優雅に組んで、窓に肘をついて楽しげに外を眺めている。


「あの……この汽車は……」


 私の声に気づいた車掌さんは、あ、と口を開けた。


「大変失礼致しました。説明がまだでしたね」


 組んだ足を戻して罰が悪そうに深々と頭を下げてくる。恐縮して「大丈夫です」と言えば、ほっとしたのか柔く微笑んだ。


「この汽車は『終夜急行よもすがらきゅうこう』と言います。必要な時に必要な人の為に走る、臨時夜行列車です。今宵は貴女に必要だと思いまして、馳せ参じました」

「もしかして……まだ電車に乗っていたいって、私が我儘を心の中で思ったからですか?」


 私の為だけに走らせるなんて烏滸おこがましいと、申し訳なさが勝って「すみません」と口走る。


「謝る必要なんてありませんよ。それに、我儘なんてとんでもない。寧ろ、貴女はもっと我儘を言ってもいいと思います。その方が嬉しい時もあるんですよ?」

「我儘が、嬉しい?」

「ええ。度を過ぎたのは流石に困り果てますが。ちょっとした我儘ならば、可愛いと思うものですよ。特に恋人どうしでは」


 私は、気づいてしまった。我儘を言わないのが可愛い彼女なのだと思ってた。迷惑をかけないのが良い女なのだと。

 でも本当は、彼は頼ってほしかったのかもしれない。自分では頼りにならないのかと、寂しい思いをさせてしまっていたのかもしれない。


「だから今夜は甘えていいのですよ? 私がお付き合い致します」


 車掌さんは胸ポケットから、アイロン掛けをされたハンカチを取り出した。自分が泣いていたことを知ったのは、そのハンカチを私に手渡してきたから。

 頬を伝った涙をハンカチで拭う。微かに石鹸の香りがした。


「本当に、いいんですか?」

「もちろんです。貴女の行きたい所、どこへでもお連れ致します」


 行きたい所は、なかった。思いつく場所は全部、彼との思い出の場所ばかり。


「特にありません。でも、家に帰るのは……ひとりでいたいような、でも誰かにいてほしいような、自分でもよく分からないんです」


 さぞ困ってしまっただろうと不安になったが、車掌さんは表情を変えることなく深く頷いてくれた。


「かしこまりました。では、貴女のお気の召すままに走らせましょう」


 瞬きをした後、足を組んで椅子に座っていた車掌さんは跡形もなく消えていた。会話が消えた車内は、線路と線路の継ぎ目を車輪が通過する音と、蒸気の音が大きく響いている。

 ひとりになった私は、窓辺に体を預けて心地良い振動に身を委ねる。体が接地している所がほんのりと温かい。ふと、手に重ねられた車掌さんの掌の温もりが蘇って、ひとりなのにひとりではない心強さを感じていた。


 ほろり、ほろりと涙が伝う。誰もいない車内で、私は子供のように泣きじゃくる。安心して泣けるのは、列車が私に干渉することなく、それでいて何も言わずに温かく私を包み込んでくれている気がするから。


 ひとしきり泣いて、泣き腫らして、涙も枯れて心の傷も少し癒えた頃。


「落ち着きましたか?」


 気がつくと通路に車掌さんが立っていた。急いで残りの涙を拭って「はい」と言った声は、酷くしゃがれていた。


「前を向けそうですか?」

「はい」


 力強く頷いた。全て流し切ったのだから、もう大丈夫だと。


「あの、このハンカチ洗って返しますので」


 車掌さんから借りたハンカチは、私の涙でぐしゃぐしゃになっていた。でも、車掌さんは私の手からハンカチを拾いあげ、両手で包みこんでしまった。


「涙で汚れてますので……あ」


 さっきまで、車掌さんの手の中にあったのに。車掌さんが手を広げた時には、ハンカチは消滅していた。


「泣いた痕跡は全部消してしまいましょう」

「魔法……? 貴方は、一体……」


 ずっと気になっていた。この夜汽車に乗る貴方が、一体何者なのか。


「私ですか? この夜汽車そのもの、といいますか、付喪神みたいなものですよ」


 くすっ、と笑うと、白い手袋をはめた指が伸びてくる。


「ご乗車ありがとうございました。最後に、切符を拝見致します」

「車掌さん、本当に、今夜はありがとうございました」


 胸ポケットにしまった切符を車掌さんに手渡しながら精一杯の感謝の気持ちを添えて、一礼した。


「貴女のお役に立てたのならば、私は満足でございます」


 微笑みながら、古びた改札鋏で切符を切った。


 カチャン——。




「次は、三鷹、三鷹。お降りのお客様は——」


 混み合った車内のざわめきと、停車する駅のアナウンスが一気に耳に入ってきて、夢の中から引き戻された感覚に陥る。

 降りなくては、と何故か冷静になっている自分がいて、駅に着いた途端電車から飛び降りた。私の背後で、電車は次の駅へ向けて走り出していく。駅に着いた人達が群れをなして帰路につく中、私は茫然とホームに佇んだ。


 現実の世界に戻ってきた。いや、あの夜汽車も現実だったはずだ。私の手には、確かに車掌さんが切ってくれた切符が握られているから。

 長方形の小さな厚紙に、車掌さんのものらしき美しい文字で書かれたメッセージが刻まれている。


『ご用命の際はいつでも馳せ参じます。目的地まで、責任を持って貴女をお送り致します』


 その裏には私が通過した駅と目的地の名前が、しっかりと印刷されていた。


『失恋経由 少し強くなった新しい自分行き』



(完)

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