第3話
†
「へええ。祭りなんてやってたんだ」
電車で数駅ほど移動した先。
大通りに展開された出店の行列を前に、側で漣が感嘆の声を上げた。
「でも、よく今日、祭りをやってるって知ってたね」
「昔はよく来てたんだ。だから、そういえばと思ってな」
デートといえば、映画とか、水族館とか。
そんな事を思い浮かべてしまうが、生憎、そんなものを楽しむ時間はなかった。
かと言ってショッピングもピンと来ない。
そう思ったところで、偶然思い浮かんだのがこの神城神社と呼ばれる神社の側で定期的に行われている中規模の祭りだった。
「祭りは初めて?」
「流石にそのくらいは経験あるよ。でも、学校帰りに祭りは初めて」
それもそうかと、顔を見合わせて笑い合う。
まだ十七時過ぎという事もあってか。
準備中の屋台も多かったが、そんな事は関係ないと言わんばかりに漣は軽快な足取りで先を行く。
そして、漣の足はとある屋台の前でぴたりと止まる。
暖簾には『かき氷』の三文字。
また、アイスかよ。と思いながらも、口パクで「食べよ」と言ってくる漣の言葉に、俺は少しだけ呆れながらも頷いた。
かき氷の後は、わたあめ。そして、射的に金魚掬いなどと俺は、漣と一緒に昔に戻ったかのように時間も忘れて祭りを楽しむ事早一時間。
十八時を既に回っており、流石にそろそろ帰らなくちゃなと思ったあたりで空から弾けるような火薬音と共に色鮮やかな花火が上がった。
「あー、楽しかった!!」
んーっ、と伸びをしながら漣が言う。
見せる笑顔は、到底、飛び降り自殺をしようとした人には見えなかった。
見えなかったけれど、漣は言っていた。
己が、漣春香という完璧な人間を演じているのだと。だから、笑顔を見せて楽しかったと言ってくれてるのに一抹の不安を感じずにはいられなくて。
「楽しかったんなら、そりゃ良かったよ」
「……その顔。もしかして、新庄君、色々と疑ってる?」
昨日のように、また、見透かされる。
「楽しかったのは本当だよ。一切取り繕ってない。誰かとこうして一緒に遊ぶ事も、憧れてはいたけど、こんなに楽しいものとは思っても見なかった。ありがとうね、新庄君」
「なぁ、漣」
「どうかした?」
「それじゃあ、次、遊ぶ日も決めようぜ。んで、その次も。で、その次あたりにぜひとも、俺の勉強を手伝ってくれ」
どうにかして漣との繋がりを作っておかなくては、胸の中で渦巻く不安がどうしても拭えなくて、気づいた時には俺はそんな事を口走っていた。
漣に自殺をして欲しくない。
それは本当だ。
クラスメイトでもあるし、こうして奇縁ではあったが、それなりに話す仲にもなれた。
これからも、こうして遊べたらいいとも思う。
偏見で、俺達とは違うとか思っていたが、なんて事はない。アイスが好きで、楽しい事に飢えていて、はしゃぎたいただの女の子だった。
そんでもって、浮かべる無邪気な笑顔が馬鹿みたいに可愛い女の子。
漣は俺達と全く変わらない。
本当に、皆と同じような存在だ。
「お。勉強かあ。いいね。私も新庄君には恩を返さなくちゃって思ってたところなんだ」
全国模試一位の秀才である。
下手に家庭教師や塾に行くよりも間違いなく漣に教えて貰った方がいい。
だから、そこは素直にラッキーと思う。
「……ただ、鬱陶しくなったら、その時は遠慮なく言ってくれよ」
その時が、きっと俺のお役御免の日。
俺はただ、漣の助けになりたいだけ————。
そう言おうとしたところで、思い止まる。
そして、くしゃりと髪に手を乗せ、掻きまぜる。
……俺って、こんなに単純な奴だったっけか。
漣に死んで欲しくないという思いに変わりはない。ただ、死んで欲しくないからという理由よりも、単純に、漣の助けになりたいから、に理由がいつの間にか置き換わりつつある事を自覚して、苦笑いを浮かべる。
たった二日話した程度で惹かれてるとか、単純過ぎないかと心の中で自責をした。
「……それは、私のセリフなんだけどね」
打ち上がり続ける花火の音に紛れて、消え入ってしまいそうな小さい声だった。
「新庄君はさ、無理してない?」
「俺は初めに言ったろ。役得だって」
「客寄せパンダ程度にしか思ってなかった人に言われてもねえ?」
苦笑い。
「でも、確かに新庄君の言う通り、楽しい事は沢山転がってたかも。親に嘘ついて、こうして祭りで遊ぶのも物凄く楽しかった」
「不良だな」
「……嘘つけば良いって言い出したの、新庄君だって事もしかして忘れてる?」
「言い方の問題だよ。さっきのだと、親に嘘つく事まで含めてワンセットみたいなもんだっただろ」
「あー……それは、まぁ、その、うん。これまでそうまでして遊びたい理由もなかったから、本当に初めてで、スリルがあったというか、なんというか」
————やっぱり、不良だな。
そう言うと、漣からめちゃくちゃ睨まれた。
でも、可愛げのある小動物に睨まれた気しかしなくて、つい、微笑ましいものを見るような笑みを浮かべてしまう。
「兎に角、私は不良じゃないから。分かった? アンダスタン?」
「……分かった。分かったから耳元で叫ぶな、漣」
「うん。よろしい」
納得してくれたのか。
耳元で口を尖らせていた漣の距離が離れていく。
「あ」
「ん?」
「そういえば、名前。こうして一緒に遊んだりもするのに、苗字じゃなんか他人行儀だし、私の事は
「……いや、それは」
なんとなく、下の名前を呼ぶ事には少しばかりの抵抗があった。
でも、漣はそんな抵抗は知らんと言わんばかりに、ほら早くと急き立ててくる。
「呼ばないと勉強に付き合ったげないよ」
「……それはせこくないか」
「女の子が名前で呼べって言ってるのに、名前を呼ばない新庄君が悪いと思うんだ」
理不尽過ぎる。
そう思わずにはいられない。
「……なら、その代わりに漣も俺の事は下の名前で呼べよ?」
つい先程、新庄君と俺の事を言っていたあたり、漣もそれなりの羞恥心があるのではないか。
そう思っての一言だったのだが、
「それは勿論。そうじゃないと不公平だしね。ちゃんと、新庄君の事は
さらりと言い放つ。
そこに、想定していた羞恥心の欠片すらも存在しておらず、胸の中でなんとも言えぬ敗北感だけがじわりと滲むように広がった。
ついでに、そのお陰で下の名前を呼ぶ事に抵抗を覚えてる事が馬鹿らしく思え、大人しく観念して呼んでしまう事にする。
「春香、でいいか」
「違う。春香じゃなくて、
「……何が違うんだよそれ」
漣は違うと言うけれど、俺からすると何が違うのかよく分からなかった。
「私が里子だって話は前にしたよね」
「ああ、それは聞いた」
「私が漣の家に引き取られた理由が、名前が『はるか』だったかららしいの。元々は平仮名で『はるか』。引き取られてから、『春香』って呼ばれるようになったの」
だから、『春香』じゃなくて『はるか』と呼んで欲しいと言葉が続けられる。
イントネーションの違いなのだろうが、いかんせん、分かりにくい。
「……分かりづらいとは思うけど、あえて言葉に変えるなら、『春香』よりも柔らかい、感じかな」
「ん……、はる、か?」
「そうそう! そんな感じ! ……ややこしいだろうけど、優希君にはそう呼んでもらいたくて。ロクでもない親から貰った名前だけど、これが私の名前だから。だから、あの状況で漣春香としてではなく、ただの一人の人間として見てくれた優希君には『はるか』って呼んでもらいたいんだ」
漣の身の上話はあの屋上で、聞いた。
だから、春香でなく、はるかにこだわる理由も何となく分かる気がした。
ただ、付け加えられた最後の一言は、いまいちよく分からなかった。
「優希君は自覚ないかもしれないけど、これでもあの時、私は結構救われたんだよ。自殺してやるって、決めてた決意が揺らいじゃうくらいにはね」
……抱いた感想が顔に出てたのか。
そう言われる。
視界に映る漣————はるかの横顔は、嬉しそうに微笑んでいた。
「たぶん私は、仲間外れが嫌だったんだろうね。そうなる道を自分で選んでた癖に、私自身は『特別』扱いをして欲しくはなかった。だから、今がどうしようもなく、嬉しくて、楽しくて仕方がない」
香り立つような幸福を振りまきながら、安寧の表情を一度。そして、苦笑い。
————自分の事ながら、面倒臭い女だ。
はるかは、そう口にする。
拾って貰ったという後ろめたさが、漣春香という完璧な人間を演じなくてはいけないという使命感を増幅させている。
しかしながら、当の本人は、己を己として見てほしいと切に願っており、叶うならば普通に過ごしたかったと思っている。
同居する二つの思いが彼女を苦しめていたのだと、口から溢れでる言葉から理解する。
「矛盾って言うのかな。本当に、優希君の言う通りだった」
「俺の?」
「うん。私は……ばかだった」
あの時は確かに、俺ははるかに向けてばかだと言った。でも、彼女の事を知れば知るほど、その雁字搦めに絡みつくしがらみを前に、ばかだとは言えなくなってしまっていた。
なにせ、そんなばかに俺は心あたりがあったから。去年までの俺こそが、ちょうどそんなばかだったから。
だから、そんな事は無かったと訂正しようとして。
「ねえ、優希君。一つ、聞いてい?」
訂正するより先に、はるかの言葉が続いた。
「……なに」
「どうして優希君は、そんなにも私を分かってくれようとするの? 助けてくれようとするの? どうしてそんなにも、優しくしてくれるの?」
これがきっと、単純に漣春香好いている。
という理由だったならば、きっと「今」は無かったのかも知れない。
そうだったならば、あの時既に、漣春香は屋上から飛び降りていただろう。
だが、新庄優希が漣春香を助けた理由はそうで無かった。
言ってしまえば同情に近かった。
それも、漣春香を哀れむ同情ではなく、同類を見るような、そんな同情。
だから聞きたかったのだろう。
どうして? と、そう一言。
「……そういや、不公平だったよな」
「不公平?」
「ああ。はるかの過去だけ聞いておいて、俺の過去を話していないのは、何というか不公平だったよな」
哀れか?
可哀想か?
同情したくなるような人間か?
かつて屋上ではるかからそう問い掛けられた時、俺はばかだと言った。
あの時はそれ以外の言葉はあえて省いたが、ちゃんと言うならば、「去年の俺みたいで、ばかだと思った」これが、本来の回答だった。
「俺の家、母子家庭なんだ」
バン、バン、と闇に染まった空へと、弾ける音を轟かせていた花火が漸く止む。
「父親がちょっとした碌でなしでな。今は、病気患ってる母親と、妹と、俺の三人家族。はるかは、俺の成績が悪い事知ってるよな?」
「うん。それは知ってるよ」
「それ、一年の時、俺が出席日数ギリギリしか登校してなかったのが原因なんだ」
全てが自分のせい。
そこに言い訳をしたいわけではない。
瞳の奥に、不安の感情を湛えながら俺を見詰めてくるはるかに、事実を事実として言うだけ。
ただ、それだけ。
「妹は俺より年下で、母親は病気。だから、俺が何とかしなきゃって思った。そのせいで、なんて言うんだろ。前が見えてなかったってやつなのか。どうにかして家族を支えてやるって気持ちしかなかった。当たり前の生活を手放してたって意味では俺とはるかは似てたのかもな」
少しだけ。
ほんの少しだけ境遇が似ていた。
はるかの事を分かろうと、助けようと、優しくしようとする理由をあえて答えるなら多分それが理由になると思う。
同病相憐れむに、きっと近い。
「借金があるわけではなかったけど、金にそこまで余裕がなかったのは本当。だから、俺はバイトに明け暮れてたんだけど……ある日、母親からぶん殴られた」
「どうして」
「理由は沢山ある。無断で学校をサボってた事。んで、その空いた時間にバイトしてた事。それで稼いだ金を勝手に家の生活費の中に入れてた事。子供なのに、親に気を遣ってた事。たぶん、探せばまだあると思うけど、そりゃもう、一日中怒られた」
「うん。そりゃそうだと思うよ」
はるかにも、笑われる。
「結局、その日にバイト先に辞める電話をさせられ、学校も教師がうちにきて三者面談。預金通帳を覗かれてバイト代も全部俺に返された。んで、最後に泣かれた。頼りない親だって自覚はあるけど、相談の一つくらいして欲しかったって、泣かれたんだ」
「良いお母さんだね」
「……あぁ、そうだな」
そして、俺は空を見上げる。
花火が消え、真っ黒に染まった空。
はるかと目を合わせながらこれを言うのは何故か、気恥ずかしいような気がして、俺は視線を上に向けていた。
「なんとなく、漣春香は俺に似てる気がした。自分勝手に、自分一人で抱え込んでいるとこが」
それが真に正しいのだと考えるあたりが特に。
「だから、放っておけなかったのかもしれない。だから、助けたいのかもしれない。節介を焼こうとする理由は、たぶん、それ」
俺の時は、母親だった。
でも、漣春香の苦しみを理解している人間は、どこにもいない。この世界に、どこにも。
ただ一人、俺を除いて、どこにも。
「かつての俺が、そうだったように。だから、助けたいと思った。何より、これは約束でもある」
「約束?」
「母親から昔から言われててな。交わした約束だけは、死んでも破るなって。あの時屋上で、色々と言っただろ? 約束を色々」
だから。
「だから、あの時死ななくて良かったってはるかが思えるように、俺なりに節介を焼かせてもらうさ」
なにせ、それが約束だから。
「だから、俺に出来る事があれば言ってくれよ。したい事、やりたい事、俺に出来る範囲で、叶えてやるから」
少なくとも、完全無欠の漣春香として振る舞わなくて済む人間が俺一人の間は。
「……ねえ、優希君」
「ん?」
「手、握ってい?」
「……別にいいけど」
「ありがと」
右の手に、人肌の温もりが生まれる。
肩に寄りかかるように手を握るものだから、少しばかり歩き辛くあった。
そして何故か、程なく右の手に温かい雨粒のようなものが落ちてくる感触に見舞われた。
「……あの時、私を止めてくれたのが優希君で良かった」
呟くように漏れる一言。
その言葉に、「どういたしまして」と返すのは流石に烏滸がましいような、気恥ずかしいような気がして。
「……次遊ぶ時は、はるかが場所決めろよ。交代交代だからな」
「……分かった。考えとく」
その日は何故か、場に降りる沈黙が。
静かな時間が無性に心地良かった。
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