終着駅

笹岡耕太郎

春の雪は冷たく触れ熱く流れた・・・

 東北新幹線が、新青森駅に滑り込んだ。

窓の外は、白く吹雪始めている。窓に叩きつけられた雪は、張り付くことなく雨を多量に含んでいるのか、涙のように流れては消えてゆく。

 昼を少し過ぎたばかりだが、光は力を失いすでに夜に向かっているようである。

ここから、津軽海峡を渡り新函館北斗駅までは、一時間余りであろうか・・・


 亜沙子の約三十年ぶりとなる帰郷である。

新幹線が通ったとはいえ、東京からはまだはるかに遠く、生まれ故郷に寄せる心の距離に比例もしていたのだ。


 新駅からは函館本線に乗り換えると、さらに約五十分程を走り、やっと生まれ育った町のホームに降りることが出来た。目に映った駅の風景は、見覚えのないもので

あった。亜沙子は、異邦人のようにしばらくホームに佇んでいた。

しかし、記憶の中を時間は巻き戻って行かないのだ。確かめるように、腕の秒針を見る。目を上げると、ホームにはすでに人影が途絶えていた。

亜沙子は漂泊者として改札を抜けると、平屋のコンクリート造りの駅舎を振り返って無意識に見上げていた。駅名を確認するためであった。

『八雲駅』と書かれていた。間違いもなく、亜沙子の生まれ育った町である。


                 *


 八雲は、駅弁で有名な『森』の北に位置し、函館と室蘭の中間点にあたる人工約一万六千人の小さな町である。目の前の内浦湾では魚介が豊富なため、いまだに漁業が盛んであった。駅前のロータリーは、広く整備がされていて昔の面影は全くと言っていいほど残されていない。三十年という月日の長さを、今更ながら感じさせていた。 

 亜沙子は、道路を隔てた角地に立つ古い木造の建物に記憶があった。学生時代の部活帰りによく通った食堂に似ている。ロータリーを渡り、確認すべく店の前に立った。はたして、朽ちかけた看板の文字は、『八雲食堂』と読めた。人影はなく、何年も前に閉ざされたのは明らかであった。

亜沙子の胸が熱くなった。自分の過去に繋がる唯一のものを見つけ、安堵したのである。同じ時間と季節を過ごした懐かしい友達の顔が、古びた看板の上に浮かんでいた。十六歳で高校を中退し、逃げるように生まれ育った町を捨てた亜沙子にとって、駅に降りてから故郷が初めて自分を受け入れてくれたと感じた瞬間であった。


「早く、うちに帰らなきゃ」 今日東京を離れて以来の亜沙子の呟きであった。


黄色くペイントされた見覚えのある『八雲タクシー』に乗ると、行き先を告げた。

「海岸通りの二丁目まで、お願いします」

「市場の近くだな?」

「そう、魚市場を左に曲がって100mくらい行ったところね」


黄色いタクシーがロータリーを抜け、海に続く道路をしばらく進むと、見覚えのある商店が目に飛び込んで来た。まだ営業をしているようだ。

「あの本屋さん、まだあるんだ。短い間だったけど、夏休みにバイトしたことある」

亜沙子の独り言であった。懐かしさに、景色が滲んで見えた。

「お客さん、ここの出かね。この辺はまだ手付かずだから、あまり変わってはいないよ。でも、人も減ってるしいつまで続くかが問題だな」


 改札を出た時にちらついていた雪も止んでいるようだ。

すでに帳は降りているが、目を凝らすとフロントガラスを通して雲の重さが鼻先まで感じられる。いまから思い返すと、この鉛のような空気感も生まれた地を捨てた理由の一つであったかも知れないと、亜沙子は思った。


                 *


 一週間前亜沙子のもとに、突然一通の葉書が届いた。

差出人は、同い年である従妹の真奈美であり、住所は北海道二海郡八雲町である。

真奈美は、隣町の『森町』に嫁いでいたが、地方にありがちな古い慣習を大事にする姑との諍いから十年ほど前に二人の娘を連れて、八雲に戻って来ていた。

真奈美の葉書には、こう書かれていた。


「 亜沙子ちゃん、お変わりありませんか。

 突然の葉書で、さぞ驚かれたことでしょうね。何しろ、亜沙子ちゃんが町を離れ   

 て以来だから三十年も会っていませんものね。

 少し迷いましたが、悪いお知らせをしなければなりません。実は、亜沙子ちゃん

 のお母様が、五日前に亡くなったのです。本当に残念ですけれど・・・

 ご葬儀は、私達で無事に済ませましたので心配しないでいいのですよ。


  この葉書は、手の不自由な母に代わって書いています。亜沙子ちゃんが私の母に

 十年前に出してくれた葉書の住所を頼りに書いていますが、無事に届いてくれれば

 良いと願っています。

 念のため電話番号を書いておきますが、至急連絡をくださいね。

 待ってます。 

 真奈美   0137-64-17**                      」


  以前、亜沙子が母の様子を知るために、近くに住む叔母に宛てた葉書を大事に取っておいてくれたのであった。たった一枚の葉書ではあったが、今から思えば、

一人残して来た母が気がかりであった娘としての思いからであったのだろう。叔母には、葉書のことは母には内緒にと頼んでいたのだった。


                   *


 十六歳で東京に出て来た亜沙子は、錦糸町で働き始めた。これといった経験も資格もない亜沙子にとって、唯一受け入れてくれた世界であった。源氏名をアコと名乗った。高校時代に友達からこう呼ばれていたからだった。

故郷とは、全く違う世界であった。夜の煌びやかさは朝まで続き、街が眠ることはなかった。最新のファッションに身を包んだ男女が楽しそうに腕を組み歩いている。ここには、狭い田舎町に根差している古い因習や視線は皆無であった。私の求めていた世界がここにある。亜沙子は、思い切り息を吸うと故郷を捨てて来た意味をいまさらながらかみしめ、息を吐き出すとその結果に心震えたのだった。


 亜沙子の父親は、亜沙子十五歳の夏に突然亡くなったのである。

内浦の漁師であった父の拓三は、時化が三日も続いた翌日、中古の船をローンで買ったばかりという事もあったのだろう無理をしてまだ波風の残る海に出かけ海難事故にあったのである。四十五歳の男盛りであった。

亜沙子は、父が漁に出る前の両親の言い争いをまだ鮮明に覚えている。


「お父さん、まだこんな荒れた海に出かけて危ないから止して下さいな!」

「もう、三日もこのままだ。明日も同じだろうよ。俺は、末までに何とか少しでも返さなきゃならねんだよ」

「それは、分かってます!今回も私が何とか、組合長に頼んでみますから」

「澄子!前にもそんなことがあったよな。あの晩、酒を飲んで遅く帰って来た・・」

「あれは、無理やりすすめられて・・・・仕方なく・・・・・・・・・・・・・」

「馬鹿にすんなよ、澄子! 俺にも、意地っていうものがあるのを見せてやるよ」

「ほんとに、お父さん!気を付けてね!」

 北の小さな町の粗末な家である。寝ている亜沙子の耳元にも二人の話し声がはっきりと、聞こえていたのだった。


 妻澄子の嘆きは、親類の想像を越えていたと、言っていい。狭い八雲で出会った二人であった。澄子が地元の小さな食料品店で働き始めた時、澄子目当てに通ってくる客の一人が拓三であった。二人が恋仲になるのに大した時間は掛からなかった。

強い夫婦愛で結ばれていた。生活は決して楽ではなかったが二人の思いは熱く、前を向いて確かな暮らしを営んでいた。

一年後に娘が生まれると、亜沙子と名を付けた。拓三は、名前の由来を澄子には話さなかったが、年頃になった亜沙子が父に聞いたことがある。

「お父さん、私にどうして亜沙子って、付けたの?」

「母さんに内緒だぞ。実は、小さい頃亡くなった妹の名前なんだ。亜沙子には、妹の分までずうっと長生きして欲しくってね」

一人娘の亜沙子にとっても、自慢の父であった。その死は、到底受け入れられる事実ではなく、いつしか母娘の関係も不自然に壊れていったのだ。


 澄子は、現実から逃れるように酒に溺れて行った。

亜沙子が、高校から帰って来ても家で待っているわけでもなく、深夜に男に送られて帰ってくる日々が日常化していった。そして、決定的な夜を迎えることになる。

亜沙子が部活で遅くなった夜、玄関の扉を開けようとした亜沙子の耳に、母親の苦しそうな呻き声が聞こえて来た。そして、それに若い男の低い声が重なった。

十五歳の亜沙子ではあったが、今起きていることは十分に理解出来た。母親のつらい気持ちは分かるとしても、若い男に救いを求める姿は許せるものではなかった。

なぜ、それが自分が生んで育てた娘ではないのか・・・

「絶対許せない!」 亜沙子は、我に返ると従妹の真奈美の家に向かって走り出した。背後から、母親の叫び声が追ってきた。

「亜沙ちゃ~ん! 待って!」しかし、その声は亜沙子の心には届かなかったのだ。

翌月、十六歳の誕生日を迎えた亜沙子は、迷いもなく故郷を捨て自分の居場所を捜すために東京を目指した。女友達と読みまわした女性誌を飾る垢ぬけたモデル達の眩しさが少なからず影響を与えていたのである。

都会には、亜沙子が求める安住の地があると信じて疑わなかった。ある意味これは

真実であるかも知れないのだ。後に成功した人間にとっては、賢明な判断であったと自慢げに語ることも出来るのである。


                 *


 都会の夜を彩るイルミネーションは美しかった。故郷の満天の星空も美しかったが、それを凌駕する都会の持つ妖しさに亜沙子は、強く魅かれたのだった。

四年の月日が流れスナック『ルージュ』の仕事にも慣れていた頃である。いくつかの恋愛も経験し、それなりに男の本性も見て来た亜沙子であった。

亜沙子目当てに通ってくる大学生がいたのである。名前を修一といった。

最初のきっかけは、大学のコンパの流れで部活の先輩に連れてこられたという事であった。その後修一は、バイトの金を貯めては一人で通ってくるようになったのだ。

修一と亜沙子は、店の中でのホステスと客の関係であり、節度は保たれていた。

しかし、亜沙子は十分に修一の好意以上のものを感じとっていたし、人間性も申し分のない好青年と思っていたのであるが、恋人関係になることなど考えもしなかった。

 通い始めて二年も経った頃、修一は結婚を前提に亜沙子に交際を申し込んだ。


「亜沙子さん、やっと僕も大学を卒業し社会人になることが出来ました。これも亜沙子さんのおかげです」

「私のって、それどういう意味なの?」

「僕には、心に決めたことがあったんだ。社会人になったら正式に亜沙子さんに交

 際を申し込もうと思ってた。それが今日というわけさ」

修一なりのけじめであったのだろう。修一の人柄がしのばれた。

「亜沙子さん、受けてくれるよね」

「もちろん、嬉しいわ」

亜沙子は、長年の憧れた夢が叶うことに心が震えた。

私の選んだ道は、決して間違ってはいなかった。これで、やっとお母さんを安心させられる報告が出来る・・・・・故郷を捨てた亜沙子ではあったが、母のことを一時も忘れたことはなかったのである。


 しかし、修一の両親に結婚の承諾を受けに行った時に、はかなくもその夢は崩れ去って行った。学歴もなく、名も知らぬ小さな田舎町育ちの水商売女を嫁にする訳にはいかないと、暗に言い放たれたのであった。

「名前は、亜沙子さんていうのね。修一は、まだ大学出たての二十三歳なんですよ。あなたは、十分に経験を積んでいらっしゃるでしょうけど、修一にはもっと社会人としての経験を積ませなければいけないでしょうし、出会いもあると思うのよ。ここは冷静に考えて、私の言う意味をくみ取って欲しいのよ」

修一の母令子は、亜沙子の青ざめた顔色を見ると、付け足した。

「いくらかお渡ししたいとは、思っていますのよ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・」亜沙子は、返す言葉が見つからなかった。

「母さん!あんまりだよ」修一の声は、弱弱しく震えていた。

「修一さん、昨晩お母さんが言った通りにしなさいね。あなたは、お父様の会社を継がなければいけないのだし、まだまだ、人生経験が足りないのですよ」


 修一は、亜沙子を駅まで送る道すがら駆け落ちしてでも一緒になりたいと話した。

その言葉は、冷め切った亜沙子の心に温かく染みたのだった。

しかし、亜沙子は修一を愛していればこそ、身を引かなければならないと決心していた。そして、身の程知らずの自分を責めた。

修一にとっては、これが初めてといえる恋であったのだろう。修一に罪はないのだ。

亜沙子の手から、サラサラと何かがこぼれ落ちて行った。まるで、両親と故郷の砂浜で遊んだ時の記憶のように・・・・・・

 修一がこの日以来『ルージュ』に姿を見せることはなかった。

煌びやかに映っていた街が、人間の持つ滓に沈んで行った。亜沙子は、自分が都会の底辺に住む深海魚であることを実感したのだった。見上げた空に故郷を重ねた。


「お母さんのいる町に帰りたい・・・・・」

こんな思いも叶わないまま、無常にも三十年という月日が流れて行った・・・・・



                 *

                


 タクシーの中で亜沙子は、ふと我に返った。自分の歳を思い出してみる。    四十六歳になった母親にうりふたつの自分の顔が車の窓ガラスに映っていた。

「お母さん・・・」

実家までは、あと十分程の距離であろうか。

従妹の真奈美との電話での会話が蘇ってくる・・・・・・・・・


「澄子伯母さんはね。亜沙ちゃんが三十年前に家を出た日から一日も欠かさず近所

 の『八雲神社』にお参りをしていたのよ。それは、一人娘の無事と一日でも早く

 一緒に暮らしたいという祈りだったと思うわ。伯母さんは、あれ以来一滴のお酒も飲んでいなくて、ましてや男の人との付き合いも一切なかったみたいね」

 

 澄子の生活は誰を頼るでもなく、辛い冬の間も朝はやくから漁師網の修繕の仕事を続け生活の糧としていた。そして、苦しい生活の中からでも、亜沙子のためにと少額の郵便貯金を三十年間も続けていたのだった。

 厳しい寒さの残る三月の初旬、まだ雪の残る『八雲神社』の参道を澄子は歩いていた。八雲の夜は、明け切れていない。昨日と比べても一段と凍れる朝であった。

澄子にとって、仕事に行く前に参拝をするのがここ三十年来の日課となっていた。

 亜沙子が家を飛び出した朝のことは、一日とて忘れたことはなかった。目をつむる度にその寂しい朝が蘇って来た。澄子は、自分が許せなかったのである。

亜沙子を東京に追いやった自分が心底憎かった。今朝も寂しさと後悔の念を振り払うために、一心に氏神様に祈っていた。


「亜沙子、許して欲しいとは言わないわ。私はどうなっても良い。でも、あなただけは幸せになってね。これがお母さんの一人娘のあなたに贈る最大の願いなのよ」

参拝を終えて階段を下りる足取りがいつになく頼りなく感じる澄子であった。

目の前の見慣れた景色が霞んでいく。薄れていく意識の中に、微笑んでいる亜沙子が一瞬見えた気がした。


「亜沙ちゃん、あ母さんを許してくれたのね。・・ありがと・・・・・・・・・」

言い終わらないうちに、澄子は、自分の心と体が急に軽くなって行くように感じた。


 階段の中段に、崩れるように座っている年配の女性を発見したのは、一時間後の犬の散歩で訪れた顔見知りの初老の男性であった。澄子の顔には、苦しんだ様子もなく穏やかな笑みが浮かんでいたそうである。

澄子は、救われたのだ。三十年という月日の果てに、初めて亜沙子の許しを心に感じた母としての安堵であったかも知れない。澄子七十六歳の最後の冬のことであった。



              エピローグ



 亜沙子を乗せたタクシーは、道道202号線をまっすぐ進み、国道5号線にぶつかると、それを左折した。

まもなく、左側に亜沙子の生まれ育った集落が見えてくる。

目の前が内浦湾で、天気が良ければ対岸に室蘭の夜景がきれいに見えるはずの地域である。タクシーは、確かめるようにゆっくりと左折をした。

記憶にあった真奈美の家の前を通り過ぎる。時間が止まっていたかのように、何も変わっていなかった。亜沙子の生まれ育った家が30m先に見えてくる。


「ここで降ろして下さい。この古い家が私の生まれて育った家なんです」

亜沙子の記憶と少しも変わらない姿で、30年という月日を待っていてくれたのだ。

「きっと、お母さんも首を長くして待っててくれてるはずなの」

いまなら、痛いほど母の気持ちが分かるのだ。

亜沙子は、あの日の朝の母と同じ歳になっていることに気が付いた。

タクシーを降りた亜沙子の頬に、また降り出した春の雪が冷たく触れ熱く流れた。

 

「お母さ~ん、アサコ帰って来たよ~!」

電気の消えた家に向かって、亜沙子は駆け出していた。

三十年という寂しく流れた時間を取り戻すかのように・・・・・・・・




おわり




 


 




 

 







 


 


                                      

 














































 

 




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