初仕事

 日曜の14時。暁嗣は地下鉄の改札口で美夜と待ち合わせをしていた。今回の待ち合わせ場所は、以前暁嗣が美夜と遭遇した繁華街の最寄り駅から地下鉄に乗り換えて15分のところだ。

 待ち合わせ時間の15分前にすでに到着していた暁嗣は、改札に向かって歩いてくる人たちの中から美夜の姿を探していた。そんなにすぐに来るわけ無いだろうと分かっていたが、どうしてもそうせずにはいられなかった。

 そしてついに美夜が改札から現れた瞬間、暁嗣はまるで時の流れが一気に遅くなったかのような感覚を抱いた。ゆったりとしたフェミニンなワンピースに身を包み、濃い赤のリップが塗られた唇にはブラックホールのように視線が吸い込まれてしまう。以前繁華街で見かけたときとは雰囲気がまるで違っていた。

 しかし、これはこれでいい。学校では見られない美夜のいろんな姿を見ることができるなんて、そうそうできることじゃない。引き受けてよかった。暁嗣は心の中でつぶやいた。道行く人達も吸い寄せられるように彼女に視線を向けている。

 美夜はキョロキョロと暁嗣の姿を探す様子を見せた後、暁嗣の元へ向かって歩いてきた。

「おまたせ」

 美夜は自身に満ちた表情でフッと暁嗣に微笑んだ。

「え、あ、ああ」

 完全に美夜に見とれてしまっていた暁嗣は、口をぽかんと開けながら答えた。

「それじゃ、行こっか?」

 美夜は短く言うと、「こっち」と出口へ向かって歩き始め、暁嗣は「後を追ってばかりだな」と内心思いながら、美夜の後に続いた。

 しばらくは美夜の斜め後ろを歩いていたが、周りから女の子の後を追っている怪しい男に見えるのではないかと思い始めた。それはまずい。暁嗣は恐る恐る美夜の横に移動したが、美夜は特に何か言ってくる気配はなく、こっそりと暁嗣は美夜の横顔を盗み見た。整った形の切れ目、そして長く見るからに柔らかそうなまつ毛が視界に入り、盗み見しようとしたことも忘れ、暁嗣は美夜の横顔に見入ってしまっていた。美夜とは恋人でもなんでもない。だが、それでも美夜のような女性と肩を並べて歩いていることが夢のように思えて仕方がなかった。


 14時30分。

 暁嗣と美夜は駅から徒歩10分の所にあるカフェにいた。ただし、2人は別々の席に着いている。

 美夜は今回の『パパ』と談笑を、そして暁嗣は2人が見える距離の席に1人座り、居心地の悪さを感じながら値段と味が釣り合っているのか分からないコーヒーをすすっていた。

 暁嗣はコーヒーカップを口に運びながら、2人に視線を向けた。今回のパパは髪の毛の大半がすっかり白髪になってしまった50歳くらいの男だった。柔和な雰囲気を漂わせており、なんだかアナウンサーにいそうだな。と暁嗣は思った。

 少なくとも彼女を無理やりホテルに連れ込むような男には見えないし、今日は出番はなさそうだ。

 手持ち無沙汰になった暁嗣は店内を観察しはじめた。店内は間接照明で薄暗く照らされ、BGMのジャズと相まって落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 店の端に置かれた本棚にはハードカバーの海外の本が置かれ、インテリアのおかげで店というより部屋という感じのする店内だった。好きな人は好きな人なのだろう。だが、暁嗣はあまり好きになれなかった。多少うるさくても、ファストフード店のようなそこそこの値段でお腹いっぱいになれる店のほうが遥かにいい。

 だがそれはまだ自分が子供だからなのだろうか。大人になったらこのような店もありだな。と思えるようになるのだろうか。そんな事を考えながら再び2人に視線を向けると、パパが何か面白い話をしたのだろうか、美夜は口元に軽く握った拳を近づけ、クスクスと笑っていた。

 そんな2人を見ているうちに暁嗣は嫉妬に似た感情を抱いていた。もちろん、冷静に考えれば嫉妬なんてする必要はないと暁嗣も分かっている。美夜とアナウンサーにいそうな男はそういう関係ではないし、そもそも彼女が心から笑っているかどうかすらも分からない。それでも、見かけ上は楽しそうに笑っている彼女を見ると、ほんのわずかだが、ボディガードを引き受けたのは失敗だったかなと思わずにはいられなかった。


「へぇ~田村さんって会社役員なんですね。すごいです。やっぱりお金持ちなんですか?」

 美夜は目の前に座っている、暁嗣がアナウンサーにいそうと思った男、田村に目を輝かせながら熱い視線を送った。当然だが、これは演技だ。

「ははは。そんなに大したことはないよ。そんなに大きな会社じゃないからね」

 田村は穏やかに笑った。言葉とは裏腹にその表情は満足げだ。

「ただ、私はもう自分のためにお金を使うのに飽き始めていてね。だから最近『こういう事』をやってるんだよ」

 そう言い終えると田村はコーヒーを一口すすった。

「へえ、そうなんですね、素晴らしいです。だから田村さんって『こういう事』やってなさそうに見えるんですね」

 美夜は表面上は感動している体を装いながらも、「呆れた。あれこれ御託を並べてるけど、結局は若い女と話したいだけじゃない。本当に困ってる誰かのためにお金を使いたいなら、どこかの慈善団体に寄付すればいいのに」と毒づいていた。

 当然田村は美夜がそんな事を思っていることに全く気づいた様子はなく、

「やはりそうかな? まあ、そのおかげで周りの客からは私達は親子にしか見えないんじゃないかな?」

 妙に自信に満ちた表情で言った。

「きっとそうですよ。私も田村さんみたいなお父さんが欲しかったな~」

 機嫌良さそうに笑う田村に、美夜は甘えたような声でぼやいた。この態度も当然演技だが、実はわずかに本音が混じっていた。実際、田村は自分の本当の父親よりはマシに見えたから。あくまでまだマシというだけでこんな男が父親なんて願い下げだが。

 パパ活で出会う男なんて、一定のルーチンをこなせばお金が出てくる箱のようなものだ。愛嬌を振りまいて、適当に相槌を打ちながらすごいすごいと言っていれば勝手に気を良くしてくれる。それが箱の鍵が空いた合図だ。中にはお金が詰まっている。

 それでもやはりいいことばかりではない。お金と引き換えに、自分の中で何かが少しずつ壊れていくような感覚がある。いつか自分は完全に修復不可能なところまで壊れてしまうかもしれない。それでも、お金を稼がなければならないのだ。


「はあ。やっぱり疲れた後は甘いものが身に染みるな~」

 一仕事終えた暁嗣と美夜はコーヒーチェーン店で口直しをしていた。

 美夜は新商品の容器の中にたっぷりとクリームといちごソースが注がれたドリンク一口飲むと、ため息をついた。

 暁嗣はその横で一番安いコーヒーを飲みながらそんな彼女を眺めていた。

 今暁嗣が飲んでいるコーヒーの値段は、田村と美夜が会っていた店の半分程の値段で、しかも量も多い。ここまで違えば流石に味も違うかと思ったものの、暁嗣には違いがさっぱり分からなかった。2つを飲み比べてどちらが高いか当てろと言われても、当てられる自信は全く無い。

 時刻は18時。すっかり外は暗くなり、開放感のある大きな窓からは紺色の空が見える。街を歩く人達のほとんどは上着を羽織り、わずかにいる半袖の人たちの姿はどこか寒々しく見える。

「はあ、それにしても、あのおっさんあんなにおしゃべりだとは思わなかったな……」

 美夜は疲れた表情で、首を前に倒した。なんと3時間田村はひたすら美夜に向かって持論を話し続けた。経営論、人生論、将来へのアドバイスなどなど……。

「まあ、確かに。途中から声に熱が入りすぎて周りのお客さんもチラチラ見てたし」

 まるで街頭演説をしているような顔つきになっていた田村を思い出しながら、暁嗣も疲れた表情で同意した。

「あのおっさん、仕事に打ち込みすぎたせいで、家では奥さんにもお子さんにも相手にされてないみたい」

「ああ、なるほどなぁ」

 あそこまで話し続けていた理由を暁嗣は察した。要は話を聞いてくれる相手が欲しかったのだろう。

「仕事に打ち込むことが奥さんにもお子さんにもいい事だと思っていたのに、ってぼやいてたけど、2人がそう言ってたわけでもないのに、自分1人で決めつけて勝手に傷ついて……バカみたい」

 美夜は嫌悪感をあらわにした表情で、ズルッと音が鳴るほど強くストローを吸った。そんな彼女を見て、暁嗣は彼女の父親もそうだったのだろうかと推察した。

 そのようなことを考えているうちに、お金が欲しいのだからきっと裕福な家庭ではないのだろうが、そういえば彼女の家のことを何も知らないことに気づいた。

 しかし、そんなデリケートな事を彼女に尋ねる勇気も湧かず、暁嗣はぬるくなり始めたコーヒーを一口すすった。

「……やっぱり年を取ると説教臭くなっちゃうのかな? 私はああなりたくないな」

 美夜は両手で容器を持ったまま、遠くを見つめながら呟いた。

「そんな遠い先のこと考えても仕方無くない?」

 暁嗣は美夜の横顔を見ながら言った。

 いずれ自分たちも田村のように年を取る。白髪が増え、顔にはシワが増え、体力は衰えていく。だがそんな彼らを見ていてもあまりにも自分たちと違いがありすぎて、将来自分たちもあのようになってしまうなんて全く想像ができなかった。むしろ実感がなさすぎて、自分はいつまでも若いままでいられるのではないかという根拠のない自信を持ってしまうほどだった。

「まあ確かにそうなんだけどね」

 美夜は一応は納得したようだったが、どこか歯切れの悪さを感じさせた。理屈としては分かるが、それを新しく自分の常識として取り入れるのには抵抗がある、といったような反応だ。

「……だけどやっぱり、遠い未来の私は体を壊さず、ちゃんと生活できているのか不安になっちゃうんだよね」

 美夜が手に力を入れ、両手で持っているプラスチックカップがパキ、と音を立てる。

 学校で見せるキャラとはまるで違う、今目の前にいる美夜が本来の彼女なのだと分かってはいるが、それでも、そんなことを美夜が言うなんて暁嗣は信じられなかった。

 どうしてそこまで将来に不安を感じているのだろう。なぜそこまでしてお金を稼ごうとするのだろう。彼女の秘密を知ったと思ったら、また謎が増えてしまった。いつかこの新たな謎が分かる日が来るのだろうか。そんなことを思いながら暁嗣は何かを考えている様子の美夜を横目で見ていた。

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