狂嘯

狂嘯

 憑かれたように男は筆を揮った。


 無数に卓上で転がる酒器の間へと、黒々とした墨がまき散らされる。

 先程まで上機嫌に酒を酌み交わしていた友人達も、男の“気”に呑まれたのだろう。酒を勧める妓女おんな達の相手もおざなりに、固唾を呑んで様子を見守る。

 一気呵成。男は書き上げると、荒っぽい仕草で投げつける。

 はっ、と我に返った友人達がそれを見下ろすと、感嘆の息が零れた。


「字は精妙、意は高遠、――まこと素晴らしい!! さあ、もう一杯」


 その声に、宴がもとの盛り上がりを見せるかと思われた。が、男は赤らんだ鼻を鳴らし、筆を放擲なげだした。

 雷霆いかずちのようなその音に、場に再び緊張が奔る。


「――何が素晴らしいものか!!」


 叫んだ直後、男は卓子をひっくり返した。

 色とりどりの酒肴やら酒、硯やら墨までもが音を立てて床に散らばる。かと思えば、今度は頭上のさくを投げ捨て髪を振り乱し、終いには剣を抜いた。


「り、陸大人!! どうか落ち着かれよ!!」


 慌てる声。制止する声。酒器の割れる音。逃げ惑う足音。それらが縦横に入り乱れる。


逆胡ぎゃくこ 未だ滅せずんば、心未だ平らかならず……!!

 孤剣 床頭しょうとうこうとして声有り、」


 唸るように言い放つ。と、男の剣が鋭く翻って空を切る。甲高い悲鳴の合間に届く制止の声が、怯えを伴った声へと転じるに、幾何とかかりもしない。

 だらりと垂れた、白の混じる黒髪の奧。その、血走った瞳が見据えているのは最早、目の前の彼らではない。


――遙か遠く。華北の地を奪った蕃人ばんじんども。或いはその、喉元だったであろう。


   * * *


 淳熙三年九月某日。

 尽く逆さまにされた卓子。酒宴の残骸に灰をまき散らした香炉。妓女達が慌てて置き忘れたらしき楽器。

 キリリと冷たい、爽やかな朝には大変似つかわしくない阿鼻叫喚の名残の中、濃い酒の匂いを漂わせながら、一人の男が大鼾おおいびきを立て、床の上で大の字にひっくり返っている。

 その傍らには何故か、抜き身の剣。


「……まったく、大した男だ」


 男を見下ろして溜息混じりの声を零した彼は、知成都府事兼四川制置使という、この地方の軍事・行政を掌握する立場にあった。そんな、この地方最高の顕職にある彼が朝っぱらからこのような場所に来たのは、目の前で暢気にぐうすか寝ている、この一つ年上の友人のためだった。

 夕べの男のを聞きつけて、昔なじみの誼で様子を見に来たのだった。


 10代にして両親と死に別れ、下に四人の弟妹を持つ長男たる彼は、控えめながら温和で面倒見の良い性格だった。


 男の周りに、酔うに任せて書き散らしたと思しき詩が散乱している。何となく拾いあげた。


 荒れた手蹟。ところどころに歪んだ滲み。酒の雫か、或いは別の何か。

 そこに記された一詩に目を落とし、彼は小さく息を呑んだ。

  

  衣上の征塵せいじん 酒痕しゅこんまじ

  遠遊 處として 魂を消さざる無し

  此の身 まさに是れ詩人なるべきや未だしや

  細雨 驢にりて 剣門に入る


「……う、ん? ……至能しのう? どうしたんだ」

 

 男が眼を覚ましたらしい。はっと我に返って、彼はそれらを棚の上に置いて向き直った。


「どうしたんだ、はこっちの科白だろう。昨日はまた、随分な暴れようだったそうじゃないか。……その上また、こんなに飲んで」


 差し出された杯を受け取り、男は一気に呷る。


「……なんだ、酒じゃないのか」

「これだけ飲んで、まだ飲み足りない?」

「酒ならいくらだって飲めるぞ!! ほら、至能。お前も飲め」

「……まずはその物騒なものをしまってくれ」


 ああ、と応じて、放り出していた剣を鞘に戻す。

 それから、倒れた卓子を起こし、落ちた酒壺にうまいこと残っていた酒を、これまたうまいこと割れずに残っていた酒杯を二つ拾い上げて、酒を注ぐ。

 本気で飲むつもりらしい。


「先日あんなことがあったというのに、君という男は」

「“燕飲頽放えんいんたいほう” 世間では俺をそう云うのだろう。大酒飲みでだらしのない、礼儀知らずな男だと。――大いに結構!!」


 るが故に、男は先だって、至能が指名した参議官の職を罷免されたのである。


「俺のために祝ってくれ、范待制殿はんたいせいどの。これから俺は”放翁ほうおう”と号することにした」


 にやり笑って、更に酒杯をあおいだ男――陸游りくゆうに、至能はまた、溜息を吐いた。


「……よりにもよって、“放翁”? ……煽るつもりか……」


 “放翁”とは「頽放れいぎしらずおやじ」の意である。燕飲頽放の故をもって免職されたというのに、敢えてそう自ら号すとは、周囲に対する皮肉に他ならなかった。不遜と判じられて当然である。

 酒杯をさらに傾ける陸游が、その手を止める気配は無い。どころか、新しく酒を持ってくるようにと言いつける始末である。


「――嗚呼、至能。俺はまさに酔いに酔っている狂者だ。故に馬鹿げた考えを捨てられない」


 ぐっ……と至能の目元に深い皺が浮かんだ。


 陸游が生まれたのは北宋末期、徽宗の宣和七年十月十七日の早朝。淮河につなぐ船の中だった。

 当時、一家は父・陸宰の転勤のため都・開封への途次にあった。

 夜明けがたの急な大風雨で淮河の空は暗く冷えていた。叩きつける雨は船上を洗うが如く、呑み込まんばかりに押し寄せる大浪に船は揺れに揺れた。ところが、陸游が生まれるや、ピタリと止まったと云う。


 誕生時のこの有様は、彼の人生の波乱を暗示するに十分なものであった。


 程なくして、女真族の建てた金の襲撃により、北宋は滅びた。世に云う「靖康の変」である。その後、国土の半分を失った「半璧江山」として南宋が成立する。


 一家は、軍馬の嘶きを背に、各々一個の餅を懐にして草間に伏しつつ、一族の故郷・越州山陰へとやっと逃げ延びた。


 蔵書家であり、抗金派としても知られた陸宰のもとには、同じ抗金派の士が出入りし、日々対抗策を論じては「憤切概慷いきどおりなげき」、「痛哭流涕はげしくなみだをなが」していたという。


 幼くして金との度重なる兵火に苦しめられ、また、父の傍に居て彼らの様子を見ていた陸游が、長じて対金強硬論者となるのも当然といえよう。彼はそして、それを主張して憚らなかった。が、大勢は概ね和平派が優勢であったから、幾度かの科挙失敗の末、やっとのことで官職を得てからも、陸游はしばしば失脚した。


「かつて三閭屈原は『衆人 皆 酔えるに、我 独り醒めたり』と詠じた。周りの人間は皆正気を失っていて、正気を保っているのは自分だけだ、と。だが実の所、己の信念に従い、それを貫かんとする者こそ、正気を失った狂者なのだろう。――それならば俺は、酔ったままでいい」


 そう嘯き、更に杯を傾ける。至能は、ただ眉を下げて、何も言わなかった。


   * * *


 夢と現実を隔てる、うすぎぬの幕の向こうで、何かが視界の端をちらつく。酷い酩酊状態から脱した後の気怠い暗闇の中、ひっそりと咲く、海棠の花がある。

 成都は花の名所である。様々の花が季節を彩り、けんを競う。中でも海棠の美しさは天下無双だ。故に海棠王国とも呼ばれる。

 その花姿は、こうべを垂れて嘆く美人の如き佇まい。

 かつて、恋しい男と遠く離ればなれになったある娘がいた。その娘の流した涙の雫が頬を伝い、落ちたところにこの花が生じたという。故に断腸花とも称する。


 だからであろうか。

 

 海棠の花を見ると、美しさへの感嘆とともに、締め付けられるような痛みを伴うのは。

 或いは。その向こうに、遠き春の日の、忘れ得ぬおもかげよぎるからであろうか。


「――えん」


譫言うわごとのように発した己の声に促され、ゆるゆる瞼を上げる。

 琴の音が耳に飛び込んできて、頭痛を覚えつつ身を起こした。


――“唐琬とうえん”。


 夢現に口走ったその名が、脳裏をかすめる。


「――お目覚めですか?」


 ゆったりとした声が問い、琴を弾じる手を止めてこちらへ近づいてくる。


「ああ。――英孫えいそんは」

「眠っておりますわ」


 竹月色の背子、孔雀藍の二破裙をすっきりと着こなすその女とは、四川の地にやってきて出会った。格別華やかという訳ではない。どこか物憂げな雰囲気に反して、透明な黒い目がなんとなく心に掛かって側に置いた。

 英孫とは、陸游の六人目の息子である。

 妻の王氏ではなく、目の前のこの女が産んだ。もうすぐ生まれて二年になる。


 至能と酒楼で会話してから、ここに来る迄の記憶が無い。が、大した問題ではない。自分でここまで来たか、至能が送ってくれたか、どちらかであろう。


 寝起きの一杯をまた口に運んで、傍らに置かれた紙片の束に目を留める。ご丁寧に重ねられていることから考えれば、やはり、至能が送ってくれたのだろう。


「何か、ございましたか」


 朱唇を動かし、女が問うた。


「……夢を見た」


 夢、と繰り返す眼が続きを促す。


「虎を狩ろうとしている夢だ」

「まあ。……虎を?」

「単なる夢ではない。南鄭では実際にこの手で狩りしたこともあるのだから」

「確か……四年ほど前でしたか」

「ああ」


 その頃、陸游は半年余り四川宣撫使・王炎の幕下にいた。

 当時、無為と失意をかこっていた陸游にとって、対金強硬派と目される王炎の下での南鄭勤務は、長年の志を実現するまたとない機会だった。


 季節は春。日ごとに花々がほころび、咲き乱れる道を、意気揚々と、彼は任地に赴いた。

 幹弁公事に任じられると、早速金攻略の為の具体的戦略を主張した。そして、日々鎧を纏って前線を偵察し、防備を固める為に柵や砦を補修させ、またしばしば軍事演習を兼ねての大規模な狩猟も行った。


「虎が人を食い殺すというのでな。部下達を連れて虎狩りにでた。躍り出てきた虎目がけて戈で突進すると、やつめ人間のように立ち上がった。崖を切り裂くような叫声を上げて倒れ、俺の体には奴の血が降り注いだ……。三十人余りも部下どもが付いてきていたが、皆、虎の兇暴さに恐れをなして顔を見合わせているばかりだった……」


 そこまで語って彼は、言葉を止めた。


 同じなのだ。あの時と、今と。

てきに果敢に立ち向かおうとするのは己のみで、自分以外は皆、の恐ろしさに萎縮するばかり。


「旦那様のお陰で、皆が虎に怯えずに暮らせるようになったのですね」


 女が云うのを、半ば上の空で頷いて、陸游は昨夜自分が書き散らした詩を見下ろす。

 

 刹那、その目に険が走る。

 

 詩の束を引っ掴み、荒々しい足取りで外へ出ると、近くの川岸までやってきた。そして、躊躇なく水中へ投げ捨ててしまった。

 

 ばらけた紙片は波間を浮きつ沈みつ、忽ち水底へと沈んでいく。

 ところが、中に、なおも水面に漂うものがあった。


  衣上の征塵せいじん 酒痕をまじ

  遠遊 處として 魂を消さざる無し

  此の身 まさに是れ詩人なるべきや未だしや

  細雨 驢に騎りて 剣門に入る


 それは、王炎の幕府が突如解散し、空しく成都へ向かう途中、詠じた詩。


「此の身、合に……」


 春に志高く出てきて、冬に夢破れて去る。降り注ぐ雨に打たれながら。

 不遇の時は長く、志を得た時は余りに短すぎた。目の前にただ残るは、重い現実感のみ。


 既にこの時、陸游の詩人としての名声は高かった。が、彼は詩人たらんと欲したのではない。


 彼は、壮士でいたかった。


 他の士大夫・士君子にとってそうであるように、詩作など余業に過ぎぬ。

 だが、”詩人”と称される度、文名の高まる程に、自身もまた、詩人としての己を自覚せざるを得なかった。

 故に、幾度と無く自問した。

 

 ――詩人なるべきや未だしや、と。

 

 老いてしおれた手指。

 年々力を失っていく四肢。

 朱顔は衰えて色を失い、髪には秋霜しらがが積もりゆく。

 

 容赦も無く。

 

 それでもなお、胸に湧き上がる壮心は満ち満ちて彼を駆り立てる。


「……酒にへば能く狂し、少年に似たり……」


 酔えばこそ、わかき日の如く、血は全身を熱く巡り、顔色は紅に、気はますます盛んに天をく。

 

 斯るが故に、陸游は酒を飲んだ。浴びるように飲んだ。

 “燕飲頽放”の謗りを受けようと。それが為に免職の憂き目に遭おうと。

 只管ひたすらに飲んだ。

 朱顔を取り戻すために。

 狂せんがために。


 ――壮士であり続けるために――。


   * * *


 のそのそと、男はまた、瓢を引っ提げてやってきた。

 胡座をかいて座り込み、瓢を空へと掲げ、大口を開けて傾ければ、トクトクと、透明な酒が舌の上を滑り、喉の奧へと流し込まれる。

 凪いだ湖面の如き眼に、また、海棠の花が過る。

 楚々と、僅かに俯く美人を思わすその姿。


――それは、かつて引き裂かれた、最初の妻・唐琬の俤か。或いは、無残に破れたゆめの残骸であろうか。


 焦がれる様に伸ばした指の先。まぼろしの蝶が、はらり両翅をひらめかせた。

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狂嘯 @xiaoye0104

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