夜想列車と語る

 夜想列車は走る。送るべき人を送った列車には車掌と運転士の二人しかいない。二人を乗せる列車は夜の道を走り抜けていく。

 星が空を切り裂くように流れる。運転士は星が雨のように降り注ぐ空をぼんやりと見上げる車掌の脇腹を小突く。


「人間って不便だね」


 淡々としたその声音に車掌は苦笑する。


「不便、と言いますと?」


「感情を持っているところ。ボクにはよくわからない」


 幼さの残る声が問うことは哲学的だ。運転士は不思議そうに車掌を見上げている。客人もこの車掌も生者も、なぜ感情を持ち、振り回されるのか理解できないのだ。

 だからこそ、今日の車掌の振る舞いがよくわからない。いつだって真剣に業務に向き合う男が取り乱し、こちらに頭を下げることになるのか。それが運転士には理解できない。

 心を、感情を持つ生き物は何て生きにくいのだろう。不便だろう。心や感情さえなければ、無駄なところに時間を割く必要もないし、迷うこともない。効率的に、合理的に動くために感情は必要だとは思わない。


「素直に明かせばよかったじゃないか、車掌」


 運転士は車掌に率直に言う。何を迷い、困惑する必要があるのか。


「ボクはチャンスをあげたっていうのに」


「わざと列車を揺らしましたよね?」


 朝日に溶けていく彼女を見送るときだった。列車がわざとらしく揺れたため、バランスを崩した彼女を車掌は受け止めた。その際に仮面を剥がされ、素顔を見られてしまった。彼女の夜空色が大きく広がったとき、自分はどんな顔をしていただろうか。


「意気地なし」


「どうとでも言ってください」


 車掌は困ったように眉を下げる。


「正体を明かすわけにはいきませんよ」


「どうして?」


「僕のことを明かしたら、彼女はそのまま終点まで来てしまいます」


「そんなに拘る必要がどこにあるのか」


 運転士はあっけらかんとして言う。顔も声も隠して彼女に接した車掌。徹底的に隠そうとした彼の意図が理解できない。


「いっそのこと、連れて行った方が楽だったまである」


「それは規則に反します。寿命の尽きていない者をあちらに渡すわけにはいきません」


 車掌は鋭い声で反論する。そんなに強く言うならなおさら、と運転士はため息をつきたくなる。


「そんなことわかってるよ」


 時々あるのだ。生者であるはずの魂が死者の魂に紛れて狭間に来てしまうこと。今回の彼女のような事例だ。そのまま連れて行くことも可能なのだが、命の輪を狂わせてしまうため、終点に着くまでの間に説得してこの世に帰すことが理想である。強制的に帰す権限を車掌は持ち合わせているのだが、できれば強制送還は避けたい。無理に帰すと魂に傷をつけてしまう恐れがあるのだ。魂に傷がつくと、不安定な魂となってしまう。精神的な負担がかかり、帰したとしても戻ってきてしまう恐れがあるのだ。それを避けるために、説得をした上で帰すことが推奨されるが説得は必須ではない。そのため、中には強制送還させる者もいるのだ。前の車掌がそのタイプだったのだ。


「そもそも、乗車拒否ができればここまでややこしいことにはならないのですが……」


 駅には多くの死者がいる。生者の魂が発見された場合、すぐに保護して帰されるのだが、多数の死者の中から一人、二人の生者を探すことは困難であるため、駅員が見逃してしまうことが多い。そして、列車の乗車を許してしまうことがあるのだ。

 死者を運ぶ乗り物はいくつかある。それぞれ、何かしらのコンセプト、特徴を持つ。死者がどの乗り物に乗るかは生前の行いや性格、経歴を基に裁判され、その結果から振り分けられる。

 夜想列車は乗客の想う夜を叶える列車であるため、客室や景色は変幻自在、欲しいものはすぐに現れる。乗客に全てを委ねられる自由度の高い列車であるため、乗客も限られる。害を為すような魂が乗車すれば勝手を働かれる可能性があるため、裁判で悪と下された死者はまず乗車できない。夜想列車に乗車できる魂は性格が穏やかな者や温厚な者、正義感の強い者など、いわゆる善人や害を与えないと判断された者ばかりだ。実際に夜想列車では車掌と客、または、客同士のトラブルはほとんどなく、あったとしてもすぐに解決される。万が一、他の乗り物に振り分けられた死者が夜想列車に乗ろうとしても、切符の違いにより弾き出される。それは他の乗り物においても同じだ。

 振り分けによって乗客が決まっているのだが、例外が一部がある。それが今回のような生者を乗客と判断し、乗車を許してしまう事例だ。生者が夜想列車の規定する客人に当てはまると判断してしまった場合、八両目、九両目を生みだして乗車を許してしまうのだ。


「どうにかなりませんか? 見ればすぐにわかるはずでしょうに……」


「それは駅の係がどうにかするべきだと思うんだ。だって、向こうが見逃すから、こちらがどうにかしないといけないわけでしょう? ボクらの役目はお客を運ぶこと。それに尽きる」


 あくまで、夜想列車は客を運ぶことが使命だ。夜想列車が客と判断したら生者だろうが、死者だろうが、終点まで運ぶのみ。夜想列車が死者に紛れた生者を探し出す必要などないのだ。


「それはそうですけど、わざわざ車両を増やさなくたっていいじゃないですか」


「それは夜想列車の信念に反する。自由度の高い車体なんだから、それを制限するわけにはいかない」


 運転士はソファに座る。車掌は小柄な先輩を見下ろすわけにはいかず、向かいの席に着く。


「これでも、昔に比べたら生者が乗り込んでしまうことは減った方だ」


 運転士は星空を見上げる。十代半ばほどの姿の運転士は見た目に似合わず、眉間に皺を寄せる。今はこうやってのんびりと空を見上げられるが、当時はそんな暇がないほど、駆けまわっていた。

 この世で大きな争いがあったときの混乱具合を運転士は知っている。あの頃は多くの死者で溢れかえっていた。彼らの対応に追われていると生者のことを見逃してしまうことなどよくあったのだ。終点に着く直前で生者が乗車していることに気がついたというギリギリのパターンもあったぐらい、あの世側は混乱していた。今はわりと平和な時代であるため、あの頃に比べれば余裕がある。終点直前で気がつくなどということはなく、余裕をもって説得を試みて、送還することができる。


「一応防衛ラインはあるし、そんなに頻繁にあることではない」


 生者の魂と死者の魂との接触を避けるために設けられたのが、車両から別の車両への移動の制限だ。死者の魂と生者の魂が接触できないように、死者同士の客室は行き来できるものの、生者の客室へは行けない。両者の間を移動できる者は車掌と運転士だけだ。移動制限と車掌による説得が最後の防衛ラインだ。生者の魂が終点の地に足をついてしまわない限り、この世へ帰すことができるのだ。もしも、あの世に足をついてしまったら死者となってしまい、二度と戻ることはできない。


「ですが、どうにか八号車以降が現れないようにはできませんか?」


 生者の魂を終点まで連れて行ってはならない。ラインがあるとは言え、この規則が破られてしまう恐れがあるのだ。


「それは無理な話だ。昔の名残なんだよ。今は七両編成だけど、昔はもっと車両が多かった。それはなぜか。死者の数が多くて、一両につき一人だなんて言ってられないし、何両も連ねて一度に多くの死者を連れて行く必要があったんだ。発車直前とかに乗客が増えてしまうことがあったから、自由度の高い夜想列車は一度に運べる能力が高い。よって、規定に当てはまるのであれば乗車させる」


「今はそのようなこと、ないではありませんか」


「今はね。でも、また起きないとは言い切れないでしょう? だから、そのままなんだ。あと、二度も言わせないでほしいのだけど、頻繁にあるわけじゃないからその都度で対処して」


 生者の魂が乗車してしまうのは一年に一度あるかないか。それぐらいの頻度なのだ。大したことではないと運転士は思うし、目まぐるしく死者を連れて行った時代を経験している身からすると、自分には大きな問題ではないのだ。


「まあ、ボクにはあまり関係ないから」


 運転士が接客することはほとんどないから、どうでもいいことなのだ。生者の魂の説得はこの車掌がすべきことだ。手を貸すことはあっても、運転士が直接説得することはない。


「あなたはそうでしょうけど……」


「生者を保護できるっていう意味でも乗車拒否ができないことは有用だと思うんだ。変にあっちこっち歩き回られても困るし」


 動かれると保護が難しくなる。それならば、客室という箱に捕らえて説得なり、強制送還なりしてしまった方が安全で確実だと運転士は思う。

 終点の地に足を踏み入れなければ問題がない。最悪、終点に着くまでにどうにもできなかったとしても、客室に鍵をかけてしまえば外に出られない、つまり、終点の地を踏まずに済む。生者を保護するという観点ではそこまで悪いことではないと考える。


「万が一が起きたときのために君がいるわけなんだから。はい、この話はおしまい」


 運転士は頭の上で腕を組む。運転士は車掌のことを評価している。彼はきちんと職務をこなす男だから、生者が乗車してしまっても彼になら任せられる。生者の魂が乗車してしまったときの対処について、問題はないと考える。

 だが、今回の件は見逃せない。運転士の目が鋭さを帯びる。


「こちらからも文句をひとつ。今日はよくもこのボクに厄介事を押しつけてくれたね」


「その件については、本当に申し訳ない」


 車掌は視線を逸らす。

 出発直前に気がついた彼女の存在。困惑と焦りで業務にまともに手がつけられず、いつもよりも切符の確認が遅れた。八号車に近づくにつれてその焦りが出てしまい、七号車のシャリオには見透かされてしまう始末。シャリオは約束どおり、八号車のことは誰にも言わなかったため、混乱を招くことはなかった。

 そんな状態の車掌を支えたのが運転士だ。アナウンスを代わってもらったり、仮面を用意してもらったりと迷惑をかけてしまった。万全の状態で車掌の素性が割れないようにと努めるためだった。


「まったくだよ。でもまあ、あれは美味しかった」


「あれ? パンケーキですか」


 彼女の件で一仕事終えた車掌はララの様子を見に、すぐに六号車に向かった。六号車からは賑やかな声が聞こえ、覗いて見ると乗客たちがパンケーキを作っていた。経緯を聞くと、ファイがカルミアと共に六号車を訪れたことが始まりらしい。ララが起きるまで二人は六号車にいた。ララが目覚めたところでおしゃべりを始め、六号車を訪れたシャリオが他の客に挨拶を、と言うとファイが皆で何かしないかと提案し、六号車に全員集合。パンケーキを食べたいと言うララのリクエストに応える形でパンケーキパーティーが開かれたそうだ。


「美味しいものを食べられたし、ペナルティーは軽くしてあげる」


「ゼロにはなりませんか」


「それは無理だよ。今回は君の私情が多すぎた。我が主にも報告する」


 車掌の業務に私情は関係ない。運転士からすると、そんなことで取り乱すなんてと呆れてしまった。


「仕方ありませんね」


 車掌は小さく息をつく。後悔はない。彼女のためなのだ。多少の罰を受ける覚悟をした上での行動だ。


「またパンケーキ食べたいな」


 先ほどまでの大人びた表情はどこへいったのやら、運転士は見た目相応の無邪気な表情をする。


「わかりました。ご用意します」


「うん。今度はアイスとホイップクリームとフルーツがトッピングされたのがいい」


「えー……」


 それは甘すぎないか。運転士の性格上、すぐに飽きて残してしまうだろう。その残りを食べることになるのは車掌だ。腹がもつだろうか。


「だって、そういうのを食べてる子いたし。ボクが食べたのはハチミツとホイップクリームが少しのってるだけだった」


 運転士はぷくっと頬を膨らませる。美味しかったのは確かだが、色々とトッピングされたパンケーキを見るとそちらも美味しそうだと思ったのだ。


「それは、あなたのところへ運ぶ間に溶けてしまうかもしれないという配慮がありまして」


 六号車から運転士がいる先頭車両までは距離がある。アイスクリームは溶けてしまうだろうし、ホイップクリームも危うい。だから、おまけ程度のホイップクリームに抑えたのだ。


「フルーツがあってもよかったじゃないか。ボクもああいうの食べたい」


「わかりました。でも、ハチミツとクリームだけでも美味しかったでしょう?」


「美味しかったけど、別のも食べたい! 君たちは皆でシェアして食べていたじゃないか!」


 運転士はさらに頬を膨らませて抗議する。子どもっぽい表情の運転士に先ほど真面目な話をしていた運転士の面影はない。


「あー……。あなたを六号車に呼べたならよかったのですが……。それができず、ああいう形になってしまいました」


 運転士と乗客の接触は緊急時以外は禁止されている。乗客がいるとき、運転士はこの先頭車両で大半の時間を過ごす。先頭車両にて乗客の様子を確認することも仕事であるため、六号車でのパーティーのことを知っている。楽しそうにわいわいしていたのが羨ましかった。


「むう」


「まあまあ」


「ボクも一緒に作りたかった」


 車掌は女子三人が楽しそうにトッピングをしていた光景を思い出す。とても楽しそうだった。可愛らしく、綺麗に見えるパンケーキだったが、食べきれる勇気がなかった。レオとソウが巻き込まれて、ゴテゴテにトッピングされたパンケーキを食べさせられていたのは気の毒だった。よく食べるレオと巨漢のソウでさえも、さすがに辛そうだった。ロンドとシャリオは至ってシンプルなハチミツがけのものと、チョコレートソースがけのものを食べていた。あの二人は完全に安全圏にいた。


「ああいうのはトッピングも楽しいですよね」


「そうだよ。ボクも飾りつけしたい」


「では、今度一緒に作りましょうか」


「約束だぞ」


「ええ、約束です」


 車掌は手袋を外すと、運転士の差し出した小指に自分の小指を絡ませる。運転士の手は氷のように冷たい。


「約束を破ったら十年追加ね」


「おや、優しいですね」


「別に百年追加でもいいけど、今回のペナルティーで三十年追加になったんだから、これぐらいにしてあげる。て、いーうーかー、約束破らなければいいだけの話」


「おっしゃる通りです」


 車掌は小指を解く。

 車掌が夜想列車の車掌を務める理由。彼自身もこの列車の乗客だった。これから先、星になるのだと聞かされていた青年に声をかけたのが、目の前の運転士だ。


『これ、君のもの?』


 終点に着いて見せられたそれは一枚の写真だった。夜空を切り裂くような流星を撮った一枚だ。

 そうです、と答えた乗客であった青年に運転士は少し考えると、写真を手渡した。


『この写真から君の強い気持ちを感じる。普通、乗客が降りたら客室に残されたものは消える。だけど、これは消えなかった。強い想いが詰まっているから消えない。何か強い願いでもあるのか?』


 運転士の問いに青年は狼狽えた。心当たりがあるのだ。

 その反応に運転士は取引を持ち掛けた。


『命の輪を狂わせる覚悟があるなら、この列車で働く?』


 運転士は無表情で尋ねた。


『命の輪を狂わせる?』


『ああ。願いを叶えるためにこの世とあの世の狭間に残ることができる。ただし、条件……ペナルティーはある。それが、命の輪を狂わせることだ。星になる日が先になり、命の輪の巡りあわせが綺麗にはまるまで何十年、何百年、何千年と働くことになるかもしれない。どれぐらいの時を働いて過ごすかは今すぐわかることではない。追加されるかもしれないし、願いが叶う前に命の輪に戻されるかもしれない』


『……そんなこと、できるのですか?』


 青年は震えた声で尋ねた。対して、運転士は冷めた眼差しで車掌を見つめた。


『お前が望めば。ただし、この列車での仕事にきちんと向き合えると誓い、命の輪から外れることを理解したのであれば。この列車に乗る客は様々な事情を抱えている。どれだけ残酷で目を背けたくなるようなものを抱えている客がいてもきちんと向き合えるか?』


 運転士は深い闇色の瞳で青年を見上げた。底の見えない、感情のない闇の瞳が青年を見据える。


『お前は死者を葬るための列車、この夜葬列車と共に夜を旅する覚悟があるか? 自分の強い願い……一人の人間のために、自分の時を、魂を犠牲にできるか?』


 青年は運転士の迫力に身体を震わせる。運転士の方から声をかけてきたくせに、自分が頼み込んでいるような気がしてしまうほどの強い圧を感じる。


『……』


『別に断ってくれても構わない。この写真を持って、星になればいい』


 青年は写真をじっと見つめる。自分の叶えたい願い。たとえ、それが彼方にある星を掴むような難しいことでも、何かしないことには始まらない。

 何もしなことには確率は上がらない。それを彼女に伝えたのは自分だ。


『僕を使ってください』


 青年は黄金の月色の瞳で真っ直ぐ運転士を見つめた。強い意志を秘めた瞳に運転士はただわかったと応じた。

 その後のことはとんとん拍子で事が進んだ。車掌は会ったことはないが、運転士が我が主とやらに話を通してくれたようで夜想列車の車掌となることを許された。運転士が言ったように、命の輪から外れ、どれほどになるかわからない時間を犠牲にして。


「ずーっと働かされるかもしれないのにね。あの後もボク、脅したのにね」


「ええ。と、言うか、あなたの方から声をかけてきたではありませんか」


「まさか、応じるとは思わなかった」


 運転士を前にした彼はわずかに震えていた。当然だ。命の輪を狂わせ、これから先、気が遠くなるほどの時と自分の願いを天秤にかけたとき、どちらが傾くのか。運転士からすると、他人のために先のわからない時を捧げるなんて馬鹿げていると思った。

 写真を届けることが運転士の目的。乗客のいなくなった車内には物が残らないはずなのに、彼が使っていた客室には一枚の写真が残されていた。それほどの強い想いを持つ乗客は珍しく、どれほどの覚悟を持っているのかと試してみたくなった。強い覚悟を持っていても、条件を知れば揺らぐだろう。そう運転士は考えていたため、断られると思っていた。

 だが、彼はこちらに頭を下げて自分を使ってくれと言ってきたのだ。運転士の予想に反した行動を彼はとった。


「でも、強い想いが詰まっていたことはわかっていたから働くと言ったときも驚きはしなかった」


 わかった、と言う言葉ひとつに込められていた。そうか、というその程度のことしか運転士は思わなかった。


「変な子だとは思ったよ。命の輪を狂わせることにとくに迷いはなかったみたいだし。代償を払ってまで願いを叶えたい……会いたいって言うわりに、姿を変えてくれって言うのもどうなのって思った」


「さすがに十七の姿で車掌は舐められるでしょう?」


「それはまだわかるけど、髪と目の色を変えろなんてさ」


 黒の髪に琥珀の瞳。車掌の本来の姿と正反対の白銀の髪に青の瞳を彼は希望した。とくに、彼の瞳は夜空色の瞳がいいと拘りが強かった。夜っぽくていいでしょう、と姿の変わった鏡に映る自分を指して笑っていた。


「会いたいんだか、会いたくないんだか。……まったく、人間ってよくわからない」


「そんなことを言って、あなたも人間らしくなってきたじゃありませんか」


 運転士は目をパチクリとまばたかせると首を傾げる。


「そう?」


「はい。パンケーキの話だってそうです。感情がはっきりとしてきました」


 初めて出会ったあの日と比べると運転士の表情は豊かになった。冷めた漆黒の瞳も、横一文字に引き結ばれた口元も、ピクリとも動かなかった表情筋も今は見られない。喜怒哀楽が幼さの残る顔に出てくるようになった。


「君は何か勘違いしているね。これは君たち、人間の模倣だよ」


 運転士は立ち上がると手を広げてくるりと身体を回転させる。車掌のものとは違い、黒の制服に金の刺繍がされた制服が翻る。少しゆったりとした作りの制服だ。


「ボクは物なんだ。本来、感情なんて持たない。今まで見てきた人間たちの行動から、こういうときはこういう振る舞いをするということをしているだけ」


「パンケーキもそうですか?」


「うん」


 夜空色の瞳に疑惑の色が浮かぶ。初めて会ったときは確かに無表情で感情のない淡々とした調子だったが、今はどうか。姿の割に大人びた表情をすることもあるが、言動は人間らしく、パンケーキを食べたいと欲が出ているような気がする。


「皆で食べると楽しくて美味しい。それが人間でしょう?」


「……仲間外れにされて拗ねているのですか?」


「拗ねてない!」


 運転士はポカポカと車掌の腕を叩く。これは図星だ。車掌は拗ねているではありませんかという言葉を飲み込んで、運転士を宥める。本当に人間らしく、感情を表に出すようになった。


「美味しいという気持ちも模倣ですか?」


「そうだよ」


「味覚も模倣でしたか」


「うん。ボクは基本的に石炭以外を動力源としないから」


「うーん……。その姿でその発言はちょっと……」


 可愛らしい見た目の運転士だ。パンケーキが好物と言えばそれらしく見えるが、やはりまだまだ人間らしいとは言えない部分もある。


「だって、石炭がないと動けなくなる」


「あなたの場合はとくにそうでしょうね」


 車掌は苦笑する。このような発言をする者はごく一部に限られる。


「どうしてそんな顔をするの?」


「あなたと僕は異なる存在なんだなと思っただけです」


「それはそうだよ。ボクは無機物で、君は人間。全然違う」


 運転士は深い闇色の瞳で車掌をじっと見つめる。その瞳は列車の黒い巨体と同じ色だ。


「ま、意外と人間観察も悪くないよ」


 運転士はにいっと口の端を上げると小さな手を差し出す。


「少しはスッキリした顔になったね、車掌。また君と過ごす時が増えた。これからもよろしく」


「……ええ」


 車掌はソファから立ち上がり、運転士の目の前に立つ。子どもの姿に騙されてはいけない。この運転士は曲者で、自分よりもうんと年長だ。そして、頼りになる存在だ。

 手袋を外した手で運転士の手を握る。冷たい運転士の手は血の通う人とは違うことを思い知らされる。

 列車の汽笛が鳴り響く。


「人間ってこういうことするんでしょう?」


「そうですね。……私からも、よろしくお願いしますね、夜想列車ノクターン


 車掌は手を軽く上下させて手放す。運転士、否、子どもの姿をした夜想列車は大きく頷く。

 彼女にゆっくりと、と言ったものの、もしかしたら、今度は待たせる立場になってしまいそうだ。どれほどのペナルティー時間が追加されるのか、今の車掌にはわからない。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン、と列車は夜を走る。


「さーてと。次の魂について予習しよっと」


「ええ、そうですね」


 車掌は気分を切り替えようと空を見上げる。彼女の瞳を思わせる白銀の輝きを散りばめた夜空が広がっている。

 星がひとつ流れる。彼女が無事に目覚め、これからを生きてくれることを願う。

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