拝啓、夜を想う君へ

 ガタンゴトン、ガタンゴトン、と揺れる。トンネルを抜け、光が射し込むと、眼前に紺碧が広がる。空と同じように果てがないほど広い青に夜空色の瞳を輝かせる。

 お忘れ物をなさいませんようご注意ください、というアナウンスにセレナは荷物を持ち、客席を確認する。忘れ物はないようだ。

 目的地に到着し、次の駅へと向かう列車を見送ったセレナは改札を通り、駅から出る。眩しく輝く太陽の下、家々のカラフルな屋根が可愛らしい。


「……着いた」


 ぽつりと呟いたセレナは旅行鞄を持ち直し、街へと一歩足を踏み入れる。

 よってらっしゃい、見てらっしゃい、と張りのある声で呼びかける店員や元気に走り回る子どもたち、陽気な歌声を披露する弾き語りの青年と活気にあふれている。

 この街なら。そんな期待を胸に抱いたセレナは街の景色に目移りしながら、宿へと向かう。


◇◇◇◇◇


 窓を開け放つと、ふわりと海の香がする。潮風になびく栗色の髪を手で押さえたセレナは眼前に広がる深い青を見上げる。金平糖を散りばめたような美しい星空に黄金の満月がぽっかりと浮かんでいる。満月の光に負けまいと、心臓が脈打つように力強く瞬く一等星も見える。


「綺麗……」


 セレナはぽつりと呟くと、膝の上にのせたクマのぬいぐるみを撫でる。ふと、物置にしまわれているクマのぬいぐるみを思い出し、引っ張り出してきた。箱にいれていたこともあって、埃は被っていなかったものの、一度洗った。ラベンダーの飾りをつけた彼は円らな瞳で、待っていたよ、とセレナに訴えていたように見えた。

 彼の訃報を聞き、長いこと伏せっていた。食事は喉を通らず、気力が削がれてしまって身体を動かすのも億劫になっていた。そのせいか、丸三日も目を覚まさなかったらしい。死んだように眠るセレナを見て、両親は血相を変えたそうだ。

 それもそのはずだ。よくなってきた病気が再発したのではないか、知らず知らずのうちにセレナの身を侵食していたのではないか、とパニック状態になっていたそうだ。昏睡するセレナを見て医師も首を傾げるばかりの状態から、セレナが目を覚ましたときの両親のやつれた顔は忘れられない。起きてから身体に異常もなく、なぜ三日も眠っていたのかわからない。精神的な疲労だろう、と診断されたあの日以降、別に問題なく暮らせている。

 彼のことで伏せていた身体が驚くほど軽くなっていた。彼のことを忘れたわけではない。今も悲しいのだ。ひょっこりと姿を現して名前を呼んでくれそうだと思いたいぐらいだ。だが、彼は亡くなったという事実は覆らない。


「あの夢、何だったのだろう……」


 儚くも美しい、夜の夢を見ていた気がする。全てを覚えてはいないが、彼と過ごした街の夜空を思わせる夢だったと思う。夜になって二人で窓から夜空を見上げて話すあの時間が楽しかった。寒くても、眠くても、彼と一緒に見上げた夜空が好きだ。黄金の満月を思わせる瞳がじっと夜空を見上げる横顔をよく覚えている。

 セレナはベッドの傍に置いた旅行鞄から二通の手紙を取り出す。二通の手紙の差出人は彼の両親だ。

 彼の父の知人を通じて、彼の両親へ手紙を送ることができた。そして、彼の両親から手紙が届いたのだ。彼の病気のことや亡くなったことを伏せていたことへの謝罪とセレナの体調を気遣う内容の手紙だった。また会えることを祈っている、と締められた手紙にセレナは泣いてしまった。

 彼の両親の手紙により、彼の死を改めて実感した。せめて、彼の墓参りにと思って手紙を改めて送ったところ、待っているという返事が来た。それならば、とセレナは彼との約束を果たそうと思ったのだ。医師から遠出の許可が下り、セレナは海のある街を訪れた。

 海に行こう。そう彼と約束をしたから。この夜空色の瞳が捉えた海を彼に伝えようと決めた。二泊三日、この海の街で過ごした後、彼が過ごした最期の地であり、彼が眠る場所へ向かう。

 セレナは昼間の賑やかな様子を思い浮かべる。お洒落なカフェからはピアノの音が流れ、派手な装いの踊り子たちが広場で踊っていた。真っすぐに背筋を伸ばして堂々と踊る彼女たちの踊りは素晴らしかった。

 そんな街は夜になってしまうと、しんと静まり返る。家々の灯も消え、街灯と天から降り注ぐ星と月が街を照らしている。


「……」


 セレナは目を閉じ、海から吹いてくる風を浴びる。昼間の透き通った紺碧色の海も美しかったが、夜の深い青の海もいい。満天の星と静かな海という光景は幻想的で、時間がゆっくりと流れているように感じる。


「できることなら、あなたと一緒に来たかった」


 セレナは金色の瞳を思い浮かべる。セレナの瞳を夜空色と評してくれた彼。彼との約束は忘れられなかった。


「意地悪な人」


 何も言わずに去ってしまった彼。優しく、賢く、温かな人。そんなにセレナに言いたくなかったのかとか、教えてほしかったとか、もしも彼に会えるのなら言ってやりたい。あの琥珀色の瞳が狼狽えるかもしれない。それでも、セレナは彼に尋ねたい。彼に伝えたいことがある。

 セレナはゆっくりと目を開ける。今日の星空は自分の瞳とお揃いと彼は言ってくれるだろうか。

 黄金色の月は静かに輝いている。優しく見つめる彼の琥珀色の瞳が思い起こされる。温もりを持つあの瞳は本当に美しかった。

 美しい夜空が滲んでいく。水彩画のようにたっぷりと水を含んだような夜空にセレナは目元を拭う。


「……ダメだ。強くならないと」


 彼がいなくとも、生きていかねば。弱い心の自分が彼の元を訪れては、あの金色の瞳を困らせてしまう。泣かないで、と慰めてくれる彼の声にすがってはいけない。

 彼はもういないのだから。

 セレナは頬を伝う涙を拭うと、泣きたくなる気持ちを振り払うように頬を軽く叩く。いつまでも子どもではないのだから。

 彼が生きたという証を、彼が生きたという真実を、彼の一番近くにいた人から聞きに行く。彼のことに区切りをつけようと決意したのだ。ずるずると引きずったところで、彼は喜ばないし、自分も進めない。

 だから。

 セレナはナイトテーブルに置いたカメラを手に取る。まだ涙の浮かぶ夜空色の瞳でファインダーを覗く。


 白銀の帯が横たわる。

 力強く脈打つように星が瞬く。

 黄金色の月がぼんやりと輝く。

 薄っすらと星雲が映る。

 北の星が導く。

 星座図を思わせる。

 弱々しくも最期の瞬間に光を放つ。

 

 そんな星空に向かってシャッターを切る。


「……頑張るよ。頑張って生きてみせる。色々なところに行った思い出をあなたに語るために」


 一歩を。自分のためにも、彼のためにも進む。彼が見ることのできなかった景色を自分が見て、教えるのだ。

 最初は彼と約束した海のことを話そう。果ての見えないほど広い空と海。その一部分を切り取った写真を彼に贈ろう。

 いつかの彼がセレナに写真をくれたように。彼からたくさんのものをもらったこちらが今度は彼に贈る番だ。

 セレナは夜空に手を伸ばす。掴もうと思っても掴めないほど遠い存在。彼もそんな存在になってしまった。


「また一緒に夜空を見ようね。約束だよ」


 夜空色の目を細めてセレナは微笑を浮かべる。


 白銀が一閃。空を切り裂くように一筋の星が流れた瞬間を、カメラは捉えていた。

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夜想列車 真鶴 黎 @manazuru_rei

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