ふたりの女の子

「木野くんこっち!」

 美夜が暁嗣に向かって手を振っている。この日暁嗣はボディガードの報酬である『美夜とのデート』を受け取るべく駅で待ち合わせていた。

「おお……」

 美夜が視界に入った瞬間、暁嗣は感嘆の声を漏らしていた。最近気温がさらに下がってきたためか、美夜は厚手のワンピースに上着を羽織っている。以前会ったときよりどちらかと言えば可愛らしいコーデだ。暁嗣としては今日の服装が一番好みだった。どちらかと言えば美夜は綺麗系だ。よって綺麗系の服装をしてしまうとややきつい印象を与えてしまう。そのため可愛い系のコーデを取り入れるときつすぎず、子供っぽすぎずない丁度いい印象になる。

「きょ、今日はよろしく」

 美夜の元に駆け寄った暁嗣はぎこちない態度で言った。こんな美少女と今日はデートだと思うと気恥ずかしさで頬が熱くてたまらない。ボディガードの後に2人でカフェで話したりすることはあったが、それはそれ、これはこれだ。

「今日のプランなんだけど」

「うん……あ!」

 美夜にデートプランについて切り出され、暁嗣は凍りついた。そう、何も考えていなかったのだ。

「その表情、何も考えてなかったでしょ?」

 美夜は目を細め、ニヤニヤと笑っている。

「……そうだよ」

 格好悪い! しかし何も考えていなかったのは事実だ。変に取り繕うのも男らしくない。暁嗣はあっさり認めた。

 美夜はフッと笑うと、

「やっぱりね。じゃあ、最初は私の行きたい所でいい? その間に考えといてよ」

 暁嗣の答えを聞かずにスタスタと出口へ向かって歩き始めると、

「あ、ああ、分かった」

 暁嗣は駆け足で彼女の横に追いつくと、2人そろって出口へ向かった。


 どこへ連れて行かれるのかと思っていた暁嗣だったが、完全に予想外の場所に連れて行かれていた。

 今暁嗣の目の前には、実際に使われたと言われている戦国時代の甲冑が実際に身に着けているかのように見える台座に飾られている。

 金や赤やオレンジと派手な色で装飾され、大将用だからこれで実際に切り合ったりはしないとはいえ、こんな物を実際に使っていただなんて信じられなかった。

 そして美夜はそれを文字通り食い入るように夢中で眺めていた。美夜のガラス玉のような透き通った目は、甲冑を前にして輝いている。

 暁嗣と美夜が今いるのは博物館だ。今日2人が待ち合わせていた駅からは、博物館までは徒歩ですぐのところにある。

 この用意周到さは、きっと自分がノープランで来るのを予想していたのだろうなと暁嗣は目を輝かせている美夜を見ながら思った。何だか悔しい気分になってくる。

 暁嗣も博物館はどちらかと言えば好きな部類だ。確かにインターネットでデートプランで検索すると『博物館デート』というのは出てくるが、実際に自分が行くことになるとは思わなかった。ちなみにあたりを見渡すと意外とカップルの姿を見かける上に、思いの外楽しそうだ。

 暁嗣が周りにいるカップルに気を取られているうちに美夜は甲冑の前から離れ、日本刀が展示されているエリアに移動していた。暁嗣は先に行ってしまった美夜に追いつき美夜の横顔を窺うと、これまたうっとりした様子で刀を眺めている。ちょっと変わった光景ではあるが、そんな様子の美夜を見ているとデートに来た感がしてくる。行き先は博物館だと告げられた直後は正直言って博物館ってどうなんだ? と思ってしまっていたが、博物館デートはありだなと、暁嗣は自分の考えを訂正した。

 暁嗣は美夜が目を輝かせている日本刀に視線を向けた。専用の台座で鞘と並べて置かれ、刃は照明を反射して輝いている。暁嗣には読めなかったが、職人の銘が彫り込まれていた。

 何より目を引くのは刀身自体の美しさだ。鎬地と呼ばれる刃とは反対側の部分は怪しく黒光りし、そして刃側にある波のような模様には自然と視線が吸い込まれてしまう。このような模様になるのは何かの化学反応なのだろうが、何者かの意志が宿っているのではないかと感じてしまう。武器でありながら美術工芸品のようで、はるか昔にこのようなものが作られていたとなると、昔の人って何者なんだ、と思わずにはいられない。

「いいなぁ、一度でいいからこれで何か切ってみたいな」

「えっ」

 前触れもなく物騒なことを言い出した美夜に面食らった暁嗣だったが、その一言によって美夜が日本刀を携えた姿を無意識のうちに想像してしまっていた。美夜のような黒髪ロングストレートで切れ目の美少女が涼しい表情で日本刀を握りしめ、一直線に振り下ろす、右から左へ水平に振り抜く。返り血を浴びてもまるで興味なさげに、動かなくなった足元にある骸を眺める……。

「ありだな」

 とても絵になる。美夜に聞こえないよう、暁嗣は小さく呟いた。

「……それにしても、香椎にこんな趣味があったなんてちょっと意外だったな」

 暁嗣は日本刀に視線を向けたたまま言った。世の中色んな趣味を持つ人がいることは分かっているが、美夜が甲冑や刀が好きなのは流石に予想の埒外だ。

「私元々歴史の授業が好きなんだよね。歴史って、昔は常識だと言われてた事が今では全然違ってたりするでしょ」

 美夜も日本刀に視線を向けたまま答えた。

「聞いたことある。10年くらい前と今でも教科書の内容が結構違うんだっけ」

「そう。だから今常識のように言われてることも明日には変わってるかもしれない。これって凄いことじゃない?」

 普段は落ち着いたゆっくりとしゃべる美夜だが、今は妙に早口だ。

「まあ、そうかも」

 暁嗣は頷いた。現代に残っている資料は後世の創作だったり、断片的にしか残っていないため推測するしかないこともあるはずだ。だから後になって「実は違っていました」という事が起こるのは当然のことだ。それでもそうやってさも常識のように教えられていたことが定期的に変わるというのは確かに歴史くらいしかない。

「歴史って言ってしまえば『高確率で本当にあったこと』と、『ウソかもしれないこと』が混じってるの。だから授業を受けている時も『もしかしたら本当はこうなのかも』ってつい考えちゃったりするんだよね。この刀も、もしかしたらここに書かれてる説明とは全く違う所で作られて、ひょっとしたらいわくつきの一品かもしれない。そう考えると、こうやって眺めてるだけでワクワクしてくるんだよね」

 美夜は再び視線を日本刀に戻した。

 そう言った時の美夜の表情は、暁嗣が今まで見てきた美夜の笑顔の中で一番自然で、そして魅力的だった。

「確かにな……」

 美夜に見とれてしまい語彙を失った暁嗣は、短く答えた。美夜の話は少し強引だなと思ったものの、たしかにそうやって考えながら展示物を見ていると、以前とは見え方が違ってきて面白い。

「さて、名残惜しいけどせっかく来たのに刀ばっかり見てるのもなんだし、そろそろ移動しましょうか」

 美夜は視線を上げると次の展示エリアに向かって歩き始めた。

 それにしても、美夜はどうしてそのような考えを持つようになったのだろうか。彼女はプライベートをほとんど語ろうとしない。過去に何があったのだろう。暁嗣はそんなことを考えながら次の展示物へ歩いていく彼女の後を追った。


 1時間後。

「あー、楽しかった~」

 美夜は満足げに大きく伸びをした。

 博物館を一通り回った2人は博物館の出口付近に立っていた。天気はよく青空が広がっているが、空の色の割に気温はそこまで高くなく、否応なしに秋が深まっていることを感じさせる気候だ。

「それで、木野くんはこのあとどこへ連れてってくれるの?」

 美夜は暁嗣が立っている方向に体をくるりと向け、両手を後ろで組むと、暁嗣を試しているような目で見た。狙ってやっているのが分かるが、上目遣いがあざとい。

「あっ……」

「はぁ、やっぱり忘れてたか」

 間抜けな声を漏らした暁嗣を見て、美夜は呆れたように言った。

「待って! 今考えるから……」

 暁嗣は周りを見渡した。しかし良さそうなものは何も見当たらない。まずい。

 何も思いつかず暁嗣がオロオロとしていると、

「ごめん、私が悪かったね。『暁嗣くん』には難しかったかな。次も私の行きたい所に行こ」

 美夜は暁嗣を追い抜くとスタスタと歩き始め、暁嗣は美夜の後を追った。

 暁嗣にもプライドがある。せっかくのデートなのだからリードしたいという思いはあるものの、今日は美夜にリードされてばかりだ。博物館は楽しかったし、美夜の意外な一面を知ることができたのはよかったが、それでも「俺って格好悪い」と内心思わずにはいられなかった。


「……どんな所に連れてこられるかと思ったけど、次は思ったより普通なんだな」

 暁嗣はソファに腰を下ろしながら言った。

 2人が次に来たのはデートの王道、カラオケだ。

 美夜も持っていたカバンをソファに置き、暁嗣の斜め向かいに座った。部屋は狭く4畳程しかないため、自然と2人の距離は狭くなる。

 密室に美夜と2人。その事実を意識してしまい、暁嗣は挙動不審に部屋中を見渡し始めた。2人がいるのは天井付近にエアコンが取り付けられ、壁にディスプレイが取り付けられている、ごくごく普通のカラオケルームだ。

 暁嗣はデンモクを充電台から取り外し、操作し始めた。前の人がどんな曲を歌ったのかつい気になってしまい、履歴を開く。曲名を見てもどんな曲なのかさっぱり分からなかったが、いかにも演歌っぽい曲名が並んでいた。おそらく前の客はそこそこの年齢の人なのだろうと暁嗣が考えていると、目の前に座っていた美夜が立ち上がった。

 一体どうしたのだろうと暁嗣が視線を美夜に向けると、美夜は何度か深呼吸したあとに発声練習をし始めた。

 低音で「あー」と声を出したかと思うと、今度は高音で「あー」だ。それを何度か繰り返し、納得したように「よし」とつぶやくと、「私、最初いい?」とデンモクを指差した。

「あ、ああ、いいよ」と暁嗣が答えると、美夜はデンモクで迷う様子無く何かの曲を入力した。

 そしてイントロが流れ始めた瞬間。

「マジかよ……」

 暁嗣は予想外の選曲に驚きを隠せなかった。

 美夜が歌い始めたのは、暁嗣の両親の世代よりさらに上の世代が夢中になったヘヴィメタルバンドの曲だった。あまりにも有名なため、暁嗣も名前だけは知っていた。

 そのバンドのメンバーは全員顔に悪魔のようなメイクを施し、ライブでは過激なパフォーマンスとMCに定評があることで有名だった。彼らの熱心なファンはライブに行くときは同様に顔にメイクを施し、ライブ映像を見ると観客の統一感に「何かの宗教儀式なのだろうか」という感想を抱いてしまう。

 暁嗣はそんなバンドの曲を美夜が歌うだなんて信じられなかった。もしかしたら、同じ曲名で違うアーティストの曲を入れてしまったのではないか。一瞬そう思ったものの、このヘヴィメタルバンドはどれも曲名が独特なものばかりで、他のアーティストと被りようがなかった。

 ジェットコースターがゆっくりと坂を登っていくような緊張感のある前奏が終わり、美夜が歌い出す。彼女の歌声を聴いた瞬間、暁嗣は鳥肌が立つのを感じた。

 上手い。男性ボーカルの曲にも関わらず、美夜はまるで女性ボーカルの曲かと思ってしまうほど見事に歌いこなし、身振りは誰かが乗り移ったのではないかと思うほど堂に入っていた。暁嗣は音楽に詳しいわけではない。だが、彼女の歌声には理屈抜きで魅了されてしまう『魅力』があった。

 暁嗣は完全に自分の世界に入り込んでしまっている美夜を呆然と眺めながら、その歌声に聞き入っていた。

 歌い終えた後、暁嗣は自然と拍手をし、それを見た美夜は満更でもなさそうにはにかんだ笑みを浮かべた。

「香椎ってこんなに歌上手いんだなんて知らなかったよ」

 おべっかではなく、暁嗣の本心だった。

「割とクラスの子とカラオケには行くからね」

「えっ」

 気分良さげに答えた美夜に暁嗣は固まった。

「……? あ!」

 暁嗣が固まった意図を察したのか、美夜は顔を赤くした。

「ク、クラスの子達の前ではヘヴィメタルなんて歌ったりしないからね……」

 美夜は恥ずかしそうに俯きながら小さくつぶやいた。

「ああ、やっぱりそうだよね。ヘヴィメタルなんて歌い始めたら場の空気固まっちゃうよね」

「そうそう。クラスの子達と行くときは基本無難なものしか歌わないから。……ところで」

 美夜はテーブルの上に置かれているデンモクに視線を落とした。

「もう1曲歌ってもいい?」

 

 次に美夜が歌い始めたのはイングランドのヘヴィメタルバンドの曲だ。当然歌詞は全て英語だったが、美夜はハードな曲調に負けない別人のような力強い声で流暢に歌う。その歌声は美夜の見た目とはあまりにも不釣り合いで、誰かが吹き替えをしているように見えてしまう。

 これには暁嗣も唖然とするしかなかった。何のバンドなのかは分からないが、流暢な英語で歌っていて、しかもめちゃくちゃ上手いことだけは分かる。というより、彼女はどうしてこんなにヘヴィメタルが好きなのだろう。ヘヴィメタルに偏見は無いが、どこでヘヴィメタルに出会ったのか気になって仕方がなかった。

「ふう……」

 見事に歌い終え、満足したようにドリンクを飲む美夜に暁嗣は尋ねた。

「ところで、何がきっかけでヘヴィメタルが好きになったの?」

 美夜はストローから口を外すと、

「私の家って厳しくて、とにかく両親に逆らいたかったんだけど、当時の私にはそんな勇気がなかったんだよね。せめて私が聴いてたら両親が卒倒しそうな音楽でも聴いてみようかなって思ってヘヴィメタルを聴き始めたらハマっちゃった、って感じかな。ヘヴィメタルは反抗の音楽だからね」

 どこか寂しそうに笑った。

「そうなんだ……だけど、ここまで見事に歌えるってホントにヘヴィメタルが好きなんだね。それってすごいことだよ。俺、香椎のヘヴィメタルもっと聴きたいな」

「それはいいけど、木野くんは歌わなくていいの?」

「大丈夫! 俺そんなにカラオケ得意な方じゃないから自分で歌うより香椎の歌声聴いてるほうが楽しいから!」

 暁嗣のその答えに美夜は一瞬ハッとしたような表情をしたものの、

「そっか、じゃあ次は何にしようかな」

 デンモクを拾い上げ、浮かれた様子で操作し始めた。

 その後は暁嗣という1人の観客のためのライブ状態だった。美夜は人前でヘヴィメタルを披露することがないためか、テンションが上がっていく一方で、暁嗣も誰も知らない彼女の一面を知ることができるのが楽しくて仕方がなかった。


 ひとしきり歌い続けた美夜は流石に疲れたのかソファの背もたれに背中を預け、ドリンクを飲んでいた。ストローから口を放し「ほっ」と一息つくと、

「こんなに歌い続けたの多分初めてかな」

 表情には疲れが滲んでいたが、満足そうだった。

「いやぁ楽しかったよ。おかげでヘヴィメタルにちょっと興味が湧いてきたかも」

「ホントに?」

 暁嗣がそう言うと、美夜は目を輝かせた。

 そんな学校では見せないような表情をしている美夜を見ていると、暁嗣はこのデートは報酬だとしても、美夜は自分に心を開き始めていると思わずにはいられなかった。今、他人には決して見せない一面を自分に見せてくれている。秘密を共有している者同士だとはいえ、そこまで見せる必要はないはずだ。

「だったら私のオススメ聴いてみてほしいな。私のオススメはね……」

 美夜が二の句を継ごうとした瞬間、テーブルの上に置いてあったスマートフォンが振動し、暁嗣は反射的に画面に視線を落とした。そこには以前と同じ、暁嗣には見覚えのないアイコンの通知が表示されていた。

 美夜は無表情でスマートフォンを拾い上げ、操作し始め、そしてスマートフォンをカバンにしまい込むと立ち上がった。

「木野くん、ごめん。何度か会ってるパパから急に会おうって来たからデートはここで終わりね。お金、ここに置いとくね」

「え……? 俺は行かなくていいの?」

 部屋を出ていこうとする美夜を押し留めるように暁嗣は立ち上がって言った。

「大丈夫。じゃあ、またね」

 美夜が出て行った後も、暁嗣は呆然と部屋のドアをしばらく眺めていた。


 1人残された暁嗣は会計を済ませると即座に帰路についた。せっかくカラオケに来たからと何曲か入れてみたものの、全く楽しくなかった。美夜の歌声を聴いている間は4畳も無いあの空間が、特別な空間に思えた。しかし美夜が出ていってしまった後はただの狭く、薄暗い空間でしかなかった。

 歯切れの悪いデートではあったが、美夜の新しい一面を知ることができ、同時に彼女との距離も以前より縮まったように感じる。しかし、デートの途中だというのに彼女はあっさりとデートを切り上げ、帰ってしまった。結局、自分と彼女はその程度の関係でしかないのだろうか。そう思うとあんなに楽しかったデートも今となってはいまいちに思えてしまう。

 頭の中であれこれ考えているうちに、気がつけば暁嗣の家のすぐそこまでに来ていた。隣の結佳の家の前に差し掛かった瞬間、何者かが暁嗣の前に立ちふさがった。

「暁嗣!」

「結佳!?」

 どうやら門扉の陰に隠れていたようだ。

「どこに行ってたの!」

 結佳は暁嗣に掴みかかった。一気に距離が縮まり、柔軟剤の香りだろうか、ふわりとした柔らかい香りを感じた。

「ちょ、ちょっと出かけてただけだよ」

 暁嗣が結佳を押し返そうとすると、

「香椎さんと出かけてたんでしょ」

 結佳は低い声でそう言うと、手の力を強め、低い声で暁嗣を追求した。

 言い訳やごまかしは無駄だろう。暁嗣は「そうだよ」と短く答えた。

「そう……」

 結佳はわずかに非難の混じった表情を浮かべながら手を離すと、暁嗣から距離を取った。

「詳しい話を聞かせてもらうからね」

 結佳は暁嗣と視線を合わせようとせず、まるで自分の家かのように暁嗣の家に入って行った。


 暁嗣の部屋で結佳はベッドに腰を下ろし、100%オレンジジュースを飲んでいた。暁嗣はベッドのすぐ横にあるデスクの椅子に腰を下ろし、結佳と向かい合っている。

 結佳が遊びに来るたびにオレンジジュースを飲むので、木野家では結佳のために常備されているのだ。

「それで、香椎さんとはどうやって仲良くなったの? 2人って学校でも全然接点ないよね? 普通の関係じゃないよね? 2人はどういう関係なの?」

 結佳はもう一口オレンジジュースを飲むと、質問攻めし始めた。

 なんと返したものか。暁嗣は押し黙った。結佳は自分と美夜の関係がまっとうな恋人関係ではないことを見抜いている。しかし本当のことを言ってしまうのは彼女の沽券に関わることだ。自分の一存で決められることではない。

「えっと、それは……」

 重苦しい空気に耐えきれず暁嗣はとりあえず言葉を発したものの、次になんと言うべきか思いつかなかった。

「暁嗣。本当に何か悪いことをしてるわけじゃないんだよね?」

 結佳はベッドの脇にある台の上にグラスを置くと、暁嗣とは目を合わせず、そうであってほしいと願うかのようにつぶやいた。

「……してないよ」

 少なくとも、犯罪行為ではない。しかし、褒められたことでもないこともまた事実だ。

「私、暁嗣ともう10年以上幼なじみやってるんだよ? 私のこと信用できないの? 秘密なら守るから……お願い、話してよ」

 結佳は体を前に出すと、懇願するように暁嗣を見つめた。

「そうだな……」

 やはり話すべきなのだろう。懇願する結佳を見ていると、暁嗣はそう思わざるを得なかった。結佳から見て自分はそもそも長い付き合いの幼なじみで、そして佐宗や美夜の言うことが正しければ、『好きな男』なのだ。その好きな男が悪いことに手を染めているかもしれない。最近恋人が出来たと言っていたが、それは嘘かもしれない。そんな状態では気が気でないことは暁嗣でも容易に想像がついた。

 逡巡の後、暁嗣は「他の人には絶対に内緒だよ」と前置きした上で話し始めた。

 以前から美夜の事が好きだったこと。

 偶然おっさんと歩いている美夜を見つけ、後をつけたらおっさんにホテルに連れ込まれそうになっていて、間に入って助けたこと。

 それがきっかけで彼女のボディガードをすることになったこと。

 その報酬は彼女とのデートだということ。

 佐宗と美夜から言われたことは伏せたものの、話せることは全て話した。

 暁嗣が一通り話し終えると、結佳は「暁嗣は、この関係のことどう思ってるの?」と感情を抑えているような声で尋ねた。

「……まっとうな関係じゃないことは分かってるよ」

 まっとうどころではないが、それを認めたくなかった暁嗣が曖昧に答えると、

「じゃあ、やめてよ。そんな関係」

 結佳は非難の込められた視線で暁嗣を見た。

「やめない」

「どうして!」

 即答した暁嗣に、結佳は声を荒げた。

「俺は、今の関係に納得した上で香椎のボディガードをやってるんだ。それに、この関係のおかげで香椎と繋がりを持つことが出来ている」

 暁嗣は低い声で、言い聞かせるように答えた。結佳にだけではなく、自分に向けて。

「だけど!」

「それに、俺は今香椎に必要とされている。それが嬉しいんだよ。そして、もしかしたら今はこうでも、もしかしたら俺に振り向いてくれるかもしれない」

 暁嗣は自分は考えを曲げる気がないと誇示するように、毅然とした態度で答えた。

「……馬鹿」

 結佳は立ち上がるとすれ違いざまにわざとらしく暁嗣に体をぶつけ、部屋から出ていった。

「ハァ……」

 結佳が出ていった後、暁嗣は体を前に曲げ、太ももの上に肘を置いた姿勢で大きくため息をついた。もちろん、結佳の気持ちもわかる。だけどそれでも今関係を解消するわけには行かない。これは千載一遇のチャンスなのだから。


 カラオケを後にした美夜は電車の中で『パパ』に大まかな到着時間を送っていた。

 彼には悪いことをしたなと罪悪感で心が痛んだ。だが仕方がない。今回呼び出された『パパ』は上客だ。金払いがいい。

 しかし本当に忙しいらしくなかなか会うことができず、今日のように突然連絡が来る。

 その代わりダラダラと話すことなく決められた時間が来たら延長すること無く解散するため、その後の予定も立てやすいのだ。

 とは言ったものの、暁嗣とのデートを中断してまで『パパ』に会いに行こうとしている自分に、美夜は釈然としない感覚を抱いていた。

 人前でヘヴィメタルを披露するのはあれが初めてだった。学校の友人にはとてもではないが無理だ。ドン引きされるに決まっている。

 だが暁嗣はすでにこれ以上無い秘密を共有している。暁嗣ならドン引きされようがどうでもよかったし、最近カラオケに行くことがなかったので久しぶりに歌いたかった。

 ところが暁嗣はドン引きするどころか、喜んでくれた。歌うのは得意だから、学校の友達とカラオケに行くと絶賛される。ただ、猫かぶり用の無難な曲で絶賛されてもあまりうれしくないし、何よりあまり楽しくない。

 だから嬉しかった。おっさんと話すときも、クラスメイトと話すときも、気に入ってもらえるように自分を偽っているから当然気に入ってもらえる。だけど自分自身を気に入ってもらえたのではなく、それは自分の上っ面を気に入ってもらっただけなのだ。

 しかし彼は違う。自分の暗い部分を知った上でも、ドン引きしたりすることなく、受け入れてくれる。もちろん、それは彼が男で自分が女だからということも分かっている。それでも、自分をさらけ出した上で好意を持ってくれるというのは嬉しい。

 やはり以前より自分は彼に惹かれている。でもきっとこれは錯覚だ。今まで自分の内面を晒すことを避けていたというのに、彼に限っては隠す理由が無いからとさらけ出している。だからそんな相手は特別な人間に違いないと思い込んでいるだけだ。きっとそうに違いない。

 美夜があれこれ考え事をしているうちに、目的地に到着していた。いけない。美夜は慌てて立ち上がり、駆け足で電車から飛び出した。


 ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな。

 結佳は自室にあるサンドバッグを殴り続けていた。可愛い小物が置かれ、女の子らしい装丁に彩られた室内にサンドバッグがぶら下がっている光景は、場違い感が凄まじい。

 結佳がサンドバッグにパンチを放つたびに、小柄な結佳が放ったとは思えないほどの重い音が室内に響き渡る。これもDDRで鍛えたおかげか、血の成せる技か。

 暁嗣目当てに来ていたとはいえ、何年もボクシングジムでボクサーの動きを観察し続けたためか腰の入った整ったフォームだ。ジャブ、アッパー、ストレートと、親の仇かのようにサンドバッグをひたすら殴り続ける。

 しかし殴っても殴ってもスッキリせず、ついに蹴り技が飛び出し始めた。ハイキックの連続だ。ちなみにDDRでは鉄壁のスカートも、流石にハイキックの時は中が見えてしまっている。

 ひたすら無心に殴る蹴るを繰り返し、息が上がるほどサンドバッグを痛めつけたところでやっと気持ちが落ち着いてきた。

「はあー」

 大きな息を吐いてフローリングに寝っ転がる。しかしすぐに汗を拭かないと肌が荒れてしまうことに気がついた。拭かなければならないが、極めて面倒くさい。しばらくはこうしていたい。

 結局そんな状態でいることが許せず、結佳はだるそうに立ち上がると、タンスからタオルを取り出し汗を拭いた。

 椅子に腰を下ろしてしばらく呼吸を整えていると、一時は息を潜めていたどす黒い感情が息を吹き返しつつあった。

「あの女……」

 無意識のうちに拳を強く握りしめていた。またサンドバッグが殴りたくなってくる。

 私の方がずっと前から好きだったのに。だったのに、悪い女に取られてしまった。

 取られたのは暁嗣だけではない。暁嗣の心もだ。パパ活なんて汚らわしいことをやっているにも関わらず協力するなんて信じられない。あの女もあの女で学校では清楚ぶっておいて男に言うことを聞かせるためにデートを報酬にするなんて軽蔑する。

 なんとしても、暁嗣をあの女から取り戻さなければ。しかし、どうすればいいのだろう? 

 小学生の頃暁嗣の事が好きと言っていた同級生の悪い噂を流したように、あの女の根も葉もない噂を流すべきか?

 いや、それは駄目だ。今でも『おっさんと歩いているところを見かけた』という噂が流れているにも関わらず、本気で信じてる人なんていないのだ。あの女に悪い噂なんて通用しない。

 ではどうすればいいのだろう。結佳は部屋の中をウロウロしながらアイディアをひねり出し始めた。

 部屋の中を歩き回っていると自然とあちこちに視線が行く。そうしているうちに、ちゃんと閉めたはずなのにタンスが少し開いていることに気づいた。タンスの前に移動し、閉める。再び立ち上がると、タンスの横にあるクローゼットに自然と視線が行った。最近クローゼットの中がパンパンだし、着ない服は処分しないと……。

 次の瞬間、結佳はいい作戦があることに気づいた。別に裏をかく必要はない。正攻法で行けばいいのだ。

「なんだ、簡単じゃん」

 結佳は部屋で1人不敵な笑みを浮かべた。


 翌日。この日はジムでトレーニングがある日だ。暁嗣がリビングで朝食をとっているとチャイムが鳴った。朝早くから誰だろう。暁嗣は備え付けてあるインターホンに向かった。

「結佳……?」

 インターホン越しに見える結佳の表情は、どちらかといえば機嫌が良さそうに見えたが、昨日あんなことがあったばかりだ。笑顔なのが逆に不気味に感じてしまう。

 暁嗣はインターホンに向かって「今開ける」と告げると玄関に向かった。


「おはよー」

 ドアを開け暁嗣の顔を見た瞬間、結佳は軽いノリで手を上げた。

「お、おはよう。こんな朝からどうしたの?」

 暁嗣にはなぜ結佳がこんなに上機嫌なのか分からなかった。まさか昨日揉めたことを忘れてしまったなんて考えられない。

「暁嗣、今から私とデートしよ」

「え、いやいや、俺今からジムに行くところなんだけど」

 暁嗣は急にデートに行くと言い出した結佳に驚きを隠せなかった。暁嗣がジムに行くときはほぼ確実についてきている結佳が今日はトレーニングの日だと知らないはずがない。それに結佳はわざわざ『デート』と明言している。きっと何かがあるに違いない。

「大丈夫、お父さんには許可取ってあるから」

「マジかよ……」


 2時間後。暁嗣と結佳は肩を並べて歩いていた。以前美夜とおっさんが歩いているところを見かけた繁華街だ。佐宗ボクシングジムから歩いていける距離で、2人の住んでいる場所からアクセスが良いということもあり、2人で遊びに出かける場合は大体ここだ。

「どこへ向かってるんだ?」

「内緒〜」

 結佳は暁嗣の前を上機嫌に軽い足取りで歩いている。ふと、暁嗣は結佳の服装がいつもと違うことに気がついた。普段は可愛らしい服装を好む結佳だったが、今日はどちらかと言えば大人びたコーディネートだ。どことなく、美夜の私服に似ている。それだけでいつもの結佳とはどこか雰囲気が違って見える。女の子って服装変えるだけで別人になるよな、と考えながら暁嗣は結佳の後ろ姿を見ていた。

「ここだよ」

 しばらく繁華街を歩き進み結佳が指差したのは、これまた以前DDRをやるために店の前にまで来ていたゲーセンだった。

「前に『負けたほうが勝ったほうの言うことを聞く』って約束したこと、忘れてないよね?」

 結佳は暁嗣を挑発するような笑みを浮かべた。

「忘れてはいないけど」

 暁嗣はすぐに結佳の目論見を理解した。勝負で勝って美夜との関係を終わらせるつもりなのだ。

「やってやろうじゃん」

 そうはさせない。暁嗣は腕を大きく振り、ゲーセンの音ゲーフロアへ向かっていった。


 暁嗣と結佳が音ゲーフロアに現れた瞬間、にわかに辺りがざわつき始めた。そう、2人は……というより、結佳は有名人なのだ。

 DDRというゲームは画面上に表示されるノーツに合わせてパネルを足で踏むゲームなため、基本的に動きやすい格好でやるのが一般的だ。ゲーム名にダンスとついてはいるが、高レベルの曲をクリアするめには、誰も彼も足を滑らせているような無駄のない動きになる。そのためには動きやすいゆったり目のズボン、靴底のしっかりしたスニーカーが基本だ。

 そんなゲームなため、結佳が今しているようなロングスカートに、踵の高い靴でプレイするなど言語道断だった。

 しかし結佳は違う。踵高めのお世辞にも動きやすいとは言えない靴でも涼しい顔でステップを踏み、激しく動くと下着が見えてしまいそうな短いスカートでも下着を見せることなく、やすやすと高難度曲をクリアしてしまうのだった。

 そしていつの間にか結佳は他のプレイヤー達から、結佳のプレイヤーネームを取って『YUKA姫』と呼ばれるようになった。音ゲーの界隈では『姫』と呼ばれることはどちらかといえば侮蔑的な意味が込められていることがあるが、結佳の場合はその可愛さ、そして実力から純粋な賞賛の意味を込められて『姫』と呼ばれていた。

 暁嗣と結佳がいるゲーセンは大型店舗のため、DDRの筐体が複数設置されている。ちょうど筐体が1つ空き、2人は筐体の上に立った。結佳が左側で、暁嗣が右側だ。

「選曲はどうする?」

 暁嗣は準備運動をしながら横で同じく体を伸ばしている結佳に尋ねた。

「1曲目はじゃんけんで勝ったほうが、2曲目は負けたほう。2曲で決着がつかなかったら、3曲目は『アレ』でどう?」

「オッケー」

 暁嗣は短く答えると筐体のボタンを押し、次の画面へ進んだ。画面からテンションの高いシステムボイスが聞こえてくる。

 じゃんけんに勝ったのは暁嗣だったため、最初の1曲目は暁嗣が選択する。暁嗣が選んだのは他機種から移植された、いかにも『音ゲーの曲』という雰囲気の華やかな曲調が特徴的な曲だ。

 気がつけば暁嗣の周りにはギャラリーが出来ていた。純粋にYUKA姫のプレイを見るためにやってきた者もいれば、「俺もあんな可愛い子と音ゲーやりたいな。うらやましい」と羨望の視線を暁嗣に向けている者もいる。

「姫頑張って!」と結佳を応援する声が聞こえてくる。

 結佳は「は〜い!」と後ろを振り向き愛嬌をふりまくと、人が変わったかのように真剣な表情でディスプレイを見つめ始めた。

「HERE WE G0!」と画面に表示された直後、ノーツが画面の下から上に向かって現れた。

 来た。暁嗣は雑念を頭から追い出し、目の前の画面が世界のすべてかのようにゲームに集中し始めた。

 序盤はノーツ数が少ないため、そこで踏むタイミングを調整し、中盤から現れる滝のような譜面に備える。

 序盤を終え、暁嗣は画面上に表示されている自分と結佳のスコアを確認した。わずかだが、暁嗣がリードしている。この程度は誤差の範囲とはいえ、幸先が良い。

 画面上に表示されるノーツの密度は徐々に増えていき、暁嗣は何度かコンボを切ってしまった。だがスコア優先のための必要経費だ。暁嗣は気に留めることなく『滝』と言われる高密度地帯を無駄のない動きで踏んでいく。いきなりやや高難度の曲だったが、ボクシングで体力を付けた暁嗣はほとんど息が上がることなく完走した。

 1曲目を終え、制したのは暁嗣だった。思ったより差は開いていなかったが、勝ちは勝ちだ。

「どうだ!」

 暁嗣は余裕を見せつけるように隣の結佳に向かってガッツポーズをした。

 だが結佳はまるで動じた様子を見せることなく、「まあこの曲暁嗣得意だもんね」と流すように答えるとリザルト画面をスキップし、素早く次の曲を選んだ。

 2曲目に結佳が選んだのはいわゆる『版権曲』と呼ばれる、DDRのために作られたわけではない海外アーティストの楽曲だ。若干クセのある譜面だが、難易度は暁嗣が1曲目に選んだ曲より低い。

 なぜ結佳はこの曲を選んだのだろう。何か意図があるのだろうか。暁嗣は釈然としなかったが、深く考えるのをやめ、頭を切り替えた。

 DDRにはフリーズアローと呼ばれる特殊なノーツがある。それが降ってきている間はパネルを踏み続けていなければならない。そして踏み続けている間もノーツが降ってくる曲があり、その場合は空いている片足で踏まなければならず、左右に振られるように振ってくる場合は体をひねって踏む必要がある。結佳が選んだのはそのような地帯のある曲だ。

 画面に再び「HERE WE G0!」という表示が現れ、2曲目が始まった。同じように序盤は小手調べのような密度の低いノーツが降ってきた後、その地帯が終了すると片足でフリーズアローを踏み、もう片足で通常のノーツを踏んでいくエリアに突入していく。

 このような譜面は暁嗣は得意というわけでもないが、苦手でもない。淡々とリズム良くパネルを踏んでいく。

 一瞬訪れるノーツの降ってこない休憩地帯でスコアを確認すると、暁嗣の方が上だった。この調子で行けば2曲目も勝てそうだ。

 もらった。と暁嗣が思った瞬間、視界の端にチラチラと何かが映り込むことに気がついた。結佳のロングスカートだ。思いっきり視界に入ってくるわけではないが、なんだか気が散ってしまう。

 暁嗣は努めて気にしないようにしたが、一度気になってしまうと、意識からそれを追い出すことは難しい。逆に意識するようになってしまう。

 いちいち視界に入ってくる結佳のロングスカートに暁嗣は集中力を削られ、いつの間にかスコアを逆転されてしまいそのまま結佳が勝利を収めた。

「どう、暁嗣? 見事な作戦勝ちでしょ?」

 1曲目のお返しだと言わんばかりの態度で結佳は胸を張り、とりわけ大きいわけではない結佳の胸が強調される。

「くそ、まさかそんな作戦だとは思わなかった」

 序盤はリードしていただけに、逆転された暁嗣は苦々しい表情を浮かべた。

 今日の結佳の服装は、美夜に対抗したものだと暁嗣は思い込んでいた。しかしよく考えてみれば、結佳は美夜の私服姿を直接見たことは暁嗣の記憶では無い。似たような系統の服を着ていたのはたまたまで、これが狙いだったのだ。

「じゃあ、3曲目行こっか。時間いっぱいまで休憩する?」

「いや」

 暁嗣は即座に3曲目を決定した。

 3曲目に選ばれた『アレ』は、2人が未だにクリア出来ていない最高難易度の曲だ。譜面製作者は足が2本しか無いのを忘れているのではないかと思うほど辛い配置が延々と続くだけでなく、何度もノーツの降ってくる速度が変化し、登場してしばらく経つが未だにクリア者が少ない曲なため、クリアするということはすなわち超上級者だということを意味する。

 ギャラリーも「1クレ目でいきなりアレ選ぶかよ……」とざわめき始めた。しかしクリア者が少ない曲をクリアする瞬間を目の当たりにできるかもしれないからか、ギャラリーも何か期待しているような視線を結佳に送っていた。

 3度目の「HERE WE G0!」が表示され、曲が始まった。BPM100を切る前奏が流れた後、曲調が変わると同時にBPMが一気に200を超え、滝のような高密度のノーツが画面下から現れ始めた。

 DDRでは楽曲プレイ中に画面上部にゲージが表示されており、コンボを繋ぐと少しずつ増えていく。反対にミスをすると減り、ゲージが空になった瞬間、ゲームオーバーだ。

 今回はスコア勝負だが、スコアを気にしていられる余裕が暁嗣にも結佳にもなかった。それほどまでに3曲目は高難度なのだ。

 暁嗣も結佳も『負けたほうが勝ったほうの言うことを聞く』という取り決めを忘れ、純粋に曲を完走し、なおかつ余裕がある地帯では高スコアを出すために意識を集中して足がもつれそうな理不尽な配置に必死で食らいついていく。

 曲中盤時点ではスコアはやや結佳が優勢。だがまだまだ逆転可能なレベルだ。それより問題なのは、2人ともゲージが無くなりそうになっていることだ。終盤には序盤にも増して高密度の地帯がある。

 もう少し調子がいいときならばもっとゲージを残して突入できたんだけどな。と暁嗣は額に汗をにじませながら短い回復地帯を丁寧に踏んでいく。

 スコアはほぼ並んだ状態で最後の高密度地帯に突入する。それより問題は、暁嗣のゲージがレッドゾーンに突入していることだ。それに対して結佳はまだ比較的ゲージに余裕がある。

 暁嗣は必死で焦りを押さえつけていた。まずい。ゲージが無くなりそうだ。ゲージの余裕はそのまま精神的余裕に直結する。美夜をおっさんから助ける前ならば、負けても何かをおごって終わりだったかもしれない。

 しかし、今は何をさせられるか分かったものではない。絶対に結佳に負けるわけには行かない。

 ところが暁嗣が決意新たにさらに意識を集中した瞬間、横の結佳が足をもつれさせ、倒れ込んでいく所が暁嗣の視界に入った。

「おい姫が倒れるぞ!」

 今まで動きにくい服装でも難なくプレイしてきた結佳のミスに、ギャラリーも驚きの声を上げた。

 頭より先に体が動き、暁嗣は素早く結佳の元に駆け寄り、その体を受け止めた。

「大丈夫か?」

「あはは、2人ともゲームオーバーになっちゃったね」

 暁嗣の腕の中に収まった結佳は、照れくさそうに乾いた笑みを浮かべた。

 画面にはクリア失敗を示す『FAIL』が表示されており、スコアはなんと同点だった。

「引き分けか……」

 引き分けならば少なくとも今日の時点で結佳から「美夜との関係を解消しろ」と言われることは無いだろう。暁嗣はホッと小さくため息をついた。それにしても。

「楽しかったな」

「楽しかったね」

 2人同時に言葉を発していた。

 暁嗣は結佳と今までに何度も一緒にDDRをプレイしてきたが、ここまで熱い気分になったのは初めてだった。胸の奥の最高潮に達し徐々に冷めていく高揚感に、得も言えぬ心地よさを暁嗣は感じていた。


 ゲーセンを後にした2人は徒歩5分のところにあるカフェにいた。前から一度行ってみたかったという結佳の希望だ。暁嗣は生まれていないのであくまで印象だが、80~90年代を感じさせる、昔に思いを馳せたくなるような雰囲気の店内で、客層はカップルや女性グループばかりだ。

 美夜と2人で反省会をするときは基本的にチェーンのカフェに来ていたため、このような店に暁嗣は新鮮さを感じていた。

 注文してしばらくすると、SNSに投稿すれば『いいね』がつきそうなドリンクとホットサンドが運ばれてきた。結佳はそれを見て目を輝かせた。

「おいしそうー!」

 結佳はスマートフォンを取り出し何枚か写真を撮ると、「いただきます」と手を合わせてからホットサンドを頬張った。

「ん〜〜! 美味しい!」

 心底幸せそうに結佳が頬を綻ばせる。その仕草は普段とは違う大人びた服装をしているにも関わらずどこか子供っぽく、そのアンマッチさに暁嗣は苦笑を浮かべた。

 幼い頃からずっと一緒だった幼なじみと遊び、一息つく。少しずつ大人になっていくにつれて2人で出かける場所、することは変わっていくものの、暁嗣にとって結佳はまさに『平凡な日常』の象徴だ。そしてこれからもそれは変わらないと思っていた。

 だがそんなことはありえない。いつまでもこうしていることはできない。そして結佳自身もそれを望んでいないという事を知ってしまったのだから。

「やっぱり体を動かした後だから美味しいね」

「確かに」

 幸せそうな笑みを浮かべる結佳に暁嗣は頷くと、一口ホットサンドをかじった。野菜、チーズ、肉、そして焦げ目のついたトースト。それらが合わさることで、全身に痺れるような多幸感が駆け巡っていく。

 体を動かしたあとで小腹が空いているという事もあり、お互い黙々とホットサンドを食べ続け、2人の間に無言が訪れる。

 しかし暁嗣は全く気にならなかった。そもそも無言になってしまったことを意識すらしていない。話題が思いついたら話し始め、それが終われば再び無言になる。そして無言になることに気まずさを感じることもない。2人の間に信頼がある証拠だった。

 2人ともホットサンドを食べ終えドリンクを飲んでいると、結佳が口を開いた。

「やっぱりあの曲はこんな格好でやるのは無理があったかな」

 結佳は苦笑を浮かべながら服の袖をつまんだ。

「まあ、流石に密度が全然違うもんな。いくら結佳でも厳しいって」

 暁嗣は結佳の服装を一瞥した。普段結佳が好んで着ている可愛い系とは対象的な、大人びたロングワンピースだ。『あの曲』はともかく、1曲目と2曲目どちらも決して簡単ではないのにこんな格好でプレイしただなんて信じられなかった。

「こんな長いスカートの服なんて普段着ないから、やっぱりもっとこの格好で練習しないと駄目かな」

「そういえば、結佳がそんな格好してるの初めて見たかもな」

 暁嗣の記憶では、結佳が膝より下の長いスカートを穿いているところを見た覚えがない。結佳が珍しい格好をしていることが気になっていた暁嗣は、話の流れから自然と口に出ていた。

「でしょ? 似合う?」

 結佳は暁嗣に見せつけるように椅子に座ったままポーズを取った。

「うーん、そうだな……」

 暁嗣はよく見ると結佳が身につけている服以外も違う点がいくつかあることに気がついた。髪型も小物も普段とは違い、小物は服装に合わせて大人っぽいものを使っている。

 そんな普段とは違う結佳を見ていると、結佳も紛れもない『女の子』だということを意識してしまう。結佳は学校でも暁嗣とよく一緒にいるため、男子生徒達からは結佳は暁嗣の彼女だと思われてしまっていた。おかげで美夜のように何人もから告白されるようなことはなかったが、結佳は結佳で人気があるのだ。

 確かに結佳は可愛くなった。この大人っぽい服装も似合っている。しかし自分は結佳とあまりにも一緒にいすぎた。暁嗣には結佳と自分が恋人になっているところがまるで想像がつかなかった。

「まあ、似合ってると思うよ」

「ほんと? やった!」

 結佳の表情がパッと明るくなり、声のトーンが上がった。

「やっぱり私もいい年だから、そろそろああいう服は潮時かなって思って」

「いやいや、お前いくつだよ」

 結佳の見え見えのツッコミ待ちのボケに暁嗣はすかさずツッコミを入れ、

「あはは、バレたか」

 いたずらっぽく結佳が笑った。

 そんな他愛のないやり取りに、暁嗣は安心感を覚えていた。自分が今日もいい意味で『ありきたりな日常』を送れた、という実感。美夜と2人でいるときのような胸の奥が暖かくなってくるような感覚はないけれど、結佳はやはり暁嗣にとってかけがえのない幼なじみだ。

「ねえ、暁嗣」

 結佳が頬杖をつきながら、わずかに甘えたような声で言った。

「何?」

「私って、暁嗣の彼女だってみんなから思われてたって知ってる?」

「ああ、知ってるよ」

 といっても、暁嗣がその事実を知ったのは美夜に彼氏のフリをされられてからなのだが。

「でも、今は香椎さんが彼女ってことになってるでしょ?」

「そうだな」

「だからかなー、私今フリーって思われてるみたいで、最近よく告白されるんだよね。私、そういうのとは無縁だと思ってたんだけどな」

 結佳は暁嗣を試すような笑みを浮かべた。

「……なるほどな。まあ、なんだかんだで結佳って男子の中でも人気あるからな」

 それを聞いて、暁嗣は若干だが不快な感覚を抱いた。そして、そんな感覚を抱いてしまっている自分に戸惑っていた。

 確かに、結佳が自分の恋人になっているところを想像はできないが、それとは別に結佳は10年以上も一緒に過ごしてきた幼なじみで、妹のような存在だ。きっと世の中の妹から「彼氏ができた」と告げられた兄と同じ気分なのだろうと暁嗣は自分の中で結論付けた。しかしそれを結佳に誤解されるのはしゃくだったので、暁嗣は平静を装って答えた。

「え、そうなの?」

 結佳は頬杖をやめ、さも意外そうに目を丸くした。

「多分だけど、1年の頃から香椎の次くらいには人気があると思う」

「そうなんだ。私って人気者なんだねー」

 そう言うと結佳は一口ドリンクを飲んだ。言葉とは裏腹に、あまり納得できていないようだ。

「私って背も低いし、香椎さんと違って友達付き合いも上手なわけでもないし……」

 結佳は自信なさそうに目を伏せた。

「まあ、確かに香椎はスタイルもいいし、いつも人に囲まれてはいるけど、別に香椎みたいじゃなきゃダメってことはないと思うよ」

「えっ?」

 暁嗣の一言に、結佳は顔を上げた。

「多分だけど、香椎も今の香椎になるために努力してきて、その結果今の人気があるんだと思う。それと同じように結佳も努力してるから、その努力にみんな惹かれてるんじゃないかな?」

「私、努力してるかな?」

 結佳は自分に問いかけるように、自信なさげに視線を落としながら呟いた。

「してるよ。DDRとか、今日の格好とか。だから単に幼なじみだからってだけじゃなく、結佳といて楽しんだと思うよ」

 暁嗣が結佳を励ますように言うと、

「……私と香椎さん、一緒にいてどっちが楽しい?」

 結佳は顔を上げると冷たい目で暁嗣を見据えた。

「えっ……」

 結佳の予想外の返しに、暁嗣の表情が凍りつく。

「……すぐに答えられないの?」

 みるみるうちに結佳の表情が曇っていく。

「香椎さんより私と一緒にいる時の方が楽しいよね? 暁嗣の事は私のほうが何倍も理解してるし、香椎さんみたいな大人っぽい女の子になれるように服装だって変えた。それに私は香椎さんと違って、暁嗣がよければ……」

 さすがの暁嗣も結佳の気持ちを理解した。間違いなく、結佳は自分の事を幼なじみではなく、男として好きなのだ。

 不安そうで潤んだ目をした結佳の顔を直視することができず、暁嗣は視線をそらした。

 今の自分には結佳の気持ちに答えることが出来ない。しかし、結佳を傷つけたくはない。

 とは言ったものの、正直な気持ちを告げれば結佳を傷つけてしまう。かといって取り繕うような嘘をついたところで結局は結佳を傷つけてしまう。都合のいいことだとは分かっている。それでも、この関係を変えたくない。

「ごめん」

 どちらとも言えない曖昧な一言で暁嗣は言葉を濁した。

「……そのごめん、っていうのはどういう意味なの?」

 しかしその曖昧な答えを許さない結佳の追求に、暁嗣は言葉を詰まらせた。沈黙が訪れる。

「ねえ、今はまだ決められない、でもいいから、暁嗣の今の気持ちを教えてよ」

 結佳と目を合わせようとしない暁嗣に、結佳は懇願するように言った。

「……」

 暁嗣はうつむいたまま、ズボンの裾を握りしめた。

 この『答えない』というのを答えにしたかった。今の関係のままでいたい、と答えるのは簡単だ。だが、そう答えたら最後、今のままの関係でいることはできなくなってしまうのだ。

 仮にそう答えたとしたら、結佳は内心では悲しみながらも「分かった」と答えてくれるかもしれない。しかし結局は結佳も自分も、この関係でい続けられるよう努力が必要になってしまう。今まではこの関係は意識など全くすることなく自然に出来ていたというのに。

 言葉とはそういうものだ。外に向かって発すれば最後、現実世界に影響をもたらし、それを取り消すことはできない。

 こうやって話題に取り上げられてしまった時点ですでに手遅れなのかもしれない。それでも、お互い話題に出さず、お互いの関係については意識の外に置いたまま過ごしたい。それが暁嗣の望みだった。

 当然、そんなこと言えるはずがない。ただ暁嗣ができることは、結佳がこの空気に耐え切れず話題を変えてくれることを待つ。それだけだった。

 そんな暁嗣の願いとは裏腹に、結佳が追求をやめる気配はなかった。

「暁嗣、お願いだから答えてよ」

 結佳の声は今にも泣き出しそうになっていた。

「それは……」

 暁嗣は間を持たせるために言葉を発した。

 2人の周りだけ空気が違うようだった。周りの席の客たちの話し声が小さくなったわけでもないのに、壁が一枚あるかのように暁嗣の耳には小さく聞こえる。

「……私、暁嗣と幼なじみじゃなかったらよかったな」

「えっ」

 唐突な結佳の一言に、暁嗣は顔を上げた。

「自分でも変なこと言ってるって分かってるんだけど、私も高校生になってから暁嗣と知り合ってたり、転校生だったりしたら、こうじゃなかったのかなって」

 結佳は今にも泣き出しそうな顔を無理やり笑顔にした。

 確かに、そうかもしれない。暁嗣は心の中で同意した。一緒にいて楽しいし、その上結佳も美夜とは別の方向性の美少女だ。出会い方が違っていれば、女の子として好きになっていたかもしれない。あいにく自分はヘタレだが、結佳はこんな性格だから、結佳から告白されて、恋人になっていただろう。

 もちろん、2人がこうして遊びに行ったりするのは幼なじみだからであって、そうでなければ2人で遊びに行く機会がそもそもあったのかどうか分からないことも分かっている。

 お互いのことをよく知っているから、恋人になれば上手くいくはずだ。それなのに、長く一緒にいればいるほど、相手のことを異性として見られなくなってしまうのは何故なのだろう。暁嗣はそう思わずにはいられなかった。

「俺も、そう思うよ」

 暁嗣がそう答えると、結佳はクスっと笑った。

「暁嗣も、そう言うと思ってた。やっぱり私達、似たもの同士だね」

「まあ、幼なじみだからな」

 空気が徐々に軽くなっていくのを感じながら、暁嗣は努めて明るく軽く答えた。

 結佳もそれに答えるように顔をほころばせたが、すぐにその顔は曇っていった。

「私と暁嗣、こんなに心が通じ合ってるのに、なんで思ってることはこんなにも違うのかな」

 寂しそうに笑う結佳に、暁嗣は何も答えることが出来なかった。


 13年前。

 その日、若き日の佐宗は暁嗣と結佳をジム近くの公園につれてきていた。

 暁嗣と結佳の出会いは4歳の頃に遡る。木野家と佐宗家はほぼ同時期に今の場所に引っ越してきた。そしてお互いの両親がたまたま同じタイミングに帰宅した時に同い年の子供がいるということが分かり、交流が始まった。

 自然と幼い頃の暁嗣と結佳は一緒に遊ぶようになり、仕事で忙しい暁嗣の両親の代わりに、佐宗が結佳と一緒に暁嗣をジムに連れてきて面倒を見るようになった。

 最初は2人を公園につれていく度に誰かに「あの人誘拐犯じゃないですか」と警察を呼ばれるのが嫌でジム内で遊ばせていだのだが、やはり子供は外でのびのびと遊ばせたほうがいい。案の定、その日も公園にいた誰かが通報したのか、佐宗の元に向かって警察官2人が歩いてきていた。

 またか。携帯に入っている佐宗家と木野家で撮った写真を見せれば自分の子供と知り合いの子供だという事を信じてもらえるとは言え、毎回毎回警察を呼ばれるのは正直言って悲しかった。まあ、それだけ結佳が自分に似てないということなので、それはいいことなのかもしれないが。

 佐宗は警察を刺激しないよう気づいてないふりをしながら、公園を眺め回しながら話しかけられるのを待った。


 同時刻。暁嗣と結佳は追いかけっこをしていた。逃げる相手を捕まえると、今度は捕まえたほうが逃げる側に回り、捕まるとまた交代する。それだけの単純な遊びだが、2人はその遊びがお気に入りで、佐宗に公園に連れて行ってもらった時は決まってこの遊びをしていた。

「あれ、おじさんまたつかまってる」

 暁嗣の視線の先には、警官2人と何かを話している佐宗の姿があった。

「おとうさん、わるいひとじゃないのにな」

 結佳は悲しそうに俯いた。

「うん。おじさんかおがこわいだけで、いいひとだもんね」

 暁嗣は結佳の隣に歩み寄ると、結佳の肩に手を置いた。結佳が落ち込んでいると、暁嗣はいつもこうして結佳の肩に手を置くのが恒例になっていた。

「うん……ありがとう」

 そして、そうしているうちに結佳は元気になってくる。結佳は顔を上げると、にっこりと笑った。

「おい、あれ、おまえの親か?」

 2人の目の前に知らない男の子が立っていた。年は2人よりか1つか2つくらい上だろう。顔つきは整っていて、将来間違いなく女の子にモテそうだが、意地の悪い笑みを浮かべている。

「うん、そうだけど」

 結佳が小さく頷くと、

「やっぱりそうか~。きったねえ髪の毛してるもんな」

 その一言に、暁嗣と結佳は表情を凍りつかせた。佐宗はくせっ毛で、その娘である結佳もそのくせっ毛を受け継いでいる。

「き、きたなくないもん」

 結佳は男の子を睨みつけた。しかし男の子は動じること無く、結佳に近づくと、結佳の髪の毛を掴んだ。

「どうみたって汚いじゃん。なんかウネウネしてるし。どうせ風呂入ってないんだろ? うわ、くっせー!」

 男の子はわざとらしく臭いものを嗅いだ時のように顔を歪ませた。

「おい、やめろよ」

 暁嗣は男の子に詰め寄り、結佳から手を離させようとした。しかし、男の子に突き飛ばされ、暁嗣は地面に倒れ込んだ。

「おれは優しいから、そこの水道でキレイに洗ってやるよ」

 男の子は結佳の髪の毛を掴んだまま、すぐ近くにある水道を顎で示した。

「おねがい! やめて!」

 結佳は声を上げて抵抗するも、

「うるせえ」

 男の子は結佳の顔をビンタした。結佳は苦痛に表情を歪ませたかと思うと、ボロボロと泣き始めた。

「うっ……ひどいよ……」

「……!」

 地面に横たわったままその光景を見ていた暁嗣の中で1つの問いが生まれた。自分はこのままなすすべなく見ていることしかできないのだろうか。いや、そんなことはない。だけど、男の子は自分よりも体が大きい。怖い。向かっていったところでまた突き飛ばされてしまうかもしれない。しかし佐宗やボクシングジムのボクサーたちは怖いからといって逃げるだろうか。いや、逃げない。それになにより、大事な幼馴染が泣いているのだ。守れるのは、自分しかいない。おれは、おとこだ。

 暁嗣の中で何かが爆発した。

 勢いよく暁嗣は立ち上がると、ジムでボクサーがやっているように拳を握りしめたまま一気に男の子に近寄ると、男の子の胸に向かってパンチを放った。本当は顔にパンチしようと思ったが怖くてできなかった。

「ぐふっ……」

 完全に油断していた男の子は結佳から手を離すと、その場にしゃがみこんだ。

「ゆかを、いじめるな!」

 暁嗣は苦しそうに胸を押さえる男の子に向かって精一杯の大声をぶつけると、

「ゆか、だいじょうぶか?」

 未だに泣き続けている結佳の元に歩み寄り、結佳の髪の毛に優しく触れた。結佳が顔を上げると、

「ゆかはきたなくなんてないよ。ぼくはこのかみのけすきだよ」

 結佳の目をじっと見ながら言った。

「……ほんとに?」

 結佳は半信半疑と言った様子で暁嗣に尋ねた。

「だっておじさんとおなじかみのけだよ? かっこいいじゃん!」

「かっこいいより、かわいいがよかったな……」

「あっ、いや! かわいいよ! ゆかのかみのけはかわいいよ!」

 結佳が再び泣き出しそうになり、暁嗣は慌ててフォローした。

「……うん。あきつぐありがとう」

 結佳は目に涙を浮かべながらも、その表情は可愛らしい笑顔に変わった。

 この後どうなったか、暁嗣の記憶にはない。ただしこれがきっかけで暁嗣はボクシングに興味を持ち、結佳が暁嗣の事を好きになったのはこれがきっかけだった。

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