第70話 これまでの人生はこれからの為にある
「
耳に馴染んだその声に、心の底から安心するが、ここは一人部屋ではない。
「
すぐに注意を促そうとしたところで、先にセリフを取られてしまう。まぁ俺よりも奴のが適任だが。
「
「なんだ。顔色良さそうじゃないか」
「明日には退院出来るからな。
もう万全に近いよ」
「そうか。ならぶん殴ってもいいか?」
突然の暴力発言に、千紗と一美は戸惑っている。だが千智の不満そうな表情は、怒りよりも悔しさが見え隠れしていた。
実際こいつには要らぬ気苦労を強いてしまったし、
俺はあえて奴を挑発するように、口角を上げてニヤけて見せる。
「お前の気が済むならそうしてくれ」
「え、ちょっと錬次くん⁉︎
「いいよ千紗ちゃん。そいつを止めなくていい」
「そんなこと言われても……」
慌てふためきながら庇おうとする千紗に、千智はみるみる気まずそうになっていく。
間に挟まる女性二人の奥で、眉をハの字にして頭を掻く姿は、なかなかに愉快だった。
「ごめん岸田さん、本気で殴るつもりはないよ」
「え、そうなの? うちこそごめんなさい」
「ちょっと千智くん⁉︎ 私には謝らないの?」
「いやさ、一美は察してくれよ今の」
「だって本気で怒ってる顔してたよ⁉︎」
何故か妻に詰め寄られている男に、少し同情してしまう。あいつが俺を殴りたかったとしても、それは仕方ないんだけどな。
大きな溜め息を吐いた千智は、ゆっくりと歩み寄って来た。
「水くせぇぞ錬次。
俺がそんなに繊細に見えるのか?」
「黙ってて悪かったよ。
でもお前の小さな肝っ玉はよく知ってるぞ?」
「病気の話を聞いたって、一美を幸せにする障害にはならん」
「それだけじゃないからな」
「昔から知り合いだった件か……」
今度は軽く息を吐くと同時に、俺から目を逸らす。こいつが変に意識するとしたら、そちらの方が大きな要因だ。
「幼馴染を心配した妻が、見舞いに通っていると知れば、お前は結婚も仕事も身が入らなくなるだろ」
「うるせーな。それでお前が死んでたらどうするつもりだよ」
「お前達の幸せを見届けるまで死なないさ。
それだけは決めてたんだ」
「なんでそんなにお気楽なんだか」
「これでも必死で生き長らえたんだぞ?」
「………らしいな」
重々しい空気にはしたくなかったのだが、こいつとの会話ではそうもいかないらしい。上っ面の発言からでも、お互いの胸の内が充分に往来してしまい、俺の申し訳なさは千智に、奴の苦悩は俺へと伝染する。
若干の沈黙にやりきれない気分の中、それを壊してくれるのはやはり一美だった。
「錬次くんが退院したら、みんなでまたダブルデートしましょう!」
「唐突だなぁおい。
でも二十日までは待ってくれないか?」
「え? まぁ一週間後ですし構いませんけど、なんでその日以降なんですか?」
「二十日が大安なんだよ」
「おぉ!
もしかして千紗ちゃんと籍入れるんですか⁉︎」
興奮のあまり、またもやトーンが上がる一美を、三人同時に人差し指を鼻に当てて制止する。
「ごめんなさい……嬉しくなってつい」
「ようやく錬次くんが決心してくれたんだよ。
ずっと一美ちゃん達ばかり気にしてたんだから」
「もう、錬次くん?
千紗ちゃんが可哀想じゃないですか」
「わかってるよ。だからこれから先は、お前らの事なんて知らん」
「ひっどーい!
それはどうかと思いますー!」
「どうしろってんだよまったく……」
くだらないやり取りがツボにハマったのか、千智が急に笑い出した。つられるように千紗も口元を隠し、一美はひとりポカンとしている。俺としてはその情けない顔が一番面白く思えた。
「お前ら全然変わってないんだな!」
「いや、千智も人のこと言えないぞ?
店長の風格まるで無いからな?」
「うっせ。
お前なんて万年売り場スタッフの
「やめて二人とも。お腹痛くなってくるから」
「千紗ちゃん、君の旦那が馬鹿にされてるんだぞ?
この不躾な筋肉野郎に文句言ってくれよ」
「壱谷さん、一美ちゃんの相手をしてあげて」
置いてけぼりを食らった一美は、千智に頭を撫でられご機嫌そうにしている。夫婦として仲睦まじい二人を見られて、胸が熱くなるほどの達成感に包まれた。
もう彼らは大丈夫。そう思っていた時に、千紗がベッドの
「錬次くん。うちもやって」
「珍しいな。千紗ちゃんが甘えてくるなんて」
「これでもあなたよりは年下だよ? ずっと甘やかしてきたんだから、たまには交代」
「そうだな。今度は俺が君を支えるよ」
こうして見舞いを終えた二人と、二十一日にこの場の全員で遊びに行く約束を取り付け、入院生活最終日は足早に過ぎ去った。
翌日からはまともな日常に帰還し、予定通りの日に千紗は岸田の姓に別れを告げ、新たに
お互いの両親も大喜びしたこの日に、兄貴から祝いの電話が来た。
「いやぁー、ついに錬次に先を越されたか!」
「おい。祝う為じゃないなら切るぞ?」
「あー、待て待て。ちょっと提案!」
「ロクな内容じゃなくても切るぞ?」
「お前さ、またうちで働くだろ?
ついでに千紗ちゃんも一緒にどう?」
兄貴が言い切ったタイミングで、通話を断ち切る。
「あれ? お義兄さんなんだって?」
「なんか、千紗ちゃんも一緒に働かせようとしてるんだが」
「え、いいの?」
「逆にいいの⁉︎ 今の仕事は?」
「うちはまたあなたと同じ職場で働けるなら、それが一番いいかなって思ってるよ」
「そ、そうなんだ……」
千紗に確認したところで、図ったように再度
「千紗ちゃんいいって?」
「あんたどっかで覗いてんの?」
「んな暇じゃねぇよ。
錬次夫婦で来てくれりゃ、会社も助かる」
「わかった。近い内に復帰の日程も決めよう」
「おう、こっちはいつでもいいぞー。
あぁ、あと結婚おめでとう!」
「最後じゃなければ素直に喜べたんだけどな」
ふざけているようで、いつも俺の心配ばかりしている、どうしようもないブラコン兄貴だな。
しかし千紗と一緒に働く機会までくれるなんて、なんと礼を言えば良いものか。
「明日遊びに行ったら、お義兄さんにもお土産買おうね」
「どうせなら食い切れないほどの菓子でも買うか」
「職場のみんなにも?」
「あぁ。良い人ばかりなんだよ」
「錬次くん、これから楽しみだね!」
「二色錬次はここから再スタートだ」
壱谷千智としての俺は死んだ。妻である一美を残し、二色錬次として生まれ変わった。この世界は偽物だとは思えない。どちらかと言えば、俺の記憶にある過去の方があやふやだ。
それでも俺は生まれ変わったのだろう。一美と最後まで寄り添えなかった千智の未来を変え、二人の幸せを見届ける為に。そして今も隣に居てくれる、千紗を幸せにする為に。
だから俺はこの人生に感謝している。例えまた苦しい日々が訪れるとしても、この世界に連れて来てくれた錬次を恨んだりはしない。
むしろ胸を張ってこう言うだろう。
『事故死して生まれ変わった俺の心は、幸運にも大切な人達に救われていた』
事故死して生まれ変わった俺の体は、皮肉にも妻の浮気相手になっていた 創つむじ @hazimetumuzi1027
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