飛び降り自殺をしようとしていたクラスメイトを助けるお話
遥月
第1話
「————スペアの意味、新庄君は知ってる?」
下校時間などとうに過ぎた頃。
建物から漏れ出る人工の光が彩る夜の街を背景に、薄れ消えそうな斜陽が辛うじて見える午後7時過ぎの学校の屋上で、俺は一人の少女と話をしていた。
投げ掛けられる声音は平坦で、普段となんら変わらない。ただ、会話をするその場所だけが、尋常とは程遠かった。ただ、それだけ。
「……代用品?」
「そう。代用品。言ってしまえば私は、代用品なんだ。どこまで行っても、十六年前に死んだ
少しだけ、漣の声が震える。
屋上に設られた柵の向こう側で、飛び降り自殺を試みようとしていた彼女は、心なし泣いているようにも見えた。
偶然、課題の提出に随分と時間を取られ、漸く終わったと思って下校しようとする直前に見えた人影を追ってみれば、一人の女子生徒が飛び降り自殺を試みようとしていた。
だから、慌てて止めようと声を上げ、そして今に至る。
けれど、彼女の言葉の意味が全く分からなくて、困惑する。
ただでさえこの状況も満足に理解出来ていないのに、その上、己が十六年前に死んだ漣春香の代用品発言。
俺の目の前にいる彼女こそが、漣春香だろうに、彼女は一体何を言ってるのだろうか。
「私、里子なの。元の親は碌でなしだったみたいで、十六年前に今の両親に引き取られたらしいんだけど……漣春香という名前は、今の両親の本当の子供の名前。元は、十六年前に死んだ人の名前なんだ」
俺の知る漣春香は、容姿端麗、学業優秀、品行方正。そんな言葉を悉く体現した完璧超人。
勝手ながら、そんなイメージを抱いていた。
誰からも好かれて、誰からも頼られて。
平々凡々と生きている俺なんかとは別の世界の住人なんだと思ってた。
それはこれまでも、これからも。
だから、こうして漣が自殺をしようとする現場に居合わせる事になるなど、夢にも思わなかった。
「でも、私は引き取って貰った側だから。その事実を知っても、恩返しだって思うようにしてた。両親が喜ぶように、漣春香を演じ続けてきた。誰からも好かれる漣春香をね」
「自殺をする理由は、だからなのか」
「そ。もう、疲れたんだ。漣春香として生きる事に。自殺しようって決めたのは……一昨日くらいだったかな。私の生みの親が家を訪ねてきてね。私を返せって言い出して、凄い喧嘩になってたの。それが決定的だったかなあ」
疲れ切った様子で、漣は言葉を紡ぐ。
死人を思わせるような、生気の削がれた声音。
思わず顔を歪めてしまう程に、それはどうしようもなく痛々しいものであった。
「これでもさ、顔とか、スタイルとか? それなりに自信があってね。読者モデルって言うのかな? あーいうのにも出てたりしてたんだ」
そこらへんの女子が漣と同じ言葉を言ったならば、何言ってんだコイツ、とか思っただろうけれど、漣が言うとそんな感想すら抱かなかった。
寧ろ、お前なら当然だろうなと思う自分すらいる。そのくらい、漣は綺麗な女の子だった。
「でも、それを見て、生みの親が嗅ぎ付けてきたんだ。金になるから返せ。それが嫌なら金を寄越せ、ってね。元から碌でなしと聞いてたし、別に何の期待もしてなかったけど……あれは辛かったなぁ。本当に、しんどかった。だって、生みの親ですら私を私として見てくれてないんだもん」
————死にたくなるのも無理ないでしょ。
風に攫われるほど小さな声量で、同意を求められる。だけど、ここで頷いてしまえば漣を止める事は叶わなくなる。
だから、どれだけ感情を揺さぶられようとも、正論だろうとも、俺は首を横に振る事以外、選択肢は残されていなかった。
「生きてたって、苦しいだけだ。これが、永遠に続いてくだけだ。どうせ人はいつか死ぬのに、なんでわざわざたっぷり苦しんでから死ななきゃいけないの? ……そう思ったら、これが一番楽だって思えてね」
心身共に、もう限界であるのだと。
「ねえ、新庄君。私、間違ってるかな?」
自殺を止めようとして。
こんな時間帯に人がいると思わなかったと言われ、少しだけお話をしないかと言われ、そして俺は、諭すようなその言葉に、一層顔を歪める羽目になっていた。
でも、何かを言わなければ漣が消えてしまう気がして。取り返しのつかない事になってしまう気がして。
「間、違ってる。漣がそう考える事はきっと間違ってないと思うけど、でも、間違ってると思う」
頭の中はパニックだった。
自分でも何を言ってるのか分からない。
ただ、漣の気持ちが理解出来る事と、どうにかして否定しなきゃという気持ちが混在。
そして、矛盾の言葉が口から溢れる。
「……優しいんだね、新庄君は」
生暖かく感じる返事だった。
きっと、俺の考えは漣にはモロバレだったのだろう。
「でも、多分私が求めてるものは、この先頑張って生きてても多分手に入らないと思うんだ」
だから、ここで自殺してしまうのだと。
「どれだけ我慢しても、苦しんでも、きっと私は得られない。だって、私はただ、皆と同じが良かっただけだったから」
その一言は、鈍器で思い切り、頭を打ち付けられたかのような衝撃を俺にもたらした。
「普通に愛されて、普通に生きて、普通に……、普通、に」
次第に声が萎んでいく。
「……だから、ね。無理なんだよ。私には、無理なんだ。こうするしか、無いんだよ」
……俺は、勘違いをしていた。
漣春香って人間は、もっと完璧で、近寄り難くて、なんでも出来て、キラキラとした人生を歩んでいく選ばれた人間なんだと思っていた。
でも、今の俺の目の前にいる少女は、とてもじゃないがそんな人間には見えない。
それどころか、普通に苦しんで、普通に悩んで、普通に泣く。そんな、何処にでもいるありふれた少女だった。
そこで、俺自身も漣春香を見ようとしていなかった一人なのだと気付かされる。
「……悪い、漣」
その事実が、どうしようもなく申し訳なくて。
今、漣春香が苦しみ、自殺をしようとしている理由の一端に、俺もいるのだと気付かされては、謝らずにはいられなかった。
「なんで新庄君が謝るの?」
「俺も、漣春香を自分とは違う完璧な優等生としか見てなかった一人だったから」
「新庄君達には、そう見えるように行動してたんだもん。寧ろ、そう見えてくれてなかった方が問題だったよ」
そして、漣春香は俺に背を向けた。
両手で掴んでいた安全柵から、片手が離れる。
「漣!!」
自殺はよくないというありきたりな言葉では、漣の足は止められない。
それを分かった上で、俺は叫ぶ。
もう、目すら合わせてくれず、次の瞬間には飛び降りる事の出来る体勢を整える漣春香に俺は言葉を投げ掛ける。
「お前の考えは、正しいんだと思う。でも、目一杯苦しむだけ苦しんで、何一つ報われずに死ぬ必要はないだろ」
「……でも、これから先を生きていても苦しい事は確実にやって来るのに、報われるかどうかは分からない。もしかすると、この先ずっと報われないまま苦しい思いだけする事になるかもしれないんだよ?」
だったら今、死んだ方がずっとマシでしょ?
そう口にされた事で、漣の決意は強固なものであると再確認させられる。
「……ッ、だっ、たら、俺がその考えを覆してやる」
勢いに任せて、言葉を並べる。
時間は残されていない。
だから、出来る限り、漣の足を止められるように。
「覆す、から……だから、なぁ漣。俺に時間をくれよ」
「…………」
漣は、依然として俺に背を向けたままで返事はない。
「一週間でもいいから、俺に時間をくれ。お前、塾だったり、仕事だったり、学校のボランティアだったり、そんな事ばっかしてるから、知らないんだよ」
同じクラスメイト。
席も、それなりに近い。
何より漣は俺にとって有名人だった。
だから、彼女の存在というものは嫌でも目についた。
偶に、漣が塾に行くところを見かけて。
学校では、優等生らしくボランティアや手伝いに勤しんで、そしてきっと休日も読者モデルとかいう仕事をしていたんだろう。
その事は、学校に通う中で時折、彼女の姿を見掛けていたからよく知ってる。
というより、クラスの連中もこの日、漣を見ただなんだと話題にするから嫌でも覚えてる。
「死ぬにはまだ勿体ないって思えるくらい、この世界には面白いことが転がってる。漣がただ知らないだけだ。だから、このまま死んだら後悔する事になるぞ」
こんな時、もっと引き留める事に使える言葉が浮かんでくれれば良かったのに、生憎と俺の頭の出来はそこまで良くない。
でも、良くないからこそ、こうして居残りをする羽目となり、漣を止められる唯一の存在にこうしてなれているのだから案外、運は悪くなかったのかもしれない。
「何より、少なくとも俺は、この瞬間から、漣春香を漣春香として見る気は微塵もない」
優等生としての。
みんなの憧れる漣春香として彼女を見る気はない。というより、もう見れないだろう。
俺達とは違うから。
そんな理由で、距離を取る事はしない。
何なら、俺に出来る事があるならこれから助けるから————。
そう、言おうとしたところで
「変な人」
小さく笑われた。
「新庄君って、変な人だね」
同じ言葉を繰り返される。
「私達は、恋人でも、家族でも、付き合いの長い友人でもないのに。これまで学校で話した回数だって、ほんの少しなのに」
「そうだな」
「なのに、こうして必死に止めようとしてる。もしかして、私に惚れてた?」
何故か、少しだけ嬉しそうに漣はこんな状態にもかかわらず揶揄ってくる。
「……かもな」
「それは嘘」
気恥ずかしくはあったけど、それで漣が飛び降りる事をやめてくれるなら。
そんな事を思って言葉を返したのに、即座に嘘であると断じられてしまう。
「新庄君が私のこと、客寄せパンダくらいの感覚で見てた事は知ってるよ。そこに、恋愛感情が一切なかった事も」
……分かってて聞きやがったな、こいつ。
「でも、優しい嘘だから今回は許したげる」
そして、先程の嘘が漣を止める為のものと見透かした上で、また笑う。
「ねえ、新庄君」
「……なに」
「私ってさ、新庄君の目から見て、そんなに哀れだったかな? 可哀想だったかな? 同情したくなるような人だったかな?」
返事に困る問い掛けだった。
飛び降りようとしている己は、俺の目に哀れに映ったかと。
哀れで、可哀想で、同情すべき対象故の、その発言なのかと。
……でも、変に取り繕ってもまたバレる。
そんな予感があったからか、後は野となれ山となれ、などと思いながら俺は本心を口にする。
「ばかだと思った」
「ばか?」
「模試で常に一位を取る漣春香が、常に下の方にいる俺の目に、初めてばかに映った。たぶん、それが理由だと思う」
たぶんそれが、漣の自殺をこうして俺が止めようとしている理由の一つであると思った。
学力では天の地の差があるのに、それでも俺の目に漣がばかに映った。
「そんなに頭が良くて、俺にないものをお前は沢山持ってる。人望だってある。教師から常に呆れられてる俺とは違って教師からの信頼もある」
卑下し過ぎな気もするが、俺と漣との間にはそのくらいの差がある。
寧ろ、これでも控えめな気すらするあたり、やはり漣はハイスペック過ぎる。
「なのに、誰一人にも頼ろうとしなくて、最後まで優等生としての漣春香として終わらせようとしてるお前が、ばかだと思って……だったら、なら、俺が手を差し伸べたいと思った。意地っ張りな漣春香を、俺が助けたいと思った」
きっと、屋上にやって来た当初であれば、こんな感情を抱いてはいなかった。
漣の話を聞いたから、そう思うようになった。
「……あーあ。最後だから全部ぶちまけちゃえって思って、ちょっと話し過ぎちゃったかな」
後悔しているような、でもそれでいてどこか嬉しそうな。
うまく判別のつかない声音。
「でもね、無理なんだよ」
「何が無理なんだよ」
「私は漣春香だから、完璧でいなくちゃいけない。両親の理想でいなくちゃいけない。だから、頼る頼らないの選択肢はないの。私は、誰にも頼れないんだよ」
どれだけ頭が良かろうとも。
どれだけ己にとっての最善の選択を模索しようとも、漣に許されている選択肢は、ひとつだけ。
「それに、好き勝手に生きようにも、そうした瞬間に、誰かから拒絶されるのが私は怖いの」
家族や、周囲の人間に拒絶されるのが怖いと。
漣春香自身、漣春香としてではなく、自分自身を見て欲しいと思いつつも、見てくれた瞬間に全て瓦解し、拒絶されるのが怖いのだと彼女は言う。
十六年もの間、彼女が貫いてきた生き方を今更になって変える事は、恐らく難しい。
どうせ死ぬならと割り切ってどうにかなる程、簡単な問題ではなかったのだと思い知らされる。
「分かってくれた? だから、私は————」
「でもそれは、ついさっきまでの話だろ」
頼る人間がいなかったのは。
拒絶に怯えて、一人で抱えるしか出来なかったのは、ついさっきまでの話である筈だ。
「俺は、お前が話してくれたから、他の人よりも漣の事を知ってる。聞いたからといって拒絶をする気はないし、ましてや言いふらす気だってない」
選ばれた人間。
勝手にそう思っていた漣春香も、俺より少しだけ容姿がよくて、頭が良い。
それだけの何も変わらない人間だ。
「漣の力になれるかは分からないけど、頼る人がいないんなら、俺を頼れよ。もう漣が自分でゲロったんだから、俺には隠しても意味ないだろ」
教師が学校を後にしようとする直前まで、課題の提出に時間を掛けていた俺が力になれる気は正直なところ、あまりない。
だから、
「勉強とか、そういったもので力になれる気はしないけど、悩みくらいなら聞くから。俺でよければ、漣の力になるから」
だから。だから。
「頼る人がいないんなら、俺を頼れよ。それじゃダメなのかよ、漣」
「……。そういう、事、今言うの、やめてくれないかなあ。なんか……その、慣れないからさ、泣きたくなるじゃん」
「いいんじゃねえの。誰もいない今ならさ。普段だったら、漣を泣かせたって言われて俺が袋叩きに合うだろうから勘弁して欲しいけど」
「あ、ははっ、たしかに、そうかも」
鼻を啜りながら、漣が泣き笑う。
「話なら、気が済むまでまだまだちゃんと聞くから。だから、危ないからひとまずこっちに来いよ」
せめて、安全柵のところまでは来て欲しくて。
そういうと、考えを改めてくれたのか。
安全柵をくぐり、安全な場所まで移動をしてくれる。
次いで、ぽすんと腰を下ろす。
そして、十数秒ほどの沈黙を経たのち、漣が口を開いた。
「……あーあ、私ってば、意気地なしだなあ」
後一歩。
本当に、すぐそこまで来てた筈なのに。
そんな呟きが、聞こえてくる。
「……縁起でもない事を言うなよ」
一応、漣はそう言うって事は止められたと思って良いのだろうか。
「そう、なんだけどね。死ぬって決めた筈なのに、こうしてまだ生きてる。だから、そう思わずにはいられなくて」
力なく笑う漣の横顔は、夜の闇の中にあって尚、どうしようもなく儚く見えて。
俺は制服のポケットに手を突っ込んで、スマートフォンを漣に差し出すように取り出す。
「……? どしたの?」
「連絡先。漣の連絡先を教えてくれ。何かあれば電話してくれればいいから。話なら、電話ででもちゃんと聞くから」
目を離したら、また自殺するんじゃないのか。
そんな予感が頭の中を過ったせいか。
女子に連絡先を聞く事に対する気恥ずかしさなど置いてきぼりに、そう尋ねる事が出来ていた。
その対応に、一瞬ばかり漣が硬直していたものの、彼女もポケットに収めていたスマートフォンを取り出し、画面を開く。
そして十数秒ほどのやり取りを経て、漣の連絡先が追加される。
「……ありがとね」
「礼を言うなら、もうあんな真似はしないでくれ。冗談抜きで、心臓が飛び出るかと思った」
そうは言ってみたものの、漣の口から「もうしない」の言葉は出てこなくて。
はぁ、と溜息を吐きたくなった。
そしてその日は、不安を感じながらも、もう学校が閉まるからという事で校門の前まで一緒に歩き、それで別れる事になった。
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