契約破棄

 翌日。その日は暁嗣は午後から美夜のボディガードに駆り出されていた。とは言ったものの今回の新規のパパにドタキャンされてしまい、ちょうどお昼時ということもあり2人はファミレスに入ることにした。

 スタッフに案内され席に着いた美夜は不機嫌さを隠すことなくカバンをソファに放り投げると、大きなため息をついた。

「はあ〜信じられない。ありえないでしょ。待ち合わせ10分前に『行けなくなった』って、小学生でももっと早く連絡できるって」

 美夜は水を一口飲むと、

「イライラしてたらお腹空いてきた……。ファミレスのメニューなんてたかが知れてるし、ケチケチしてても仕方ない。ガッツリ食べよ」

 メニュー表の茶色いメニューばかりが載ったページを開いた。どうやらこの中から選ぶようだ。

 向かいの席に座った暁嗣はドタキャンされたことに内心安心していた。昨日の結佳とのことが頭から離れず、ボディガードをまともに務められる気が全くしなかったからだ。

 あのとき自分はどうすればよかったのだろうか。未だに晃嗣の中で答えは出ていない。

 自分の正直な気持ちを告げ、今の関係が壊れてしまったとしても少しでも今までの関係と近い状態でいられるように努力するべきだったのか、優しい嘘で一旦はあの場を収めて後から手段を考えるべきだったのか。

 そのような事を考えていると、曖昧な言葉でその場を切り抜けようとしてしまった自分が許せなくなってくる。どうして自分は肝心なところで怖がって逃げてしまうのだろう。

 いつの間にか暁嗣は上の空になってしまっていた。

「……くん……木野くん?」

「……あ、ごめん考え事してた」

 美夜の何度目かの呼びかけで暁嗣は我に返った。

「大丈夫?」

 気遣うような声色で美夜が尋ねた。

「ああ、大丈夫。何食べるか決めるからちょっと待って」

 暁嗣はテーブルの脇に立てて置いてあるメニュー表を手に取るとパラパラとめくり始めたが、いまいち食欲が湧いてこなかった。

「俺はこれでいいや」

 暁嗣はメニュー表下部に小さく印刷されているサラダを指差した。サイドメニューとして頼むようなもので、健全な男子高校生ならばこれだけではまるで足らない。

「え、これだけでいいの?」

「大丈夫。朝食べすぎちゃってあんまり腹減ってないだけだから」

 心配そうな様子の美夜に暁嗣は努めて平然を装い、呼び出しボタンを押した。


「あー、それにしても腹立つ。今からでもキャンセル料払えって言ってやろうかな?」

 美夜は運ばれてきた唐揚げ定食を半分ほど食べたところで再びぼやき始めた。しかし空腹がある程度満たされたおかげか、不機嫌さは多少はマシになっているようだ。

 一方暁嗣はというと再び心あらずといった状態になってしまい、フォークを持ったまま固まってしまっていた。

「木野くん? もしかして体調悪いの?」

 暁嗣の様子が何かおかしいことに気づいたのか、美夜は箸を置くと暁嗣の顔を見た。美夜の整った目に見つめられ、暁嗣の心臓が一瞬強く鼓動する。

「お、幼なじみと喧嘩っていうのかな? ちょっとあってね」

 暁嗣はコップを手にしながら正直に答えた。当然内容については言えないが。

「へえ、何があったの? もしかして告白されたけどうまく断れなかったとか?」

「ぶっ」

 図星だった。水を飲んでいた暁嗣は咳き込み、情けない音を漏らした。

「あ、やっぱりそうなんだ。結佳ちゃん可愛いのに何が不満なの?」

 美夜はわざとらしく『結佳ちゃん』と呼び、暁嗣に向かって身を乗り出した。

「それは……」

 暁嗣は「実は分かってるだろ」と言いそうになったところで留まった。美夜は自分が想いを寄せている事を知っている。それにも関わらず、なぜこんな事を言ってくるのだろうか。

 言いたい。

 しかし、暁嗣の口は言葉を失ってしまったかのように動かない。勿論失ったわけではなく、ただ口に出したら最後、それを取り消すことは出来ない。それが分かっているから、怖くてたまらないのだ。

 しかし今言わなくていつ言うのだろうか。言うなら今だ。昨日も言うべきことを言えず、結佳を傷つけてしまったのだから。

「それは、香椎のことが…………好きだから」

「好きだから」の部分を絞り出すように暁嗣が言うと、

「……そう」

 美夜は暁嗣がぎょっとするほど冷たい声で答え、暁嗣は思わず美夜の表情を伺った。

「それは知ってる。だけど、私が誰かと付き合えるような状況じゃないことはよく知ってるよね?」

 暁嗣もそれは承知の上だった。休日はおっさんと会い、金を稼ぐ。それだけで普通のアルバイトでは到底稼ぐことの出来ない大金を得ることができる。いくら金のためとはいえ、得体のしれないおっさんと会うなんて正気では出来ない。それほどまでに美夜は金を必要としているのだ。

「それは分かってる。だけど、香椎のことが好きだから俺はこうしてボディガードをやってきたんだよ。2人でカフェで話しているときの香椎は俺に心を許してくれてるように見えたし、この前デートしたときも楽しそうにしてたじゃないか。だから、俺の事を振り向いてくれるんじゃないかって」

 一度口が回り出してしまえば、普段なら躊躇して言えないこともスラスラと口に出すことが出来てしまう。

 暁嗣は思いの丈を美夜にぶつけた。しかしそれを美夜は興味なさそうに、時に不愉快そうに聞いていた。

「悪いけど、無理。私は誰とも付き合うつもりはないから」

 取り付く島もなく切り捨てた美夜に暁嗣は食い気味に、「あんなに楽しそうにしてたじゃないか!」と食い下がった。

「普段私が何してるか分かってるよね?」

 美夜はだるそうに首を振った。

「分かってるよ。分かってるけど、俺はそうじゃないって思ってたんだよ」

「自惚れもそこまで行くと、感心しちゃう。どうしたらそこまで思い上がれるのか教えてほしいくらい」

 美夜の容赦のない言葉に、暁嗣はもうやめてくれと言いたかった。仲良くなれたと思っていた。心の距離を縮められたと思っていた。だけど、そうじゃなかった。勘違いだった。自分もおっさんたちと同じように、彼女の『お客さんの1人』でしかなかったのだ。

 暁嗣は拳を強く握りしめた。息が苦しい。平衡感覚が狂って床が斜めに傾いてしまっているようだ。

「なんて、ひどい女だ」

 自分が好きになった女の子をこんな風にこき下ろすようなことはしたくなかった。しかし、暁嗣自身も驚くほどに全く抵抗がなく口から漏れ出た。

「そっか。じゃあ、もういい。君はクビ」

「……!」

 暁嗣はその一言に答える代わりに財布から千円札を取り出しテーブルに叩きつけると、脇目もふらずに店を後にした。


 暁嗣の頭の中は絵の具を雑に塗りたくったようにぐちゃぐちゃだった。ネガティブな感情が頭の中で跳ね返っているかのように飛び回り、頭を振って嫌な感情を追い出したくなってくる。

 美夜への怒り、そして感情に突き動かされて彼女に酷いことを言ってしまった自分への怒りに脳に支配されたまま、暁嗣は街をあてもなくさまよっていた。

 しばらくそうしてフラフラと街を歩き回っているうちに、暁嗣は見覚えがある男と出くわした。

「いいところで会ったな」

 それは以前美夜をナンパしていた金髪の男だった。後ろには以前と同じように似た風貌をした男が2人いる。

「おい」

 金髪の男の掛け声に応じ、男たちは薄ら笑いを浮かべながら暁嗣を取り囲んだ。

「この前恥をかかされたお礼をしないとな」

 ここに来て暁嗣はやっと目の前の男が誰なのかを思い出した。あの散々オラついておきながら実際は全く大したことのなかった見掛け倒しのダサい男。

「あのさ、俺、今めちゃくちゃイライラしてるんだけど。今度は寸止めじゃ多分済まないよ?」

 暁嗣は今にも漏れ出してしまいそうな感情を押し殺しながら言った。自然と口調が刺々しくなる。

「おお、望むところだ。俺も寸止めじゃ済まさないつもりでいたからな」

 男は暁嗣の忠告を聞くことなく、おどけた様子で言った。

 そんな男を見て暁嗣は鼻で笑った。何でこんなにもいいタイミングでこいつらは自分の目の前に現れるのだろうか。

 当然だが暁嗣は佐宗からボクシングを喧嘩に使ってはいけないと厳命されており、暁嗣はそれを律儀に守っていた。

 しかし今の暁嗣には守ろうなどという意識は脳の片隅にすらなかった。とにかく今は頭の中にこびりついているこの不愉快な感覚を誰かをぶん殴ることで紛らしたかった。どうせ寄ってたかって女を脅すようなクズみたいな奴らだ。正義はこちらにある。

「お望み通り、もうナンパなんて出来ない顔にしてやるよ」

 暁嗣は拳を握り構えを取った。普段はどことなく頼りなさそうな風貌を漂わせている暁嗣だが、意識を切り替えた瞬間雰囲気が変わった。別人のように顔つきは鋭くなり、殺気が体から放たれる。常人離れした研ぎ澄まされた真剣のような集中力。これがあるから佐宗は暁嗣にボクシングを指導したと言っても過言ではない。

 暁嗣の雰囲気が変わったことに男たちも気づいたのか、本能的に「コイツは強い」と察したのか、わずかに後ずさりをしていた。

「まとめてかかってこいよ」

 暁嗣は構えを取ったまま顎をしゃくった。自分より年下の男に横柄な態度を取られたのが怒りに火を付けたのだろう、金髪の男の左右にいた男2人は同時に暁嗣に襲いかかった。

 次の瞬間、暁嗣は一気に姿勢を落とした。男2人からすれば暁嗣が急に姿を消したように見えたはずだ。掴みかかる相手を急に見失った2人はお互い頭を強くぶつけ、弾けるように左右に倒れ込んだ。

「あんたらみたいな下っ端には俺のパンチなんて勿体ないよ」

 頭を抱えうずくまる男2人を、暁嗣は構えを解き退屈そうに見下ろした。喧嘩の最中だとは思えないほど体は弛緩しきっている。

「で、あんたは? どうせ刃物でも出すんだろ? 俺は別に構わないけど?」

 暁嗣は構えを解いたまま舐めきった態度で不敵に笑った。

「この野郎……。だったらお望み通りにしてやるよ」

 男は本当に折りたたみナイフを取り出し、暁嗣に刃先を向けた。

「マジかよ。それ銃刀法違反だろ。最近厳しいの知らないの?」

「うるせぇっ!」

 男は怒号とともに駆け出すと、暁嗣の腹部に向かってナイフを突き立てようとした。しかし暁嗣はサイドステップで男の攻撃をかわすと、男の頬に向かって迷いなくパンチを放った。素手で殴った男の頬は思ったより固く、男を殴った瞬間、暁嗣の拳に鈍い痛みが走った。

 暁嗣のパンチをもろに食らった男の顔は無残に歪み、歯が2本男の口からこぼれ落ちた。そしてそのまま地面に倒れ込み、動かなくなった。

「ハァ……ハァ……」

 暁嗣は構えを取ったまま地面に倒れた男を見下ろしていた。激しく動いたわけでもないのに息が上がり、脳に体内の血液が集中しているかのように頭はのぼせ上がっていた。とんでもないことをしでかしてしまったという自覚もあったが、人を素手で殴ったという高揚感と混ざり合い、自分が何をして、何を考えているのかよく分からなくなってしまっていた。

 暁嗣が荒い息を吐きながら男たちを見下ろしていると、

「おい、お前! 何をやってるんだ!」

 背後から男の声が聞こえ、暁嗣は声が聞こえた方向を振り向いた。警察官だった。

 暁嗣がいるのは揉め事が日常茶飯事の繁華街だ。喧嘩をすれば誰かがすぐに通報するのは火を見るよりも明らかだ。

 頭が冷静になるにつれて、やっと事の重大さの実感が湧き始めてきた。

「あの、俺は……!」

「話なら後でゆっくり聞いてやる」

 警察官はまともに取り合おうとせずに暁嗣の腕を取った。そしてそのまま暁嗣は警察へ連行されていった。


 暁嗣が去っていった後会ってくれそうなパパもいなかったため、早々と帰宅した美夜は久しぶりに読書をしていた。最近はなかなか本を読む時間が取れず、加えて今も本を読んでいるくらいならば勉強をしたほうがいいのでは、と焦りを感じ、本を読む時間があっても勉強時間に費やしてしまっていた。

 しかしそうやっているうちに本を読む習慣がなくなってしまうのも困りものだ。そんなわけで美夜は以前購入した歴史小説を久しぶりに読んでいた。内容を忘れてしまったため、最初から読み直しだ。

 暁嗣との一件があり最初は心に迷いを感じながら読み始めた美夜だったが、気がつけばそんなことを思ってしまっていたことも忘れ、夢中になってしまっていた。

 歴史小説はやはり楽しい。作者のその時代の空気、今とは違うその時代を生きる人たちの考え方を事細かに描こうという思いが伝わってくるとなおさらだ。読んでいるうちに自分もタイムスリップしたかのような感覚を抱く。

 半分ほど読み進めたところで美夜は本から顔を上げ、ほっとため息をついた。やはりこの小説は当たりだ。ページを捲る手が止まらなくなり、まるで本と自分が一体化したかのような没入感を与えてくれる作品だ。

 ふと、美夜はそういえば暁嗣と初めて話したときも歴史小説を読んでいたことを思い出した。

 暁嗣の事を思い出したことで、美夜は意識して思い出さないようにしていた、今日の暁嗣への自分の態度はあれが正解だったのか考え始めていた。

 正直言って自分の事を好きだと言ってくれたことは嬉しかった。

 強くて、自分のために一生懸命になってくれる。そして自分と一緒にいるときは本当に楽しそうで、こっちも嬉しくなってくるし、彼の前では素の自分を出すことができる。正直言って、彼とは付き合ってもいいかな。と思う。

 だけど、もちろん思うだけで実際付き合うのは無理だ。自分は、お金を稼がなくてはならない理由がある。普通の女子高生のように青春を送っている暇はないのだ。

 それに、自分のようなおっさんの機嫌を取って金を巻き上げているような女は彼にはふさわしいとは思えない。

 おまけにちょうどよく彼のことを好きな女の子がいる。自分なんかより、彼女と付き合ったほうが彼も間違いなく幸せになれるはずだ。だから、今日はわざと嫌な女を演じた。自分を演じているのは慣れているから、嫌な女を演じるくらい朝飯前だ。

 美夜は椅子の背もたれに背を預け、天井を見上げた。自然とため息が出る。

 ともかく、これでいい。彼にボディガードを打診したときはこれから必要になるかもと思ったが、危ないことなんてあのあと結局一度も無いし必要なさそうだ。

 短い間だったが、彼と行動を共にするのはそれなりに楽しかった。

 ただ、これから学校ではどう振る舞うべきか。すでに校内には自分と彼が恋人関係にあるというウソが広まってしまっている。自分でも浅はかだった。

 こうなってしまっては、彼が協力してくれるはずもない。まあ、いくらでも手はある。こういう時、女に生まれて良かったとつくづく思う。

 美夜は再び開いたままの文庫本に視線を落とした。


「暁嗣。俺は何度もお前に『ボクシングは喧嘩の道具じゃない』と言ってきた。間違いないな?」

 佐宗に呼び出された暁嗣は、ジムにある応接間で佐宗と2人きりで向き合っていた。

 今の所佐宗は冷静な態度を見せているが、胸のうちには怒りや失望といった感情を秘めていることは暁嗣にも想像に難くなかった。

 警察に捕まってしまった暁嗣だったが、男がナイフを持っていたこと、目撃者からの証言があったこと、そして暁嗣がボコボコにした男たちは何度も暴力事件を起こしているという3点から正当防衛として釈放された。

 しかし警察が許しても佐宗高志も許すとは限らない。暁嗣は佐宗によって2度目の取り調べを受けていた。

「はい、間違いないです」

 暁嗣は佐宗の目を見ずに言った。

「じゃあ、なぜあんな事をした? 顔を殴る必要はあったのか? 相手は結構な重傷らしいじゃないか」

「……」

 佐宗からの問いに即座に答えることができず、暁嗣は黙り込んだ。

 なぜあんなことをしたのだろう。美夜に手ひどく振られ、自暴自棄になっていたから?

 理由としてはその1つに集約される。自分では完全に上手く行っていると思いこんでいて有頂天になっているところから、突き落とされた。そして自暴自棄になり、ボコボコにするには丁度いい相手がタイミングよく現れた。それだけだ。

「暁嗣。俺はお前があんなことをしたのには理由があると思っている。お前は喧嘩っ早い性格ではないことは俺もよく知っている。お前がいたところは治安の悪い場所だから、向こうから襲われてやむなく、ってことなんじゃないか?」

「それは……」

 佐宗は自分の考えたこのあらすじを信じたがっている。と暁嗣は思った。ここで「そうです」と答えれば、佐宗からの説教は避けられないが、許してはくれるだろう。そして見かけ上は元の生活が戻ってくる。

 だが、それでいいのだろうか。結佳を傷つけ、そして今度は自分可愛さに佐宗を欺こうとしている。これ以上、昔からお世話になっている佐宗家の人たちをかき乱していいのだろうか?

「どうなんだ。流石に俺も無抵抗でなすがままになれとは言わん。ちゃんとした理由があるのなら、今回のことは不問にする」

 一向に胸の内を語ろうとしない暁嗣にしびれを切らしたのか、急かすように佐宗が言った。

「……確かに、一度喧嘩で人をぶん殴ってみたいという思いがありました」

 数秒の沈黙の後、暁嗣は背もたれに背中を預け、感情のこもっていない目で天井を見上げながらそう答えた。そして暁嗣がそう答えた瞬間、佐宗は大きなため息をついた。

「俺はお前のことをずっと勘違いしていたようだな」

 佐宗は暁嗣と目を合わせようとせずに立ち上がった。

「お前は今日限りこのジムをやめてもらう。お前のような奴をこのジムに置いておくことはできない」

 そう言い放った佐宗の態度は、暁嗣を見放したと言うよりは、赤の他人に接しているようだった。


 ジムを後にした暁嗣はとぼとぼと道を歩いていた。佐宗ボクシングジムはターミナル駅から私鉄に乗り各駅停車で一駅のところにあるが、徒歩5分で山手線の駅にたどり着くことができる。

 暁嗣はその駅と駅の間を歩いていた。場所が場所なためオフィスビルもあるが、年代物の住宅もいくつか残っており、オフィス街と住宅地が混在しているようなエリアだ。

 暁嗣が目的もなく歩き回っていると、開けた場所に出た。暁嗣が視線を上に向けると山手線の駅名が書かれた看板が視界に入る。

 暁嗣は駅の前に立ち止まり、ぼんやりと道行く人達を眺めていた。皆どこかへ向かって歩いているのだから、きっと何か目的があるのだろう。自分とは違って。

 好きだった女の子との接点は絶たれ、ボクシングジムはクビになってしまった。今自分には何があるのだろうか。何もない。俺って何なんだ。と叫びたくなってくる。

 暁嗣はまるで自分は他人の姿が見えるのに、他人からは自分の姿が見えなくなってしまったかのような感覚を抱き始めていた。

 周りにはたくさんの人がいるのに、逆に孤独感が増していく一方だ。

 気が滅入る。帰ろう。と思った瞬間、暁嗣の左腕に高温に熱せられた鉄を突き立てられたような激痛が走った。

「……え?」

 暁嗣の腕に、何者かがナイフを突き刺していた。

「グフゥ、やっと見つけたぁ……」

 以前美夜をホテルに無理やり連れ込もうとしていた男が、黄色いボロボロの歯を見せて笑っていた。誰が見ても正気ではないのが分かる笑顔だった。

 男の口から発せられたのだろう。ドブのような臭いが暁嗣の鼻を刺激した。

 男はナイフを突き立てたままナイフの柄を捻り、激痛が更に走り暁嗣は悲鳴を上げた。

 暁嗣の声に振り向いた通行人も目の前で起きていることに悲鳴を上げた。

「おっ、お返しをしな……」

 男が最後まで言い終える前に暁嗣は歯を食いしばり、男の腹に向かってパンチを放った。

「ごっ……おふ……」

 男はナイフを手放すと、崩れるように倒れ込み、暁嗣もその場にへたり込んだ。あまりの痛みから、意識が朦朧としている。しかし、このまま気を失うわけには行かない。ナイフを抜かなければ。

 暁嗣がナイフに触れようとしたところで通行人の1人が駆け寄ってきた。40半ばくらいの男だった。

「駄目だ。ナイフを抜いたら大出血になるかもしれない。今救急車を呼んだから、そのままでいるんだ」

「が……」

 暁嗣は返事をしようとしたが、そこで限界が訪れ、気を失った。

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