すれ違い

 週明けの8時15分。暁嗣は額に汗をかきながら坂道を歩いていた。暁嗣の通う高校は、坂の頂上に建っている。高校へのルートは3種類あるが、どれもうんざりするような坂道を登る必要がある。最近は涼しくなってきたものの、今日は初夏のような気温になり、周りの道を行く生徒たちも不快そうに汗を拭っている。

 視界に校門が入り、この登山を1秒でも早く終わらせるべく暁嗣は小走りで校門へ向かった。すると前に見覚えのある後ろ姿の女子生徒がいる事に気がついた。美夜だ。

 流石にここで声をかけるのは憚られ、暁嗣は美夜を抜き去り校門を通り抜けた。彼女も声をかけられることは望んでいないだろう。ところが。

「木野くん!」

「え?」

 後ろから自分を呼ぶ声が聞こえ、まさかと思いながら暁嗣が立ち止まり後ろを振り向くと、美夜が走り寄ってきていた。

「おはよう」

 美夜は自然な笑みを浮かべながら暁嗣の横に立った。あの坂道を登っていたというのに、美夜は汗を全くかいていなかった。

 暁嗣は困惑しつつも「あ、ああ、おはよう」と返し、2人肩を並べて歩き始めた。こうやって肩を並べて歩くことは以前もあったというのに、やはり制服で、しかも学校敷地内を歩くのはどうやらわけが違うようだ。坂を登っているときとはまた違う汗が滲み始める。

 教室へ向かう間、回りの男子生徒たちから敵意を向けられているような気がしたが、暁嗣は意識して気にしないようにした。


「おはよう」

 暁嗣と美夜は2人揃って教室に入り、入口付近にいるクラスメイト達に挨拶をした。教室内にいた生徒のほとんどが2人を見るなり驚いたような表情に変わっていった。

「あれ、もしかして2人一緒に登校してきたの?」

 入り口付近で雑談をしていた女子生徒の1人が2人に向かって尋ねた。

「そうだよ。まあ、校門からだけどね」

 こともなげに答えた美夜に、尋ねた女子生徒は目を丸くした。美夜が男子生徒と2人で登校してきたことは今まで一度もないのだ。

「えっ、2人ってもしかして……?」

「うん、ちょっと前から付き合ってるよ」

 午後からの天気を言うかのように言い放った美夜のその一言に、教室中は騒然となった。

「ウソでしょ!?」

「美夜ちゃんって女の子が好きなんだと思ってた」

「やっぱ香椎さんも強い男がいいのか……。やっぱ文化系の俺じゃ駄目か……」

「ぐっ……俺も近所の空手教室に通おうかな」

「おおおおい! 俺この前告白して振られたばっかなんだけど! もしかして……」

「……はあああああああ?」

 クラスメイトたちが騒ぎ立てている中、暁嗣も一緒になって驚きの声を上げていた。いつの間に自分は美夜の彼氏になっていたのだろう。もしかして美夜の中ではボディーガードになってとは彼氏になってという意味なのだろうか? いやいや、そんな言い回しがあるなんて聞いたことがない。絶対に違う。

 脳の処理が追いつかず、呆けた表情で暁嗣は騒然となった教室内を眺めていると、何者かが暁嗣に掴みかかってきた。

「おい暁嗣ぅ! どういうことだよ! もしかしてお前あのときすでに香椎さんと付き合ってたのか?」

 そう言って暁嗣に掴みかかってきたのは、先日美夜に告白して振られ、「やっぱりおっさんと付き合ってるから、俺達みたいな子供には興味ないのかな?」と話していた、生田弘樹だ。暁嗣が今のクラスで一番良く話す男子生徒だ。

「えっ、いや……」

 暁嗣は返答に窮し、助けを求めるように美夜の方を見た。しかし美夜はフッと微笑むだけで、助け舟を出すこと無く隣の女子生徒と話している。どうやら彼女は助けてくれなさそうだ。

「……えっと、そうだな。まあ、そういうことなんだ」

 暁嗣は弘樹と目を合わせず、曖昧な答えでごまかした。

「おいなんだよそれ! 俺、暁嗣の事友達だと思ってたのに、なんで教えてくれないんだよ。俺が振られた話をしたときも、心の中では笑ってたのか?」

 弘樹は暁嗣を掴んだ手の力を強めた。声が震え、明らかに怒りに震えているのが暁嗣にも分かった。弘樹は感情をあらわにするようなタイプではない。つまり今相当怒っている。

 なんだこれは。暁嗣が弘樹の視線をかわすようにして教室内を見渡すと、ほぼ全員が暁嗣の事を見ていた。こんな状態で自分と美夜は付き合ってないと言ったところで到底信じてもらえる雰囲気ではない。つまり何とかして弘樹の怒りを収めるしかこの状況を切り抜ける方法はない。

 暁嗣は頭を必死に働かせて、この場を切り抜ける方法を考え始めた。しかし、あれこれ考えてみても、結局自分に被せられた罪を潔く認める以外に何も思いつかなかった。

 やむなし。暁嗣は意を決し真顔で弘樹の顔を見た。

「その、すまん、弘樹。……本当はすぐに言うつもりだったんだけど……その頃はすでにお前がいつ美夜に告白するかって状況で、言うに言えなかったんだ」

 迫真の演技だった。心底申し訳無さそうに弘樹を見つめる暁嗣に、弘樹は手を離した。そして暁嗣は一歩下がると、弘樹に向かって「すまん」と言いながら頭を下げた。掴みかかりたいのは暁嗣も同じだった。当然相手は美夜だ。後で彼女に追求しなくては。

「……あー、うん、分かったよ。まあ、確かにそうかもな。俺も急に掴みかかって悪かったよ」

 弘樹はやり辛そうな表情で頬をかいた。

 ざわついていた教室内だったが、徐々に落ち着き始めていた。後で色々面倒なことになりそうだが一件落着、と暁嗣が思った瞬間。

「あれ? みんなどうしたの?」

 ホームルーム開始時間直前に登校してきた結佳が教室入り口に立ち、不思議そうな表情を浮かべている。

 教室の雰囲気が明らかに違うことに気づいたのだろう、キョロキョロと教室内を見渡し、暁嗣が彼女と視線が合った瞬間、不機嫌そうな表情に変わった。やはりまだ許してくれていないようだ。

「結佳ちゃん聞いてよ。木野くんと美夜ちゃんってちょっと前から付き合ってるんだって!」

 美夜に「もしかして2人って付き合ってる?」と尋ねた女子生徒が結佳に駆け寄り、興奮した様子で言った。

「えっ……」

 結佳は雷に打たれたかのように固まったかと思うと、自分の席にではなく暁嗣のいる方向に向かって歩き始めた。その表情はすでに不機嫌を通り越したものに変わっている。

 まずい。暁嗣がそう思ったその直後、担任の草野が教室が入ってきた。

「よーし、ホームルーム始めるぞ」

「チッ」

 結佳は舌打ちをすると暁嗣を睨みつけ、方向転換をして自分の席へ向かっていった。


 4限目が終わり、暁嗣は伸びをした。すでにもうヘトヘトだ。

 ホームルームの後から授業の合間、暁嗣は生徒たちから質問攻めを受け続けていた。校内で有名人になるほどで、しかも何人からも告白されて全て断ってきた難攻不落の美少女についに彼氏ができたのだ。そしてその彼氏になってしまった暁嗣が質問攻めに遭ってしまうのも無理はなかった。

 それでもクラスメイト達だけではなく、名前も知らない他のクラスの生徒達にまで質問攻めに遭うとは暁嗣も思っていなかった。

 ちらりと美夜に視線を向けると、彼女の回りにも人だかりができていた。もともと校内では美貌を鼻にかけずに誰にでも分け隔てなくしてきたため人気者の美夜だったが、今日は普段にも増して人だかりができているように見えた。

 しかし暁嗣の方は流石に飽きられたのか、昼休みに聞きに行くほどではないのか、暁嗣に話を聞こうとする生徒の姿はなかった。1人を除いて。

「暁嗣、どういうこと?」

 真顔で腕を組んだ結佳が立っていた。きっと暁嗣が1人になるまで待っていたのだろう。

「ゆ、結佳」

 暁嗣には長年の付き合いから彼女が相当怒っていることがすぐに分かった。未だに自分の都合で置き去りにしてしまったことを許してもらっていない上に、おまけにいつの間にか美夜と恋人関係になってしまったのだ。加えて結佳はあまり美夜の事が好きではないと暁嗣に話していた。好きになれない相手と幼なじみが付き合うようになってしまったのはやはり気に食わないのだろう。

 どうしたものか。暁嗣が目を泳がせていると、最悪のタイミングで2人の前に美夜が現れた。

「木野くん、一緒にお昼食べよ?」

 美夜は手に持っていたパンを暁嗣に見せるように顔の高さに持ってきた。

「……え、あ、ああ。分かった。それじゃ結佳、後でちゃんと話すから」

 どこかで彼女を問い詰めなければと思っていた。暁嗣は立ち上がり、美夜に続いて教室を後にしようとした。

「待って、私も行く!」

「え?」

 結佳が暁嗣と美夜の元に駆け寄ってきた。次の瞬間、教室内で昼食を食べていた生徒がコソコソと話をし始めた。

「……そういえば、木野くんと佐宗さんって付き合ってるんじゃなかったんだっけ?」

「いや、でもただの幼なじみなんじゃないっけ?」

「いやいや、幼なじみにしては距離感近すぎでしょ。あれは絶対付き合ってるって」

「あれ、木野と佐宗さん付き合ってないなら、俺にもチャンスある? 前から佐宗さんのこといいなーって思ってたんだよ」

「なんだぁ、三角関係勃発か?」

「もしかして、佐宗さん二股されてたとか? うわ、最低……」

 聞き捨てならない会話が聞こえてきたが、暁嗣は聞かなかったことにした。今は気にしている場合ではない。

 美夜との話を結佳に聞かれるわけにはいかないので、結佳がついてきてしまっては困る。しかし暁嗣にはうまく断る言葉が思いつかなかった。ただでさえ置き去りにしてしまったことを未だに許してもらっていないというのだ。とても断りづらい。どうすればいいのだろう。

「佐宗さん」

 美夜が人当たりの良さそうな笑みを浮かべながら結佳を見つめた。見つめられた結佳は、露骨に嫌そうな表情を浮かべた。

「何?」

 敵意をあらわにした声で返されたにも関わらず、美夜はそれを気にした様子もなく脈略も無いことを言い放った。

「佐宗さんって毎日バッチリ髪型セットしてるよね。すごく可愛い」

「……え? うん、まあ確かに毎日ちゃんとセットしてるけど」

「だよね。すごいな~」

 まさかこの状況で自分の髪を褒められるとは思ってもみなかったのか、結佳は目をしばたたかせると、

「でも今日はちょっとうまく行かなくてあんまり自信が無いんだけど……」

 自分の後ろ髪をつまみ、目を伏せた。

「そんな日もあるよ。それにしても偉いなぁ。私も見習わなないと」

「べ、別にそんな大したことはしてないから」

 結佳はそっけなく返したものの、美夜に褒められまんざらでもなかったのか、それはどうやら照れ隠しのようだ。

「佐宗さんてきれいな髪の毛してるし、日頃のケアとかいろいろ話したいんだけど……今は2人で話したい気分なんだよね。ごめんね」

「うっ……」

 物腰は柔らかかったが、その一言には有無を言わせない圧力があった。暁嗣と美夜は結佳を残し、教室を後にした。


「やられた……」

 2人が去ったあと、結佳はうまい具合に自分が乗せられてしまっていたことに気づいた。あのタイミングで急に自分を褒めてくるなんて、何かあると気づくべきだった。ああやって持ち上げられてしまったあとだと、どうしても断りづらくなってしまう。

 あの女、やはりいけ好かない……。


 2人がやって来たのは、敷地内の外れに建てられている生徒が部活で合宿を行う際に使用する宿舎裏だ。大きさは少し大きめの一戸建て程度で、裏口側には卒業生が寄贈したベンチが1つ置かれていた。

 昼休みだというのに周りに人影はなく、暁嗣もここにベンチがあることは初耳だ。

 すっかり涼しくなってきたが、昼間で天気もいいため快適な気候だ。美夜がベンチに腰を下ろすと、暁嗣もそれに倣い美夜の横に座り、話を切り出した。

「それで、あれはどういうことだよ?」

「どう? この学校で一番人気の女の子の彼氏になった気分は?」

 美夜は質問に答えず、背もたれに背中を預けると、目を細め不敵に笑った。

「最高の気分だよ」

 気がつくとまた彼女のペースに乗せられてしまいそうだ。暁嗣は皮肉で返した。

「それならよかった」

 美夜も皮肉な笑みを浮かべるとパンの包装を開け、食べ始めた。彼女が食べているのはクリームたっぷりのコッペパンだ。

「で、どうして俺が彼氏だなんてウソをついたんだよ?」

 暁嗣はクリームたっぷりのコッペパンといういかにもカロリーが高そうなパンを頬張っている美夜を尻目に、自分もパンの包装を開け食べ始めた。暁嗣はチーズを挟んだベーグルだ。

「まあ、いちいち告白を断るのって面倒だし、やっぱりいい気分じゃないでしょ? だから前から誰かに彼氏のフリをしてほしかったんだよね。で、木野くんなら丁度いいかなって」

「まあ、確かにそうだな……」

 暁嗣はベーグルを飲み込むと、小さく頷いた。納得の理由だ。

 確かに自分ならば美夜の秘密も知っているし、彼氏のフリをするのにうってつけだ。むしろ他の人に頼むのは難しいだろう。

 しかし、だからといって暁嗣はすんなり納得することができなかった。相談も何もなくいきなり彼氏だと宣言され、そのせいで朝から面倒なことになってしまった。事前に言われていたら断っていたかもしれないが、予め言ってほしかった。

「確かに木野くん朝から色々大変そうだなーと思ったけど、でも、悪い話じゃないと思うんだよね」

「どういうことだよ」

 今の所危うく友情が崩壊しかけたり、不機嫌な幼なじみを更に怒らせてしてしまったり、誰とも付き合ってもいないのに二股疑惑をかけられてしまったりと、いいことが何一つない。

「木野くんは私のこと可愛いと思うよね?」

 美夜は暁嗣をじっと見つめた。また良からぬことを企んでいるのがひと目で分かる顔つきだ。そうだと分かっていながら、暁嗣は美夜のガラス玉のような澄んだ目から視線を外すことができなかった。

 こんな誰もが羨む美少女と今自分は一緒にお昼を食べている。その事実を意識すると、顔がのぼせたように熱くなってくる。

「ま、まあ、でなきゃボディガード引き受けたりしないよ」

 恥ずかしさをごまかすために暁嗣はぶっきらぼうに答えた。

「だよねー」

 美夜は歯並びのいい白い歯を見せて笑うと、

「で、木野くんはそんな私のような美少女の彼氏だって堂々と言えるんだよ? これってすごいことじゃない?」

 目を細め、怪しげな含みのある笑みを浮かべた。

 凄いか凄くないかで言えば、確かに凄いことだろう。ウソとは言え、この高校で一番の美少女と言われている香椎美夜の彼氏だと言えるのだ。優越感に浸れるに決まっている。

「それは、確かにそうだけど」

 暁嗣は額に皺を寄せた。やっぱりどうにも釈然としない。

 と、その時美夜が膝の上に乗せていたスマートフォンが震え、画面がONになった。画面に通知されたアイコンは暁嗣には見覚えのないものだ。

 美夜はスマートフォンを手に取り通知をタップしてロックを解除すると、何か文字を入力して再びスリープモードにした。

「木野くん、またボディガードやってもらうことになったから。また連絡するね」

 美夜は立ち上がると紙パックジュースを一気に飲み干し、パンの包装の中に空容器を入れ握りつぶすと、暁嗣に背を向けて歩き始めた。

「えっ、おい!」

 暁嗣は立ち上がり美夜を呼び止めたものの、立ち止まること無く校舎へ戻っていった。

「何なんだ……」

 再び暁嗣はベンチに座ると、背中を背もたれに預け、空を見上げた。薄い水色の空に、巻雲があちこちに見える、理想的な秋晴れだ。普段ならば「綺麗だな」と思うのかもしれない。しかし、頭の中にモヤモヤを抱えている今ではそんな天気を恨めしく思わずにはいられなかった。


 放課後。

 暁嗣がカバンを手に立ち上がろうとすると、相変わらず機嫌の悪そうな顔をした結佳が暁嗣のもとへ歩いてきた。

 暁嗣が何をするつもりなのかと身構えていると、結佳は「帰ろ」と小さな声で暁嗣を見ずに気まずそうに言った。

「あ、ああ。帰るか」

 人間いつまでも1つのことで怒り続けるのは難しいものだ。暁嗣は結佳はもう怒っていないが、自分からもう怒っていないと言うのもしゃくで今のような態度を取っているのだろうと判断した。この調子ならすぐにでも仲直りができそうだ。

 若干心が軽くなった暁嗣が結佳を伴って教室を出ようとした瞬間、

「木野くん、一緒に帰ろ?」

 カバンを持った美夜が暁嗣と結佳のもとへやってきた。

「えっ……」

 暁嗣は唖然とした表情のまま固まった。暁嗣はおそらく、美夜は結佳が不機嫌になってしまった原因だと思っていた。せっかく仲直りできそうになったというのに、このタイミングで美夜が来てしまったらこれでは元の木阿弥だ。

「私達付き合ってるんだから、一緒に帰るのは普通でしょ?」

 美夜は校内用の涼し気な笑みを浮かべながら言った。暁嗣はその笑顔越しに美夜が本当に言いたいことを感じ取った。何か話したいことがあるのだろう。

「あ、ああ、分かった」

 暁嗣は渋々頷いた。美夜の裏の顔を知っていてもその魔法のような笑顔で頼まれると断るという選択が不思議とできなくなってしまうし、それに断ったら後が怖い。今朝のように自分に不利な噂をばらまかれてしまったら学校に通えなくなってしまう可能性だってある。

「ごめん、結佳。そういうことだから……」

 暁嗣が一瞬だけ結佳に視線を向けて立ち去ろうとした次の瞬間、

「私も行く」

 結佳は強い意志を感じさせる表情で言った。

「佐宗さん、あのね……」

 美夜が何かを言おうとしたが、

「香椎さん、私と仲良くしたいって今日のお昼に言ってたよね? それに、今日暁嗣をお昼に誘ったのは私が先だったけど、譲ってあげたんだから、今度は香椎さんが譲ってくれてもいいんじゃない?」

 それに被せるように結佳が言った。その態度は毅然としていて、まさに梃子でも動かななそうだ。

「……」

 美夜は困ったような表情を見せていたものの、小さくため息をつくと、

「確かにそうだね。じゃあ一緒に帰ろ。佐宗さんのその髪型のセットの事聞かせてもらいたいしね。それじゃ、行こっか?」

 美夜と結佳は肩を並べて歩き始め、暁嗣は戸惑いながら2人の後を追った。


「へえ……それじゃ、佐宗さん的には今日の髪型は失敗なんだ?」

 前を並んで歩く美夜と結佳の後ろに暁嗣が続くような形で3人は帰路についていた。美夜が左側で、結佳が右側だ。

 暁嗣は2人の後ろを歩きながら、内心穏やかではなかった。結佳はあまり人付き合いが得意とは言えない上に、美夜の事を快く思っていない。おまけに昼休みは見事に言いくるめられてしまった。そんな相手とわざわざ帰ろう。と言ったのだ。ひょっとしたら喧嘩になってしまうのではないかと思っていた。

 しかし今の所2人の会話の内容を聞いている限りではいたって平和で、その心配はなさそうだった。

「毛先の動きがちょっと気に入らなくて」

 結佳は自分の毛先をつまみ、指先でいじった。結佳はくせっ毛なので、毛束はそれぞれが思い思いの方向を向いている。

「え、そうなんだ。私は今の髪型可愛いと思うんだけどな」

 美夜は意外そうに結佳のつむじから毛先までを観察するように首を動かし、それに気づいた結佳は嫌そうに体を縮めた。

「……私は香椎さんみたいなストレートヘアがよかった」

「そっか。でもやっぱり手入れが大変だし、くせっ毛だと髪質を生かして色々アレンジができて楽しいと思うんだけどな?」

 美夜は自分の髪の毛を手ですくった。全く引っかかること無く、するりと長く艶のある髪の毛が指の間を通り抜けていく。

「それ、私へのあてつけのつもり?」

 美夜が自分の髪の毛に触ったのは無意識だったのだろうが、結佳にはそれが意図的に見えたのだろう。敵意を隠す様子を全く見せること無く、美夜を睨みつけた。

「あ、ごめんね。そんなつもりじゃなかったんだけど」

「どうだか」

 美夜は笑ってごまかしたりすることなく真剣な態度で結佳に謝罪をしたものの、結佳は美夜から顔を背け、その謝罪を拒否した。

 美夜が困った表情を浮かべているのが見ていられず、暁嗣は結佳の右側に歩く速度を早めて移動した。

「結佳。どうしたんだよ。髪の毛触るくらい誰でも無意識のうちにやるだろ?」

「何? 暁嗣も香椎さんの味方するの?」

 結佳の敵意むき出しの視線は次に暁嗣に向けられた。

「いや、味方とかじゃなくて……結佳、ホントにどうしたんだよ?」

 暁嗣は会話が噛み合わないことによるかゆみにも似た不快感を抱きながら、様子がおかしい結佳に尋ねた。

「……バカ!」

 結佳はそう吐き捨てると前触れもなく走り始め、残された暁嗣と美夜は2人揃ってぽかんと口を開けたまま徐々に小さくなっていく結佳に視線を送っていた。

「一体何なんだ……」

 結佳の意図がさっぱり分からない暁嗣の口から困惑の声が漏れ出る。

 対して美夜は何かを察したようで、

「なんか、結局2人になったね?」

 暁嗣をからかうように口元に笑みを浮かべた。

「それで、何か俺に用があったんじゃないの?」

 暁嗣は美夜のペースに飲まれないようあえて話に乗らず、疑問に思っていたことを尋ねた。

「うーん、特に無いかな。業務連絡は『これ』ですればいいし」

 美夜はポケットから自分のスマートフォンを取り出し、暁嗣に見せた。美夜の使っている機種は人気があるため家電量販店に行けば様々なケースが販売されているが、美夜は質素と言うよりは地味なクリアケースをつけているだけだった。

「じゃあ、なんで俺を誘ったんだよ?」

 用が無いのになぜ自分を誘ったのか。暁嗣にはさっぱり分からなかった。

「いやいや、私達『付き合ってるって設定』でしょ? 付き合ってるのに一緒に帰らないなんて逆に不自然だから」

「そういうもんなのか?」

「そういうもの。うーん、あんな可愛い幼なじみと毎日のように一緒に帰ってるから、一般人と感覚がズレちゃってるのかな……」

 美夜が一般人代表面をしていることに納得できない暁嗣だったが、反応したら負けな気がしたのであえてスルーした。

「……それにしても、木野くんと関わってると色々と新鮮な体験ができるね」

 美夜がやや上に視線を向けながら呟いた。

「どういうことだよ?」

 発言の意図が良く分からなかった暁嗣が美夜に尋ねると、

「木野くんといると飽きないってこと」

「もしかして俺バカにされてる?」

 暁嗣は眉をひそめた。目を細めて曖昧に答えた美夜の態度を見ていると、暁嗣はますます美夜が何を考えているのか分からなくなっていく。ネガティブな感情は抱いていないようだが、自分の事を褒めているのかバカにしているのかが分からない。

「バカにはしてないよ。からかってるかもしれないけど」

 美夜はわざとらしく「からかってますよ」と言わんばかりのいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「なんだよそれ……」

 美夜が何がしたいのかさっぱり分からない暁嗣だったが、楽しそうにしている美夜を見ているとまあいいか。と思ってしまっていた。

 まさか好きな女の子とこうやって2人で下校することになる日が来るとは夢にも思わなかった。もちろん美夜と自分の関係は『恋人』ではなく『恋人のふり』をした『協力関係』でしかないのだが。それでも望みが部分的に叶ってしまったことで、幼なじみの事を完全に忘れ、暁嗣の胸の中は多幸感でいっぱいだった。


 やってしまった。

 結佳は暁嗣と美夜が見えなくなるまで走り続け立ち止まると、肩を落として大きくため息をついた。

 せっかく暁嗣と仲直りできそうだったのに、自分は何をやっているんだ。この短気っぷりに嫌気が差してくる。

 暁嗣と喧嘩をしてしまってから寂しくて仕方がない。普段なら『何してる?』と気軽にメッセージを送ったり、遊びに誘ったりできるのに、こんな状態ではとてもではないができない。

 確かに自分を置いてどこかへ行ってしまったのは腹が立ったけど、暁嗣のことだからきっと何か事情があったのだろうし、意地を張ったりせずにさっさと仲直りすればよかったのだ。

 今日は絶好の仲直りするチャンスだった。3人で仲良く話しながら帰れば自然とわだかまりも解けていたはずだ。それなのにしょうもないことで腹を立てて……2人きりにしないために無理やり割り込んだのに自分から逃げ出してしまって、本当にバカみたいだ。

「はぁ……」

 気がつけば結佳は2度目のため息をついていた。こんなことなら、自分から告白しに行けばよかったのだ。暁嗣とは休日も含めて、毎日のように顔を合わせている。告白するチャンスなんていくらでもあったというのに。

「あれ?」

 そんなことを考えているうちに、結佳の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。その疑問は、考えれば考えるほど大きくなっていく。

 あの2人、怪しい……。


 その週の土曜日。結佳は玄関で聞き耳を立てていた。

 結佳の家と暁嗣の家は隣同士だ。よって結佳の家の玄関ならば、暁嗣の家で誰かが出入りしたがか分かるのだ。今日は学校も休みで、天気もいい。絶好のデート日和だ。2人は今日間違いなくデートに出かける。結佳の女の勘がそう言っていた。

 美夜と言い合いになってしまった次の日、結佳は暁嗣から謝罪され、今度こそ埋め合わせをすることを条件に許すことにした。

 それにしても、やはり暁嗣と美夜が付き合っているというのはとてもではないが信じられない。

 結佳と暁嗣は家が近所ということもあり土日に一緒に遊びに出かけることも多く、そうでなくとも暁嗣が学校終わりにジムに行くときには結佳もついていくので、毎週の大半暁嗣と顔を合わせている。結佳は暁嗣の事は暁嗣の次くらいに詳しいという自負があった。

 そんな結佳だからこそ断言できることがある。暁嗣と美夜は接点がまるでない。よって2人は何らかの理由で恋人のフリをしている。

 しかし何のためにそんな事をしているのか。流石にそこまでは結佳にも見当がつかなかった。そのため、結佳は2人を尾行することに決めた。

 結佳が注意深く聴覚に意識を傾けていると、外から物音が聞こえた。幼なじみの結佳にはすぐに分かった。あのドアを閉める強さは暁嗣だ。

 結佳は静かにドアを開け、そしてゆっくり閉めると、暁嗣の後を付け始めた。


 結佳の勘通り、暁嗣は美夜と駅で合流し、どこかへ向かっていた。

 2人は一体どんな関係なのだろう。結佳は並んで歩く暁嗣と美夜をギリギリ見失わない距離を保ちながら後を付けていた。

 普段は可愛い系の服装を好む結佳だったが、今日は帽子をかぶり太いフレームの眼鏡をかけ、普段なら絶対に着ないパーカーとジーンズに身を包んでいた。どれも2人を尾行するために新たに購入したものだ。これならばさすがの暁嗣も分からないはずだと結佳はふんでいた。

 結佳はそろそろお昼時だからどこかの飲食店へ向かっているだろうと予想を立てつつも、2人の間の絶妙な距離に違和感を抱いていた。恋人にしては妙によそよそしいのだ。付き合いたてだからこんなものなのだろうか。かといって目の間でいちゃつき始められても困るのだが、やはり2人の関係は恋人ではなさそうだ。

 2人はなぜ、一体何のために一緒にいるのだろう。2人が合流すればその謎も解けるかと思ったが、逆に深まっていく一方だった。


 結佳に尾行されているとは夢にも思っていない暁嗣は、歩きながら美夜から今日の予定を聞かされていた。

 今日は新規のパパとしゃぶしゃぶ屋で食事。店名を聞かされた暁嗣は拍子抜けした。そのしゃぶしゃぶ屋は全国にあるリーズナブルな価格のチェーン店だった。そもそもまだしゃぶしゃぶという季節でもない気がする。

 そんな店を指定する男なんて大した金をくれないんじゃないかと思った暁嗣だったが、美夜曰くそういう人に限って金払いがいいらしい。

 すでにパパは先に店内にいるとのことだったので、まず美夜に先に店に入ってもらい、暁嗣は少し遅れて店に入った。まだお昼前ということもあり、店内は空席が目立つ。暁嗣は美夜達の姿が見える少し離れた席に座った。

 すでに美夜は目の前に座る男と何かを話し始めていた。男は50代半ばくらいの風貌で、頭頂部はすでに禿げ上がってしまっている。肥満体型だが、なんとなくいい暮らしをしていそうな顔つきをしている。2人が向かい合って座っていると、親と子を通り越して、もはや祖父と孫のようにすら見えてしまう。

 今回も安心そうだな、と暁嗣は思った。しかし問題が別にあった。暁嗣が入ったときは空席だらけだった店内も、いつの間にか殆ど席が埋まってしまっていた。当然一人客なのは暁嗣だけだ。前回のカフェとはまた違う居心地の悪さを暁嗣は抱いていた。

 暁嗣が座っている席は客の往来が多くなりがちな店内の中心に位置している。自然と暁嗣の席の前を通り抜ける客は、1人でいる暁嗣をチラチラと見てくる。いたたまれない。

 だが普段しゃぶしゃぶを食べることはないし、今は『おひとりさま』は別に珍しいことではない。それに将来ボクサーとしてデビューしたら減量で好きなものを食べられなくなってしまう。今がチャンスだ。リングの上の孤独に比べたらこんなもの屁でもない。暁嗣は心の中で静かに開き直るとメニューを開き、何を食べるか考え始めた。豚しゃぶ、牛しゃぶ、どちらもおいしそうだ。


 美夜は箸で摘んだ肉を鍋に入れ左右に動かしながら、あまり積極的に話そうとしない今回の『パパ』を気づかれない程度に一瞥した。パッと見は普通のおじさん……からおじいさんになろうとしている大人しそうな男だ。

「金山さんは物静かな方なんですね」

『物静か』と言葉を選び、美夜は話題を振った。

「あっ、はい、そうですね……」

 金山は控えめに、あまり美夜と目を合わせようとせずに返事をした。年齢相応に声がしゃがれているが、自信なさげだ。

 美夜は微笑を顔に貼り付けたまま、内心では違和感を抱いていた。基本的に『パパ』にはキャバクラ感覚で女の子と話したい男と、パトロンのように女の子を援助して優越感を抱きたいかのどちらかだ。だが、金山の反応を見る限りではどちらでもなさそうだ。美夜は探りを入れてみることにした。

「金山さんは、アプリ使われてどれくらいなんですか?」

「あっ、その……えっと、1週間前くらいです」

 金山は困ったようにもじもじした後、おずおずと答えた。

「へえ……思ったより最近なんですね」

 美夜は笑顔を浮かべつつも、金山を観察していた。

 このような反応を見せるときは、正直に答えるべきか悩んでいるときだ。使い始めてすぐでも、長いこと使っていても別に気にしないのだが、男が見せるよく分からない意地だ。

 美夜はおそらく実際は1週間より多少前後するが、誤差の範囲だろうと結論づけた。

「思ったより最近なんですね。どうしてこのアプリを使おうと思ったんですか?」

「それは……」

 男は顔を伏せ、答えに困っているような反応を見せた。

「あ、もしかしてえっちなことしたかったからですか? ダメですよー、プロフィールにも書いてますけど、私はお食事だけですからね?」

 美夜は朗らかに場の空気が重くなったりせず、すぐ流せるように軽い調子で男に自慢の笑顔を向けた。

「そ、それは勿論ですよ!」

 金山は食い気味に、そして妙に必死に否定した。その反応を見て、ますます美夜はこの男が分からなくなってきていた。

「ど、どうしたんですか? 急に大きな声を出すからびっくりしちゃいました」

「あ、スミマセン。その、それは……」

 金山の反応を見て、美夜は確信した。金山の中にすでに答えはある。だが、その答えを言うべきかどうかで迷っているのだ。

「絶対に引いたりしないですから。安心してください」

 美夜は微笑を浮かべつつも、声のトーンを落として真剣さを醸し出して男を促す。

「あの、私……いや、ぼ、僕? お、俺?」

「大丈夫。好きな言い方でいいですよ」

 自分の一人称に困り始めた金山に、美夜はフォローする。

「その、ぼ、僕、実は今まで一度も……お、女の子と付き合ったことがなくて……。もうこの歳なので結婚は愚か恋愛はもう諦めちゃってるんですけど、女の子と話してみたくて。だけど、キャバクラやガールズバーは怖いし……。それでアプリだったら一対一で話せるし、その、君は優しそうだったから話しやすいかなと思って」

 最初は言葉に出すことに抵抗を感じていたためかたどたどしかったが、最後には滞りなく話すようになっていた。

「なるほど、そうだったんですね。優しそうって言ってもらえて嬉しいです」

 美夜は男が触れてほしそうなところや触れてほしくなさそうなところには敢えて言及せず、優しそうと思ってもらえたことについての感謝の気持を述べることに留めた。だが、それでも金山はまんざらでもなさそうに照れ顔になった。

 そのような反応を見せる金山を見ているうちに、美夜は既視感を覚えていた。いつだったかこのような情景を見た記憶がある。確か、同じクラスの男子生徒にも似たような反応をしていた人がいた気がする……。

 それに気づいた瞬間、美夜はすぐに誰だったかを思い出した。以前隣の席になったいかにも女の子と話すことが全く無く、かつ苦手そうな男子生徒だ。

 目の前にいる金山は、もうおそらく60になろうとしているのに、思春期の頃からまるで変わっていないところがあるということだ。

 大人になったからといって、色んな事が勝手に『大人として期待されるレベル』になんでもできるようになるわけではない。金山を見ているうちに、美夜は頭では分かっていたもののいまいち実感が出来ていなかったものを感覚的に理解できるようになっていた。

 それはともかく、予想通りこの男はたくさん搾り取れそうだ。美夜は金山に分からないように口元を歪めた。


 暁嗣が一通り食べ終えたところでテーブルの上に置いていたスマートフォンが振動した。美夜からのメッセージだ。

『私達は少し歩きながら話してから解散だから、駅で待ち合わせで』

 暁嗣が2人の席に視線を向けると、2人は立ち上がり店を出ていこうとしていた。暁嗣は2人が店を出てから10分後に席を立ち、店を後にした。

「涼しいな」

 暁嗣は立ち尽くしたまま、肌から伝わってくる感覚に意識を向けた。

 店内が少し暑かったということもあり、少し肌寒い気温が暁嗣には丁度いい。しかも天気がよく、自然といい気分になってくる。スマートフォンを取り出し、美夜に『今から向かう』とメッセージを送ろうとしたとことで暁嗣は何者かに腕を掴まれた。

「暁嗣!」

 しかも自分の名前を知っている。暁嗣がとっさに後ろを振り向くと、帽子を被り、太いフレームの眼鏡をかけた少女がそこに立っていた。一瞬誰かと思ったものの、すぐに結佳だと分かった。

「結佳? こんなところで何してんだよ!」

 こんな所に結佳がいるとは思わず、暁嗣は驚きの声を上げた。

「暁嗣こそ、香椎さんと恋人のフリして、何やってるの?」

 結佳は質問に質問で返し、暁嗣を睨みつけた。

「はっ? いやフリって」

 暁嗣の心臓が一瞬強く鼓動を刻んだ。なぜだか分からないが、結佳は自分と美夜が本当は恋人ではないことを見抜いてしまっている。しかし、それを認めるわけにはいかない。暁嗣は否定しようとしたが、自分と美夜は付き合っているという一言を発することに抵抗を感じ、二の句を継げなかった。

「やっぱりそうなんだ……2人で何やってるの? 答えて」

 結佳は暁嗣から目をそらすことなく、じっと見続けている。

「それは……」

 美夜はパパ活をしていて、自分はそのボディガードをしている。だなんて言えるはずがなかった。なんとかしてごまかすしか無い。しかしどうすればいいのだろうか。暁嗣がなんと答えたものか頭を全力で回転させている間にもポケットのスマートフォンが何度か震える。画面を確認するまでもなく美夜からだと分かった。

「……もしかして、人には言えないようなことをしてるんじゃないよね?」

 結佳の暁嗣の腕を掴む力が強くなり、表情が曇る。

 暁嗣は何も言えなかった。もしかしたら結佳は自分が犯罪まがいのことをしていると思っているかしれない。それは否定したい。しかしだからといって本当のことを言うわけにはいかない。

「結佳……俺は結佳が思ってるようなことはしてないよ」

 暁嗣は結佳を見返し、

「だけど、ごめん」

 結佳の手を振り払うと全速力で走り始めた。すかさずその後を結佳が追う。

「あっ、暁嗣! 待て!」

 2人ともDDRで鍛えているということもあり結佳も体力はあるが、走る速さは断然暁嗣の方が上だった。2人の距離はみるみるうちに開いていく。

 しばらく走り続け、暁嗣は後ろを振り返った。結佳の姿はどこにもなかった。それにしても、やっと許してもらったばかりだというのに、また結佳を怒らせてしまった。次はどうやって許してもらおうかと思うと頭が重くなってくるのだった。


 息を荒くしながら駅にたどり着いた暁嗣は美夜の姿を探しはじめた。しかし駅の周りを何度往復しても、彼女の姿が見当たらない。美夜ほどの美少女なら、見落とすなんてことはそうそうないはずなのに。

 暁嗣がメッセージングアプリを開くと、美夜から『どこ?』『何してるの?』『早く返信して』のようなメッセージが大量に送られていた。

 それらのメッセージを見た暁嗣は「げぇ」と苦々しげな表情を浮かべると、『どこにいる?』というメッセージを送った。だがメッセージが返ってくるどころか、既読もつかない。暁嗣は嫌な予感を抱いた。もしかしたら彼女の身に何かあったのかもしれない。暁嗣は再び走り始めた。

 駅の南側にいた暁嗣は、東側へ向かった。南側はオフィス街もあり、新しい建物が多い上品な町並みが広がっている。対して東側は繁華街もあり、治安も決していいとは言えないエリアだ。何かに巻き込まれているとしたら、東側だろうと暁嗣は考えていた。

 徐々に増えていく通行人の間をくぐり抜けながら、暁嗣は美夜を探し続けた。しかし彼女の姿は見つからず、何度か立ち止まりメッセージングアプリを開いて確認するも、彼女からメッセージが送られてくる気配はなかった。

 いったいどこに行ったんだろう。暁嗣が地下道への入口の前を通り過ぎた瞬間、視界の端に派手な色に髪の毛を染めた若い男の集団が入った。反射的に暁嗣は彼らの方へ視線を向けた。

 そこには、彼らに取り囲まれた美夜がいた。

 暁嗣はその場で方向転換し、彼女の元へ駆け寄った。まさかこういう形でボディガードをすることになるとは暁嗣も予想外だ。

 暁嗣は美夜を取り囲む若い男たちの輪に飛び込み、美夜の腕を取るとそのままの勢いで美夜を連れ出そうとした。

 しかし暁嗣が前を向き走り出そうとした瞬間、タイミング悪く目の前に通行人が立ちふさがった。暁嗣は足で強く地面を蹴り、ブレーキをかける。危うく暁嗣とぶつかりそうになったスーツを着た男は一瞬目を丸くした後、苛立たしげな視線を暁嗣に向けて去っていった。

「おい、待てよ」

 暁嗣が振り向くと、金髪の男が暁嗣を威嚇するように睨みつけながら近寄ってきた。とっさに暁嗣は美夜を自分の後ろに追いやった。

 男は顔が細く、体型に対してゆったりとしたサイズの服に身を包んでいた。中性的な雰囲気を漂わせており女性にモテそうだが、同時にいかにも女性を泣かせていそうな風貌だった。

「お前何なの? 今なら許してやるからとっとと失せろ」

 男は暁嗣より背が高く、自然と暁嗣を見下ろす格好になる。暁嗣を精一杯威嚇しているようだが、暁嗣からしてみれば怒らせた佐宗に比べればただ突っ立っているも同然だ。

「いやー、すみません。この子俺の友達なんで、そういうわけにはいかないんですよね~」

 暁嗣は全くビビっていないことを強調するように白い歯を見せて笑い、男に一歩近寄った。

 男は暁嗣がまるで動じないのが気に入らないのか舌打ちをすると、

「お前みたいなガキは口だけじゃ分からないようだな!」

 躊躇する様子を一切見せること無く、暁嗣の顔面に向かってパンチを放った。が、暁嗣は姿勢を落としてパンチをかわし、胸元に飛び込んだ。佐宗に鍛えられ、体が覚えている動きだ。

 暁嗣は曲げた膝を戻す勢いを生かし、男の顎に向かってアッパーを放った。

「ぐっ……」

 男は目を固く閉じ体を硬直させたが、当然暁嗣は本当に殴るつもりはない。男の顎に触れるか触れないかのギリギリのところで拳を止めた。

 いつまでも経ってもパンチが飛んでこないことに気づいたのか、男は顔を強張らせながら恐る恐ると言った様子で目を開けた。男の視界には自信に満ちた表情を浮かべた暁嗣の顔が映っていることだろう。

「もういいよね?」

 暁嗣は男の顎に突きつけた拳を開くと、人差し指で顎をちょんちょんと突きながら意地の悪い笑みを浮かべながら言った。

「くっ……」

 男は歯を食いしばり、顔は真っ赤になっていた。暁嗣にプライドを傷つけられ、悔しくてたまらないのだろう。

 暁嗣は男と視線を合わせたまま拳を下げると小馬鹿にしたように鼻で笑い、美夜の腕を取るとその場を立ち去った。


 疲れているのか、機嫌が悪いのか、美夜は無表情で今回もクリームたっぷりのドリンクを太いストローですすっていた。ドリンク自体は好みの味だったようで、広角がわずかに上がり、不機嫌と上機嫌がぶつかり合っているような表情になっている。

「……まあ、とりあえず助けに来てくれたから今回は許す」

 美夜はストローから口を離すと、横の席に座っている暁嗣を横目で見た。

 暁嗣と美夜は隣駅にあるカフェで一息ついていた。流石にここまで来れば男たちと出くわすことも無いだろう。

「あのさ、何度も言ったけど、結佳に捕まっちゃったんだから仕方ないだろ?」

 暁嗣は口に運ぼうとしたマグカップを止め、反論した。

「それは木野くんの怠慢じゃない?」

 美夜はストローから口を離すと、非難が込められた目で暁嗣を見ながら言った。

「いやいや、バッタリ出くわすなんて不可抗力でしょ」

「はぁ~……」

 偶然を自分の怠慢にされるなんてたまったものではない暁嗣だったが、美夜は呆れたようにため息をついた。

「木野くん、それ本気で言ってる?」

「……どういうことだよ?」

「ウソ、信じられない」

 美夜は驚きと呆れが混ざった表情で暁嗣を見た。暁嗣には、彼女の発言の意図がさっぱり理解できなかった。

「木野くんが佐宗さんと出くわしたのは偶然じゃなくて、後を付けてたんだと思う」

「え? どうしてそんな事する必要があるんだよ?」

「佐宗さんは木野くんの事が好きだから」

「えっ……?」

 美夜のその一言を聞いた瞬間、暁嗣は一瞬時が止まってしまったかのように固まってしまった。美夜は日本語で話しているはずなのに、言葉の意味が一瞬理解できず、まるで未知の言語で話していたのではないかと思ってしまったのだ。しかし当然美夜は日本語で話している。理解できなかったのは、暁嗣が動揺したおかげだ。

「なっ、なんでそんな風に思うんだよ?」

 暁嗣には信じられなかった。結佳が自分の事を好き……? というよりそもそもなぜ美夜がそれが分かるのだろうか。

「……あのさ、なんだかイライラしてきたから、しばらく黙って私の話を聞いて? いい?」

 美夜は硬い笑みを浮かべた。目が笑っていない。

「あ、ああ」

 有無を言わせない態度の美夜に、暁嗣はおとなしく彼女の話に耳を傾けるしかなかった。

「まず、この前私達が2人でお昼に行こうとした時だけど、佐宗さんついてこようとしたでしょ。しかもその後に私達が一緒に帰ろうとしたときは強引についてきた。でも普通そんなことしない。いくら幼なじみでも遠慮するはず」

「そういうものなのかな? 昔から結佳はそうだったから」

「え?」

 事も無げに言う暁嗣に、美夜は信じられない、と言った表情で固まった。

「あれは小学生の頃だったかな、同じクラスの女の子の家に遊びに行くってなった時に、なぜか結佳もついてきてたんだよ。それが何度か続いて、気がついたらその子に呼ばれることもいつの間になくなったんだよね」

 暁嗣は当時のことを思い出しながら言った。あの頃からすでに暁嗣にとって遊びに行く時に結佳がついてくることは当たり前の事になっていた。

「なんて鈍感……」

 美夜は頭が痛いのか、額に指を当て、何度か首を左右に振った。

「香椎?」

 急に具合が悪そうになった美夜の顔を暁嗣は覗き込もうとしたが、美夜は顔を上げ、立ち上がった。

「木野くんのせいで頭が痛くなってきたから今日は解散にしましょう。とりあえずこれだけは断言できる」

 美夜は改まった態度で暁嗣を見た。

「佐宗さんは間違いなく、木野くんの事が好き」

「あ、ああ」

 暁嗣はただ頷くしかなかった。


 その日の夜。勉強中不意に集中力が切れた美夜は、ヘッドホンを外すと背もたれに体を預け、天井を見上げた。ヘッドホンからは激しいエレキギターの音が漏れ、部屋が静かなため、ぎしりと鳴る椅子の音が一際大きく聞こえる。

「いくらなんでも鈍感過ぎるでしょ……」

 美夜は今日のことを思い出しながらボソッと呟いた。会えば会うほど彼のことが良く分からなくなってくる。自分に告白ができないチキンのくせに、自分を助けに来てくれたときは別人かと思うほど男らしい。そして鈍感。

「よく分からないヤツ」

 半分思いつきで、こいつは利用できそうだからとボディガードをやらせてみたが、なんだかんだで気がつけば2回彼に助けられている。今回は正直言ってちょっとカッコいいと思ってしまい、心がときめいた。自分にもこんな女の子みたいな一面があるのだなと自分でも驚きだ。

 俺はどれだけすごいのかと自慢話をする男子生徒たち、パパ活で知り合ったおっさんたち。男はいくつになってもやっぱり格好をつけたい生き物なのだろう。だけど、いくらそんな話を聞かされても「薄っぺらいな」としか思えない。

 しかしあのときの彼は違った。カッコつけるためではなく、ただ自分を助けるためだけに来てくれたように見えた。それに普段のちょっと頼りない彼ではなく、なぜだかあの時だけはキャラが違って自信に溢れていた。当たり前のように腕を掴んで来たのも、ちょっと強引でドキッとしてしまったし。

 そんなギャップのせいだろう。彼にちょっとだけだけど、ほんのちょっとだけ、いいな。と思ってしまった。

「いやいや、2回目は木野くんが遅刻したせいだし」

 気がつけば口に出してツッコミを入れていた。そういえばそうだった。彼が遅刻しなければそもそもあんなことにはならなかったし、ドキドキしたのも言わば吊り橋効果だ。彼をカッコいいと思ってしまったのはそういうことだろう。きっとそうだ。間違いない。

 大体、自分は同年代の女の子と同じように男の子と遊んでる場合じゃないし、彼には自分なんかよりお似合いな幼なじみがいる。

「いけない。今こんなこと考えてる場合じゃないでしょ、私」

 美夜は机の上に投げ出されていたヘッドホンを再びかぶった。ヘッドホンから流れる激しいエレキギターの音が美夜の頭の中の雑念をかき消していく。

 美夜は「フッ」と小さく息を吐くと、再び勉強の続きに取り掛かった。


 翌日。その日は佐宗ボクシングジムでトレーニングの日だった。

 トレーニングを終え、帰ろうとしたところで暁嗣は佐宗に呼び止められた。

「暁嗣、ちょっと話せないか?」

「はい、なんでしょう?」

 佐宗は基本的にトレーニング後に雑談を振ってくるようなことはあまりない。暁嗣が珍しいなと思いながら答えると、佐宗は「結佳のことなんだが」と切り出した。

「結佳……ですか?」

 何の話だろうと暁嗣は思ったが、その直後に心当たりがあることに気がついた。以前結佳が不機嫌な理由を聞かれた時に「ゲームに負けたから」と嘘をついてしまった。それがバレてしまったのだろうか。それとも、再び結佳を怒らせてしまったからだろうか。

 佐宗はめちゃくちゃ娘に甘い。まさに目に入れても痛くないのレベルだ。そして怒らせた佐宗は阿修羅の如く怖い。トレーニング直後で体が温まっているというのに、暁嗣は巨大な冷蔵庫に放り込まれてしまったかのような寒気を感じた。

「そこに座れ」

 佐宗はジム内に置かれた椅子を顎で示した。暁嗣がそれに従い腰を下ろすと、佐宗も椅子を持ってきて暁嗣の横に置くと座った。暁嗣は判決を告げられる前の被告人の気分だった。

「暁嗣……お前将来結佳と結婚する気はないか?」

「……え?」

 暁嗣はあまりの脈略のなさにぽかんと口を開けたまま固まった。

「俺は父親として、結佳の将来が心配なんだ」

「え、いやまあ、それは父親として当然かもしれませんが……なぜそうなるんですか?」

 佐宗の言うことももっともだった。しかしなぜ急にそんな話になるのか、暁嗣には分からなかった。

「理由はいくつかある」

 佐宗は暁嗣を睨みつけるような真剣な目で見た。暁嗣は自信と威圧感の入り混じった目に睨みつけられ、思わず一瞬固まってしまう。佐宗とは長い付き合いだから分かるが、気がつけば佐宗の顔には皺が増え、髪の毛に白髪が混じるようになっても、この闘争心を湛えた目は昔から全く変わっていない。

「結佳は暁嗣、お前のことが好きだ」

「ど、どうして分かるんですか?」

 暁嗣は食い気味に佐宗に尋ねた。少し前に美夜に結佳が自分の事を好きだと言われたばかりだ。佐宗は何をもって結佳が自分の事を好きだと判断を下したのか気になった。

「おい、暁嗣、それは本気で言ってるのか」

 佐宗は心底呆れているように言った。呆れすぎて哀れんでいるようにすら見える。

「えっ、えっ、どういうことですか?」

 いつの間にか暁嗣は佐宗に詰め寄っていた。

「暁嗣……お前もなかなか罪な男だな」

 佐宗は暁嗣から距離を取ると、

「トレーニングが終わってリングに駆け寄ってくるときの結佳分かるか? あれは完全に恋する乙女の目だ。流石に俺でも分かる」

 冷静さを取り戻したのか、佐宗はいつもの強面な顔つきに戻っていた。

「なるほど……」

 何がなるほどなのか分からないが、何もリアクションが無いのもどうかと思い、暁嗣はとりあえず相槌を打った。

 確かに暁嗣は結佳がリングに駆け寄ってくるときは普段と何かが違う感覚があったが、しかしそれが自分のことを好きだというサインだとは思ってもみなかった。そしてどう見ても自分と同じくらい鈍そうな佐宗が気づいている事実には驚きを隠せなかった。

「……本当に気づいてなかったのか?」

「はい。なんというか、結佳は俺の中で妹みたいなものなので、だからこそそういうのは意識の外にあったというか」

 念を押すように尋ねる佐宗に、暁嗣はなぜこのような状態なのか答えを探しながら答えた。

「まあ、言われてみれば確かにそうだな。お前達は幼い頃からずっと一緒だったからな。仕方ないか」

 佐宗は過去を懐かしんでいるのか、遠い目で頷いた。

「そういうことか……」

 暁嗣の頭の中で点と点が繋がった。自分がジムに行くと必ず結佳はついてきて、終わるまでずっと待っていた。そしてそれが当たり前になってしまっていたため、特に疑問に思うことはなかった。だが、改めて考えると確かに普通ではない。仮に結佳がボクシングが好きだったとしても、日々のトレーニングは試合に比べてはるかに地味だ。最初は新鮮味があるかもしれないが、何度か見れば流石に飽きてしまうだろう。

 それにも関わらず結佳はトレーニングが終わるまでずっと待っていて、終われば一緒に家に帰る。好きな男のためにずっと待っていたのだ。そして結佳が自分の事が好きだとすれば、最近の結佳の行動にも納得が行く。

「そういうことだ。どこの馬の骨とも分からない男のもとに結佳が行ってしまうなんて想像もしたくないが、お前のことは幼い頃からよく知っている。幼い頃に結佳を守ったお前なら、まあ信用できる」

 佐宗は暁嗣の肩に手を乗せ、じっと暁嗣の目を見つめた。

 暁嗣はそんなまともに覚えていない昔のことを掘り返されても、と思いながらも佐宗に信頼されていることが分かって嬉しくもあったが、強面の佐宗に見つめられるのは怖い。

「……急に言われても困ります」

「確かにそうだな」

 そしてそんな大事な話、即答できるはずがなかった。暁嗣は視線をそらして弱々しく答え、佐宗もそれは分かっているのかあっさり引き下がった。

「まあ、だが考えておいてくれ。暁嗣、お前にも悪い話ではないはずだ」

 佐宗は立ち上がり、部屋から出ていった。

 残された暁嗣も、佐宗が部屋から出て行くと椅子から立ち上がった。そういえば今日は珍しく結佳がいない。いないからこそ佐宗はこんな話をしたのだろうと暁嗣は思ったが、いない理由を考えると嫌な予感を抱かずにはいられなかった。

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