第8号車 小さな夜を君と想った

 世界を包むように広がる空をセレナは静かに見上げている。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン、と列車の外を景色が流れて行く。今まで通ってきた道がどんどん遠ざかっていく様子をぼんやりと眺める。どこか懐かしいその景色は以前住んでいた小さな街そのものだ。あの街で過ごした日々はセレナに忘れたくても忘れられない大切な思い出だ。

 コンコンコン。ノックが三回響くとセレナはビクリと身体を震わせる。


「……、ど、どうぞ」


 絞り出した声は扉の向こうまで聞こえるだろうかと思われるほど小さく、か細いと自分でも思う。

 扉がゆっくりと開くと紺色の制服に身を包んだ人物が姿を現す。その人物の姿にセレナは身を縮こまらせる。

 白銀の髪が揺れる。その前髪の下に覗くのは黒の仮面だ。顔の上半分を覆う仮面には星を思わせるような金の装飾が施されている。

 その人物はゆっくりとセレナの元に歩み寄る。


「あ、あの、車掌さんですか?」


「……」


 仮面をした青年は無言で手袋をした手を差し出す。


「え?」


 セレナはその手の意味がわからず首を傾げる。すると、青年は指で長方形を描く。掌よりも小さな長方形に恐れていたものを想像して背筋が凍る。


「……もしかして、切符?」


 仮面の青年は小さく頷く。横一文字に結ばれた口元はピクリとも動かない。


「実は……私、切符を持っていなくて……」


 青年の表情が全く読めない。唯一見える口元も全く動かない。言葉も発さないため、青年の感情や考えを得る手段が一切ない。

 怖い。切符を持っていないことで降車を促されるのではないかという不安も相まって、恐怖が大きくなる。青年の無言の圧が恐ろしく、表情がわからないことがこれほどまでに怖いとは思わなかった。


「……」


青年は手を下ろす。諦めたようなその動きにセレナは身をさらに強張らせる。


「ごめんなさい」


セレナは頭を深く下げる。列車に乗る前のことが脳裏をよぎる。

 汽笛が鳴ると反射的に走り出し、列車に飛び乗った。逸る鼓動が収まったときにやっと切符の存在に気がつき、どうしようと焦りながらも一度落ち着こうと席に着いた。少しして、見慣れた景色が車窓に広がり、気持ちが落ち着いたのだが、いい案は浮かばなかった。自分から訳を説明しに行こうと思い、客室を出た。しかし、隣の車両へ行くための扉は鍵でもかかっているのか、開かなかった。

 どうすればいいのか。そんな不安で胸が痛むのを耐えていると、アナウンスが流れた。車掌が切符の確認に来るというアナウンスを聞き、そのときに説明をしようと決意した。そして、遠ざかる景色を眺めながら車掌が来るのを待ち、現在に至る。

セレナは顔を上げる。仮面に覆われているせいか、表情がわからない青年はじっとこちらを見下ろしている。


「その、お金は払いますから、終点まで乗せてください」


少ないがいくらか金はある。この列車が通常のものならいいのだが、客室の様子やアナウンスを聞いた限り、一両につき客は一人のようだ。普通の列車の運賃よりはるかに高いだろう。手持ちの金では絶対に足りないとはわかっている。

 それでも、セレナはこの列車に乗り、終点に行く理由があるのだ。


「……」


青年は何も言わない。表情が分からず、口元も動かない。セレナにとって、その様子が恐ろしい。

だが、ここまで来たら引けない。

セレナは夜空色の瞳に強い光を宿し、青年を見上げる。緊張からか、鼓動が早くなる。


「足りない分はまた後日支払うと約束します。ですから、終点まで乗せてください」


「……」


青年は何も応じない。代わりに、宙に白銀の線が走る。流星のような動きをするそれをセレナは夜空色の瞳で捉える。


《それはできません》


文字が浮かぶ。その文字は新聞や本などで見慣れた活字を思わせる。癖のないその文字が機械的に見えてしまう。


「これは車掌さんの言葉ですか?」


青年は応じるように小さく頷く。宙の文字が溶けるように消え、新たな文字が浮かぶ。


《筆談ですがご容赦を》


「あ、いえ、それについては問題ありませんので……」


筆談であることは気にしない。あえて言うなら、宙に文字が浮かぶことが気になるぐらいだ。どこからともなく流れ星のように光が流れて現れる不思議な文字だ。

いいや、その前にだ。文字のことよりも重要なことを青年が文字で表していた。


「あの、もうひとつ前の文章を」


セレナが言うとまた文字が消えて、新たな文章が浮かぶ。


《あなたを終点までお連れできません》


 銀色の文字が無情にも告げる。


「そんな……」


 当たり前だ。金を支払わずに飛び乗ったのだ。そもそも、乗車する権利がセレナにはない。降りろと言われても致し方のないことだ。たまたま、この客室の本来の主が今回はいないだけで、もしも本来の客がいたのであれば問題となる。

 だが。

 セレナは夜空色の瞳の光を弱めない。


「どうか、お願いです! 私を終点まで連れて行ってください!」


「……」


 夜空色の瞳が真っ直ぐに青年を見上げる。キラキラと星が瞬くような瞳は力強いが、青年は緩やかに首を横に振る。


「お願いします!」


「……」


 白銀の光がまた浮かぶ。


《規則により、あなたをお連れすることはできません。ご了承ください》


「お願いです。会いたい人がいるんです」


 セレナは立ち上がり、頭を下げる。栗色の髪が肩からこぼれ落ちる。少し癖のあるその髪から白い項が覗く。その首は簡単に折れてしまいそうなほど細い。


「……」


 青年はセレナの薄い肩に手を伸ばし、身をゆっくりと起こさせる。


「車掌さん?」


 不安そうに青年を見つめる瞳の中で星が揺らめく。


《規則です。あなたが何と言おうと終点までお連れできません》


 青年の手が薄い肩から離れる。


「そこを何とか!」


 儚げな見た目に似合わず、セレナは頑なに引き下がらない。押しに弱そうに見えるのだが、彼女には強い意志があり、どうしても譲れないとその瞳が訴えている。


「どうしても会いたい人がいるのです」


「……」


「何でもします。だから、私を連れて行ってください」


 どうか、と言いかけたセレナの言葉を遮るように青年は人差し指を立て、横に引き結ばれた薄い唇に添える。


《簡単に何でもしますと言ってはなりません》


「ですが、」


《あなたは、この列車の役目をご存知ですか?》


「列車の役目?」


 青年はゆっくりと手を下げると、窓の方へと視線を送る。

 ぽつぽつと街灯が点く街並みの上に星空が広がる。いくつか星が流れる夜空はセレナの瞳を思わせる。


《夜想列車のお客様には夜を想う素敵な時を過ごしてほしい。そのような願いが込められた列車です》


「夜を想う時……」


 セレナも窓の外を見る。以前住んでいた街の景色がずっと広がっている。

 空気の澄んだ街はセレナにとって懐かしい。星が美しく見える街でもあり、眠れない夜に空を見上げ、星々を数えていた。満天の星が広がる街は忘れらない。あの街で過ごした日々は楽しく、素敵な思い出で溢れていた。

 先日のことを知らなければ。

 セレナの胸が痛む。胸を押さえると、青年がすぐさま反応し、顔色を窺うように身を屈める。


《苦しいのですか?》


「大丈夫です……。その、お話の続きを」


 仮面で覆われて見えないが、青年の口元がわずかに震えたように見えた気がした。文字も少し大きくなり、すぐさまに浮かんだ。本当に些細なことだが、青年が感情を表に出したかのようだ。

 セレナは深呼吸をする。ゆっくりと息を整え、胸を押さえた手を下ろす。


「落ち着きましたから」


 セレナが先を促すと、青年は姿勢を正す。わずかに唇が弧を描くも、すぐに横に引き結ばれてしまう。

 文字が消え、白銀の流星が走る。


《夜想列車は夜を想うための列車です。……そして、葬るための列車でもあります》


「葬るって……」


《夜葬列車。死者の魂を夜に運ぶ列車でもあります。乗客は全て死人です。あの世へ渡り、いつか星になる彼らはあの世とこの世の狭間で夜を過ごす。彼らにとってこの世の夜を最期に想う時を提供することが私とこの列車に課せられた使命です》


 一号車から七号車には七人の客がいる。歳も性別も皆違う。幼い子どもから老人まで、それぞれが夜を過ごすのだ。自分たちがどうなるのか理解している者も、そうでない者も安全に終点あの世へ運ぶ。彼らのことをよく言えば見守り、悪く言えば監視するのが青年と夜想列車に課せられた役目だ。


「……」


 セレナは視線を下げる。

 夜を想う列車と聞くと美しい名前だが、夜に葬る列車と聞くと背筋が凍る。


《あなたはまだ死んでいません。死者を乗せるという規則に反するため、生者であるあなたをお連れすることはできません》


「……」


 セレナの胸が痛む。苦しい。

 気がついたら見知らぬ駅にいたのだ。最初は混乱したが、周りの様子を見て薄々死後の世界だと感じてはいた。

 自分がいるべきではない場所だと。

 あの世とこの世の交差点。周りの会話からセレナはそう察した。そして、あの世とこの世の狭間になぜかいる自分に疑問を持った。駅員に話しかければ帰ることができるのではないかと思った。が、駅員に話しかけて帰ろうとはせず、列車に飛び乗り、目的地に行こうと決めたのだ。

 どうしても会いたい人がいるから。


《まだあの世とこの世の境目。今ならまだ間に合います。あなたは帰ることができる》


「このまま乗っていたら、私は死んでしまうのですか?」


《はい》


「……」


 セレナはふらふらと席に腰かける。重い息を吐くと、窓に頭を預ける。

 懐かしい景色が流れて行く。自然豊かな街だった。記憶にあるものと寸分違わない景色が遠ざかっていく。


「会いたい人がいるのです」


 セレナはゆっくりとまばたきをする。


「先日、その人が亡くなったと聞きました。それも、もう少しで亡くなって八年になるそうです」


 セレナ、とその人物が呼ぶ声が聞こえる。頼もしい彼の優しい笑顔が思い起こされる。


「気がついたら駅にいました。そこで夜想列車の案内を見つけたのです。」


 彼が亡くなったと聞いて意気消沈していた。食欲が湧かず、ずっと泣いていた。何日もそのような日が続いていたと思う。

 気がつくと見知らぬ駅にいた。訳も分からず、とにかく情報を集めようと構内を歩いていたところ、案内板を見つけた。現在地や出口を確認している際にアナウンスが聞こえた。そのアナウンスは列車の発車時刻を告げるもので、その中には夜想列車の発車時刻も含まれていた。その名前が気になったセレナは改めて案内板を見つめると、列車の紹介が書かれていた。


【夜想列車。夜を想う時を過ごすための列車】


 シンプルな説明文だった。他の列車の説明もそうだったが、紹介文を見たとき、セレナの脳裏に一人の人物の顔が浮かんだ。彼は夜が好きな人だった。一緒に夜空を見上げたこともあった。

 この列車に乗れば、もしかしたら彼を知る人物がいるかもしれない。彼に会えるかもしれない。

 そう思ったセレナの耳に汽笛の音が届く。そちらを見やれば、間もなく夜想列車が発車します、とアナウンスが流れた。

 そこから先のことははっきりとは覚えていない。ただ、急いで乗らねば、と焦る気持ちから飛び乗った。


「彼のことが少しでもわかるかもしれないと思って、飛び乗ってしまいました」


 夜空色の瞳が青年を見上げる。白銀の髪の下の仮面のせいで表情が本当に読めない。


「オルガという人です。ご存知ないですか?」


《存知上げません》


 機械的な文字がセレナには冷たく見える。


「そうですか」


 セレナは深く息をつく。車掌と思われる青年なら、過去の乗客にオルガがいたことを知っているかもしれないと思ったのだが、その希望は打ち砕かれた。

 セレナは深々と息をつく。


「……もう、疲れました」


 弱々しい声が列車の駆動音にかき消される。


「このまま、この列車に乗せてください」


 そうすれば彼に会えるかもしれない。向こうで彼に会えるのであれば、このまま。

 セレナの瞳から涙が零れる。頬をゆっくりと雫が伝う。水晶のような涙をセレナは拭う。泣いたところで何か起きるわけではないのだ。


「……」


 青年は静かにセレナの向かい側の席に腰かける。夜空色の瞳がただぼんやりと星の流れる空を見上げている。儚げなその姿は今にも消えてしまいそうだ。


《そのオルガという人とはどのような関係なのですか?》


「……」


 栗色の髪が揺れ、セレナは気まずそうに俯く。

 なぜ青年がオルガとの関係を知りたいと言うのか。知ったところで、セレナのことを終点まで連れて行けないはずなのに。連れて行かないと言ったはずなのに。


《その人のことを教えていただけませんか?》


「ですが……」


 セレナが渋ると、白銀が流れる。


《場合によっては、今回は見逃しますから》


 夜空色の瞳が揺れる。


「本当に?」


 白銀の文字が追加される。


《確約はできません。が、何もお話してくださらないのであれば、今すぐにでも降車していただくことに変わりはありません》


 セレナは白銀の文字を何度も読む。読み間違いではないことを確かめる。

 確約ではない。それでも、話せば。わずかな希望にかけてみるのも悪くないかもしれない。

 

『やってみないことには確率は上がらない』


 セレナにとって、転換点となる日に彼が言った言葉だ。

 セレナはゆっくりと呼吸をして、姿勢を正す。


「……彼は……オルガは私の数少ない友人です」


 少しの沈黙の後、セレナはぽつりと答える。


「私、昔は身体が弱かったのです。とくに心臓が悪くて、外に出ることがほとんどありませんでした」


 幼い頃は病院の中だけが行動範囲だった。外を走る子どもたちの様子を窓から眺める日々が続き、両親もひどく心配していた。それでも、幸いなことに徐々によくなっていき、薬を手放すことはできないものの、家に帰ることができるまでに回復した。ただし、激しい運動はできず、基本的に家にいることの方が多かった。家の窓から外を羨ましそうに眺める娘のことを憂いた両親は自然豊かで空気の澄んだ街に引っ越すことにした。その街に優秀な医者がいることも決め手となり、一家はその街に引っ越した。

 美しい街だった。決して大きくはないが、自然に囲まれた街には人の行き来が多かった。ふたつの大きな街との間にある街として栄えていた。その街のことをセレナはすぐに気に入った。季節によって変わる景色がセレナの心を楽しませた。とくに好きになったのは星空だ。白銀に輝く星々は春の花畑のように広がり、流れ星に少しでも病気がよくなるようにと願いを託した。時々、家の庭で日向ぼっこをしたり、母親と一緒に買い物に出るようになるほど回復していった。

 しかし、そう簡単に物事は上手くいかなかった。引っ越してから三年ほど経ったある日、突然容体が急変した。上手く呼吸ができず、意識が遠のいていくあの感覚は今でも思い出せるほど苦しい記憶だ。何とか一命は取り留めたものの、薬の量や種類が増え、医師に診てもらう機会も増えた。それだけならまだよかったのだが、行動を制限されてしまった。散歩に出ることもままならない状態になり、セレナはふさぎ込んでしまった。


「そんな時に、彼……オルガが隣に引っ越してきました」


 セレナはふさぎ込んでいたため、挨拶に応じることはなかった。セレナよりもひとつ年上の男の子と両親の三人が越してきたと両親から聞いた。優しい雰囲気の男の子だった、と両親は言ったが、そのようなことを聞いたところで、とセレナはそれ以上のことは聞かなかったし興味もなかった。家から出ることなどないのだから、知る必要などないと思ったのだ。

 彼が越してきて一週間が経った日の朝。彼が改めてセレナに挨拶をしたいと訪れた。セレナの両親に連れられてきた彼は、こんにちは、と物腰柔らかな笑顔でセレナに挨拶をした。


『僕はオルガ。よろしくね』


 そう言って彼は手を差し出した。セレナは恐る恐るその手を取った。少し冷たい彼の手はセレナの手を優しく包み込むように握った。

 話をしようよ、と彼は色々な話をしてくれたが、セレナはあまり興味を示さなかった。彼の話を聞けば聞くほど、外が恋しくなってしまった。落ち込むセレナの様子に気がついたのか、オルガは、ごめん、と小さく謝ると何を思いついたのか、すぐに戻ると言って急に部屋を飛び出した。セレナも両親も驚き、呆然としていると、オルガは約束どおりすぐに戻ってきた。腕一杯にアルバムや写真集を抱えてきたオルガはその中の一冊のアルバムをセレナに見せた。そこには可愛らしい動物や美しい自然の景色、立派な建物、そして、星空の写真が収められていた。


『何が好き? 好きな写真ある?』


 まだあるよ、と言ってオルガはセレナにアルバムを見せた。困惑するセレナにこれはどうだ、こっちはどうだ、とまくし立てるようにオルガは写真を見せた。まあまあ、とセレナの父が宥めるとオルガははっと息をのんで謝った。


『びっくりさせてごめん。今日はこの辺で失礼するよ。これ、置いて行くからよかったら見て。明日も来るから、感想を聞かせてほしいな。それじゃ、また明日』


 手を振って彼は駆けて行った。風のような人だと思ったセレナの手元にはアルバムと写真集が残された。山のように積みあがったアルバムたちをセレナは呆然としながら見つめ、両親も、こんなにたくさん、と驚いていた。

 夜、セレナはアルバムを手に取った。様々な写真がある中で、列車と空の写真が多いことに気がついた。中でも、星が降り注ぐような夜空の写真に惹かれた。白銀の筋が瑠璃色を切り裂くように流れ、キラキラと輝く金平糖を敷き詰めたような夜空だ。全体を見たら美しいであろう夜空の一部分を切り取った写真は見れば見るほど惹かれた。

 そして、オルガは約束どおり、次の日もやってきた。どうだった?、と陽だまりのような温かい声音で尋ねてきた。


『まだ全部は見てないけど、どれも素敵な写真だった』


『そうでしょう?』


『あなたが撮ったの?』


『ううん。僕が撮ったのはほんの一部で、後は父さんが撮ったものや買ったものなんだ』


 僕が撮ったのは例えばこれ、とセレナの目を惹いたあの夜空の写真を開いて見せる。


『これ、あなたが撮ったの?』


『うん。中々綺麗に撮れたと思う』


『そうだね。すごく綺麗』


 セレナはその写真をじっと見つめる。この街の夜空も美しいが、この写真の流れ星が降り注ぐ様子を手元に残せるとは。本物も見てみたくなった。


『この写真、気に入った?』


『うん。この写真が一等好き』


『じゃあ、あげるよ』


『え?』


 セレナがポカンとしているとオルガはアルバムから写真を取り出し、セレナに差し出す。琥珀色の瞳を輝かせながら、オルガは、あげる、とセレナの膝に置いた。


『いいの?』


『いいよ。セレナの目とお揃いだね』


 オルガは無邪気にそう笑った。

 それからだった。オルガはちょくちょく遊びに来ては他愛のない話をして帰って行く。セレナの知らないことを彼はたくさん知っていた。徐々にセレナも元気を取り戻し、体調もゆっくりではあるが回復していった。セレナの両親は娘のその様子に胸を撫で下ろした。


「彼は街でできた数少ない友人になりました」


 家の中が主な行動範囲であったセレナにとって友人は少ない。片手で足りるほどの数しか友人のいないセレナにとって、オルガは特別な友人だ。


「オルガは手先が器用で、星空の写真をいれる写真立てを作ってくれたのです」


 できたよ、とある日突然持ってきたのだ。紺色の枠に銀色の石で飾られた写真立て。写真の夜空を思わせるような写真立てだった。作ったの?、とセレナが尋ねると、うん、と元気よく答えてくれた。

 その後も何かを作ってはセレナにプレゼントしてくれた。繊細な細工物から、その場でぱぱっとできるものまで、色々なものを作ってくれた。


「でも、手先は器用なのに、彼ってばオルガンを弾くのに四苦八苦していたんです」


 セレナは淡く笑う。セレナの家にはリードオルガンがあった。孫娘の気晴らしになれば、と祖母が昔使っていたオルガンを贈ってくれたのだ。

 そのオルガンを一緒に弾こうとセレナが誘うと琥珀色の瞳を輝かせて彼は頷いた。初めて触るとは言っても手先が器用なオルガなら簡単に弾けるだろうとセレナは思っていた。しかし、セレナの予想に反して、オルガは片手でドレミファソラシドとオクターヴ弾くのでさえ苦労していた。あれ?、と何度も繰り返すオルガの姿が意外だった。両手ともなると小さく唸りながら弾き直していた。


《オルガンを弾けるとは、素敵ですね》


「弾けると言っても簡単な曲だけですよ」


 本当に簡単な曲だけだ。当時ですら弾ける曲は少なかったのに、今となってはさらに減ってしまったと思う。指もまともに動くかどうか、という状態だ。


「オルガとオルガン……。よく似ているねって話もしたんです」


 オルガは、そうだね、とオルガンの鍵盤を眺めながら穏やかに笑っていた。


『僕の名前はね、organが由来なんだよ。臓器や器官という意味や組織とかの機関を指すことから、欠けてはならない存在になってほしいという願いを込めたって言ってた』


 セレナは?、とオルガが尋ねる。


『穏やかな子に育ってほしいからセレナって名づけたんだって』


『穏やかか……』


 うーん、とオルガは琥珀色の瞳でじっとセレナを見つめた。陽だまりのような温かい瞳は視線を一切逸らさずにじっと見つめていた。


『な、何?』


 さすがに恥ずかしくなったセレナは視線を逸らす。当のオルガは何か納得がいったのか琥珀色の瞳をさらに輝かせた。


小夜曲セレナーデだ』


『小夜曲?』


『うん。小夜曲って夜に演奏されるものだったって。ほら、セレナの瞳って星空みたいだから、夜繋がりで小夜曲ってぴったりだと思った』


『星空……』


 自分の瞳をそのように思ったことはなかった。深い青色の瞳は気持ちが沈んでいるときに鏡を見ては、何て暗い瞳をしているのだろうと何度も思い、嫌で嫌で仕方なかった。

 そんな瞳をオルガは星空みたいだと言う。


『うん。金平糖を散りばめたような星空みたいな目。君にあげたあの写真なんて、まさに君ぴったりだと思ったし』


 白銀が空を駆ける一枚。自分の瞳はあんなに光輝く美しい夜空のようだろうか。

 そう疑問に思ったセレナはオルガの瞳を見て夜空の黄金色を思い出す。


『オルガの目は金色の月みたいね』


『月? あー、光の射し込み加減では金色に見えるかも』


 アンバーの瞳は光が射しこむと金色に見える。

 オルガの瞳はまさに黄金色の月のようだ。黒髪と金色の瞳の組み合わせは暗闇に浮かぶ満月のようだ。


『あはは。セレナと僕は夜に縁でもあるのかな?』


『そうかも』


 そんな会話をしたものだ。


「だから、夜想列車に惹かれてしまったのかもしれません」


 セレナが窓の外を見ると先ほどまでなかった金色の満月が浮かんでいる。その月はオルガのあの瞳を思わせる。柔らかなぼんやりとした光はセレナを優しく見つめるオルガの瞳を思わせる。


「彼とは何度も夜空を見上げました」


 夜になると窓を開けて空を見上げた。約束の時間になると、互いに窓を開けて、話をしながら夜空を見上げた。

 天の川、獅子の心臓、黄金色の月、ぼんやりと見える星雲、北極星。オルガは星座図を片手に星と星を繋いで星座の神話を語った。星の本を片手に星の一生を教えてくれたこともあった。


「そんなある日、私はまた体調を崩しました」


 はじめは冷える夜のせいだと思ったが、違った。まだまだ身体は弱いままで、悪化していった。オルガンを弾くことも、夜空を見上げることも、花を眺めることも少なくなった。薬の副作用で食べても戻してしまう日々が続き、徐々に食欲もなくなった。結果、段々痩せてしまい、今まで着ていた服がぶかぶかになるほど痩せ細った。

 手術を。このままでは危険だ。隣街の病院でなら手術を受けられる。

 医師からそう言われた。両親はすぐさま準備を始めようとしたが、セレナ本人がその気になれなかった。

 絶対によくなる保障はどこにあるのか。気持ちが沈むセレナは両親との会話も減ってしまった。

 不安で胸が苦しくなる。両親の顔を見るとなおさらだ。ただでさえ金がかかるのに、手術のために入院ともなるとまた金がかかる。両親が金の工面をどうするかという話をしているところをたまたま聞いてしまい、これ以上両親に負担をかけたくないという思いが強くなっていった。


『セレナ』


 少し曇った夜、オルガが訪れた。ラベンダーの飾りをつけたクマのぬいぐるみを抱いた彼がいつになく真剣な表情で来た。オルガともしばらく会っていなかったセレナはどこか懐かしい思いで彼を迎え入れた。オルガの後ろには心配している面持ちの両親がいた。両親がオルガをセレナの部屋に連れてきたのだろうと察したセレナは、オルガは両親に頼まれて説得をしにきたのだと思い、彼に背を向けてベッドの上で丸くなった。オルガが静かな声で両親に二人きりにしてほしいと言うと一度は渋ったものの、扉の外にいるだけでいいという条件のもと、両親はオルガの言葉に従った。

 オルガは静かにセレナのもとに歩み寄ると優しい声でセレナを呼んだ。セレナはそれに何も応じなかった。


『セレナ。手術は受けないの?』


 オルガに手術の話が知られていた。間違いなく両親に説得するように言われたのだろうとセレナは身構えた。毛布を握る手が震えた。


『手術、受けたくないのはどうして?』


『……』


『手術は怖いよね』


 オルガの優しい声が染みわたる。いつも以上に優しいその声に胸が押しつぶされそうになった。


『絶対よくなるとは言えない。でも、やってみないことには確率は上がらないからね』


 静かだが、力強い声でオルガは言った。


『ねえ、セレナ。僕のお願いを聞いてくれない?』


『……お願い?』


『そう、お願い』


 セレナは少しだけ肩越しに視線を送る。金色の瞳がセレナを真っ直ぐに見つめている。


『君の体調がよくなったら、僕と一緒に海を見に行こう』


『海?』


 セレナはゆっくりと起き上がり、オルガを見つめる。意を決した金の瞳がセレナを真っ直ぐに見つめていたことを今でも覚えている。あのような目のオルガを見たのはあの日が初めてだったと思う。いつものぼんやりとした柔らかな光ではなく、貫くようなはっきりとした光を月色の瞳に宿していた。


『うん。僕、海に行ったことないんだ。写真を見て、空と同じように綺麗だなって思ってから、いつか行ってみたいと思ったんだ』


 セレナはアルバムの写真の中に海を撮ったものがあったのを思い出す。あの写真は彼の父親が撮ったものではなく、買ったものなのかもしれない。


『海で見る夜空も見てみたいんだ。だから、君の身体がよくなったら、僕と一緒に海に行ってくれる?』


『……』


『また返事を教えてね。そうそう、このクマのぬいぐるみはセレナにあげるね。夜遅くにごめんね、セレナ。おやすみなさい。よい夢を』


 そう言ってオルガはぬいぐるみをベッドに置いて出て行った。セレナは可愛らしいぬいぐるみを抱いて、横になった。その日の夜は海に一緒に行こうというオルガの言葉が離れず、あまり眠れなかった。

 その次の日だった。両親に改めて説得された。セレナは首を横に振ったが、両親は大丈夫だとはっきりと言った。金の工面がついたからと言ったのだ。一体どこから、とセレナの疑問に二人は答えなかった。

 また数日後にオルガが訪ねてきた。具合はどう?、と最初に尋ねたきり、普段どおりに彼は話をした。


『ねえ、オルガ』


『何?』


 昨日の晩はリゾットだった、というオルガの会話を中断させたセレナはぬいぐるみを膝に乗せた。可愛らしい円らな瞳のぬいぐるみの頭を撫でながら、セレナは小さな声で尋ねた。


『海に行こうって、どうして私なの?』


 ずっと考えていた。彼の両親と一緒に行くのでは駄目なのだろうかと考えていた。

 オルガは月色の目を丸くして、照れるように笑った。


『セレナと一緒がいいなって思って……。嫌ならいいよ』


『嫌じゃないけど……。私も海行ってみたいし』


 セレナは本物の海を一度も見たことがない。病気のため、遠出が許されることがほとんどなかったからだ。

 写真で見た海は綺麗だった。透き通った海中を悠々と泳ぐ魚たちが可愛らしい一枚があった。あのような海を実際に見ることができたらいいなと写真を見たときに思った。


『セレナ。やっぱり、手術は受けたくない?』


『……』


 セレナは小さく頷く。


『そう……』


『オルガは受けてほしいの?』


『……手術を受けるのはセレナだ。僕が決めることじゃない』


『……怖いの』


 セレナはぽつりと呟いた。


『治るっていうのは、あくまで可能性であって、絶対じゃない。それに、これ以上、お父さんとお母さんに負担をかけたくないの』


 ここのところ両親もやつれた。いつセレナに何が起きてもいいように、交替で睡眠をとっているらしい。それに加え、家事や仕事もあるのだ。疲れが溜まるに決まっている。


『お金の心配もあるし、私は……』


『お金のことも、病院のことも大丈夫だよ』


『どうしてオルガがそれを言うの?』


『ご両親がそう言ったから』


『でも……』


 セレナは胸を押さえる。痛くて、苦しい。病気のせいか、恐怖のせいか。


『怖いの。手術が怖い』


『……』


 オルガの手がセレナの頭を優しく撫でる。


『怖いよね。どうなるかわからないって怖いことだよね』


 大きな手がセレナの栗色の髪をゆっくりと撫でる。


『僕はセレナの身体が少しでもよくなるように祈るしかできない。だから、僕は手術を受けてって言えない。ご両親が言うならまだしも、赤の他人である僕が言うのは無責任だ』


『……』


『だけど、病気で苦しむ君の姿を見るのはとても辛い。ご両親はもっと辛いんだろうなって思うよ』


 オルガの声が低くなった。


『セレナには病気で苦しんでほしくない。だけど、手術が怖くて嫌がるのもわかる。……とんだ矛盾だよ』


 オルガは苦笑し、セレナの頭を撫でる手を止めた。深い呼吸があった後、オルガは陽だまりのような笑顔を浮かべた。


『……セレナ。僕と一緒に海に行ってくれるか、返事を頂戴』


 セレナの身体が震えた。温かな黄金色の満月がセレナを見つめていた。

 返事はすぐじゃなくていい、と言うとオルガはすぐに立ち去ろうとした。


『待って!』


 セレナは思わずオルガの服の裾を掴んだ。


『ねえ、今の……』


『……待つから』


 オルガはセレナの手を優しく解くと、泣きそうな顔で笑った。彼のそんな顔を初めて見た。いつも穏やかに笑う彼がこんなにも悲しそうな表情をするとは思ってもみなかった。

 その笑顔にセレナの胸が痛む。病気のせいか、それとも。

 浮かんだ気持ちにふたをしたセレナはオルガの手を包み込むようにして握る。いつもよりも冷たい気がする手を強く握る。


『……オルガ。私からもお願いがあるの』


『何かな?』


 セレナはゆっくりと呼吸をすると、夜空色の瞳で彼を見上げた。


『手術、頑張る。だから、目が覚めたとき、傍にいてほしい』


 満月が大きく見開かれた。お願い、とセレナが言うとオルガは瞳を細めてわかった、と小さく頷いた。

 その次の日。両親に手術を受ける決心がついたことを伝えると、すぐさま準備が始まった。


《彼のことが好きだったのですか?》


 銀色の文字が浮かぶ。セレナはその文字に小さく頷く。


「そのときに言えばよかったと後悔しています」


 無意識に隠していた。手術が怖いのは彼との別れがあるかもしれないと思ったからだ。だから、目が覚めて、手術が終わったときに伝えようと思ったのだ。


「すぐに手術を受けました。そして、無事に成功しました」


 目が覚めたときの両親の顔が忘れられなかった。よかった、と繰り返して泣く両親の姿を見て、セレナも泣いた。医師から、大丈夫だろう、と言葉をもらった。

 しかし、彼はその場にいなかった。後日来るだろうと思っていたが、ずっと来ない。退院の日が近くなった日、両親にオルガのことを尋ねると、二人は気まずそうにこう言った。

 引っ越した、と。

 セレナの頭の中は真っ白になった。それも、引っ越したのは手術を終えた次の日だった。自然と涙が零れたセレナはオルガがくれたぬいぐるみを抱いてベッドに身を沈めた。

 引っ越し先も連絡先もわからない。両親にそう言われ、もう会えないとセレナはずっと悲しんだ。退院し、オルガが住んでいた家の様子を確認した。窓から見える部屋に家具はなく、当然人気はなかった。


《彼とはそれからずっと会っていないのですか?》


「はい。急に決まった引っ越しで、すでに入院していた私には挨拶ができず申し訳ないという言葉を両親に預けて行ってしまいました。彼と最後に会ったのは手術を受けると決めたあの日になってしまいました」


 街の人にオルガのことを尋ねて回ったが、彼らはオルガという男の子のことをよく知らないと言っていた。中には、そんな子がいたのか、と驚く人もいたのだ。

 手がかりなし。そんな状況が数年続き、セレナたちはまた引っ越した。身体の方の心配もとくになく、日常を送れるようになった。薬も徐々に減り、今となっては調子が悪いときだけ飲めばいいという薬だけになった。


《彼が亡くなったことを聞いたのはいつのことですか?》


 青年が尋ねるとセレナの夜空色の瞳が揺れる。


「つい先日です。たまたま、近くに越してきた人がオルガのお父さんのお友達で、共通の知人ということで話題になったときです」


 そのときにオルガのことを詳しく知った。

 オルガは不治の病に冒されていた。その人物は彼が生まれたときから知っていたようで、幼い頃からずっと薬を手放せなかったと言った。しかし、セレナの知るオルガは不治の病に冒されているようには見えないほど元気だった。それは薬のおかげで動けただけであって、オルガ自身の身体はボロボロだったのだ。手の施しようがないと何人もの医師に言われたオルガが望んだのは美しい自然に囲まれた場所で最期を迎えたいということだった。だから、オルガは引っ越していった。そして、八年ほど前に亡くなったとオルガの父から手紙を受け取ったと言う。


「彼自身も何度も手術を受けていたそうです。……オルガの方こそ、手術が怖いと知っていたのでしょうね」


 だからこそ強く言えなかったのだろう。

 オルガのことを聞いたセレナは両親にも話をした。すると、両親は重い口を開いた。

 オルガの病気のことを知っていたと両親は言った。初めて会った日にオルガ本人からそれを聞き、セレナには伏せておいてほしいと強く言われた。そして、セレナの手術費を工面したのはオルガだった。あまり家から出られないオルガは手先が器用なことを利用して様々な作品を作っては売っていた。暇を持て余していたオルガは興味本位で隣街に新しくできる図書館のアイデアの募集に模型を応募した。それが最優秀賞を受賞し、賞金が出た。その賞金と今まで売った作品の金の大半をセレナの手術費用にと差し出した。そして、セレナが手術を受けると決めた次の日に、もう自分は長くないと言って街から引っ越していき、後日、オルガが亡くなったとオルガの両親から手紙が送られてきたのだ。

 オルガの死を受け入れられずに呆然とするセレナにオルガの両親からの手紙に同封されたセレナ宛の手紙を渡された。



 セレナへ

 はじめに、君が目覚めたときに傍にいなくてごめんなさい。海に一緒に行こう、ていう約束も守れそうにない。本当にごめん。

 君と過ごした日々はかけがえのない思い出だよ。本当に楽しかった。ありがとう。

 どうか、これから先の未来がセレナにとって光に溢れた幸せな日々でありますように。

 さようなら。またどこかで会えたらいいな。

 


 綴られた字はオルガのものだった。震える字で綴られた手紙は短く、オルガの身体が本当に弱っていたことを思い知らされた。

 オルガの父の知人曰く、セレナが手術を受けると決めた頃、オルガの身体は薬が効かないほど症状が悪化していて、痛み止めも意味をなしていなかったという。そのような身体の状態で彼は海を見に行こう、手術が終わって目が覚めたときにそばにいると約束をしたのだ。一体どんな思いでセレナと約束をしたのだろうか。


「……全てを知ったときにはもう、オルガはこの世にいなかった」


 どうしてセレナに全てを隠したのか。オルガ自身、身体が弱く、外を出歩くことも少なかったため、彼を知る人物も少ない。オルガという人物が生きた痕跡というものも少ない。


「心配をかけたくないから? 知られたくないから? 同情されたくないから? 信用できないから? ……彼が私に話をしなかった理由を色々と考えましたが、わかりません」


《彼があなたに話さなかった理由は必要なのですか?》


 整った文字がセレナに問いかける。


「必要というか、私が知りたいだけです」


《知りたいから、彼に会いたいのですか?》


「……」


 セレナはゆっくりと首を横に振る。


「確かに知りたいです。だけど、彼に会いたいのは……」


 セレナの頬が紅く染まる。


「彼にまだ伝えていないことがあるから、です」


《……なるほど》


 青年がゆっくりと立ち上がるとぱっと照明が消える。


「え?」


 突然暗くなった車内にセレナは身を震わせる。不思議と真っ暗ではないのは月明りによるものか。

 否、ぼんやりとした光を放つ球体が宙に浮いている。仮面をしているせいで表情が見えない青年の顔は余計に感情が読めなくなってしまった。

 白銀の文字が空気に溶け、新たな文章を構築する。


《あなたと彼の関係はよくわかりました。お話していただき、ありがとうございます》


 青年は小さく頭を下げる。文字と同じ白銀の髪が揺れ、黒の仮面が覗く。


《終点までお連れするかどうかというお話。やはり、あなたをこのまま乗車させるわけにはいかないという結論に至りました》


「どうしてですか!?」


 セレナは思わず身を乗り出す。


「私は彼に会いたいのです」


《……あなたはそうでも、彼はそれを望みますか?》


 白銀の文字が淡々と告げる。


《彼はあなたに病気のことを隠し、手術費も出し、死が近いことを悟ってあなたから離れた。彼がそこまでしたのはなぜでしょうか?》


「それは……」


 知らない。それを知りたいのはセレナの方だ。

 

《あくまで、私の推測になりますが、あなたに生きてほしいと思ったからではありませんか?》


「手術費を出す理由としては納得できますが、私に病気のことを隠していたことの理由になりません」


《病気のことを隠したのも、死の間際にあなたから離れたのも、あなたに生きてほしいからだと思います》


「それはなぜ?」


 セレナは窓の外に広がる空と同じ色の瞳で青年を見上げる。仮面のせいで顔も見えず、声もないため、感情が全く読めない。


《あなたに病気のことを隠したのは、あなたも病気であることを知ったから。それも、自分の方が重い病だと話したら、不安にさせて身体に負担をかけさせてしまうかもしれません》


「……」


 キラキラと輝く文字は溶けるようにして消えるとまた浮かび上がる。


《死を悟ってあなたから離れたのは……男の意地かもしれません。いずれにせよ、大切な人には生きてほしいと願いませんか?》


「理由としてはありえると思いますが……」


《あくまで私の推測です。答えは彼のみぞ知ると思います》


「そんなこと、わかっています!」


 セレナの声が客室に響く。光を放つ球体がセレナの声に震える。


「だから、彼に会って訊きたいのです」


《生きてほしいと願う彼の気持ちを踏みにじるのですか?》


「それはあくまで車掌さんの推測ですよね?」


 宙に浮かぶ言葉は何も変わらない。

 青年はゆっくりと窓辺に歩み寄ると、窓を開ける。冷たい澄んだ風が青年の頬を撫で、セレナの栗色の髪を揺らす。白い手袋をした手が空に伸ばされる。ふわりと清らかな花の香がすると、青年の手の先にクマのぬいぐるみが現れる。外からクマのぬいぐるみを車内に引き入れた青年は窓を閉める。そのクマのぬいぐるみにセレナは夜空色の瞳を丸くする。


「その子は……」


《彼があなたにプレゼントしたぬいぐるみですね》


 青年はぬいぐるみをセレナに見せる。ラベンダーの飾りをつけたクマのぬいぐるみはつぶらな瞳でセレナを見つめている。


《ラベンダーの花言葉をご存知でしょうか?》


「ラベンダーの花言葉ですか?」


 青年は小さく頷く。セレナは知らないと首を横に振る。


《沈黙や疑惑、清潔とかですね》


 青年はぬいぐるみをテーブルにそっと置く。


「へえ……。そうなのですね」


《ええ。他にも花言葉があります。その中でも、彼が託した花言葉はですね》


 ふわりと白銀が旋回すると、ぬいぐるみの前に降り立ち、文字を浮かび上がらせる。


《あなたを待っています》


 夜空色の瞳が揺れる。文字が徐々にぼやけていく。


《彼は、自分の死期がわかっていたからこの子を贈ったのかもしれません。……あくまで推測ですが》


 花言葉を示した文字が消える。


《自分が先に死ぬと、明確にわかっていた。自分は先に逝ってあなたを待つと伝えたかったのかもしれませんね。自分はあの世で待っているから、ゆっくりおいで、とメッセージをこめたのかもしれません》


「……」


 セレナ、と優しい声が聞こえた気がする。彼は急かすようなことをあまり言わない人だった。


『ゆっくりでいいよ』


 彼はよくそう言ってくれた。のんびりでいいんだよ、と穏やかな声でそう言うのだ。


《また、ラベンダーはハーブの女王とも言われます。ラベンダーティーは緊張や不安を和らげ、リラックス効果も高い。花言葉の沈黙はラベンダーの精神安定効果に由来すると言われています》


 どこからともなく優雅な香がする。セレナはその香を吸う。すると、不思議と落ち着くような感じがする。


《癒しをもたらすようにと願いが込められているのかもしれませんね》


「……」


 セレナの視界がぼやけていく。目の前のクマのぬいぐるみはじっとこちらを見つめている。


《どうぞ、無理はなさらず》


 滲む視界に白銀が浮かぶ。それを見た途端、セレナは嗚咽を漏らす。堰き止めていた涙が次から次へと溢れ出す。子どものように泣きじゃくるセレナから青年は視線を外す。

 セレナが以前住んでいたという街並みが流れていく。星が降り注ぐ空を見つめながら、青年はセレナの頼りない泣き声を聞かないふりをする。セレナの瞳を思わせる空が変化する。少し白みはじめてきた。

 夜が過ぎれば朝となる。青年は白くなり始めた空に帽子を深く被り直す。


《朝になりそうです》


 青年はセレナの方を見る。少し落ち着いてきたのか、呼吸を整えている。青年はポケットから群青色のハンカチを取り出すとセレナに差し出す。銀の糸で星の刺繍がされたハンカチだ。


《使ってください》


「……ありがとうございます」


 セレナは鼻を軽くすすると、ハンカチを受け取る。手触りのいいハンカチで涙を拭うと明るくなり始めた空を見つめる。太陽の光が射しこみ始め、客室が明るくなる。


《そろそろお時間のようですね》


「え?」


 セレナの視界に小さな光の粒がよぎる。それがひとつ、ふたつ、と増えていく。光の粒はセレナの身体から発せられているようだ。


「え、あの、私、どうなるのですか?」


《目が覚めるだけです。……あなたが、まだ生きると決めたから》


「……!」


 青年はセレナに向き直る。横に引き結ばれた唇がわずかに弧を描いている。


《彼が望んだ命。全うしてから、来てくださいね。そのときは、夜想列車でお連れいたしますから》


「……はい。その時はお願いします」


 セレナはふわりと微笑む。花が綻ぶような柔らかなその笑みを見て、青年は小さく頷く。

 セレナは立ち上がると、クマのぬいぐるみの頭を撫でる。ぬいぐるみ自体はまだ残っているが、物置に眠っている。久しぶりに顔を見てみたくなった。

 光の粒子がセレナの身体を包み込む。粒子の隙間からセレナは青年を見上げる。


「車掌さん。ひとつだけ、最後にお尋ねしてもよろしいですか?」


 青年は真っ直ぐセレナを見つめ、先を促す。


「あなたのお名前を教えていただけませんか?」


 セレナの問に対し、青年は首を横に振る。


《私に名乗るような名前はありません》


「……そうですか」


 もしかしたら、と淡い希望で尋ねたが違ったようだ。物語では意外な人物が縁のある人物だっというオチもあるが、実際にはそのようなことは滅多にないのだろう。そもそも、容姿が違う。亡くなってから八年が経とうとしていれば姿も変わっているかもしれないが、死後の世界ではどうなのだろうと思う。それ以前に、青年の髪は夜空に浮かぶ白銀の星の色であって、オルガの黒髪とは正反対の色だ。小説の読みすぎかもしれない。


「ごめんなさい。失礼なことを訊きました」


《お気になさらず》


 青年の白銀の文字も日の光によって見えにくくなってきた。


「ふふ。車掌さん。今日はありがとうございました。それと、我儘ばかり言ってごめんなさい」


《いいえ。次こそはちゃんと切符をご用意くださいね》


「はい」


 セレナは無邪気に笑う。


《お身体にはお気をつけください。どうか、あなたと再会する日がまだまだ先だと願っています》


「はい。……あ、ハンカチ」


 セレナは握っていたハンカチを綺麗に畳み直す。


「お返ししますね」


 セレナは一歩踏み出す。その時、列車が大きく揺れ、セレナはバランスを崩す。しまった、と思って目を瞑ったセレナはくるはずの痛みがこないことに再び目を開けると帽子が床に転がっている。

 すみません、と紺色に包まれたセレナはゆっくりと顔を上げる。光の粒子の隙間から白銀が覗く。


「……え?」


 黒の仮面の目にあたる部分。粒子のせいか、太陽のせいかわからないが、わずかに開いた穴から夜空色が覗いている。

 セレナは無意識に仮面に手を伸ばす。意外にもあっさりと仮面が取れると、そこには自分の瞳の色と全く同じ色の瞳がある。その瞳は色こそ違えど、セレナがよく知る優しい瞳だ。


「え……待って! あなたは、」


 青年が淡く微笑む。今にも泣きそうなその表情は光の粒にかき消される。

 カラン、と仮面が転がる。最後の光の粒が朝日に溶け込むように消える。腕の中から華奢な身体が消えた青年は仮面と帽子を拾い上げる。


「……朝、か」


 青年は夜空色の目を細める。テーブルの上のクマのぬいぐるみがぽつんと寂しそうだ。


「彼女を頼んだよ」


 青年はクマのぬいぐるみを撫でる。

 八号車から見える空は夜が明け、新しい一日を告げるに相応しい朝を迎える。日の光を弾く白銀の髪はキラキラと輝き、青年の頬を伝うそれは一際輝いた。

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