そして朝へ

 その日は暁嗣が停学を解かれた日だった。

 だが学校に行く気も起きず、両親には体調が悪いと嘘をつき暁嗣は学校をサボってしまった。少し前の暁嗣ならば考えられないことだ。

 当然暁嗣自身もこのままだとサボり癖がついてしまうと危機感を持ったものの、どうしても行く気が起きなかった。

 両親に体調が悪いと告げ、部屋に戻るとしばらくはゴロゴロしていたものの、流石にすぐに飽きてしまった。家にいてもやることがないのだ。

 当然だが本当にやることがないわけではなく、勉強をしたりだとか探せばやることはいくらでもある。しかし、学校に行く気が起きずに休んだのに勉強をする気なんて起きるはずもなく、手持ち無沙汰だった。

 結局悩んだ末、暁嗣は外へ出ることにした。外に出るのも面倒だったし、家の中で悶々としているよりはまだマシだ。

 目的もなく、暁嗣はとりあえず駅へ向かった。平日の昼間ということもあり人通りはそこまで多くはないものの、サラリーマン、主婦、学生、様々な人達が改札に吸い込まれ、出てくる。

 改札から離れた位置にある太い柱に背中を預け、暁嗣はぼんやりとした表情で駅を往来する人たちを眺めていた。そうしているうちに、この人達は普段どんな生活をしているのだろう。自然とそんなことを考えてしまう。

 いつの間にかぼんやりと焦点の会わない目で立ち尽くしてしまっていた暁嗣だったが、近くから聞こえてきた会話で我に返った。

「久しぶりに会えて嬉しいよ!」

「えー。久しぶりって、たった2週間だよ?」

「いやいや、2週間も、だよ。今日が楽しみすぎて昨晩は全然眠れなくてさ……」

「なにそれー。でもうれしいな」

 それは20代前半くらいのカップルだった。お互いを熱い眼差しで見つめ合い、完全に2人の世界に入っているのが見て取れた。

 腕を絡め遠ざかっていく2人を暁嗣は目で追っていた。そんな2人を見ているうちに、無意識のうちに美夜と並んで歩く自分を想像してしまっていた。

 彼女に会いたい。暁嗣はポケットからスマートフォンを取り出すと、美夜に送るメッセージを入力し始めた。何度も何度も文字を打っては消すを繰り返し、次のようなメッセージを送った。

『この前はごめん。頭に血が上って香椎を傷つけるような事を言ってしまって反省しています。またボディガードをやらせてもらえないでしょうか?』

 最初はもっと長文を送ろうとしていた。しかし何が言いたいのか全く分からず、しかも言い訳がましい文章になってしまったため、変に取り繕うよりはシンプルな方がいいと判断した。

 当然今は昼間なので暁嗣もすぐには返信が来ないと思っていたが、夜には何かしら返信が来るのではないかと楽観的に考えていた。しかし、一晩経っても既読すらついていなかった。


 8時15分。久しぶりに暁嗣は通学路を歩いていた。相変わらず坂道は急だが、最近一気に気温が下がりはじめたこともあり、思ったより汗はかかなくなっていた。それでもなんでこんなところに学校を建てたのかと当時の責任者に文句を言いたくなるのは変わらない。

 坂道を登りながら学校へ続く道を眺めていると、1週間行ってないだけなのに随分久しぶりな気がしてくる。

 校門へ続く歩道から枝分かれした坂道が視界に入った瞬間、暁嗣は前に見覚えのある女子生徒が歩いていることに気がついた。背中まで伸びた、太陽の光を浴びて艶やかに輝く柔らかな黒髪。間違いなく美夜だった。

 美夜だと気づいた瞬間、一瞬暁嗣は胃に強い不快感を抱いた。心臓が激しく鼓動を刻み、この場から逃げ出したくなってくる。しかしこれはチャンスだ。美夜に声をかけなくては。

 そう思ったはいいものの、体が動かない。なんて声をかければいいのだろう。そもそもメッセージを無視されてるのに話しかけに行ったところで逆効果なのではないか。

 考えれば考えるほど、話しかけに行かないほうがいい根拠が頼んでもいないのに勝手に増えていく。だが、ここで行かなくていつ行けばいいのだろう。暁嗣は一度小さくうなずくと、駆け足で美夜の横に追いついた。

「香椎おはよう!」

 なるべく自然に、なるべく朗らかに暁嗣は挨拶した。

 声をかけられ美夜は暁嗣の方を向いたものの、まるでその視界には何も映っていなかったかのようにすぐ前を向き、速歩きで暁嗣から離れていった。

 2人の近くを歩いていた生徒何人かがそれを見てヒソヒソと何かを話していたが、暁嗣にはそんなことはどうでもよかった。ただ呆然とした表情で、遠ざかっていく美夜の背中を見つめていた。


 教室に入った暁嗣は、クラスメイトから休んでいる間に暁嗣に日直が回ってきたため、次の生徒がその日の日直をし、代わりに今日暁嗣が日直な事を告げられた。

 日直と言っても大した仕事があるわけでもないが、相手が誰かを聞いた瞬間、暁嗣は心の中でガッツポーズした。その相手は美夜だった。流石に日直同士なら話す必要が何度かある。

 しかし暁嗣の希望は見事に打ち砕かれた。美夜はちゃっかりと他のクラスメイトと日直を交代してもらっていた。そしてクラスメイト達が自分に向ける視線がどこか冷たいことに暁嗣は気づいた。


 2限目を終えた暁嗣が黒板を消していると、以前暁嗣に掴みかかった弘樹が近づいてきた。

「なあ暁嗣、お前香椎さんと何があったんだ? 喧嘩したって噂になってるんだけど」

「……え?」

 暁嗣には寝耳に水だった。しかしクラスメイトの態度がおかしい理由がこれでハッキリした。きっと美夜が流したのだろう。

「何があったか知らないけどさ、さっさと謝って仲直りしたほうがいいぜ? 2人が喧嘩してるって知ったら、その間に入ってこようとする奴ら絶対出てくるよ」

 弘樹は純粋に暁嗣の事を心配しているように暁嗣には見えた。いい奴だ。暁嗣は「ああ、そうだな。なるべく早めに謝るよ」と曖昧に答え、黒板消しの続きに戻った。


 その後暁嗣は何度か美夜に話しかけるチャンスを伺っていたが、結局その機会は訪れなかった。

 学校での美夜は、『才色兼備』という言葉が服を着て歩いているような少女だ。その美貌は言うに及ばず、成績優秀で、それらを鼻にかけることなく誰に対しても明るく親切に接する。そんな彼女には自然と周りに人が集まってくる。1人でいるところを見つけるほうが難しかった。

 結局その日は諦めるしか無く暁嗣が帰ろうとすると、

「暁嗣、一緒に帰らない?」

 結佳がどこか寂しそうな笑みを浮かべながら暁嗣の元へ歩いてきた。

「ああ、いいよ」

 断る理由は無かった。暁嗣は短く答えると立ち上がり、結佳を後ろに従えて教室を後にした。


「なんか、色々大変なことになってるよね」

 校門を出て30メートルほど歩いたところで結佳が不意に口を開いた。

「そうだな……」

「噂に尾ひれがついていつの間にか暁嗣が悪者みたいになっちゃったみたいで、友達から聞かされた時は『暁嗣はそんな人じゃない!』って怒鳴りたくなっちゃった」

「そうか」

「普段猫かぶってるから人気者だけど、本性知ったらみんな逃げてくかもね」

「まあ、そうかもな」

 結佳が無理をしているのが分かる明るさで話題を振り、暁嗣は無表情で生返事をする。その繰り返しだ。

「……」

 いたたまれなくなったのか、結佳は視線を落とし、2人の間に沈黙が訪れた。

 そしてそのまましばらくそのままお互い無言で続けた後、結佳はためらいがちに話し始めた。

「ねえ、暁嗣。私この前香椎さんを呼び出して、『暁嗣に謝って』って頼んだんだよね」

「……え?」

 ぼんやりとしていた暁嗣だったが、素早い動きで結佳の横顔を見つめた。

「どんなことを話したんだ?」

 暁嗣がそう尋ねると、

「香椎さんのせいで暁嗣は警察に捕まっちゃった上にボクシングも続けられなくなっちゃったから謝ってって言ったら、言い負かされた上に『このままだと将来あなたは泣くことになる』って説教された」

 結佳は自嘲気味に笑った。

「そうか……」

 今度は生返事ではなかったものの、なんと言ったらいいか思いつかず、暁嗣は短く答えた。

「ひどい人だよね。私なんであの女に負けちゃったんだろ。私の方が絶対暁嗣の事幸せに出来るんだけどな~」

 結佳は前を見ながら軽い調子で言った。しかしその言葉の真意は暁嗣にもすぐに分かった。

「ごめん」

 すかさず短く謝罪した。

「謝るくらいなら、あの女の事諦めて私と付き合ってよ」

 結佳は呆れたようにフッと笑うと、冗談交じりの口調で言った。

「……正直言うと、何%かは迷ってるかもしれない」

 どちらかといえば言うべきことではないと思った。だがお互いの気持ちを知った今、むしろ遠慮するべきではない。暁嗣は今の自分の正直な気持ちを語った。

「何%って、どれくらい?」

「そうだな……20%くらい?」

「うわ、思ったより高いね」

 予想以上に高かったのか、結佳はまんざらでもなさそうに笑った。

「……でも、それじゃダメかな」

 結佳は急に歩く速度を上げ、暁嗣の先を歩き始めた。暁嗣も歩く速度を上げて結佳に追いつこうとしたところ、結佳は急に立ち止まり、暁嗣もそれにつられてその場に立ち止まった。

「結佳?」

 暁嗣が結佳の名前を呼ぶと、結佳は後ろを振り返った。微笑を浮かべているが、どこか寂しそうに暁嗣には見えた。

「たったそれくらいで私をモノにしようなんて甘いよ。暁嗣はなんとかして香椎さんと話をつけて。それでボロクソに言われて香椎さんへの思いが完全になくなったら、その時は私と付き合ってあげてもいいかな?」

 そう言うと、暁嗣に白い歯を見せて笑った。

「それじゃ、私は用事を思い出したから先に帰るね。また、学校でね」

 結佳は暁嗣に手を振ると、駆け足で暁嗣の前から去っていった。

「結佳……ごめんな」

 暁嗣は小さくなっていく結佳の背中を見ながら独りごちた。

 そう簡単に人の気持ちは切り替えられるものではない。きっとまだ結佳だって吹っ切れていないはずだ。それなのに、自分のためにわざと明るく振る舞って励ましてくれた。そんな結佳の優しさに、暁嗣は胸に痛みを感じずにはいられなかった。


「ハッ……ハッ……ハァッ……」

 学校から自宅まで全速力で走り続けた結佳は、崩れ落ちるように上がり框に腰を下ろした。家に着いて安心したからか、目から止めどなく涙が流れ始めた。息は荒く、顔が汗と涙でグチャグチャだ。とても人に見せられる状態じゃないな、と結佳は鼻で笑うと、再び涙が流れ出す。

 20%。ほんのわずかだけど、完全に自分は眼中に無いわけではないというのが分かって嬉しかった。

 だけど、残りの80%はあの女。そう思うとやっぱり悔しくてたまらない。

 暁嗣の前では泣かなかったご褒美だ。結佳は声を上げて泣き始めた。暁嗣の家を後にした後、脱水症状になるんじゃないかと思うほど泣き続けたから、もう十分だと思っていたのに。

「うっ……ああああ……」

 この時間帯は父親も母親も家にいない。遠慮なく声を出して泣ける。結佳はこらえること無く、自分でも内心大丈夫かと思ってしまうほど声を上げて泣き続けた。


 結佳に遅れて帰宅した暁嗣は、最後の手段を取ることにした。

 以前美夜のスマートフォンに見慣れないアイコンの通知が何度か来ていた事を暁嗣は覚えていた。あれはおそらく、パパ活のアプリだ。自分もあのアプリを入れれば2人で会うことが出来る。暁嗣は記憶を頼りにアプリを探し始めた。

「……あった!」

 アプリは思いの外早く見つかり、暁嗣は思わず声を上げてしまった。空色の、デザインからは何のアプリなのかさっぱり分からないアイコン。間違いない。これだ。

 暁嗣はアプリをインストールし、プロフィールを入力していく。『年齢』の項目の下に小さく書かれた注意書きを見て、暁嗣は「え?」と声を漏らした。

『このアプリは18歳未満は利用することができません』

 おまけに年齢を証明できる書類をアップロードする必要があり、年齢を偽ることは出来ない。

 どういうことなのだろう。暁嗣も、美夜も高校2年生だ。つまり、何らかの方法で美夜は年齢を偽ってアプリを利用しているということだ。

 そこまでして美夜がパパ活アプリを利用している理由はなんなのかは置いておいて、このままではアプリを使い始めることが出来ない。どうすればいいのだろう。暁嗣はスマホを持ったまま固まってしまった。

「……そうだ」

 暁嗣は父親がしょっちゅう財布をリビングに置きっぱなしにしていることを思い出した。当然だがこれは犯罪だ。しかしメッセージを送っても学校で話しかけても無視されるのであれば、もうここまでしなければ彼女と話す機会を作ることはできない。

 暁嗣は深夜こっそりリビングに置きっぱなしになっている父親の財布から免許証を抜き取ると、それを撮影し、アップロードした。

 しばらくして、年齢確認が完了した旨の通知が届いた。これでアプリを利用開始することができる。次はアプリ上で彼女を探す作業だ。

 とは言ったものの、検索機能は最低限のものしか無く、おまけに利用者のほとんどは写真を加工していた。これでは仮に美夜を見つけ出したとしても見落としてしまう可能性が高い。

 だがそれでもやるしかない。暁嗣は虱潰しに美夜を探し続けた。ひたすらスワイプを繰り返す。

 もしかしたらこのアプリではないかもしれないし、そもそも写真を載せているとは限らないが、それらの可能性は考えずに無心に指を動かしていく。

 しばらくそうしているうちに強烈な睡魔に襲われ始めた。しかし美夜は未だに見つからない。暁嗣がもう諦めようと思ったところで画面に映し出された写真で一気に眠気が吹っ飛んだ。

 写真の女性は暁嗣が見覚えのある服を着ていた。以前暁嗣が美夜と『報酬のデート』をしていたときに着ていたワンピースだ。そして写真でも分かる、サラサラの長い黒髪。さらに写真の端にこれまた美夜が以前持っていたバッグの持ち手が写り込んでいた。十中八九、これは美夜だ。

 さっそく『いいね』とともにメッセージを送った。なるべく大人っぽさを意識し、かつ堅苦しくない文体を意識する。

 気がつけば時刻は3時を回っていた。もう流石に寝なければまずい。暁嗣は大きくあくびをすると、ベッドに入った。


 その週の土曜日。その日は暁嗣は美夜だと思われる女性と会う日だった。

 メッセージ上ではデートの対価として金銭を支払う約束をしていたが、そんなお金は当然無い。もし美夜ではなかったらトラブルになってしまうかもしれない。

 それでも、会いに行くしか無い。

 その日は早めに起き、服を入念に選び、髪型も丁寧にセットしてから暁嗣は家を出た。

 隣の佐宗家の入り口付近に、暁嗣を待っていたかのように結佳が壁に背中を預けて立っていた。以前暁嗣とデートしたときに着ていた美夜を思わせる大人っぽい服装ではなく、いつものように可愛げな服装をしている。

「今日はこの前みたいな格好じゃないんだな」

 暁嗣がそう尋ねると、

「オシャレは誰かのためにするんじゃなくて、自分のためにするものかなって。やっぱり私はこんな感じの服じゃないと私って感じがしないみたい」

 結佳は得意げに答えた。

 これは結佳なりのけじめなのだろう。そんな結佳を見て、暁嗣はそう考えた。

「私もいい年だからって言ってた癖によく言うよ」

 そう思いながらも暁嗣が苦笑を浮かべながら茶化すと、

「あ、ばれたか」

 結佳はわざとらしく暁嗣から視線をそらしたかと思うと、その表情は真剣なものに変わり暁嗣に向き直った。ここからが本題なのだろう。暁嗣も真剣な態度で結佳に視線を送る。

「香椎さんのところに行くの?」

「ああ」

 暁嗣はなぜ自分が今日美夜に会いに行くのが分かったのかはあえて突っ込まず、短く答えた。

「私が行かないでって言ったら、行かないでくれる?」

「ごめん。それはできない」

 結佳の問いに暁嗣が即答すると、

「やっぱそうだよね。頑張って。応援はしないけど」

 結佳は寂しそうに小さく笑った。

「ごめんな」

 暁嗣は小さく頷くと、一切振り返ること無く美夜との待ち合わせ場所に向かって行った。


「うまく行くといいね、暁嗣」

 結佳は手を後ろで組み、少しずつ姿が小さくなっていく暁嗣の背中を見ながら小さく呟いた。

 今回も泣いてしまうかもしれないと思ったが、結佳の予想に反して涙は一滴すら出る気配がない。

 きっと恋に破れてしまった自分よりも、これから香椎美夜に想いを伝えに行く、幼馴染であり、長年想いを寄せ続けた相手であり、そしてこれからは大親友になるかもしれないし、ものすごく低い確率だけど自分の恋人になってくれる可能性がゼロではない、木野暁嗣という男に関心が向いているからだろう。

 きっと暁嗣は上手く行って、自分の恋は実らないだろう。そんな予感がある。

 それでもやっぱり泣きたいという気持ちにはならない。泣いたって何も変わらない。フラれてしまっても、自分の人生はまだ続く。どんな未来が待っているか分からないけど、とりあえず起き上がって歩き出さないと何も始まらない。

「暁嗣なんて、大っ嫌い」

 にかっと笑って言った結佳の顔つきは、やたら大人びて見えた。


 今回暁嗣が待ち合わせ場所に指定したのは、以前美夜がおっさんにホテルに連れ込まれそうになっていた繁華街の最寄り駅だ。

 待ち合わせ時間5分前。暁嗣が改札へ向かってくる人たちに視線を向けると、その中に一際目を引く美少女がいた。やはり、アプリの女性は美夜だった。

 予め暁嗣は今日の服装を伝えていたため、美夜は改札を出ると一直線に暁嗣の元へ歩いてきた。そして目の前にいる男が暁嗣だと気づいたのだろう、一瞬驚いた表情を見せたかと思うと、暁嗣を睨みつけた。

「はぁ。まさか、『森野さん』の正体が木野くんだったとはね。ということはメッセージに書いてあったことは全部デタラメ?」

「ああ、そうだよ」

 冷たい目で睨みつけてくる美夜に臆すること無く暁嗣は答えた。美夜は苛つきを抑えているような表情を浮かべると、

「本当なら慰謝料をもらいたいところだけど、クラスメイトのよしみで勘弁してあげる。だけど、またこんな真似したらタダじゃ済まないから」

 背を向け、再び改札方向に向かって歩き始めた。

「このアプリって、18歳未満は使えないんだよね。知ってるよね」

「……それで?」

 暁嗣が立ち去ろうとする美夜の背中に向かって声をかけると、美夜は立ち止まり、暁嗣の方を見ようとせずに短く言った。

「もし、俺が通報したら香椎は困るんじゃないかなって」

「……」

 美夜は何も答えなかったが、立ち去ろうとしない辺り、話を聞いてくれそうだ。暁嗣は再び口を開いた。

「だからどうやって香椎がこのアプリを使ってるかを考えてみたんだ。まさか優等生の香椎が留年してるなんて考えられないし、きっと誰かの身分証を使って身分を偽ってるんじゃないかなって。どうしてそこまでしてパパ活をして、お金を稼ごうとするの?」

「……木野くんには関係ない」

 暁嗣の問いに答えようとせず、美夜は再び改札に向かって歩き始めた。しかしここで逃げられたらもうチャンスは無い。暁嗣は美夜の手を取り、自分の方を振り向かせた。

「……ッ! 離してよ!」

 美夜は声を荒げ暁嗣を振り払おうとしたものの、暁嗣の手はガッチリと美夜の腕を掴んで離さない。通行人の何人かが何事かと暁嗣達の方を振り向いたものの、カップルの痴話喧嘩か何かと思ったのだろう、さほど気に留めることもなく全員視線を戻すと、何事もなかったかのように立ち去っていった。

「関係あるよ。俺はやっぱり香椎、君の事が好きだから」

 クサいにも程があるセリフだが、暁嗣自身もびっくりするほど自然に口から出ていた。

「……あなたみたいな普通の家庭に育った人間には、私の家の事情なんて理解できない」

 相変わらず冷たい声だったが、少しだけ態度が軟化していることを暁嗣は見逃さなかった。

「理解するよ」

 根拠なんて何一つなかった。だが、自信があった。暁嗣ははっきりと言い切った。

「どうしてそんなに自信満々なの?」

「やっぱり君の事が好きだから。好きな人の事は理解したい」

 振り向いた美夜の目をしっかり見据えながら暁嗣は言った。

 その一言に美夜は目を丸くしたかと思うと、呆れたようにため息をついた。

「そんな歯の浮くようなセリフ、言ってて恥ずかしくないの?」

 憐れむような目で暁嗣を見ると、一瞬手に視線を落とし、

「あと、手、離してもらっていい? 大丈夫、逃げないから」

 美夜の手からは抵抗の意志を感じられなくなっていた。

 暁嗣は躊躇なく手を離すと、美夜は暁嗣と向き合った。胸の下で腕を組み、相変わらず壁を感じる態度だが、どうやら話をする気はあるようだ。

「まあ、男は格好をつける生き物なんだよ。特に好きな女の子の前ではね」

 再び暁嗣はクサいセリフをそれが当たり前のことのように言い放った。

「そこまでして……どうして私なの? 木野くんには可愛くて、しかも木野くんの事を好きな幼なじみがいるし、私はおっさんと食事に行って愛想笑いを浮かべて大金をむしり取ってるようなクズみたいな女だよ? どっちと付き合ったら幸せになるか分からないほどバカじゃないでしょ?」

 美夜は苦しそうに表情を歪ませ、感情をあらわにするように体を動かした。

「それでも、やっぱり、香椎の事が好きだから」

「いい? 木野くんの中にある私への思いは、私がちょっと相手をしてくれたから、それでもう私じゃなきゃダメだって思い込んでるだけ。いざ私を手に入れたら、今の思いはきっと無くなってしまう。そんな一時の感情で、木野くんの事を本当に好きな女の子を捨てるなんて絶対に間違ってる」

 それでも譲らない暁嗣に、美夜は説き伏せるように言い放った。そんな美夜に、暁嗣は違和感を抱いていた。

「香椎はなんでそこまでして、自分を選ばないように仕向けるんだ?」

「なっ……!」

 美夜は目を丸くし、発した声は明らかに動揺していた。

「もちろん、今香椎がやってることは褒められることじゃない。だけど、何か事情があるんだろ? 本当の香椎は口は悪いけど、茶目っ気のあるいいやつじゃん」

「……私は」

 美夜は弱々しい声でつぶやくと、胸の前で拳を握りしめた。そして、自分の気持ちを少しずつ言葉にしていくように語り始めた。

「なんていうか、正直言って、分からない。木野くんが前に助けてくれたときはちょっとカッコいいなって思ったし、ヘヴィメタルを歌う私を見ても引かずに喜んでくれたのも、本当の私を受け入れてくれたみたいで嬉しかったし、もっと私の事を知ってほしいとも思った。だけど、私みたいに見てくれがいいだけで、裏では人に言えないような事をしている女の子は木野くんには相応しくない。私のせいで木野くんがボクシングを続けられなくなったって佐宗さんから聞かされた時は、どうしたらいいのか分からなくなってしまった」

「香椎は悪くないよ。あれは俺が悪い」

 暁嗣がそう答えると、

「そうやって木野くんは私は悪くないって言ってくれると思ってた。だから、佐宗さんには悪いことをしたと思ってるけど、私のことをもっともっと悪い女だって思ってもらえれば、私の事を諦めてくれるんじゃないかと思ったの」

 美夜は自虐的な笑みを浮かべた。

「なるほどな……」

 暁嗣はやっと香椎美夜という女の子の事を知ることが出来た気がしてきた。優しくて、頭がいいけど、それらは自分の事が好きになれず、不器用な本当な自分を隠すために努力して手に入れた後天的なものだったのだ。

「……もしよかったら、なんでパパ活をしてるか教えてもらえないかな?」


 暁嗣と美夜は、待ち合わせ場所から歩いてすぐのところにあるペデストリアンデッキに設置されたベンチに並んで座っていた。見晴らしがよく、駅の周りに点在する高層ビルや、線路を走る電車がよく見える。今日は気温が比較的高く、太陽の光が心地よかった。

「私ね、受験に失敗したんだ」

 美夜は一直線に伸びた線路を走り遠ざかっていく電車を眺めながら、遠い目で言った。美夜が本当に通う予定だった高校は、暁嗣でも聞いたことのある有名校だった。

「へえ、あそこ受けるほどだから、香椎って本当に頭がよかったんだな」

 暁嗣が感心していると、

「中学生までは勉強ばっかりしてたからね。これ、私」

 美夜がスマートフォンで一枚の写真を暁嗣に見せた。

「マジかよ」

 その写真に写っていたのは、雑に髪の毛を束ね、野暮ったいメガネをかけた今の美夜とは似ても似つかない女の子だった。思わず暁嗣は今の美夜と写真を何度も見比べた。言われてみれば面影はあるが、それでもやはり別人のようだ。

「まあ、高校デビューってやつかな」

 美夜は誇らしげに笑った。

「女の子ってこんなに変わるものなんだな……」

 暁嗣が感慨深くつぶやくと、美夜は満足げに微笑み、

「話を戻すね」

 再び真剣な表情に戻った。

「自慢するつもりじゃないんだけど、私の家って結構なお金持ちなの。お父さんもお母さんもいい大学を出てて、誰もが知ってる一流企業勤め。だから当然私もそれを期待されてた。だけど、そんなプレッシャーに晒された毎日に耐えきれなくて、受験当日に体調を崩しちゃて受験は失敗。しかもそれが原因でさらに両親は厳しくなっちゃった。私、お姉ちゃんがいるんだけど、そんな家庭だからお姉ちゃんは精神を病んじゃって、お父さんもお母さんも完全にいないもの扱い。親の最低限の義務は果たさなきゃと思ってるのか、お使いさんに面倒を見てもらってる」

 美夜は足を前後に揺らしながら寂しそうに笑った。

「なんていうか……そりゃ大変だったな」

 暁嗣は使用人がいる家って本当にあったのか、と最初に思ったことを言わず、その次に思ったことを言った。暁嗣はどちらかといえば、美夜は比較的貧しい家庭に育ったのではないのかと思っていた。しかし実際は真逆で、暁嗣が想像がつかないほどの金持ちの娘だった。

 確かに今になって思えば着ている服や、言動等思い当たる節はあるが、貧しい家に住んでいると思いこんでしまっていたため気にも留めていなかった。

「私、両親にすでにどこの大学に行くかもう決められちゃってるんだ。勿論、この家に生まれたおかげで生活に困らないでいられるのは分かってる。だけど、もう両親の意のままに自分の進路を決めるのはもうイヤ。だから、学費の半分を貯めることができたら自分の好きな進路に進んでいいって約束を取り付けたの。どうせあの人達も無理だ。できっこないだろって思ってそう言ったんだろうけど」

 美夜はニヤリと悪い笑みを浮かべた。学費の半分とはいえ、相当な金額だ。高校生がアルバイトで稼ぐには厳しすぎる。両親も意地の悪い事をする。と暁嗣は腕を組み、ベンチに体を預けた。

「だから、なるべく悪い方法で稼いでやろうって思ったんだ。そのためにこうやって見た目も変えて、猫をかぶって他の人を欺く術を学んだの」

 美夜はいたずらを自慢する子供のように楽しそうに笑った。今まで両親に従順でいたのに、反抗心から両親が聞いたら卒倒するようなことで金を稼いできた。きっと楽しくてたまらなかったのだろう。

「なるほどな」

 暁嗣の中で全てが繋がった。とは言ったものの、彼女に何と声をかけるべきなのか思いつかなかった。ただ、彼女は今まで1人で戦ってきた。その過去を自分だけに明かしてくれた事は嬉しかった。

「どう、幻滅した?」

 美夜は暁嗣を試すように流し目で微笑を浮かべながら暁嗣を見た。

「しない」

 暁嗣はすかさず断言した。美夜の過去が思った以上に壮絶だったのは面食らったが、今更その程度で引く気などさらさらなかった。

「別に、パパ活してたからって香椎が汚いだとか、そんなことは思わない。俺が前に香椎を助けた時に怖い目に遭ったのに、それでも香椎はやめなかった。なかなかできることじゃない。そこまでして自分の選んだ道に行くために頑張ってるヤツに、汚いなんて言えるはず無いよ」

「木野くん……」

 美夜は自分がそんな風に肯定されるのが信じられないかのように目を丸くした。

「よし、決めた」

 暁嗣はベンチから立ち上がった。

「何を?」

「また香椎を手伝うよ。だけど、2人同じ大学に受かったら、一緒に大学の近くに住もうよ。俺も今から勉強して、一緒の大学に入る」

 視線を暁嗣の顔に向けた美夜に、暁嗣は固い決意が込められた目で美夜を見返した。

「……まだ私達付き合ってもいないのに、いきなり同棲の話?」

 美夜は面食らったようにあんぐりと口を開けた。

 しまった。いくらなんでも気が早すぎる。

 暁嗣はしどろもどろになりながら取り繕おうとしたが、美夜はクスクスと笑い始めた。

「まあ、でもいいよ。楽しそうだし。じゃあ、これからまたよろしくね」

 美夜は立ち上がると、暁嗣に手を差し出した。勢いで言ってしまったとはいえ、予想以上の反応に暁嗣は固まってしまった。

「どうしたの? さっきのは勢いで言ったの?」

 美夜は首を左に傾け、暁嗣を挑発するように笑った。

「い、勢いじゃない!」

 暁嗣は美夜の手を取った。美夜の手は柔らかく、そして小さく、なめらかで、思ったより冷たかったものの、胸の奥が暖かくなる感覚があった。

 美夜の手から伝わる感覚に暁嗣が感動していると、「木野くん」と美夜が暁嗣を呼んだ。

 暁嗣が顔を上げると、美夜は何か企んでいるような笑みを浮かべていた。

「それじゃ、勢いじゃないって証拠を見せてもらおうかな?」

 美夜はそう言うと、暁嗣の手を引き、歩き始めた。

「どこへ行くんだ?」

「私の家。さっき2人同じ大学に通って、一緒に大学の近くに住もうって行ったよね? 一緒にお父さんに話をつけに行くの」

 暁嗣が尋ねると、美夜は耳を疑うようなことを言い放った。

「いやいや、いきなりすぎるだろ!」

 確かに100%勢いで言ったわけではないとはいえ、20%くらいは勢いだ。流石に心の準備が出来ていない。暁嗣は美夜の手を引いて抵抗しようとした瞬間、

「ふーん、やっぱり勢いだったんだね」

 美夜は振り返ると、暁嗣を冷たい目で見据えた。しかし、口元が笑っている。明らかに演技だ。

「えーい、分かったよ! 行けばいいんだろ!」

 ヤケクソになった暁嗣は美夜の手を引き、歩き始めた。

「そうこなくっちゃ。あ、ちなみにお父さん空手の黒帯持っててめちゃくちゃ強いからね?」

「く、黒帯……? お、面白そうじゃん!」

 暁嗣は引きつった笑みを浮かべた。

 とんでもないことに足を突っ込んでしまった気がする。だけど、きっと何とかなる。絶望的な状況から大逆転できたのだから。

 暁嗣が美夜の手を少しだけ強く握ると、美夜も握り返してきた。

 何度も通った見慣れた景色のはずなのに、美夜とこうして歩いているだけで特別な場所のように感じられる。目に見えるものすべてが自分を祝福しているような、そんな感覚だ。

 初めて握った彼女の手の暖かさを、そしてこの日を自分は決して忘れないだろう。暁嗣はそう思わずにはいられなかった。

(終わり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パパ活女子の同級生をボディーガードすることになりました アン・マルベルージュ @an_amavel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ