地下道

一ヶ村銀三郎

地下道

 ――財布を無くした。我ながら人相の悪い身分証は勿論の事、陰の薄いプリペイドカードや、忘却の彼方に放棄していた数十ポイント相当の紙片、その他ハイエナの残飯みたいなクーポンが積り、不遜な名刺が嵩張り、草臥れたレシートが放置され、酸化し汚れの目立つ硬貨が数枚だけ存在していた。思い返せば実につまらない代物で構成されていたが、少なくとも現在の私に関する一切の情報が消え失せてしまったと言い張る事ができよう。

 誰かに取られたかと真っ先に思ったが、あんな安物の合成革とボロ糸で出来た財布の事だ。四桁はおろか、金色の桐紋さえ拝めず、迷惑な事に若木、稲、常盤木、菊、桜といった細かな硬貨だけが全種類揃っている。額面こそ少ないものであったが、先に挙げたカード類なども合わせると財布の中は煩雑だ。プロの連中も盗った所で、あんなガラクタの真価には絶対に気が付かなかろう。それも私という下らない一個人を特定し、褒められたものでない身分を保証する事ができる程度の効果しかない、どこにでもある代物の寄せ集めでしかないという事に。

 そう考えると嫌気が差して、溜め息が出てくる。これ以上、他人に愚かな自分という存在を感知されたくなくなってくるし、あらゆる意味で価値の安い自分に対する憤りも増すばかりである。そして何よりも外出してしまった事に腹が立ってくる。そんな自分が阿呆らしく見える。己の立場を立証できない点よりも、紛失と言う自分の行為が悔やまれたのである。ひと先ずは予定していた件を中断させる他に考えが及ばなかった。

 最後に取り出したのは駅の東口改札周辺だった筈だ。そんな不確かな記憶だけを頼りにして、問題の改札口一帯に戻ってはみたものの、革靴、ヒール、スニーカー、パンプス、草履、ブーツ、下駄、サンダル、長靴、ローラースケート、安全靴などが一同に会している無秩序な人混みの荒々しさばかりで、床がコンクリートだったのか検討も付かない。

 そんな寄せては返す人波を見て、私は汗で袖を濡らすばかりだった。こうして一縷の望みも潰え、諦めがついた。他力を借りようとして天井に吊るされた表示を見る。神託と言うには俗っぽいアイコンが並ぶ中に駅員室を表す制帽のシンボルを見つけた。矢印の指す方向、左へ向かう事にした。

 雨が降っているせいで傘が多く、それで私の進路を邪魔する鬱陶しい雑踏を押し分けて、改札口から離れた切符売り場の方面に進んでいくと「駅東改札口切符売り場及び有人窓口(特急券等の扱い所)」という妙に長ったらしい表示が掲げられた空間があった。その隣が駅員室として一般に開放されているようだった。自動ドアが開き、中へ入ってみたが随分と白い部屋で、そこまで広くはなかった。無機質な壁掛けカレンダーや何の変哲もない鉄道会社のポスター、所々に亀裂の入った時刻表、古めかしい時計が壁に飾られて、列車の発車時刻になっても変更に時間の掛かる融通の利かない十年物の電光掲示板が天井にぶら下がっていた。切符などを印刷する機械の一部を構成するであろうコンピュータに至っては平成初期に購入したっきり変更されていないと思われるブラウン管内臓の巨大なディスプレイと、同時期に購入したと推測できる幾重にも連なった3キロは優に超すハードウェアに拠って形成されていた。

 肝腎の客による混雑率は高い水準にあるように思われる。要急の不明な用事がある人々によって既に列が為されていたのである。子連れもいるから正確に計算できなかったが、本当に用事のある人物は五~六人くらいだったと思われる。先頭から眼前の順ではないが、原本はらもと止まりの特急券を買う者。烏賊原いかはらまで指定席で行くと言う者。雅野まさのまでの往復切符を頼む者。北口を尋ねる者。払い戻しを願い出る者。なぜか分からないが途中で列から離脱する者。いずれも種々の目的の元に並んでいたと見受けられる。目の前にいる連中の動向観察に気を取られている内に、私の番が来た。白亜のカウンターに前進して立ち止まった。

「すみませんが、この辺りで財布を落としてしまいまして……」

 私の発言を聞いて、面前の職員は大きな欠伸をした。グレーの制服と、黒髪は担当者の恰好として良いものの、肝腎の顔面は極めて没個性的で、まったく掴みどころのない面持ちであった。すなわち緊張感に欠けていた。おそらく彼は複雑かつ緊急の激務に忙殺されて、緊張どころではなかったのだろう。

 相手は深刻とは程遠い眠たそうな顔をして返答してくる。

「お客さんね、申し訳ありませんがね、こちらではね、遺失物なんてね、ものはですね、扱ってなんかね、いないんですよねぇ」

 実に面倒臭いと言わんばかりに素っ気なく言い放ってきた。その発声、発音の端々に間が抜けていて、どうにも張り合おうとする気力が湧き起らず、相手の無気力が私にも感染ってきたように思われた。

「はあ」

 私が返答すると、眼前の無個性は、そこら辺の石を拾い上げて眺めているような眼差しで私を見つめてきた。私は言い訳どころか、気の利いた会話すらも思い浮かばず、まずは相手の言い分、話というものを聞いてやる事に決めた。

「それにね、この駅はね、ご存知の通りね、お客もね、非常にね、多いんですね。一応ね、遺失物ね、まあ。落とし物ね、何ですがね、ここには届きますがね、財布なんてね、高尚なものはね、ここにはね、ないんですよねぇ」

 発言にケチを付ける訳ではないが、可能な限り無いならば無いと、はっきり言って戴きたいものだ。

「はあ」

 うつろな目をし、疲弊しきった表情を浮かべて、このありきたりな人物は私に財布の形状を尋ねてきた。頼りないながらも、かつての日常に馴染んでいた記憶を元として、何の変哲もない安物で、黒く二つ折りの財布であるという事、様々なカード類と共に僅かばかりの小銭が入っていた旨を伝えた。

「お客さんね。お手数ですがね、そういう事はね、駅のね、西口のね、窓口にね、遺失物のね、担当者がね、いるのでね、そちらにね、申し出てね、いただけませんかね。あちらの方がね、規模もね、それなりに大きいですしね、こちらにはね、連絡もね、全くね、入っていない事ですしね。その方がね、お客さんのね、探し物もね、捗ると思いますがね、如何ですかねぇ」

「はあ」

 前進したのか、後退したのか。私にはどうも分かりかねたが、ここでは埒が明かないようだった。悲しい事に型で押し出された既製品のごとき職員が言う通りにする他、方法も思いつかない。別に言いたくはなかったが形式的に、社交辞令的に礼を言って、駅員室から離れた私は、この駅の西口とやらにあると聞く窓口に向かう事に決めた。

 不愛想な人だかりを掻き分けて、改札口から地面の下に広がる連絡通路の入り口へ向かって行こうとした。さながら蟻が巣に戻っていくような恰好に感じられた。だが本家が故郷であるのに対して、私の場合は馴染みのない、それどころか聞いた経験も訪ねた体験もない西口なる未知の地点を目的地としなければならない。

「この道で合っていればいいが……」

 走る動作によって着慣れぬ背広から重圧と圧迫と狭苦しさを覚えながら、ひたすら地の中を縦横無尽に貫く連絡通路へ向かって、改札口と比較して明度の低い階段を下って行った。激しい動作を行うという点で会社員の仮装は不向きであった。この状況下においては、そんな変装なんぞしている暇はないし、願ってもなかった。祝日も休ませようとしない守銭の民が、無様な姿をご所望と仰せである以上、泣き喚く事も叶わなかろう。

 塗料が蛍光灯に照らされて赤・青・緑を基調としながら無理やりに痛々しい光を捻り出してくる。地下階段に張り巡らされた広告群だ。その謳い文句の真偽について四の五の言わず、私は黙って地の底へと潜り込んで行った。この駅の地下空間は一言でいえば、均一な雰囲気ばかりが立ち込めている所である。

 異様な臭気とも言える空気は我の消滅した通行人に由来するものと思われた。行き来する有機物の集団は昆虫の大群のごとく何らかの取り決めを持っているかのようだった。複眼ならぬ裸眼、近眼、老眼等から注がれる薄情な視線。自然的であり、人為的でありながら、神秘さえも感じかけた。しかし個人的に昆虫特有の規則正しさは単調で面白味に欠ける。どうにも賛同できなかった。

 気分転換に周囲を見る。人類の欲求を徒に刺激し誘惑してくる看板類、日に日に増殖する工事中の張り紙の数々。日常の断片で組み合わされたパッチワークで、私の苦悩を宥めようと努力すらしない無能な物体でしかなかった。よく来ている駅とは言え、東口から西口へ向かうのは初めてだった。

「そう言えば、あの財布の中に地図を書いたメモがあったな」

 それだって会場に向かう道順を記した簡単なものだ。不愉快そうな雑踏の流れに沿って歩いていくと、駅の構造を示した案内板があった。ここまでのルートと、これから行く先を確認しようとした。しかしそれは、まったくもって乱雑な地図だった。園児でもずっとマシな地図が書けよう。だいたい「現在地」の表示が消えかかっていた。赤い三角形のようなものが、細長い通路のようなものを指しているかのように見える絵だったが、その図面には毛細血管が少なくとも23本あるように見受けられ、実に見辛い不親切な地図であった。まるで本来の機能を果たしていない。自身を案内板と同一視していないようであった。もっとも私という存在も、半ばアイデンティティを失ったヒトのような物なのだから、この不完全な図面を揶揄できる立場にはなかったが。

「電話で後日に延期して貰えたから良いが、これではな……」

 市街の地下に張り巡らされた通路網は、難度の高い綾取りみたく複雑に入り組み……いや、もっと単純な比喩がある。目の前にある蚯蚓みみずと鰻が乱交する様を写生した物から推測するに、ここが目的地でない事だけは確からしかった。今までは確かに連絡通路を邁進していた気でいたのだが、違っていたようだ。目の前の絡まった線分の複合体を紐解けば紐解く程に心もとなくなってきた。混雑の流れに惑わされたのだろうか。単純に道を違えたか。ただの錯覚か。私は一度、通路の交差点に立ち止まって考える事にした。

 10メートルの立方体を横方向へ無数に連ねた形にも見える地下通路の天井は漆喰で白く、壁は黄ばんだタイルで装飾され、もともと赤煉瓦で施されていたであろう床は、一世代以上続く足跡のせいで黒く変色していた。

 行き交う群衆は代わり映えのしない現実の一部によって構成されていた。勤め人のようなもの、観光客のようなもの、幼稚園児のようなもの、学生のようなもの、警官のようなもの、清掃員のようなもの、子連れのようなもの、犬のようなもの、手土産、カバン、バッグ、キャリーバッグ、スーツケース、アタッシュケース、新聞、雑誌、ピアス、ネックレス、指輪、杖、眼鏡、塗料、体毛、四肢、胴。すべからく外見で物事を判断すべからずという意見を勘案するならば、いずれも確証すら存在しない記号でしかなかった。目くじらを立てる程に立派なイコンではないし、憎むほどに羨ましいシンボルである訳もない。要は人間であるかも怪しい。ただの肉塊がほっつき歩いていると認識しても差し支えない。無論その発想を当てはめてみれば、ここにいる連中は言わずもがな、私もまた無力な受精卵の成れの果てに過ぎない。

「おい、君」

 精巣を水源とする雑踏の濁流をぼんやりしながら見ていると突然後ろから声がした。振り向いて見ると、そこには平均よりも背の低い初老の男が立っていた。だが背格好は私と同等であった。

「道に迷ったんだろう」

 緑のジャンパーにベージュの長ズボン。その姿からは清潔かつ潔白な印象を抱いたが、日ごとに契約を結ぶ逞しさも予測できた。彼は私にこう言ってきた。

「ここで迷った以上、もう行きたい場所へは行けないよ」

 小ざっぱりしていた彼の発言からは、どうにも真意を掴み損なった。今一度聞き直す事にした。

「何を言っているんです?」

 ああ、と惑いつつ、相手は用いるべき言葉の選択に窮している表情を浮かべながら、ゆっくりと口を動かしてきた。

「つまりな、これ以上動かない方がいい。碌な事にならないぞ」

 やはり話の意図が汲み取れなかった。

「おっしゃる意味が分かりませんが、私は財布を探しているんです。失礼しますよ」

 先を急ごうと思い、立ち去ろうとした直後、次のような事を言ってきた。

「ちょっと、待ちなさい」

 そんな発言を聞いた後、今度は私のジャケットを掴んできた。一体、何を考えている。

「放してください。どうしても必要なんです。急いでるんですよ」

 私の発言を無視して、彼は服を掴んだまま喋ってきた。

「まあ、今のには語弊があったな」

 相手は訂正するとか何とか言うが、だいたい私は相手の発言の一切を理解できていない。男は腕を組み考え、迷いながらも話してきた。今のうちに逃げようと決めた。

「きっと思い通りにはならない。そう言うのが適切だったな」

 彼がそう言っている間に、私は逃げた。

「おい、そっちは欲望の宮殿だぞ」

 やっぱり奴はどこか可笑しい。初老の男との一悶着にも無関心な人混みに対して嫌々ながらも注意を払いつつ、速やかにその場から立ち去り、再び邪魔な群衆を掻き分けて行った。階段を昇り、開いている扉に入り込んだ。その空間は地下世界よりも簡素だった。しかし階層案内の表示が特徴的だった。イベントなどの広告が掲示されている点に気が付いて、ようやくエレベーターに乗ってしまった事実を認識した。上昇を続ける無機質な箱の内部で形成されていた黒山の中で、身動きのできない私は立ち尽くしていた。

「まずいな、昇ってるぞ」

 少なくとも駅は地上駅で、改札は地平にあった筈だ。急いでいたとは言え、流れに呑まれて上下する密室に入ってしまったのは言い逃れできぬ愚行であった。天井の照明から目を離し、前方上部の現在位置表示を見てみた。「地下1階:食料品売り場」、「地上階:化粧品・医薬品売り場」、「2階:婦人服売り場」と立て続けにランプが推移する様子が確認できた時には、全く見当違いもいい所に来てしまったと実感し、「3階:紳士服売り場」に明かりが灯された時に、ようやく重い扉が開いて、その間隙を突き、昇降する密室から出て行った。

 やっと解放された私以外に、この階で降りた者はなかった。しかし圧迫感のある棚のせいで狭く、著しく天井とルクスが低い空間だった。陳列した紳士服を印象付けるための演出の一環であろうが、暗い世界に残された心象を生み出しかねない状況だ。きっと並の人間ならば気が滅入った事だろう。あまりに傷心的で陰湿な空気が漂っているので、憂さ晴らしに窓のある方へ行って外の景色を見ようとも思い立ったが、今日に限って雨である。閉塞感ある悪天候を見に行く道理も理由もなかった。さっさと駅の西口に行く事に決めた。

 売り場を突っ切って、下りエスカレーターのある方向へ進んだ。紳士服を身に纏った首の無いマネキンの数々を尻目に、黒いベルトと五色を基準に総天然色を示すネクタイのカーテンを横に見ながら、ワイシャツ、スラックス、靴下の横を通過した。革靴、帽子、タイピンといった比較的小さな商品を扱っている一角を移動している途中で、財布売り場が目に入ってきた。私は思わず立ち止まってしまった。

 いつもならば気にも留めない典型的な陳列棚だったが、二時間前まで持っていた物に良く似た黒い革細工がそこにあった。酷似していたものの、新品であったし、中身もなかった。だいたい今の私の持ち合わせでは手の届かぬ物品であった。

「欲望の伏魔殿か」

 さっきの男から最後に聞いた事は部分的に正しかったようだ。今の私にとっては全くもって用のない、見当違いの所だった。しかしなぜ、その事が分かったのだろう。

 そんな一銭にもならない思考を停止させつつ、下り方面のエスカレーターに乗り込んで、もう一度地下世界に向かって行った。その途中では様々な物品が、私の視界に入り込んでは去って行った。薄い布切れ、過剰な程に凝った刺繍、鉱物を割って作った粉、得体の知れない乳液、絶命直後の魚介類、無垢な青果。おおよそ特筆すべきものではなかった。この建物で見かける公衆もまた同様で、地下通路の延長線上に生息する特徴の欠けた生き物に他ならなかった。

 元来た道に戻ると、さっき私を掴んだ男は既に立ち去った後のようで、もう居なかった。相変わらず変化の乏しい雑踏は前後左右に通り抜けて行く。一糸乱れぬ団体行動であったが個体一つ一つの動きは緩慢で、ヌーの群れの方がずっと秩序立っていると感じた。道草を喰ってしまった。ただ私は西口に向かいたいだけである。もう一度、近くにある煩雑な案内図に立ち寄って、現在位置を確認した。混沌とした曲線の語り出す事には、北が欠如しているように思われた。

「話にならん」

 この案内図には頼らぬ。己の方向感覚を頼りに兎に角西を目指す。後は、天井に吊り下げられた標識に従えば良い。私は百貨店の地下階にあるエレベーターホールから立ち去って行った。来た道に回復しながら、進むつもりだった方向へ足を進める。

 薄情な人の波に飲まれながらも、西と思われる方面に向かって行った。周囲が開けたかと思うと、そこは随分と天井の低い通路だった。周囲には工事でもしているのか、白いパネルが張り巡らされており、ガムテープで補強なり、看板の固定なりが為されていた。様々な文言が看板や張り紙に記述されていた。地下街の現状だったり、工事期間だったり、危険を表す虎柄のテープ。個人的には「迂回せよ!」の表示だけが印象に残っていた。直進できないからである。

 張り紙が指示する通りに、提示された迂回路を1メートルの誤差に収めながら沿って行く。どうやらこの道は地下の広場に出るらしい。人の流れが空いてくる中を歩いていると、だんだん音が聞こえてきた。断続的な音だったが広場に近づくに連れて、それが楽器から成る音声である事が窺い知れるようになってきた。進めば進むほどに、断続的な音声が線条的な曲に変容していく。

 しかし協和とは程遠く予測できない、非常に不安定な旋律だった。どことなく調子が外れていて、聞き慣れてしまった雑踏のリズムよりも遅く、根本のリズムがズレている曲調であると感じた。そうして地下の第七広場に辿り着いたとき、不気味な歌声が聞こえてきた。そこにはマイクを用意し三味線とギターを足して二で割ったような楽器を持った人がいた。広場には、その他の機材とスピーカー、そしてその一人しかなかった。

 〽――人間嫌いは直せない。そもそも病気じゃありません。「馬鹿と同じだ、死んでみろ。」そんな治療で済むかしら。馬鹿は死んでも治らない。死んだところで変わらない。生きたところで変われない――

 控えめに言って音痴である。下品な曲だ。だいたい路上なら理解ができるが、ここは地下である。そこまで広い空間ではなかった。声が反響して曲々まがまがしい音になっていた。歌謡というよりは何かの呪術のごとき言い回しであった。聞いている者も少ない。と言うよりかは、これを曲として認識している人類は、少なくとも周辺にはいなかった。ただのノイズでしかなかった。どこにでも流れているBGMでしかなかった。歌詞についても勝手に理解した内容しか入ってこなかった。おそらく右のような表記になろうと思われるが、一言一句、正確に転写できたか自信がない。そんな事はどうでも良いので、私は早急に広場を後にした。

 今まで延々と見てきた人混みの単調さに、益々苛立ちが募ってくる。これだけ財布のために駅の通路を彷徨うというのも、我ながら馬鹿らしく思えてしまう。僅かな金を惜しんでの愚行でもあったが、やはり個人情報の流出が最大の問題だった。西口の窓口で頼んだ後、近くの交番に行ってみるか。そんな事を考え始めた。

 その時、中央改札口の案内板が私の頭上を通過しようとしてきて、立ち止まった。

「何だ。あれ」

 天井の表示を見る限り、ここから100メートルもない所に別の改札があるようだった。それも「中央口」である。期待を寄せない訳はない。私は望みを掛けるがごとく、通路を駆け抜けて、中央口に向かった。

 乗客の多いターミナル駅の例に漏れず、ここも改札前の広場に小~中規模の雑踏の複数が漂い、互いに交わり合っていた。中央改札には、確かに有人改札が見受けられた他、待ち合わせ場所に打って付けの時計や、三色ダイオード式の電光掲示板まであった。そんな広場に足を踏み入れた瞬間に、機械的な音声が鳴り響き始めた。

「……時をお知らせいたします。これにて中央口及び西口有人窓口の業務を終了いたします。ご用のあるお客様は、東口改札付近の有人窓口へお越しください。本日もご利用下さいまして、ありがとうございました」

 いきなり流れ始めたので、一部を聞き逃してしまったが、おおよその意味は理解できた。だが承服できなかった。どういう事かと思い、先ほどアナウンスが流れてきた音源に相当するであろう箇所、広場中央に位置する電光掲示板に立ち寄ってみた。

「中央口及び西口有人窓口の業務は終了いたしました。ご用のあるお客様は恐れ入りますが、東口改札付近の有人窓口へお越しください。」

 機械音声の内容と合致した実に完璧で見事な文章だった。このダイオードの画面上に表れている文字と、謝っている職員のイラストが、果たしてこの世で実際に起こっている事であるのか、どうにも判断が付かなかった。信じられそうになかった。私は、ただその場で立ち尽くしていた。何が連絡通路だ。これでは絡まって解けない通絡連路だ。ここ三十分で西口に辿り着ける自信も失いかけていたが、これで西口に向かう理由もなくなってしまった。滅茶苦茶だ。

「西口に着いて、そこの窓口で直ぐに解決する問題でもないがな」

 だからと言って東口に向かうのは気が進まない。あの没個性的な職員の顔面を再びも見るのは精神衛生に悪影響を及ぼす。念のために中央口の有人改札へ行ってみたが、電気照明が消されていて、それどころか人の気配すら感じられなかった。完全に機能が停止してしまっていた。どうやら事実らしかった。

 私は近くにあった構内図を眺める事にした。レストラン、書店、花屋、売店、旅行代理店、クリーニング屋のある並びに、案内所がある事を知った。そこで一度、交番の場所を尋ねてみようと計画を立て直した。と言うよりは、気を取り直すしか術がなかった。

 体力が消耗されるが、急いで書店の辺りまで歩いて行った。通過しながら、呑気に愛敬を振り撒く店員、無表情で無愛想な客、諸々の書籍群を後目に眺めてみた。実に気楽な人々だった。羨ましい限りだった。きっと私と違って悩みなんて何一つ抱えていないんだろう。何かしら読んだ所で、手垢に塗れた誇張表現ばかりの文章としか認識できず、肝腎の内容を想起する事も叶わず、唾棄したまま何一つ頭に残そうと努力しない。実に幸せなものだ。

(連中なんかどうでもいい、要は財布だよ。財布なんだよ、結局は。馬鹿馬鹿しい事考えやがって。時間の無駄なんだよ。財布さえあれば良いんだよ)

 ごみ掃く役にも立たぬ脳髄の思考に毒を吐きつつ、歩みを進めていく。毛細血管のごとき地下通路の出口の一つに当たる階段を駆け上がって行った。外に一回出る事となるが、雨は未だに降っていて、薄暗さで言えば地上と地下とで大差はなかった。

 クリーニング屋の隣に目的の場所、案内所があった。その施設は大きくないが、手狭には思えなかった。中に入ってみると、観光案内の資料や種々のパンフレットが陳列され、この界隈の景色を撮った写真も飾られていた。そんな風に色彩だけは鮮やかであった。

 都合良く受付に職員がいたので交番の場所を尋ねると、ここから歩いて10分くらいの場所だと言う。

「しかし身分証やらカードやらを一緒に落としてしまうとは、何と運が悪い。何よりも、身分証明ができませんぞ」

 そんな事くらい知っていると言いたかったが止めた。それに今の私は簡単に身元を明かせない状態に等しく、担当者の発言は的を射ているように思えた。

「……それで、交番への道をお尋ねしたいのですが……」

 相手は壁に貼っていた地図を指さして説明してきた。

「地上から行くよりかは、地下通路を歩いて行った方が早く着きますね。第一、信号に足止めされる心配もないし、ここからだと直線距離で行ける」

 またしても地下を通れと言う。あまり気乗りしなかったが、遺失物届を出す事が先決だった。礼を言って、私は案内所を後にした。聞かせて貰った道順を整理すると、どうも先ほど昇ってきた階段を下る必要性があるようだ。やむを得ない事だった。

 今度は階段を降り、左に曲がると2番通路に入る。中央3番出口を通過し、500メートルほど道なりに進む。地下7番街とか言う飲食店エリアを突っ切って、11号館方面へ向かうと、13番通路に合流する。案内所の職員が言うには、最後の通路であるらしい。

 明治三十七年の戦役に造られたまま放置されている程に古びた地下通路だった。この街の根幹には、未だにこのような物が存在しているのだと妄想じみた印象を受けながら、私は地下に張り巡らされた迷宮を教えられた順序に沿って歩き、地上のどこかにあると言う交番を目指した。

 階段を登り、スロープを下り、右へ曲がって、左折した。連絡通路の出口に差し掛かり、赤いランプが見えた。言わずと知れた当局の象徴だ。灰色をした面白味に欠ける正六面体の建物は、どう見ても交番のようなものであった。公共に対して唯一開かれた出入口である無機質な鉄の戸に手を掛けた私は、それを右に引いていった。

「すみません」

 そう言いながら中に入ると、内部の備品だけが目に飛び込んできた。ステンレス製のテーブルとパイプ椅子。卓上の電灯は白熱電球、白一色の壁、灰色のロッカー、控え室へ通じていると思われる扉、窓ガラスには鉄線が張り巡らされている。そして掲示物は指名手配書などの類いしかなかった。実に平均的な公的施設であった。

「誰かいませんか」

 私の声が聞こえたのか、控え室への入口であろう扉が開いて中から巡査と思しき人物が出てきた。

「どうしました」

 帽子を目深に被っているので、顔面の全体を把握する事ができなかったが、鼻と口の輪郭が明確に示されている人物だった。私は事情を話した。

「……落とし物ね。じゃ、紙持ってくるから、少しの間待ってて」

「お願いします」

 警官は一旦、控え室に引っ込んで、程なく遺失物届を持ってきてくれた。それを受け取って、私は必要事項を書いていった。巡査は世間話を言ってきた。

「それから、西口の事は分からないが、ここからだったら南改札口近くの駅員室が一番近い。それに規模も大きい。ひょっとすると、お目当ての財布も見つかるかもしれない」

 目当てという程のものでもない。ただ単に、みすぼらしい自分の個人情報を探し出すだけの事だった。ここに来たついでに一つ道を尋ねよう。

「すみませんが、道を教えていただけますか。この駅は、どうにも広くて……」

「構いませんよ」

 警官は快諾し、控え室から地図を持ってきて遣してくれた。方眼紙で描画したかのように理路整然とした俯瞰図で、見取り図としても充分な働きが期待できる代物だった。

「どうもありがとうございました」

 そう言い残して、交番を後にした。後は南改札口に向かえばいい。幸い、手元には詳細な地図がある。これに従って進みさえすれば、必ず辿り着けよう。紙面の言う通りに、地下へ潜り込み、細い通路を幾度となく左折し、数え切れぬ回数分だけ右へ曲がった。エスカレーターで上り詰めていき、一気に階段を駈け降りて北上して西を向き、南下して東へ進む。単純明快だった。

 そこに南口があった。改札口を通り過ぎ、期待しないで有人窓口を探してみると、直ぐに見つかった。規模こそ東口に劣るものの、随分まともそうな面構えをした職員がいたので、不安はなかった。

 私は南口に至るまでの過程と事情の一部を話した。すると相手は一瞬戸惑った様子を呈して、次のように澱みなく答えてきた。

「この駅に西口なんてありませんよ」

「……そうなんですか」

 私は随分驚いたのだが、歩き回った疲れもあって、あまり体に表れなかった。

「書類、渡しますね」

 始めからここに来れば良かった。今までの苦労は一体、何だったのか。一般的な駅員は手元の書類を整理しながら「遺失物捜索手続申請書」と銘が打たれた紙面を出した。所要した時間は一分と掛からなかった。記入欄に文字を書く私に対して、相手は話を続けてきた。

「そう言えば西口ですけど、元々あったらしいですね、ここ最近の再開発で消えてしまったんですよ。あの辺りは、今は確か、新地平階北西方面19―B番第二出口……」

「もう、いいです」

 道案内に煩わしさを感じて話を遮った。さっさと遺失物捜索の申請書を書き切って、速やかに窓口から出て行った。だいぶ時間を喰ってしまったと思い、今いる位置を確認するために、近くにあった案内板を見ると、私の行きたかった本来の目的地からは遠ざかった所で、さらには方角も対照的な場所にいる事が嫌でも分かった。

 こんな訳の分からぬ駅からは手っ取り早く出ようと思い、鉄道で移動すべく南改札に近づこうとして押し寄せてくる冷淡な雑踏の中に入り込んで行った。暗く湿気を含んだ人混みは長く続いた。一度だけ通過したであろう書店の近くをもう一度見たような気がした。やり場のない憤怒を抱いていた先ほどの自分に愚かさを認識しつつ、十分以上続いた蒸し暑い黒山の大群から解放されるに至った。周囲を見回すと最初に財布を探し始めた東口の改札に来てしまった事に気が付いた。

「どうして、こんな……」

 つい数時間前まで彷徨っていた改札である事を確認すべく最初に訪れた窓口を見てみた。例の個性なき職員がいる筈である場所は、白いシャッターで閉ざされていて「移転しました」と書かれた紙だけが貼られていた。その劣化具合から貼付されて一ヶ月以上が経過しているようだった。

 閉鎖されたとは一体どういう事か。私は全く理解できず戦慄を覚えた。説明ができない駅舎の状況に恐怖を感じた私は手持ちの財産を叩く形で改札内に逃げ込んだ。そうして振り返ると、絶え間なく変化する地下道の入口を行き交う群衆は、周辺の情景に気色の悪さを覚えてないようだった。むしろ日常の連続と捉えてか平然と迅速かつ正確な往来を継続していたのだった。

 結局、その日のうちに目当ての物が戻ってくる事はなかった。届出を出した後の私は、戯言を口遊んだり、誰かの道案内などをしたりして過ごした。そうして三週間以上が経過した或る日、ようやく私の財布が見るも無残な姿となって発見されたと連絡があった。何でも北口改札とか言う、見た事もなければ、聞いた事さえもない所のど真ん中で、心無い革靴どもに散々苛められていたらしい。

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地下道 一ヶ村銀三郎 @istutaka-oozore

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