献身

 暁嗣が男にナイフで襲撃されてから3日後の昼間。カーテンの隙間から差し込むわずかな光だけが唯一の照明の薄暗い自分の部屋で暁嗣は目を覚ました。こんなに遅い時間に目を覚ますのは、暁嗣にとってはもう思い出すことが出来ないくらい久しぶりのことだった。

 まだ頭に靄がかかっているような頭で、暁嗣は自分の体に違和感があることに気づいた。しかし意識がはっきりしてくるに従って、違和感の正体を思い出すことが出来た。

 男にナイフを突き立てられたことで、暁嗣の左腕には障害が残った。左手をスムーズに動かすことができず、拳を握ることもできない。佐宗ボクシングジムをクビになっても他のジムでボクシングを続ける選択肢はあったが、その道も完全に絶たれた。

 暁嗣は上半身を起こすと、自分の言うことを聞かなくなってしまった左腕を無表情で見下ろしていた。

 手は自分の思い通りに動くという当たり前の常識。それが当たり前ではなくなってしまったことにまだ暁嗣は実感を持てないでいた。

 目覚めて1分も経つ頃には稼働を停止していた脳のネガティブな感情を発する回路が動き出したかのように、暁嗣の頭の中に不愉快な感覚が広がり始めた。

 憂鬱で頭が重くなってくる。別に死にたいというわけではないが、自分がこの世に存在している事をなんだか恨みたくなるような、そんな気分だ。

 暁嗣は二度寝をしようと再びベッドに横になり目を閉じた。しかし、一向に眠気が来る気配がない。諦めて暁嗣はベッドから抜け出し、机の上で充電器に繋ぎっぱなしになっているスマートフォンを手に取った。

 何かで気晴らしがしたい気分だ。暁嗣はランキング上位に来ているスマホゲームをインストールした。今まで暁嗣はその手のアプリに全く縁がなかった。

 アプリを立ち上げると露出の多い格好をした少女たちが画面上に現れた。どうやらこの中から1人を選ぶようだ。

 その中から適当に1人を選ぶとチュートリアルが始まった。ゲーム画面には何のためのものなのか分からないボタンやゲージが大量に表示され、その時点で暁嗣は少しやる気をなくしてしまっていた。

 しかしせっかくインストールしたのだからとチュートリアルをなんとか終えると、最初に選んだキャラクターが画面に現れ、「初心者オススメのミッションはこれです」というセリフとともに画面上にもミッションを選ぶようにと案内が表示された。

 そこで暁嗣は完全にやる気をなくし、アプリを終了した。スマホをベッドに放り投げ、自分自身もベッドに倒れ込むと、インターホンの鳴る音が聞こえた。

 宅配便か何かだろうか。しかし暁嗣は荷物を受け取るという簡単なことでさえやりたくない気分だった。

 居留守をしよう。と暁嗣が思っていると、もう一度インターホンが鳴らされた。続けてさらにもう一度。訪問者は明らかに暁嗣が家にいることを知っている。

 暁嗣は部屋を出ると、リビングに向かった。その間も一定の間隔でインターホンは何度か鳴らされている。

 暁嗣がリビングに備え付けられているモニターを確認すると、そこには制服姿の結佳が立っていた。


 いつものように暁嗣は結佳を自分の部屋に案内し、これまたいつものようにオレンジジュースを入れたグラスを結佳が腰を下ろしているベッドの近くの台に置いた。しかし結佳はそれに手を付けようとはせず、拳を握りしめ俯いたままだった。

「……学校はどうしたんだよ?」

 暁嗣はデスクの椅子に腰を下ろした。

「暁嗣がこうなっちゃったの、お父さんのせいだよね。本当にごめんなさい」

 結佳は質問に答えることなく俯いたまま、更に頭を下げた。こんな結佳を暁嗣は今まで一度も見たことがなかった。

 確かに佐宗がクビだと言わなければ、こうはならなかったかもしれない。しかし、そもそもの原因は暁嗣が金髪の男たちを殴ったことにある。暁嗣からしてみれば、結佳に謝罪されるいわれはない。

 暁嗣は顔を伏せたままの結佳に向かって「原因は会長じゃないよ。悪いのは俺だから」となだめるように言った。

「でも、きっと理由があるんでしょ? 私は暁嗣がそんな事するような人じゃないって知ってる。誰かを助けるためだとか、そんな事情があったんだよね?」

「違う。香椎に振られて、全てがどうでも良くなってた時にアイツらがちょうどいいタイミングで現れたから。それだけだ。自分勝手な理由だよ」

 暁嗣は佐宗といい、結佳といい、随分と自分の事を買い被ってるなと思いながら、自嘲的に鼻で笑った。

「そっか、やっぱり、そうだったんだね」

 結佳は顔を上げた。さっきまでと雰囲気が明らかに違い、含みのあるような微笑を浮かべている。なぜ結佳は笑っているのだろう。不審に思った暁嗣は顔をしかめた。

「私ね、こうなってよかったかも。ってちょっと思ってるんだ」

「どういう、ことだよ」

 暁嗣は頭に血が上る感覚を抱きながら結佳を睨みつけた。いくら幼なじみでも、言ってもいいことと悪いことがある。

 確かに自分のせいではあるが、それによって暁嗣は一気に様々なものを失った。それがよかったと思われるなど、ありえない。ふつふつと怒りが湧いてくる。

「だって、これで私にもチャンスができたから。香椎さんには振られて、ボクシングは続けられなくなって、暁嗣はもうボロボロだよね。そんな状態なら、私にコロっと落ちてくれるんじゃないかなって」

 そう言った結佳の表情は、冗談ではなくどう見ても本気で言っているようにしか見えなかった。

「結佳……?」

 暁嗣はそんな結佳に寒気を感じた。美夜の存在によって自分への思いが強くなりすぎてしまった可能性は否めないが、その発言は、いくらなんでも病的過ぎる。

「ねえ暁嗣、まだ『あの女』の事が好きなの? あんな女のどこがいいの? 私は、暁嗣の事がずっと前から好きだったんだよ。なのに、後からやって来た女に暁嗣を取られたと思った時は、もう辛くてたまらなかったの。だけど、暁嗣はあの女に見放されて、今は心にも体にも傷を負っている。おかげで今私にチャンスが回ってきた。それについて良かったって思うことの何が悪いの?」

「……俺がこんな風になってそれでも良かったって思うのかよ?」

 身を乗り出した結佳に、暁嗣は憤りを抑え努めて冷静に言った。

「もちろん、暁嗣がこんなふうになっちゃったのは良くないと思ってるけど……私がそれを癒やしたら暁嗣は私を必要としてくれるかなって」

「癒やすって……どういうことだよ?」

 何を以て癒やすのか、結佳の何か決意を固めたような表情から暁嗣は十中八九予想がついていた。しかし、相手は幼なじみだ。そんな事は、許されない。

「暁嗣は私のことを女の子として見られないのかもしれないけど、それは『暁嗣自身』がそう思い込んでるだけで、暁嗣の体はそうじゃないと思うんだよね」

 暁嗣は結佳の言いたいことを理解した。暁嗣は結佳を同い年の妹のような認識で今まで生きてきた。そんな相手に劣情を催すことは倫理的にあってはならないことだ。

 だが、別に『物理的にできない』わけではないし、そもそも言ってしまえば結佳は妹ではない。血が繋がっているどころか親戚ですらない。したがって、1つ障害を取り除いてしまえばあとはもう簡単だ。

「……そんなこと、出来るわけ無いだろ?」

 暁嗣は無意識のうちに結佳の足に視線を向けてしまっていた自分に気づき、すかさず目をそらした。

 結佳は身長は低く、まだどこかあどけなさを残してはいるものの、制服の短いスカートから除く白くて細い足はつい視線が吸い寄せられてしまうし、胸も大きいわけではないものの、制服の上からでも分かる程度に膨らんでいる。大人の女として成熟しつつあるのだ。

「ほら、暁嗣」

 結佳は立ち上がると暁嗣のすぐそばまで歩いてきた。そして暁嗣の左手を取り、暁嗣の手を自分の生足に押し付けた。暁嗣の手からきめ細やかなシルクを思わせる感覚が伝わってくる。

「ゆ、結佳!」

 暁嗣はとっさに振り払おうとしたものの、その手から伝わってくる甘美な感触は暁嗣からその気を奪ってしまった。

 しばらくそうした後、暁嗣は自らの意思で結佳の足をさすり始めた。

「いいでしょ、暁嗣。私の足の感触」

 結佳は暁嗣の手を取ったまま、満足げな表情を浮かべながら自分の足をさする暁嗣を見下ろしていた。

 こうなってしまえば、理性の糸はたやすく切れてしまう。暁嗣の手は弧を描くような動きで、少しずつ上へ移動しつつあった。そしてついには手がスカートに触れた。さすがに暁嗣もそこから上に行くのには抵抗があり、しばらくは道に迷ってしまったかのように同じ場所をさすり続けた。

「……暁嗣、もっと上もいいよ?」

 結佳は暁嗣が躊躇していることに気づいたのか、暁嗣を促した。

「いっ、いいのか?」

 興奮のため、自然と暁嗣の声が大きくなる。

「いいよ。でも、この姿勢だとやりづらいでしょ?」

 結佳は一度暁嗣の手を離すと、ベッドに腰を下ろした。

「ほら、おいで」

 結佳は自分の太ももを軽く2度叩いた。

 暁嗣はよろよろと立ち上がると、結佳のすぐ隣に座った。結佳から漂う香水なのか柔軟剤の香りなのか分からないが、柔らかい香りが暁嗣の鼻孔をくすぐり、暁嗣の興奮はさらに高まり始めた。

 次に暁嗣は今度は正常に動く右手を結佳の膝のすぐ上に置いた。そして再び弧を描きながら少しずつ手を上に動かしていく。その間何度か手を止め、指先で結佳の太ももを押す。そのたびに自分の足とは違う張りのある弾力が返ってくる。これが、女の子の足。

 そのように触られるのはくすぐったいのか、結佳は体をわずかに震わせ、「んっ」と吐息混じりの小さな声を漏らした。

 そうしているうちに、再び暁嗣の指先が『女の子のスカート』という未知の物体に触れた。一瞬迷ったものの、暁嗣は指をスカートの中に滑り込ませた。次の瞬間、指先が感じる温度が変わった。そこはほんのりと暖かく、この暖かさは結佳の体温だと思うと、暁嗣の脳に痺れにも似たような感覚が走る。

 さらにスカートの中に入れた手を上へ上へと滑らせていく。すると今度は指先がスカートとは違う素材の布に当たった。スカートにしまわれているブラウスの裾だ。暁嗣はブラウスと結佳の太ももの間に指を差し込み、さらに上へと滑らせていく。次にブラウスとは違う触感の布地に触れた瞬間、暁嗣は生唾をごくりと飲み込んだ。今暁嗣が触れているのは、結佳の下着だ。

 結佳は日頃から短いスカートを穿いている事が多い。当然結佳も見えてしまわないように気をつけてはいるものの、どうしても不可抗力で何度か見えてしまうことはあった。しかし、それに触れるのは初めてのことだった。

 当然だが、暁嗣もとてつもなくまずい事をしている自覚はあった。こんなところを佐宗に見られたら殺されるどころでは済まないかもしれない。そうでもなくとも、相手は恋人でもなんでもなく、幼なじみの女の子なのだ。

 それでもそんな事を良くないことをしているという状況に浮かされ、暁嗣の息は荒くなっていく。頭は完全にのぼせ上がり、心臓の音がうるさくてたまらない。口の中は唾液が粘っこくなるほどに乾燥している。

 暁嗣は名残惜しさを感じつつも結佳の生足から手を離し、結佳の両肩に手を置いた。

そして手から伝わって来る結佳の体の華奢さを感じながら、結佳の顔をじっと見つめた。結佳の顔は紅潮し、緊張はしているものの、これから起こることに期待が込められた表情をしている。

 結佳は小さく頷き、それを合図に暁嗣は結佳の体をゆっくりとベッドに横たえた。結佳の口からは艶めかしい吐息が漏れ、その潤んだ目はじっと暁嗣を見つめている。

 その状態のまま暁嗣が結佳を見下ろしていると、1つの疑問が脳裏によぎった。

 ここでキスをしたほうがいいのだろうか。桃色の瑞々しい唇は、思わずむしゃぶりつきたくなる衝動に駆られる。

 しかし暁嗣は理性を失われた状態であるにも関わらず、結佳にキスをすることなくブレザーのボタンを外しにかかった。キスをするのは何か違うような気がしたからだ。暁嗣の手は興奮のあまり手が震えていたものの、難なく外すことが出来た。

 続いて胸元のリボン。暁嗣はリボンに触れようとしたところで固まってしまった。これはどうやって外せばいいのだろう。

「こうだよ……」

 暁嗣が手を宙に浮かせたまま固まっていると、それを察した結佳は恥ずかしそうに暁嗣から目をそらしながら自分でリボンを外した。しゅるり、という布擦れの音が暁嗣の興奮をさらに煽る。

 次はブラウス。ここに手をかけたらもう後戻りはできない、という葛藤が暁嗣の中であったもの、第一ボタンに手をかけた。ボタンは小さく、左手が不自由かつ手が震えている暁嗣は1つのボタンを外すのにすら苦戦したが、そのじれったさが逆に暁嗣の興奮を高めていく。視界が興奮のあまり陽炎のように揺らめいているようにすら見える。

 3つボタンを開けたところで、暁嗣はゆっくりとブラウスを左右に開いた。そこから見える光景に、暁嗣の視線は眼球が飛び出しそうなほどに釘付けになった。日頃可愛い洋服を好む結佳にぴったりの、レース付きのピンクの下着だ。恥ずかしいのか、結佳は首を右に曲げ、上に視線をそらしている。

 呼吸に合わせ、結佳の胸が上下に動く。暁嗣はさらにボタンを外し、ブラウスを完全に開いた。結佳の下着が完全に露わになる。

 暁嗣は結佳の体をここまでまじまじと見るのはこれが初めてだ。初めて見る女の子の体に、暁嗣の血走った目は結佳の体を舐めるように動く。

 暁嗣は恐る恐るその2つの膨らみに手を伸ばした。その時、一瞬結佳は視線を戻していたためか暁嗣が手を伸ばそうとしていたことに気づいたのだろう、「ダメ」と言いながら両手で胸を覆った。

 しかし、そのわずかな抵抗も暁嗣の右手によってすぐ解かれてしまった。再び暁嗣は手を伸ばし、結佳の左胸に触れた。下着越しであるにも関わらず思った以上にそこは暖かく、そして柔らかかった。

 1回、2回、3回……とゆっくり暁嗣は結佳の胸を揉んだ。結佳の胸はそこまで大きいわけではないが、それでも暁嗣が感動を覚えるほどに柔らかかった。未知の感覚にすっかり溺れ、手首を動かしながらさらに揉んでいく。もう、結佳の胸以外のすべてのものが眼中になかった。

 下も、触れたい。そう思った暁嗣が視線をふと上に向けた瞬間、暁嗣の興奮は一気に冷めてしまった。

 結佳は泣いていた。腕で目を隠していたが、すすり泣く声と、頬から流れる涙を隠すことはできなかった。

 なんてことをしてしまったんだ。暁嗣は素早くベッドから飛び退いた。

「ごめん! 俺、なんてことを」

 暁嗣は結佳の方を見ずに言った。それに対する結佳の反応は、暁嗣の想像の斜め上のものだった。

「暁嗣、どうして、やめるの?」

 背中越しにでも、結佳が自分に批判めいた視線を向けていることが暁嗣には分かった。

「私は……私は暁嗣の事がこんなに好きなのに……どうして……どうして、私を見てくれないの?」

 暁嗣の後ろから、結佳のすすり泣く音が聞こえてくる。暁嗣は思わず振り向きたい衝動を懸命にこらえた。もし振り向いてしまったら、今自分の中にある決意が揺らがない自信がなかったからだ。

「結佳、あそこまでしておいて、ごめん。……だけど、だけどやっぱり、俺は香椎が好きなんだ。結佳の気持ちは嬉しいし、香椎なんてさっさと諦めて結佳と付き合ったほうが絶対いいって頭では分かってるんだよ。それでもやっぱり、そんなに簡単に頭を切り替えられない」

 もしかしたら、実際は自分が思っているほど美夜の事を好きではないのかもしれない。

 すぐ手が届く結佳に対して、美夜ははるか遠いところにいる。だからこそ彼女に価値を感じている。それだけのことなのかもしれない。しかし仮にそうだったとしても、別に構わない。自分は美夜が今でもまだ好きなのだ。それだけは間違いない。暁嗣にはそれで十分だった。

「……ホントだよ。幼なじみにここまでしておいて。どう責任を取ってくれるの? お父さんに言っちゃおうかな〜」

「……ゴメン」

 結佳はまだ涙声だったものの、その口調は軽かった。しかしそれはわざと気丈に振る舞っているだけだと暁嗣にも分かった。軽口を叩くことなく、重々しく返した。


「……よし!」

 着衣を整えた結佳はまっすぐ立ち上がると、今まで一口もつけていなかったオレンジジュースを一気飲みした。

「暁嗣。私帰るね。じゃあまた、『学校で』会おうね」

 その一言はこれからの2人の関係を物語っているようで、暁嗣は胸の奥を締め付けられたような感覚を抱いた。

「あ、ああ、また」

 暁嗣は意識して今までの結佳に対するような態度で言った。

 結佳が部屋を去り、暁嗣は1人部屋に残された。結佳が部屋を出ていってからすぐに、これで良かったのかという迷いが急に頭の中で大きくなり始めた。結佳が部屋にいたときは、結佳の気持ちに応えない以外の選択肢なんて考えられないと思っていた自分は何だったのかと思ってしまう。

 美夜との関係をここから逆転させる方法は今の所何一つとして思いつかない。手に未だに残っている結佳の柔らかい体の感触を反芻すると、ほんの数%だけだが、結佳を選んだほうがよかったのではないかと思ってしまう。

 今結佳を追いかければ、結佳は「信じられない」と呆れつつも、きっと受け入れてくれるだろう。しかしその選択はありえない。自分は決断したのだ。結佳への罪悪感を胸に、暁嗣は空になったグラスを手に取ると、リビングへ向かった。


「はあ……」

 帰宅し自室に入った結佳はカバンを置くと、そのまま仰向けにベッドに倒れ込んだ。

 自然と暁嗣の部屋であったことを思い出し、無意識のうちに胸の上に手を置いていた。そうしているうちに、暁嗣の部屋での感覚が蘇ってくる。幼い頃に暁嗣と手を繋いだことはあったが、それををノーカンとしたら、まさか手を繋ぐ前に胸を揉まれることになるとは思ってもみなかった。いくら何でも色々とすっ飛ばしすぎだな、と乾いた笑いが漏れる。

 あそこまでしても、暁嗣を落とすことは結局叶わなかった。もう少し、もう少しだけ、美夜のように自分のスタイルが良ければ結果は違ったのだろうか。いや、あそこで自分が泣いてしまったからだ。いやいや、発情期の獣のように目をギラつかせていたくせに、泣いていたくらいで続きをやめてしまった暁嗣が悪い。肝心なところでヘタれてるんじゃない。そんなことを考えずにはいられなかった。

「バカ……」

 再び涙腺が緩み始めてしまった。眉間に力を入れてこれ以上涙が流れないよう頑張ってみたが、自分の意思に反して涙は止まることなく流れ続ける。あれ? そもそもなんで泣くのを我慢してるんだろう? 別に、泣いてもいいじゃん。

 そう思った瞬間、嗚咽が漏れていた。なんて間抜けな泣き声なんだろう。誰も見ていないのに、恥ずかしくてたまらない。だけどこうしていると、この胸の中の張り裂けそうな思いが少しだけ楽になってくる。もう我慢なんてできない。

 結佳は部屋で1人、部屋が防音なのをいいことに大声で泣き続けた。


「はぁ……」

 ひとしきり泣き続け、心が徐々に冷静になっていく感覚を抱きながら結佳はため息をついた。

 長年の恋が、人生で最初の恋が、ついに終わってしまった。思った以上にあっさりと。

 もしかしたら自分はおばあちゃんになってもずっと1人なんじゃないか。そんな極端なことを考えてしまう。

「これからどうしようかな……」

 結佳は天井を眺めながら口をほとんど動かさずにぼやいた。これから考えなければいけないことはたくさんある。暁嗣とはこれからどう接していくべきか。どうやったら暁嗣を完全に諦めることができるか。これからはどれくらいの頻度で暁嗣と会うべきか。ここから何とか逆転する方法はまだ残っていないか。

 暁嗣のことばかりで、振られたばっかりなのに未練たらたらな自分に思わず自嘲的な笑みが溢れる。

 だけどそれより今は優先的にやるべきことがある。結佳はベッドから起き上がりカバンからスマートフォンを取り出すと、何か操作をし始めた。


 翌日の放課後。美夜と結佳は以前暁嗣と美夜が昼食をとった宿舎裏にいた。

 昨晩、美夜が学校で割とよく話すクラスメイトから『結佳に連絡先を教えてもいい?』というメッセージが送られてきた。特に断る理由もなかったので『大丈夫』と返信すると、数分後には結佳に友だち追加され、メッセージが送られてきた。

 内容は『放課後話したいことがあるんだけど、空いてる?』という短いものだった。

 それに美夜が返信し、今に至る。

「こんなところまでありがとね」

 普段美夜と結佳はあまり話すことがない。以前暁嗣と3人で帰宅した時に話したが、その前はいつだったか美夜は思い出せなかった。もしかしたら一度も話していない可能性も考えられる。

「大丈夫。要件は木野くんのこと?」

 美夜がそう答えると、結佳は一瞬目を丸くしたが、「そうだよ。話が早いね」と不敵な笑みを見せた。

「暁嗣、今日も学校来てないけど、何があったか知ってる?」

 結佳は美夜を試すような態度で言った。

「知らないけど」

 美夜は質問の意図を考えながら短く答えた。何かあったか知らないから自分なら知っているのではないのかと思ったのか、逆に知っているから試そうとしているのか……。

「暁嗣はね、人を殴って捕まって、結局釈放はされたんだけど、帰り道にナイフで腕を刺されてボクシングを続けることができなくなっちゃったんだよ」

 今度は美夜が驚く番だった。HRで先生が暁嗣について触れようとしないから停学になっているのだろうとは思ったが、想像以上に大変な目にあったようだ。そして結佳の態度から、非が自分にあるように言っているように感じられた。

「……それは大変」

 内心では驚いていたものの、それをおくびにも出さず、あくまで冷静な態度で美夜は結佳を見返した。

「大変? それだけ?」

 結佳は不機嫌そうに表情を歪めた。

「だって私には関係のない話だし」

「ホントは自分のせいだって分かってるくせに!」

 美夜が両腕を組み冷たく笑うと、結佳は感情を爆発させるように大声を上げた。

「どうしてそうなるの?」

 美夜は結佳の怒りを受け流すように、冷ややかな態度で尋ねた。

「暁嗣は香椎さんと関わらなければ、こうはならなかったんだよ?」

 美夜の予想通りだった。やはり、暁嗣は結佳に自分との関係を話していた。それに対しては何の感情も湧かなかった。ただ、予想が当たったという事実を受け止めるだけだった。

「私が彼を騙したのならともかく、お互い納得の上だったんだから、問題ないでしょ? むしろ依頼主とボディガードという関係を越えようとした彼が悪いんじゃない?」

 美夜は面倒くさそうに答えた。事情は知らないが、ボクシングが続けられなくなってしまったのは確かに哀れだが。

「だけど、暁嗣があなたの事を好きなのは知ってたんだよね? いつかそうなるかもって思わなかったの?」

「まあ、彼の実家が太いとかなら私から提案する可能性はあったかもね」

「はぐらかさないでちゃんと答えてよ!」

 美夜がまともに取り合わないことが我慢できなくなったのか、結佳は美夜に掴みかかった。

「暁嗣に……暁嗣に謝ってよ」

 結佳は美夜を睨みつけ、美夜を掴む手の力が強まった。

「謝ったところでどうなるの? そもそも、木野くんがそう言ってたの?」

 掴みかかられているにも関わらず、さして気にした様子もなく結佳より背の高い美夜が結佳を見下ろしながら言うと、

「それは、言ってない……けど」

 結佳は気まずそうに目を伏せた。

「じゃあ、佐宗さん。あなたのやってることはただのお節介だって分かってる? 頼まれてもいないことを勝手にして、木野くんが喜ぶと思ってるの? むしろ『勝手なことをするな?』って木野くんが怒る可能性も考えられなかったの?」

 結佳の体が一瞬小さく震えた。

「香椎さんに……暁嗣の何が分かるっていうの」

 押され気味だが知った口を利かれたのが気に障ったのか、結佳は絞り出すような声で言い返してきた。しかし、美夜からすれば反撃にすらなっていなかった。

「さあ? でも木野くんとは何度か2人で出かけたこともあるし、後から来た女に好きな男の心を奪われるようじゃ、佐宗さんも木野くんのことよく分かってないんじゃない?」

 美夜は口の端を歪め、悪魔のように笑った。

「……!」

 結佳は悔しそうに何かを言い返そうとした。しかし、美夜がしばらく待っても、結佳の口から反撃の一言が放たれることはなかった。

 美夜は勝利を確信した。これで終わりだろう。1秒でも早く、この場から立ち去りたかった。

「もういい? 私忙しいんだけど」

 美夜は力がすっかりなくなった結佳の手を振りほどき、立ち去ろうとした。

「…………暁嗣は苦しんでたよ。香椎さんのことで」

 結佳は顔を伏せたまま、結佳は今にも泣き出してしまいそうな声で言った。去り際に一言言いたくなった美夜は振り返ると、

「佐宗さん、あなたって優しいね」

 今まで言い合いしていたとは思えないほどの優しい声で言った。

「え?」

 突如褒められたためか、意外そうに結佳は顔を上げた。

「そして、甘い」

 罠にかかった獲物にとどめを刺すように、美夜は顔を上げた結佳に言い放った。背筋に寒気を感じるほどの冷たい、容赦のない声で。

 後退りをした結佳に美夜はさらに追い打ちをかける。

「佐宗さん、木野くんに振られたでしょ」

「っ……」

 結佳は答えなかったが、その態度がすでに肯定しているようだ。

「やっぱり。振られた男のためにここまでするなんて信じられない。佐宗さん、ひとつアドバイスしてあげる。このままだときっとあなたは将来他人にいいように利用され、泣くことになる」

 美夜が憐れむような笑みで結佳を見ると、

「どうして……どうしてそんなひねくれた考え方しかできないの?」

 一時は戦意喪失したかに見えた結佳だったが、今にも泣き出しそうな顔で美夜に訴えかけるように首をわずかに左右に動かした。

 美夜は大きくため息をついた。

「まあ、佐宗さんはそう思うのかもね。私はあなたとは住む世界が違うの。だから、絶対に理解できない」

「そんな……」

 結佳は何かを言おうとしたが、その前に美夜は再び「あなたにはできない」と断言すると結佳に背を向け、その場を後にした。

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