パパ活女子の同級生をボディーガードすることになりました
アン・マルベルージュ
契約成立
体の芯にまで轟くような何かを殴る音が、小気味良いリズムで室内に響き渡る。
都心のターミナル駅から各駅停車で一駅のところにある佐宗ボクシングジム。リング上では、10代半ばと思われる若い男と、40代半ばの中年の男がトレーニングを行っていた。
若い男はボクシンググローブを両手にはめており、中年の男は両手にパンチを受け止めるためのミットをはめている。誰が見ても若い男がボクサーで、中年の男がトレーナーであることがひと目で分かる。
ボクサーの名前は木野暁嗣(きのあきつぐ)。高校2年だ。そしてトレーナーは、このジムの会長兼トレーナーの佐宗高志(さそうたかし)だ。
「よぉしいいぞ! 次は左アッパー!」
佐宗が熱の入った大声を出すと手のひらを下に向け、暁嗣の前に突き出す。
「はい!」
暁嗣は佐宗に負けない大声で応えると、腕を引き、ミットに向かってアッパーを放つ。暁嗣は身長170センチほどで、無駄のない体つきをしているが、さほど筋肉質というわけではない。しかしパンチがミットにぶつかるたびに空気が震えるような音が室内に反響し、佐宗の体格は暁嗣よりも大きいにも関わらず、パンチを受け止めるたびに表情が強ばっていた。
「もういっちょ!」
「はい!」
暁嗣が再び腕を後ろに引き、足を前に踏み出した。キュッ、とブーツとキャンバスが擦れる音が聞こえ、その直後、グローブとミットがぶつかる男がジム内に反響する。
「次、ワンツー!」
佐宗が地面に水平に向けていたミットを起こした。
「はい!」
規則的なリズムで左、右の順で、佐宗が上段に構えたミットに向かってパンチを打ち込んで行く。
「もっと早く!」
「はい!」
暁嗣がそれに応え、パンチのリズムがさらに早くなる。それでもフォームは崩れたり余計な力が入ったりすることなく、まるで動画を早く再生しているようだ。
佐宗の声には更に熱が入り、顔がわずかに紅潮していた。そして暁嗣はそれに負けない声で返事をし、時に自分に向かって襲いかかる佐宗のミットをかわし、上下左右縦横無尽に動き回るミットを暁嗣のパンチは正確にとらえていた。
まだ若い暁嗣だが、その動きには無駄がなく、まるで格闘ゲームでコンボを決めているかのようだ。そんな暁嗣に佐宗は矢継ぎ早に暁嗣の動きに要求を出していく。そして暁嗣は見事にそれに応えていた。
そんな熱の入った2人を、リングから少し離れた所でボクシングジムには不釣り合いな可憐な少女が見守っていた。彼女の名前は佐宗結佳(さそうゆか)。暁嗣の幼なじみで、佐宗高志の一人娘だ。
「よし、今日はここまでだ」
リング近くに置かれていたボクシングタイマーが3分経った事を告げる音を発し、佐宗はリング端に向かって歩きながら言った。額には汗が滲んでいる。
「ありがとうございました!」
暁嗣は佐宗に向かって頭を下げ、額から垂れていた汗がキャンバスに落ちた。
「暁嗣!」
佐宗がリングロープをくぐりリングを降りるとほぼ同時に、離れたところで2人を見守っていた結佳がリングへ駆け寄ってきた。その足取りはトレーニングが終わるのが待ち遠しくてたまらなかったと言わんばかりだ。
結佳は綺麗というよりは可愛いという表現がぴったりな少女だ。整った顔つきをしているが、どこかあどけなさを残しており、身長は150センチほどしかない。髪の毛は肩にかかる程度の長さで、緩いウェーブがかかっているがこれは地毛で、毎朝アイロンで伸ばすのが日課だ。
結佳もそんな自分の見た目の強みを分かっているのか、胸元にリボンの付いたブラウスと、プリーツスカートという可愛げな服装をしている。実際にそのまま雑誌モデルにでもなれそうなほどよく似合っている。そして彼女も高校2年だ。
ちなみに父親には驚くほど似ていない。実際、結佳がまだ幼かった頃に結佳を公園で遊ばせていると、誘拐犯と間違えられ警察がやってきたことが何度かあったと暁嗣は佐宗から聞かされていた。
「暁嗣、俺がお前と同じ年だった頃と比べるとまだまだだが、また動きがよくなったな」
佐宗はミットを外すと、威厳のある表情を浮かべながら言った。
もう引退して随分経つものの、かつては世界ランカーとして強豪たちと熱い戦いを繰り広げてきた。流石に年には勝てず若干腹が出てきたものの、腕は太く、髪を短く刈り上げ、口ひげをたたえたその風貌は、只者ではない雰囲気を漂わせている。もし道を歩いていて彼が反対側から歩いてきたら、大抵の人は無意識のうちに道を譲ってしまうだろう。
「はい、もっと頑張ります!」
暁嗣は体ごと佐宗の方を向き、強い意思のこもった目で佐宗を見ながら返事をした。
「ねえ、暁嗣。お父さんああ言ってるけど、暁嗣の事すごく期待してるんだよ? 家で酔っ払うと大体『俺はあいつを世界チャンピオンにする~!』って叫んでるし」
結佳は流し目で佐宗の事を見ながら、佐宗にも聞こえる声で言った。その表情は、いたずらを楽しんでいる子供のようだ。
「ゆ、結佳。そういう事言うとお父さんの威厳がなくなるからやめような?」
佐宗は困ったように苦笑を浮かべ、顔を引きつらせた。暁嗣を指導していたときとはまるで別人のようだ。
「え、だめなの?」
結佳は芝居がかった潤んだ目で佐宗を見つめた。
「い、いや、照れくさいお父さんの代わりに言ってくれるなんて、結佳は嬉しいなぁ!」
佐宗は大げさに首を左右に振り、取り繕った笑顔を浮かべると一度咳払いをした。そして暁嗣の方を見ると、
「暁嗣、まだまだお前は荒削りな所があるが、間違いなく才能がある。これからもビシバシ行くから、ついてこい」
結佳と話していた時の『娘に甘い父親』から、『元世界ランカーの厳しいトレーナー』に見事に一瞬で切り替わっていた。
「はい! これからもよろしくお願いします!」
暁嗣は結佳と接しているときだけは悲しいほどに甘くなる佐宗にあえて触れず、頭を下げた。
トレーニングを終えた暁嗣は、結佳と共に駅に向かっていた。
もう秋なのを忘れてしまったかのような暑い日がたまにあるものの、肌から感じる空気はもう夏ではなく、秋だ。
2人の家は隣同士なので、当然帰る方向も同じだ。そしてジムから家までの道中、結佳が一方的に暁嗣に話し続け、暁嗣はそれに相槌を打つというのが常だった。
「それにしても、今日のお父さん可愛かったよね〜」
「え? ああ、そうだな」
内心で「あれが可愛い?」と思いながらも、暁嗣は特に否定することもなく曖昧に頷いた。
あの風貌で娘には極めて甘いというギャップが結佳には可愛く見えるのかもしれないし、身内にしか見せない姿もあるだろう。
確かに高志は現役引退してから随分経過しているということもあり、体型は現役時代とは比べて崩れているし、顔もだいぶ老け込んでしまっている。
それでもなおただならぬ眼光を放ち、自信に満ち溢れた雰囲気を持つ佐宗高志は、暁嗣にとっては可愛いからは程遠い、絶対に怒らせてはいけない男の1人だった。
「お父さん恥ずかしがり屋だから暁嗣には直接言えないと思うんだけど、暁嗣の事、とっても期待してるんだよ? もちろん、私もね」
「ああ、ありがと……ん?」
暁嗣と結佳は駅の前を通り過ぎようとしていた。ターミナル駅まで一駅で行ける小さな駅なため、人通りはそこまで多くはない。この駅から電車に乗っても帰ることはできるのだが、一駅で乗り換えるのが面倒なため基本的に2人はこの駅を利用することなく、徒歩で直接ターミナル駅へ向かうのが常だった。
2人が利用することはないと言っても、私鉄とJRが乗り入れている駅だ。夕方ということもあり、人の往来はそれなりにある。
そんな人通りの多い改札へ出入りしていく通行人の中で、流れを遮るように2人の男女が何かを話していた。男は50前後、女は30代半ば位だろうか。2人の表情から明らかに何か揉めているのが分かる。そして女の傍らには車椅子があり、20代前半と思われる女性が無表情で身体を預けきった様子で座っている。
男は女を威嚇するように拳を振り上げ、女は弱りきった表情で何度も頭を下げている。
ただならぬ様子ではない。気になった暁嗣は2人に近づいていった。
「これ、どうしてくれるんだ?」
「本当にすみません……だけど……」
女が何かを言い返そうとすると、
「何だ? 私が悪いっていうのか?」
男は手に持ったスマートフォンを、これ見よがしに女に見せつけた。画面全体に蜘蛛の巣が張り付いているかのように亀裂が入っている。
「ちょっと。こんなところで立ち話してたら迷惑だと思いませんか?」
暁嗣が2人の横から会話に割り込み、男は「何だお前は」と言わんばかりの目で暁嗣を睨みつけた。
「この女がぶつかったせいで私のスマホにヒビが入ってしまったんだ。おまけにそのせいで操作ができなくなってしまった。大事なメールを返さなきゃいけないって言うのに」
男は印籠でも見せつけるかのように暁嗣の前にスマートフォンを突きつけた。
「だけど、ぶつかってきたのは……」
女は弱々しい声で男の顔を見ずに言った。しかし、最後の方は周りの音にかき消されてしまい、何を言っているのかはっきり分からない。
だが、女のそんな反応のおかげで暁嗣は2人の間に何があったかを察した。男の方が歩きスマホをしていて女にぶつかり、その時にスマートフォンを落としてしまった。悪いのは歩きスマホをしていた男の方なのに、自分のことを棚に上げて女に文句を言っているのだろう。
「というかおっさんさ、どうしてスマホ落としちゃったの?」
暁嗣はわずかに顎を上げ、自分の方が男として格上だと分からせるような、冷ややかな笑みを浮かべた。
「私が改札に向かいながらメールを打っていたら、この女がぶつかってきたんだ」
男が女を睨みつけ、女は今にも泣き出しそうな表情になる。
「どうしてぶつかってきたって分かるの? おっさん前見てなかったんでしょ?」
「私はちゃんと前も見ながら歩いていた」
「違います! 私が横を通り抜けようとしたら急に私の方に向かってきたんです!」
暁嗣という味方が現れたためか、女は先程の消え入りそうな声とは打って変わって、食い気味で訴えかけるように言った。
「ふーん」
暁嗣は無遠慮な視線を男に向けると、
「おっさんさ、『前も見ながら』って言ってたけど、1文字打つごとに前見てたの? 違うよね? ホントは大した前見てないでしょ? よくそれでこの人が悪いって言えるよね。子供が言ってるならまだしも、おっさんどう見ても大人だよね? よく平然とこの人が悪いって言えるよね。恥ずかしくないの?」
暁嗣の声はゆっくりと落ち着いていたものの、有無を言わせない威圧感があり、その表情は男が怯えからか固まってしまうほどに冷たかった。
「……チッ。もういい」
男は苦々しい表情を浮かべ、拳を握りしめながら立ち去っていった。
「あ、あの、ありがとうございます……ありがとうございます……なんとお礼を言っていいのやら……」
張り詰めていた糸が切れたのか、女は目尻に涙を浮かべながら暁嗣に何度も頭を下げた。
「いや、大変でしたね。自分が悪くないのに、他人のせいにするなんてかっこ悪いですよね」
暁嗣は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。その表情は、さっきまでおっさんと相対していたときとは完全に別人で、どこにでもいそうな高校生にしか見えない。
女が車椅子を押しながら最後に暁嗣にもう一度頭を下げて立ち去っていくのを見届けた後、暁嗣は車椅子の女性のことが少し気になった。
何かしらの理由があるから車椅子に座っているのだろうが、女性は男と揉めている間も無反応で、暁嗣達に視線を送ること無く空を見つめていた。何かで精神を病んでしまいああなってしまったのだろうか。しかしそんな事を気にしても仕方がないと考えるのをやめた。あまり他人の事を詮索するものでもない。
暁嗣がそんなことを考えているうちに、結佳が暁嗣の元へ駆け寄ってきた。
「さすが暁嗣。カッコいい!」
結佳は上目遣いで暁嗣に熱い眼差しを送った。相手が暁嗣でなく、他の男子高校生ならば一発で恋に落ちてしまうだろう。
「ん……ああ、まあな」
暁嗣はさっきまでの自信に溢れた表情から一転、人助けしたことを褒められたというのに、あまり触れてほしくなさそうに生返事で答えると結佳から視線をそらしたが、しかし、それが失敗だった。
「もう……せっかく暁嗣の事褒めたのに」
結佳はそんな暁嗣の態度が気に食わなかったのか、不満げな表情を浮かべると暁嗣を置いて歩き出した。
父親から甘やかされて育てられた結佳は、ちょっと気に食わないことがあるとすぐへそを曲げてしまうのだ。
もちろん長年の付き合いで彼女がこうなってしまったときの機嫌の取り方を暁嗣は知っていたが、不機嫌そうな結佳を見ていると、同い年なのにこういうところはなんか子供っぽいな。と苦笑せずにはいられなかった。
暁嗣は先を行く結佳に速歩きで追いつくと、
「結佳、DDRやりにいかない?」
ゲーセンに結佳の好きなゲームをやりに行くことを提案した。ダンスダンスレボリューション、通称DDR。長い歴史を誇る、かつて一世を風靡した音楽シミュレーションゲームだ。
それを聞いた結佳は目を輝かせながら素早く体を暁嗣の方へ向け、「行く!」と元気よく答えた。どうやら機嫌は良くなったようだ。
「よしじゃあ、行くか」
「やった!」
結佳は子供のように腕を上に向かって突き上げた。さっきまで不機嫌だったのが信じられない変わり身の早さだ。
DDRはタイトルに『ダンス』とついているだけあって身体を忙しく動かすゲームだが、結佳は下がスカートだ。しかし結佳自身は別にスカートでプレイすることを気にしないどころか、どういうわけか、スカートの中が見えてしまうことなくDDRをプレイできるという超人的なスキルを持っている。
そしてそんな特殊スキルを持っている事を知らずに近寄ってきた男たちをガッカリさせるのが快感なのだと暁嗣に話していた。
2人はそのまま歩き続け、周りの風景はいつしか繁華街に変わっていた。様々な飲食店、ブランドショップが建ち並び、どんな人でも一生かかっても全ての店を利用することは決して無いだろう。夕方ということもあり、道はやや混雑している。
「DDRやるならこれくらいの気温が丁度いいよね、暁嗣」
結佳は行き交う人達に視線を送りながら言った。上機嫌なようで足取りが軽い。
「確かにな」
夏が終わり、気がつけば9月末に差し掛かっていた。まだ半袖でも問題の無い気温だが、日はいつの間にか短くなり、夜は肌寒さを感じる。
当然夏はゲーセン内は冷房が効いているため涼しいのだが、それでも汗をかいてしまうのだ。そして冷房で身体が一気に冷やされて寒くなってしまう。冷房が弱くなり始める今頃くらいが丁度いいのだ。
「今日は何の曲をやろっかな〜。あ、そうだ、暁嗣、勝負しない? 負けたほうが勝ったほうの言うことを聞くの」
挑発的な笑みを浮かべながら結佳は暁嗣を指差した。
結佳の唐突な提案に暁嗣は「子供みたいだなぁ」と思いながらも、「いいよ」と快諾した。いつの間にか2人はゲーセンの赤い背景に白文字の看板が視界に入るところまでに来ていた。このゲーセンの音ゲーコーナーは6階にあり、誰が呼び始めたのか分からないが、音ゲーマーたちからは『ロクエフ』と呼ばれている。
暁嗣が看板から視線を戻し、反対側からやってくる通行人に何の気もなしに視線を向けた瞬間、見覚えのある女の子がこちらに向かって歩いてきている事に気づいた。暁嗣の通う高校で一番の美少女と言われている、同じクラスの香椎美夜だ。暁嗣は、密かに彼女に思いを寄せている。
対して美夜は暁嗣に気づいた様子を見せることなく、2人の脇を通り抜けていった。
「え、ウソだろ……」
暁嗣は自分が見たものを信じることができず、思わず声を漏らした。美夜は40歳くらいの太ったおっさんと楽しそうに何かを話しながら肩を並べて歩いていたのだ。
即座に暁嗣は振り返り、通行人の中から美夜の姿を探すと彼女はすぐに見つかった。服装は制服ではなく私服だったが、彼女のチャームポイントである背中まで伸びた艷やかな黒髪は間違いなく、美夜だ。
「暁嗣、どうしたの?」
立ち止まり振り向いたままの暁嗣を不審に思ったのか、結佳が声をかけたが、暁嗣はそれに答えず、徐々に小さくなっていく彼女の後ろ姿を目で追い続けていた。
他人の空似だと信じたかった。いや、きっと間違いない。だが、彼女によく似た美少女が何人もいるなんて到底信じられないし、仮に本人だとしても、隣を歩いている男は父親か何かだと思いたかった。
しかしそう思い込もうとすればするほど、暁嗣の中の不安が強くなっていく。もうこのまま見なかったことにしてゲーセンに行く気には到底なれなかった。
「暁嗣?」
返事をすること無く遠くを見つめ続けている暁嗣に、再び結佳が声をかけた。
「……ごめん、今日は俺の負けでいいからここで解散! じゃあね!」
「え? ちょっと! ……暁嗣!」
後日へそを曲げた結佳の機嫌取りをしなければならないと思うと憂鬱で仕方がなかったが、今の暁嗣にとっては些細なことだった。その場に結佳を置き去りにし、2人の後を負い始めた。
香椎美夜は作った微笑を顔に貼り付けたまま、男に分からないようにこっそり腕時計で時刻を確認した。そろそろ帰らなければならない時間だ。美夜は隣を誇らしげに歩いている男の顔を一瞥した。美夜はこの男と昼間から行動を共にしている。
男は自分のことを太田と名乗った。下の名前はわからないし、本名かどうかも分からない。だが2人の関係ではそれで問題なかった。
「フ、フヒッ、るいちゃん、今日は楽しかったねぇ……」
太田は気味の悪い笑い声を立てたあと、美夜の偽名を呼んだ。
「ええ、本当楽しかったです♪」
美夜は作り笑いとは思えないほどの自然な笑みを浮かべ、表面上では心底楽しんでいるのを装っていたが、内心では1秒でも早くこの男と解散したくて仕方がなかった。
太田に話を振ってもまるで見当外れの答えが返ってきたりと、会話のキャッチボールが全く成り立たない上に、常に挙動不審だった。おまけに体臭がきつく、不意打ちのようにその悪臭が鼻孔に流れ込むたびに作り笑いが崩れてしまいそうだった。見た目には明らかに無頓着で、本人は30後半と言っていたが、どう見てももっと上のように見える。
2人はそのまま歩き続け、いつの間にか繁華街でもラブホテルが点在するエリアに差し掛かっていた。
「あの、太田さーん、どこに向かってるんですか?」
美夜はわざととぼけたように太田に尋ねた。当然美夜は太田がどこに向かおうとしているか聞くまでもなく分かっていた。しかし残念ながら、ここから先はやっていないし、これからもやるつもりもない。だが、何度か遭遇した展開だ。このあたりで上手くあしらって解散しよう。
そう美夜が思った次の瞬間、
「グフゥ、それはねぇ」
太田は痛みで顔を歪めてしまうほどの強さで美夜の腕を取った。
「あそこだよぉ」
真っ黄色に変色した乱杭歯を美夜に見せて笑い、目の前にあるラブホテルを顎で示した。
暁嗣は2人の後を追いながら、ついこの前美夜に告白して玉砕した同じクラスの男子生徒の話を思い出していた。
彼は彼女に何と言われて断られたかを暁嗣に話してくれた。
『ごめんなさい。私はそういうの興味ないから』
言葉の意味をそのまま捉えるならば、『恋愛に興味がない』という意味だが、彼の解釈は違っていた。
「やっぱりおっさんと付き合ってるから、俺達みたいな子供には興味ないのかな?」
つまり、同年代の男には興味がないということだ。
暁嗣は2人を追いかけながらも頭を振ってその言葉を追い出した。そんなはずはありえない。
香椎美夜には以前から『おっさんと付き合っている』『繁華街でおっさんと歩いているところを見かけたことがある』という出所不明の黒い噂があった。しかし、それはきっと美夜に告白して玉砕した男たちか、美夜のことが気に食わない誰かが流した根も葉もないウソだと暁嗣は思っていた。
だが現に目の前では美夜は見知らぬおっさんと肩を並べてラブホ街を歩いている。もう間違いないだろう。噂は本当だったのだ。
彼女がおっさんとホテルに入っていく所は見たくない。帰ろう。暁嗣が踵を返そうとしたところで、2人の様子がおかしいことに気がついた。
おっさんは美夜の腕を掴みホテルに引っ張っていこうとしているが、彼女はそれに抵抗し、振り払おうとしている。明らかにただ事ではない。暁嗣は考える間もなく、2人の元へ駆け寄った。
「おいおっさん何してんだ!」
「え……き、木野……くん!?」
「なっ、ななな何だお前はぁ!」
美夜はすぐに暁嗣だという事に気づいたようだが、まさかこんなところで出くわすとは思っていなかったのだろう、驚いたように目を丸くし、男は突然の乱入者に一瞬怯えたような表情を見せたものの、すかさず暁嗣を威嚇するように胸を張って体を大きく見せつつ、睨みつけた。
「嫌がってるじゃないか。手を離せ」
男の威嚇にまるで動じること無く暁嗣は男を睨み返した。
「お、お前には関係ないだろぉ! これは俺とるいちゃんの問題な……」
男が言い終わる前に暁嗣は無言で男の懐に飛び込むと、顔面に向かって寸止めでパンチを放った。
「ひぃっ!」
男は一瞬体を硬直させ、その弾みで美夜を離した。
「何バカなこと言ってんだよ。この子とおっさん、どう見たって年が離れすぎだろ。カップルなわけ無いじゃん」
男の顔面に拳を突きつけたまま、暁嗣は凄みを利かせた声で言った。
「ウッ、グッ……ブフゥ……覚えてろよ!」
男はしばらく悔しそうに暁嗣を睨みつけていたものの、結局捨て台詞を吐き、その場を去っていった。
「……香椎さん」
男が遠くに逃げていくのを見届けた後、暁嗣は美夜の方へ振り返った。美夜はウェットティッシュで男に掴まれていた所をゴシゴシとこすりながら、
「助けてくれてありがとう。うっわ……なんかネバネバするんだけど。最悪~」と暁嗣の顔を見ずに言った。その声は、暁嗣は普段学校で聞く美夜の声よりも、何オクターブも低く刺々しかった。
今目の前にいるのは本当に美夜なのか。暁嗣はついそんなことを考えてしまう。実は双子の姉妹だと言われても信じてしまいそうなほどで、髪型も、服装も、メイクも学校で見かけるものとはまるで違うので当然といえば当然だが、そのような小手先なところではなく、根本的に何かが違っているように感じられた。
だが、それはそれとしてもっと大事なことがある。美夜はここで一体何をしていたのだろう。
「あ、あのさ……あのおっさんと何してたの?」
ここまで来たらもう聞くしか無い。意を決し、暁嗣は美夜に尋ねた。
「……パパ活って知ってる?」
美夜は顔を上げると暁嗣をじっと見つめた。その表情は日頃学校で見かける人当たりよさそうなものではなく、無表情に近い、冷たさを感じるものだった。
「な、なんとなくは」
美夜に見つめられ、暁嗣は挙動不審気味に答えた。
パパ活。若い女性が経済的にパパと称される裕福な男性と食事やお茶をする対価として金銭を受け取る事を言う。いわゆるパパと体の関係を持ってしまう者もいるらしい。
「そっか。それなら話が早いね。私はそれをしてるの」
美夜は事も無げに言った。
暁嗣は美夜の口から発せられた言葉に殴られたかのような衝撃を受け、めまいを起こしていた。あの憧れの香椎美夜がパパ活をしていたなんて、信じられなかった。
「ど、どうしてそんな事をしてるんだ?」
考える間もなく、暁嗣は反射的に言葉を発していた。
「とりあえず、移動しない?」
美夜は暁嗣の質問には答えず、1人歩き始め、暁嗣はそれを追った。
暁嗣と美夜はラブホ街を突っ切ったところに突如現れた小さな神社の境内にいた。耳をすませば街の喧騒が聞こえてくるが、ここだけは結界でも張られているかのように静まり返っているように感じられる。
神社に着くなり美夜はどこかに電話をかけ始め、手持ち無沙汰になった暁嗣は普段神社に来ることがあまりないため興味深く神社を観察していた。小さな神社だが手入れが行き届いているようで、狛犬は綺麗に磨かれ、鳥居に巻かれたしめ縄も新しかった。
暁嗣は神社を見渡しながらも、すぐ近くで美夜の話し声に聞き耳を立てていた。会話内容は良く聞き取れなかったが、『友達と一緒』『もうすぐ帰ります』というところは聞き取ることができた。日は短くなってきたとはいえ、暁嗣の認識としてはまだそこまで遅い時間ではない。暁嗣が「厳しい家なのかな」と思っていると、
「お待たせ」
通話を終えた美夜がスマートフォンをバッグにしまいながら言った。
「え!? あ、ああ」
聞き耳を立てていたところに急に声をかけられ、暁嗣は一瞬体をこわばらせた。
「どうしたの?」
挙動不審な動きを暁嗣がしたためか、美夜は不思議そうにわずかに首を横に傾けた。
「い、いや、なんでもないよ」
まずい。聞き耳を立てていたことがバレたか。暁嗣は焦りを抑えながら答え、幸い美夜はそれ以上追求はしてこなかった。
「そう。ところで、木野くんって強いんだね。あ、そっか、そういえばボクシングやってるんだっけ」
「え? あ、ああ、そうだけど」
暁嗣は以前美夜と隣の席になった時に自分がボクシングをやってる事を話していた。といってもチラっと話しただけなのだが。
それなのに、彼女は覚えていた。暁嗣は意識的にそっけなく返したものの、内心では浮かれてしまっていた。
「そこで相談なんだけど、私のボディガードをやってくれないかな?」
「……は?」
男はこんな表情でお願いすれば落ちるだろ、と言わんばかりの蠱惑的な笑みだった。暁嗣もそんな笑みを浮かべられ一瞬ドキッとしたものの、その口から出たのは戸惑いの一言だった。
「え? ボディガードってどういう事だよ?」
パパ活のボディガードとは何をすればいいのだろう。暁嗣にはいまいちピンとこなかった。
「私、パパ活はやっても体の関係は絶対に持たないようにしてるんだけど、やっぱりどうしてもたまに今日みたいなことが起こるの。だから、木野くんには今日みたいなことになった時に私を助けて欲しいんだよね」
美夜は暁嗣を試すような涼しい目で暁嗣を見た。
「そんなこと、急に言われても」
暁嗣は美夜が体を売るところまではしていないことに安堵しつつも視線をそらし、地面を見つめた。確かに、彼女のボディガードをやれば、必然的に彼女と顔を合わせる機会は多くなる。つまり他の男子を出し抜くことができる。しかし、どうにも釈然としない。
「……木野くんって私のこと好きでしょ?」
「なっ!」
図星を突かれた暁嗣は、反射的に美夜の顔を見ていた。
彼女は目を細め、口元に意地の悪そうな微笑を浮かべていた。お前のことなんてお見通しだ。と言わんばかりの表情だ。
「ふふ、やっぱりね」
暁嗣は自分の顔がみるみるうちに赤くなっていくのを感じていた。女の子から好意を持たれている事を知ってたって言われるのって、こんなに恥ずかしいことなのか……。
「もちろんただとは言わないよ。そうね、ボディガードをやってくれたら、その報酬として、私とデートするってのはどう? 木野くんにとっても悪くない条件だと思うんだけどな?」
「!? え、いやまあ……それは、そうだけど」
暁嗣にはこれ以上無いほどの魅力的な見返りだった。何人もの男子生徒が夢見た香椎美夜とデートができるのだ。しかし、やはり何かが違う。暁嗣はその場で即答ができず、2人の間に沈黙が訪れた。
「まあ、返事は今すぐじゃなくても大丈夫。確か前に連絡先交換したよね? それで教えてくれればいいから。とりあえず、今日は帰りましょう」
美夜は暁嗣に背中を向け歩き始めたが、すぐに立ち止まり振り向いた。
「流石に駅まで送っていってくれるよね?」
「あ、ああ、そうだね」
暁嗣は小走りで美夜の横に並ぶと、駅へ向かって歩き始めた。
暁嗣が美夜に初めて会ったのは、高校1年の時だ。初めて彼女に出会ったときの事を、暁嗣は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
高校生最初の日、美夜は暁嗣の左隣の窓際の席だった。暁嗣は自分の席に座ろうとしながら左の席に座る彼女にふと視線を送った瞬間、目を奪われた。彼女の存在がそうさせているのか、明らかに流れている空気が違っていて、この世にはこんな美少女が存在するのかと、大げさではなく、本気で思ったほどだ。
暁嗣がまず最初に視線が吸い寄せられたのは、艷やかな光沢を放つストレートの黒髪だ。背中まで伸びたそれは太陽の光で輝き、窓から入り込む風でわずかに揺れ、その黒髪が描く曲線は、ただ美しいの一言だった。
美夜は文庫本を読んでいた。ブックカバーをつけているため何の本かは分からなかったが、きっと自分には名前すら聞いたことのない難しい本を読んでいるに違いない。暁嗣は自分の中で断定した。
そして彼女はただ窓際の席で文庫本を読んでいるだけにも関わらず、その姿は熟練の芸術家による緻密な計算によって作られた1つの芸術品のようだった。もしカメラに心得がある人間がこの場に居合わせたら、間違いなく撮影会が始まっていたことだろう。
暁嗣が美夜に見とれて身動きを取ることができないでいる間も、美夜の横顔からでも分かる整った切れ目は脇目も振らず文庫本に書かれた活字を追っていた。ただそれだけで、美しかった。
暁嗣が美夜に完全に見とれてしまっていると、教室の一角で歓声が上がった。
「え、待って、高校でも同じクラスなの? マジで!?」
「そうなの! もうこれって運命だよね!」
中学が同じだったのだろう、女子生徒2人がお互いの手を取り、甲高い声で騒いでいた。
その声で集中力が切れてしまったのか美夜が視線を上げた瞬間、暁嗣は彼女と目が合ってしまった。
「あっ」
暁嗣の口からは間抜けな声が漏れ、
「?」
美夜は首をわずかに傾げ、暁嗣を見つめていた。
整った形の切れ目から放たれた視線が自分に向けられていることが暁嗣にはすぐに分かったが、といっても美夜は警戒するわけでもなく、蔑むわけでもなく、ただ暁嗣を『視ている』ようだった。
「いや、あ、あの……」
今の所警戒はしてなさそうだとは言っても、このままでは美夜からしてみれば、暁嗣は突っ立ってただ自分を見下ろしてる怪しい男だ。しかしそうだと分かってはいても、何か言おうとしては「いや、もっといい言葉があるのでは」と口に出すのを躊躇するのを繰り返し、数秒が経過していた。たかだか数秒ではあるが、暁嗣には永遠にも感じられる数秒間だった。
「あの、とっ、隣の席の木野と申します! どっ、どうぞよろしくおねがいします!」
このまま黙り込んでいても余計不審がられるだけだ。結局その瞬間に思いついた言葉をそのまま口に出し、自分にできる最大限の笑顔を浮かべた。その口から出た言葉は、現代の高校生が初対面の相手に使うにはいささか違和感のあるものだったが。
だが、それが功を奏したようで、美夜は一瞬クスリと笑うと、
「木野さんですね。よろしくお願いします。私、香椎美夜って言います。木野さんは下の名前はなんて言うんですか?」
整っているがどこか冷たさを感じる表情が一気に花咲くような笑みに変わった。その笑顔を見た瞬間、暁嗣は恋に落ちた。
翌日。
暁嗣が教室に入り自分の席に向かうと、すでに美夜は自分の席に着き昨日と同じように文庫本を読んでいた。
なるべく暁嗣が音を立てないようにゆっくり椅子を引いて席に着くと、美夜は文庫本を閉じ、暁嗣に話しかけてきた。
「木野くん、おはよう」
「!? ああ、おはよう……ございます」
唐突に美夜に挨拶され暁嗣は一瞬固まったものの、動揺しつつも挨拶を返した。
「ふふ、おはようございますって、私達同級生だよね? 昨日は確かに丁寧な言葉遣いだったけど、別にかしこまらなくても大丈夫だよ」
おかしそうに軽く握った拳を口元にやりながら笑う美夜に、暁嗣は照れつつも「ああ、そうだね。おはよう」と挨拶をやり直し、
「うん。おはよう」
美夜もそれに合わせて心奪われるような笑顔と共にやり直しの挨拶を返す。
神様ありがとう。典型的無神論者日本人の暁嗣だが、このときばかりは神の存在を信じずにはいられなかった。
さらにその翌日。
「木野くん、おはよう」
「あ、おはよう」
暁嗣は照れ隠しのため、美夜と視線を合わさずに席に着いたものの、美夜からの視線を感じていた。
「……何?」
暁嗣は美夜から向けられる視線にやりづらさを感じながら問いかけた。
「木野くんってもしかして何かスポーツやってるの? 髪型といい、いかにも何かやってそうなんだけど」
暁嗣は自分の髪の毛に手を伸ばした。確かにサイドや襟足を刈り上げた髪型で、いかにもスポーツをやっていそうな髪型だ。
「ああ、一応、ボクシングやってるよ」
「へえ、ボクシングやってるんだ」
美夜は興味ありげにわずかに目を見開いた。
「試合に出たことあるの?」
「ああ、小さな大会にだけどあるよ」
「すごいね。その時は何位だったの?」
美夜は暁嗣に向かって少し身を乗り出した。
「まあ、えっと、なんていうか……その時は優勝したよ」
「えっ、すごい。木野くんって強いんだね。カッコいい」
自慢気に言うのも格好悪いと思い暁嗣が控えめに答えると、美夜は目を輝かせ、暁嗣に尊敬の眼差しを向けた。
「といってもまあ、小さな大会だし、アマチュアだからね」
暁嗣は謙遜しつつも、まんざらでも無い様子でゆったりと椅子にもたれた。内心では美夜のような美少女にすごいと言われ、気分がよくてたまらなかった。暁嗣の人生においてボクシングをやっていてよかったと思ったのはこのときが一番だ。
さらに翌日。
「木野くん、連絡先交換しよう?」
朝の挨拶もそこそこに、美夜がスマートフォンを手にしながら言った。
「え……? ああ。いいよ」
平静を装いながらスマートフォンを取り出した暁嗣だったが、内心では朝からだというのにテンションが上がりまくっていた。
美夜の画面に表示されているQRコードを読み取り、連絡先に追加する。画面上に『香椎美夜』と表示されているのを目の当たりにした瞬間、自分が偉業を成し遂げたような感覚を抱かずにはいられなかった。
暁嗣が美夜と連絡先を交換したアプリで日常的にやり取りをしている女の子は、幼なじみの結佳しかいない。一応中学生の頃に話の流れで交換した同級生の女の子の連絡先もあるにはあるが、一度もメッセージを送ったことも、送られてきたこともなかった。
しかし美夜はこうして普段から話しかけてくれている。ひょっとしたら、という期待を抱かずにはいられなかった。
その後も席替えがされるまで、美夜は事あるごとに気さくに暁嗣に話しかけてくれた。おかげで暁嗣は気がつけば学校に行くのが楽しくてたまらなくなり、そして美夜への思いも強くなる一方だった。
だが、そんな楽しい日々は長くは続かなかった。美夜がそんな態度を取るのは暁嗣にだけではなく、誰に対してもそのように気さくに接していたため、その美貌も手伝ってか徐々に彼女の周りには人が集まるようになった。加えて席替えによって美夜の席は暁嗣から遠くなってしまい、その後暁嗣は美夜と話す機会はほとんどなくなってしまった。
更に連絡先を交換したものの、美夜から何かメッセージが送られてくることは特になかった。
「……そうか、お前もダメだったか」
新たなクラスメイトたちとも打ち解け、ぎこちなさがすっかり消えた1年の夏。暁嗣はクラスメイト達と昨日美夜に告白してフラれた男子生徒を慰めていた。
誰にでも心地よい距離感で親しげに接し、かつとてつもない美少女という完璧な存在が暁嗣のクラスにいる噂は、あっという間に学校中に広がった。暁嗣が手をこまねいている間にも毎週のように誰かが美夜に告白し、玉砕していっていた。
「何秒か考えるような素振り見せてくれるから、ちょっと可能性あるのかなって一瞬思ったんだけどね……」
昨日美夜に告白してフラれた男子生徒、角田は乾いた笑みを浮かべた。
「いや、それは香椎さんの優しさだろ。即答したら傷つくだろ?」
暁嗣の隣にいた男子生徒、堀井が角田に容赦のないツッコミを入れた。彼も以前美夜に告白して振られている。
「やっぱりそうか。まあ俺みたいな勉強もできるわけでもない、スポーツができるわけでもないような平凡な男にOKしてくれるなら、とっくの昔に誰かと付き合ってるよなぁ」
角田はがっくりと項垂れた。その直後、
「でもさ、聞いてくれよ!」
魂が抜けたように項垂れていた角田はすかさず頭を起こし、その目には強すぎるほどの目力があった。
「今日の朝ばったり香椎さんに出くわしちゃったんだよ。ああー気まずいなー! って思ってたら、香椎さんからニッコリ笑って『おはよう』って話しかけてくれたんだよ。いくらなんでもいい子過ぎないか……?」
「……」
暁嗣を除く周りの男子生徒全員が無言で頷いた。おそらく他の男子生徒達も似たような経験がきっとあるのだろう。
「……それにしても、香椎さんは無理だとしても、彼女欲しいよなぁ。暁嗣は結佳ちゃんがいるからいいよな」
「いやいや、結佳はただの幼なじみだからさ」
唐突に自分に話題を振られ、暁嗣は手を振って否定した。
「みなまで言うな。分かってるぞ。『ただの幼なじみだから』と言っておきながら、傍から見ればどっからどうみても恋人みたいな事してるんだろ? 当たり前のように休みには2人で遊びに行ったり、幼い頃からそうだったとかいう理由で日常的に手を繋いでたりするんだろ? それもう実質恋人みたいなものだから! ……全く、羨ましいぜ畜生!」
テンション高く体を滅茶苦茶に振り回す角田に暁嗣は面倒くさくなり、曖昧に笑って誤魔化した。確かに幼い頃は手を繋いでいた記憶はあるが、流石に今は無い。休みの日に2人で遊びに行くことはよくあるのだが。
それにしても、暁嗣は不思議で仕方なかった。なぜ、OKをもらえる可能性は限りなく低いというのに告白しに行けるのだろう。日に日に増えていく玉砕者達を見て、きっと自分が告白しても振られるだけだろう。と思わないのだろうか。
告白。それは相手との今までの関係を破壊する行為だ。もし相手から断られてしまったら、どんなにそれまでの関係を続けようとしても、相手とぎくしゃくしてしまうことは避けられない。もう会うことがない相手ならまだしも、今後関わる可能性があるような相手に限りなくリターンの低い行動を取ってしまうのが暁嗣には信じられなかった。
それにも関わらず、彼らはリスクを取りに行く。
しかし自分は最初からどうせ無理だと決めつけてしまい行動に移すことができず、そんな自分と彼らを比較してしまうのだ。
当然だが暁嗣自身も今のままでいいとは思っていない。むしろ、ボクシングの時のように恐れずに突っ込めばいいとすら思っていた。
だが、ボクシングとはわけが違うのだ。相手に殴られたた痛みはいずれなくなるが、一度変わってしまった関係は容易に変えることができない。そう思うとどうしても第一歩を踏み出すことができず、ボクシングをしている時は打って変わってヘタれてしまう自分に嫌悪感は強くなっていく一方だった。
もちろんそんな自分を少しでも好きになれるよう、困っている人を見かけると極力助けるようにしているが、あまり効果を感じることはできなかった。
さらに、いつ頃からか彼女には黒い噂が囁かれるようになった。繁華街で彼女に似た女の子がおっさんと歩いている所を見かけた。というものだ。しかしそれは彼女に振られた男が腹いせに流した根も葉もない噂だと暁嗣を含めたほとんどの男子生徒は考え、その噂を真に受けるものは全くいなかった。
暁嗣が美夜を繁華街で助けた翌日。
「ふぁ……眠い」
大きなあくびをしながら暁嗣は学校へ向かっていた。昨晩は繁華街での出来事に加えて美夜からの申し出と、考えることがありすぎてなかなか寝付くことができず、寝不足だ。頭が重い。
そんな暁嗣の横では結佳が朝から不機嫌さを隠そうともせずに歩いている。表情はツンとしているが、整った形の大きな目と、緩やかなウェーブのかかった丹念にセットされた髪の毛、そして小柄な体が相まって、どこか愛嬌がある。
家がすぐ隣のため、暁嗣と結佳は3日に1日くらいの割合で一緒に登校する。基本的には暁嗣が家を出る時間に結佳が木野家に迎えにやってくる。そうでない場合は暁嗣は1人で登校する。いつの間にか2人の間ではそのような不文律が生まれていた。
それにしても、昨日の事があるので仕方ないとはいえ、怒っている相手とわざわざ登校したがる理由が暁嗣には分からなかった。
「なあ、結佳……」
2人の間に流れる気まずい空気に耐えきれず暁嗣が結佳に話しかけると、結佳は一瞬暁嗣を見たもののすぐに目をそらし、歩く速度を早め暁嗣から距離を取った。
自分が撒いた種とはいえ、しばらくは許してもらえなさそうだ。暁嗣はため息をつくと歩く速度を早め結佳に追いついた。暁嗣が追いつくと結佳は再び歩く速度を上げ暁嗣から距離を取り、暁嗣も速歩きで結佳に追いつく。
それを何度か繰り返し、そのまま2人は一言も言葉を交わすこと無く校門を通り抜けた。
暁嗣と結佳が教室に入ると、半分ほどの生徒がすでに来ており、それぞれが集まり雑談に花を咲かせていた。美夜もすでに来ていたため、彼女が視界に入った瞬間、暁嗣の心臓が一瞬強く鼓動した。昨日の事があり、どうしても美夜の事を意識せずにはいられなかった。
それでも平静を装い、クラスメイト達に挨拶をしながら自分の席に向かっていく。その途中、美夜が暁嗣に顔を向けると、ニヤリと意味ありげに笑った。
それはほんの一瞬だったが、思い込みでもなんでも無く、間違いなく自分に向けられたものだと暁嗣は確信した。
暁嗣は席に着くとちらりと美夜のいるグループに視線を向けた。今の暁嗣の席は一番後ろで一番奥の席だ。対して美夜のいるグループは一番前の一番出口に近い席付近に陣取っている。教室内で一番距離ができる位置に2人は今いるのだ。
昨日はたまたまで本来はこれくらい遠い相手なんだよな、と暁嗣は柄にもないような事を考えてしまう。
暁嗣は未だに美夜の申し出を受けるべきか決めかねていた。確かに彼女とデートに行けるのは魅力的な報酬だ。しかし付き合っているわけでも無く、あの言い方だと将来付き合える可能性があるわけでもなさそうだ。それなのにデートに行くことの意味に疑問を感じずにはいられなかった。
確かに彼女とのデートは楽しいかもしれない。だが、後になって虚しくなるのではないだろうか。そう思うと承諾することに二の足を踏んでしまう。かといって断るのというのも彼女との接点が無くなってしまうことを意味する。結果どちらを選ぶこともできず、宙ぶらりんになってしまっていた。
しかし、いつまでも先延ばしにしているわけにもいかない。席に座ったまま腕を組み背もたれに背中を預けて難しい顔をしていると、急に教室内がざわつき始めた。
何事かと暁嗣が顔を起こすと、クラスメイト全員が同じ方向に視線を向けていた。その視線の先、教室後方の出口には線の細い男子生徒が立っていた。中性的な顔立ちで顔は細く、恐ろしく美形だ。
暁嗣はその美形の男子生徒を知っていた。3年の元生徒会長、品川舞人だ。暁嗣の通う学校では9月に3年が引退するので『元』なのだ。
何度も芸能スカウトされたと噂される舞人は、暁嗣の通う学校で一番の美男子だと言われている。
舞人は誰かを探すように教室を見渡すと、教室の前方に向かって歩き始めた。教室中の女子生徒は結佳と美夜を除いた全員がうっとりとした表情に変わっていた。ただ歩いているだけにも関わらず、彼の周りだけ淡い光が漂っているように見える。
女子生徒だけではなく男子生徒も何事かと舞人を視線で追っていた。クラス中の視線を集めているにも関わらず舞人はまるで気にした様子もなく歩き続け、美夜の前で立ち止まった。
「香椎美夜さん。少し、お話いいですか?」
舞人は目を細め甘い笑顔を美夜に向けた。物腰は柔らかかったものの、自分に絶対的な自信を持っているのが立ち居振る舞いから見て取れる。
教室内にいた結佳と美夜以外の生徒全員が固唾をのみ、事の成り行きを見守っていた。
「はい。じゃあ、今からでいいですか? まだHRまで10分くらいありますし」
美夜もこれまたクラス内の様子がいつもと違うことに気づいているのか気づいていないのか、普段と同じ調子で席から立ち上がった。
「大丈夫ですよ」
舞人は男でもドキッとしてしまいそうな笑みを返すと、美夜を伴って教室を出ていった。
美夜が教室から出てくと、時が止まったかのように静まり返っていた教室内は再び騒がしくなりはじめた。
「やっぱり品川先輩も香椎さんの事狙ってたんだ」
「それにしても堂々と教室に乗り込んでくるって、いくら何でもイケメン過ぎるだろ……」
「難攻不落の香椎さんもついに落ちてしまうのか?」
「いやだぁああああああ! やめてくれぇ! 聞きたくない!」
そんな沸き立つクラスメイト達を暁嗣は冷ややかな目で見ていた。
何故そんなに騒いでいるのだろう。何がそんなに面白いのだろう。というより自分は何故こんなにも冷めているのだろう。香椎はおそらく今回も告白を断るだろうと分かっているからだろうか。いや、分かっていてもきっと今みたいな冷めていた反応をしていた気がする。というより、自分はなぜイライラしているのだろうか。
暁嗣は自分の中のよく分からない感情に戸惑いつつも、この騒ぎが1秒でも早く終わることを願った。
放課後。暁嗣は佐宗ボクシングジムでトレーニングを受けていた。あの一件以来一度も口をきいてくれない結佳も、当たり前のようにリングの端で暁嗣と佐宗を見守っている。
ただしその表情は相変わらず不機嫌そうだ。こんなときでも結佳はついてくるのが暁嗣には不思議で仕方がなかった。
「よし、今日はここまでだ」
ボクシングタイマーが3分経ったことを告げるアラームを鳴らした直後、佐宗はそう一言言うと暁嗣に背中を向け、リングから降りた。そして結佳も2人に背を向け、ジムから出ていった。
「え、もう終わりですか?」
いつもならばまだトレーニングが続く時間だ。暁嗣はロープに駆け寄ると、リング外にいる佐宗の背中に向かって言った。
「今日はいまいち集中できてないみたいだからな。パンチに迷いがある。まあ、お前くらいの年頃なら悩みの一つや二つあるのは当然だろうが、こういう時に無理しても怪我するだけだからな」
佐宗は仏頂面で手にはめたミットを外した。
「……」
暁嗣は何も言えなかった。確かに、美夜からの申し出を受けるか受けないかをつい考えてしまっていたが、それでも、トレーニング中は意識して頭から追い出そうとしていた。
それなのにも関わらず、佐宗は自分が考え事をしてしまっている事を見抜いてしまったのだ。暁嗣は佐宗の鋭さに改めて畏怖の念を抱いた。
「……それより暁嗣、結佳なんだが、喧嘩でもしたのか?」
佐宗は鋭く光る目で暁嗣を睨みつけた。もしかしたら、佐宗は睨みつけているのではなく、ただ視線を向けただけかもしれない。ただ、暁嗣にはどう見ても睨みつけられているようにしか見えなかった。
「いや、その……」
暁嗣は答えに窮し、固まった。下手なことは言えない。佐宗は手を上げるようなことは決してしないが、怒ると見た目通りとてつもなく怖い。大の大人でも泣きそうになってしまうほどだ。
「どうなんだ?」
「えっ、いや、違いますよ!」
「じゃあ、なんなんだ」
「えっと……」
暁嗣は頭を必死に働かせ、なんと答えるべきか考えていた。結佳をほったらかして他の女の子を追いかけたからです。なんて言えるはずがない。
「ゲ、ゲームで勝負したんですけど、ギリギリ結佳が負けちゃって……よっぽど悔しかったんだと思います」
本当は結佳が負けたどころか、途中で自分が逃げたのだが。しかしゲームが理由なら深く追求はしてこないだろう。暁嗣が我ながら素晴らしい嘘だなと思っていると、
「何、ゲームだと?」
佐宗は一段と低い声で暁嗣に聞き返した。やばい、ミスったか。暁嗣の背筋を寒気が走る。
「そうか……まあ、結佳は負けず嫌いなところがあるからな」
佐宗は納得したのか、それ以上追求しようとはせず、暁嗣に背中を向け去っていった。
「はぁ……」
暁嗣は肩を落として安堵のため息をついた。今日は早くトレーニングを切り上げたというのに、全身が疲労感に包まれていた。
その日の夜。
暁嗣は自分の部屋でベッドに腰を下ろし、スマートフォンを手にしたまま固まっていた。
画面にはメッセージングアプリが表示されており、メッセージはすでに入力されている。後は送信ボタンを押すだけだ。
何度もメッセージを見返し、誤字がないこと、冷たすぎず馴れ馴れしすぎない無難な文章になっている事を確認していたが、その状態ですでに10分が経過しようとしていた。どうしても次の一歩を踏み出すことができないのだ。
しかしいつまでもこうしているわけにも行かない。暁嗣は意を決したように瞼を閉じてため息をつくと、送信ボタンをタップした。送り先は美夜だ。以前席が隣になった時に連絡先を交換したはいいものの、一度もメッセージを送ったことはないし、ましてや向こうから送られてきたこともない。まさかこんな機会で彼女にメッセージを送ることになるとは、暁嗣も思ってもみなかった。
悩んだ末、結局暁嗣は彼女の提案を受け入れることにした。正直言って断ることも考えた。こんな形で彼女とデートをすることになっても、そこには先がない。きっと彼女とのデートは楽しいだろうが、どこまで行ってもある種の依頼人と請負人の関係のままだ。
しかし、自分が断ったことで彼女は他の誰かに頼む可能性もゼロではない。それは嫌だったし、この前は自分が助けに入ることで難を逃れることができたが、次に似たようなことがあったら今度は彼女はホテルに連れ込まれてしまうかもしれない。
それによく考えてみれば本当に先が無いかなんて分からない。少なくとも自分は告白して玉砕したたくさんの男子たちより先を行っている。頑張り次第では、本当の恋人になってくれる可能性もゼロではない。
さらに、品川舞人のようなまともに戦ったら到底勝ち目の無いような男子生徒も美夜を狙っていたという事実が暁嗣を後押しした。結局美夜は断ったと人づてに聞いたが、彼女はそれほどの女の子だということなのだ。正攻法では、彼女と付き合うなど絶対に無理だ。
暁嗣がメッセージを送ってからすぐに美夜からメッセージが送られて来た。暁嗣はこの場ですぐ見るか、時間を置いて見るか悩んだものの、気になってたまらず即座に内容を確認した。
『ありがとう。それでは、また連絡します』
とてつもなく無味乾燥なメッセージだった。それを見た瞬間、暁嗣は頭を前に倒しながら大きくため息をついた。安心したような、何かとんでもないことを引き受けてしまったような、そんな気分だった。
暁嗣はスマートフォンを充電器に繋ぐと、見知らぬ土地へ出かける前日の夜のような、不安と期待に混じった感覚を胸に眠りに落ちた。
机の端に置いてあったスマートフォンが震え、勉強中だった美夜はノートから顔を上げると、背もたれに背を預け、天井を見上げた。
美夜の部屋は意図的に照明が薄暗くされ、物もあまりなかった。数少ない調度品も白を基調としたものばかりで良く言えば清潔感があるが、悪く言えば殺風景で、寒々しかった。
美夜は自室にいるためか、お世辞にもおしゃれとは言えない微妙なデザインのメガネに、自慢の黒髪をヘアゴムで束ねるというラフな格好をしている。それでも彼女の美貌のおかげでそのラフさも程よいアクセントになり、グラビア写真集の1ページにありそうな雰囲気を醸し出していた。
スマートフォンを手に取り画面を確認すると、暁嗣からのメッセージだった。
『こんばんは。ボディガード、やります』
美夜は口端を歪ませながらメッセージングアプリを開くと、その場でメッセージを打ち始めた。
てっきりこのまま返信が無く自然消滅かと思っていたが、きっと今日品川舞人が自分に告白してきたのが暁嗣を後押ししたのだろう、と美夜は思った。
それにしても、この前ホテルに連れ込まれそうになってしまったときは本当に危なかった。今までは似たような事があっても、次回以降にチャンスがあるかも? という期待を持たせて何とか上手く誤魔化していた。
当然だが知らない男と会う以上、この前の太田のような男と出会ってしまう可能性があることは頭では分かっていたが、思いの外出会う男たちは優しく、食事をしながら話をすることで満足してしまう場合がほとんどな上、まれにあっても美夜が断ると、それ以上強引な真似をされることはなかった。
しかしそれはおそらく運が良かっただけなのだろう。それが油断を生み、この前のようになってしまったのだ。結果無事だったとはいえ、あのときの事を思い出すと怖くなってくる。
だがとりあえずは、これで今日みたいなことがあっても安心だ。やっぱり男ってちょろい。
美夜はスマートフォンを機内モードにしてスリープモードにすると勉強に戻った。
もっと勉強して、もっとお金を稼がなくては。
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