第7号車 真実を求めた一生
静かな客室にノックが響く。シャリオは閉じていた目を開ける。眩しさに目を細めながら、どうぞ、と扉の外の者を促す。すると、扉が開き、白銀の髪の青年が姿を現す。紺色の帽子を脱ぎ、深く頭を下げた青年が顔を上げる。夜空色の瞳はキラキラと輝き、シャリオを真っ直ぐ見つめている。
「こんばんは。切符の確認を」
「ああ」
シャリオは皺の多い手で切符を差し出す。同じ白い髪とは言うものの、車掌の髪は光を浴びてキラキラと輝き星のようだ。白銀の光を織り込んだ糸のような髪は眩しい。
穴の開いた切符が返されると、シャリオは小さく息をつく。
「シャリオ様?」
車掌は気遣うように名前を呼ぶ。待たせてしまって機嫌を損ねてしまっただろうか。一号車から順に切符の確認作業をするため、後ろの客室になればなるほど遅くなってしまう。今までにも遅いと機嫌を損ねてしまうことがあった。
しかし、眉を下げる車掌の予想とは違い、シャリオは小さく微笑むと向かいの席に視線を送る。
「少し話につき合ってくれないか?」
「はい」
「そこに座ってくれ」
車掌は失礼します、と言ってシャリオの向かい側の席に座る。
「君はとうとう七号車まで来たわけだ」
「はい。遅くなってしまい、申し訳ありません」
待たせてしまったことへの謝罪が先決だ。
「気にしていないよ」
頭を下げる車掌にシャリオは気にするなと笑い飛ばす。客とのコミュニケーションも車掌としての務め。結果的に切符が確認できればいいと思っているシャリオとしては怒る理由などない。
車掌はほっと息をつく。黙っていると気難しそうな顔に見えるが、ニコリと笑うと目尻の皺が深く刻まれる。おじいちゃんと小さな子どもたちに呼ばれ、好かれそうな老人だ。
そんなシャリオはテーブルの上で手を組み、車掌に何かを試すように瞳に鋭利な輝きを宿す。
「さて、君は僕のところに来るまで六人の客を見てきたわけだ」
歳若い車掌に見える。彼がどれほどの時間、車掌という職に就いているのか知らないが振る舞いからしてそれなりの月日が経っていることが見受けられる。今日を含め、何人もの夜想列車の客と接し、それぞれが想う夜を見てきたのだろう。それぞれが想ったことを聴いたのだろう。それぞれが想うことを感じたのだろう。
そう言えば、隣の小さな客人はどうなったのだろうか。柱の陰に隠れ、派手なシャツを着た女性に宥められていたような気がする。
「お隣の小さなお嬢さんは大丈夫だったかね? 五号車の大きな彼を見て怯えていたようだが」
「ええ、そのようですね。今はお休みになっています」
「ふむ、そうか……。あんなに小さな子が一人で列車に乗るとは……」
見たところ五歳ぐらいか。自分は彼女より十五倍ほどの時を過ごしてきたと思うと彼女にはまだこれから先の時間が用意されているはずなのだ。
だが。
「この列車は気味が悪いな」
シャリオは窓の外に視線を送る。暗闇が広がる中、ひとつだけ白い星が浮かんでいる。それだけの景色だ。それ以外は黒く塗りつぶされた無の景色だ。
夜を想う旅を。そんな願いが込められた列車は当然ながら夜を走る。が、窓の外の景色は何とも味気ない。真っ暗闇に星がひとつ、ぽつんと瞬いているのみだ。
変わった景色。これも不気味なのだが、他にも気にかかることがある。
「君はあんなに小さな子がこの列車に乗ることに対してどう思っているのかな?」
たった一人、いや、正確には友達であろうクマのぬいぐるみと一緒に乗車した少女。あれぐらいの年齢の子は普通大人、それも一番身近な親と乗車するはずだ。しかし、少女の近くにそれらしい大人はいなかった。
「……」
車掌は先ほど見たラベンダー色を思い浮かべる。柔らかな髪を束ね、薄い背中に垂れていたリボン。細い線の幼い少女が夜を走る列車にたった一人で乗車している。初めは車掌を警戒し、近づくことさえ許さなかった小さな客人。彼女と過ごした時間は楽しかった。
車掌は乗客のことを知っている。名前はもちろん、年齢や出身地、生い立ち、好みなど、多くのことを知っている。だから、ララに限らず、他の乗客のことも例外ではない。ピアニストであったことも、レジスタンスであることも、花を愛することも、頑固な夫がいることも、暗い海を恐れる原因も全て知っていることだ。
ララがクマのぬいぐるみを好きだと言うことも、絵を描くことを楽しいと思うことも知っている。彼女はよく星空をキャンバスにして、星々を繋いで絵を描いていたことも知っている。彼女の両親が歌う子守唄だって知っている。
ララの過去も、他の乗客の過去も。車掌が知り得る情報は夜想列車の車掌であることの証明でもある。
沈黙する車掌に対して、シャリオは組んだ手を解く。
「彼女はこの列車に乗る意味を知っているのだろうか」
「いいえ。そもそも、今置かれている状況も理解していないかと」
ララはどうして夜想列車に乗ることになったのか知らないだろう。
なぜ、寝る前に薬を飲まなくていいのかも知らない。
車掌の言葉にシャリオの目が冷たさを帯びる。眉間の皺がより深くなる。
「そうか。幼い子には難しい話かもしれないが……」
シャリオは深く息をつく。
五歳ほどの少女は列車を見て目を輝かせていた。自分よりもはるかに大きな黒い車体を初めて見るような反応だった。しかし、どこか不安そうにしていた。耐えるようにスカートの裾を握り、クマのぬいぐるみが離れないように抱きしめ、キョロキョロと辺りを見渡していた。そして、巨漢を見て、驚いてしまったのか泣いてしまった。列車に乗る前も、例の女性のことをチラチラと見ていた。寂しいのだろう、と思いながらも、時間が迫っていたシャリオは乗車した。その後の少女のことは知らない。
彼女は何も知らない。説明されても理解が難しい。親に守られるような歳の子が親もなしに一人で夜の列車に乗るのは不安と心配で胸がいっぱいだろう。説明されても、理解が難しいだろう。
「大人でも信じがたい状況だ。あんなに小さな子にこの状況を全て理解しろと言うのは酷だ」
一点の汚れのない無垢な小さな子ども。親もいない一人ぼっちの状態で精神状態を不安定にさせる気はない。不安にさせるぐらいなら言わない方がいいぐらいだ。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、と列車の振動音がする。外の景色は全くと言っていいほどわからないほどの暗闇だ。一点の白い星があるのみ。その星が動くこともない。だから、本当に進んでいるのかどうかわからない。
これからどこに連れて行かれるのか。幼い彼女はよくわからないまま、終点まで行くのだろうかと思うとシャリオの胸が痛む。かと言って、自分が説明するにしても全てを理解していない。
否、受け入れたくない部分があるのだ。
「……話を変えよう。もっと明るい話をしたい」
景色が暗いせいか、他の要因か。シャリオ自身、闇の部分に触れることが多い人生を送っていると思う。だからこそ、本当は楽しくて笑える話の方が好きだ。
「はい。私もそちらの方が嬉しいです」
車掌の唇が淡い笑みを浮かべる。車掌の表情も安心したのか、わずかに晴れる。
「そうだなあ……。君は今日、私を含めて七人の客に会ったわけだが、皆癖が強かっただろうか?」
「そうですね……」
車掌は一号車から六号車の客人の顔を思い浮かべる。
輝かしいピアニストとしての生活を捨てた初老の男。
深く眠る才能に気がつかされた獅子の名を持つ青年。
花のような笑顔が印象的な少女。
さっぱりとしているが針を扱う手は丁寧な女性。
海の香がする大男。
一際小柄でぬいぐるみが好きな可愛らしい幼い少女。
知的な顔立ちでこちらをじっと見つめる老人。
それぞれがそれぞれの個性を持っている。どの客人も夜想列車に乗車し、それぞれが想う夜を持ち、車掌に見せてくれた。
延々と広がる星の大河。
寒空に眠る獅子。
三日月と星々のダンス。
星雲たちのファッションショー。
導く海の月と北の星。
可愛らしい星座図。
暗闇にたったひとつだけ輝く白い星。
一人、一人、想う夜が違う。それは、今日の客人に限らず、今までの客人たちも皆違った。夜を好きだと言う客も、嫌いだと言う客も、思い入れがある客も、そうでない客も、多くの客人がいた。どの夜も、何かしらの想いがこもっていた。
車掌は微笑む。慈愛に満ちた瞳の星の輝きは柔らかい。
「どなたも素敵な方です」
慈しみを持つ穏やかな声音。目の前の車掌は職業柄、多くの人と接してきただろう。中には面倒だと思うような客もいただろうに、それでも彼は人が好きなのだろう。
シャリオは小さく笑う。では、自分のことを彼はどう思うのだろうか。
「なるほど。ちなみに、私は厄介な部類に入ると思うのだが、どうだろう?」
「と、言いますと?」
車掌は首をわざとらしく傾げて尋ねる。
客のことを把握するのは車掌の務め。今までもそうであったように、目の前の彼の素性ももちろんわかっている。
「僕はこれでも探偵だった、と言えばわかるだろうか?」
「存じ上げています」
シャリオの目が細められる。目の前の若者はわざと仕掛けてきたのだ。
「今ではこんなじじいだが、昔は武闘派だったんだ」
「ええ。数々の事件に関わった方だと聞いております」
「かの有名な探偵に喩えられるほどだった」
シャリオは懐かしむように笑う。華麗に事件を解決する名探偵として名を馳せたのだ。
「印象的な事件は僕が殺されかけた事件かな。立派な洋館に閉じ込められかけたが、謎解きは楽しかったよ」
犯人も親切なものだった。と言うか、変な人物だった。わざわざこの名探偵に謎解きを用意するとは、殺したいのか、試したいのかよくわからなかった。
「恨みなのか、羨みなのか知らないが、命を狙われることは度々あった。それだけ、解決した事件が多く、関わってほしくないと思う者が多かったのだろう」
数々の事件に関わり、難事件も解決した。残された証拠から真実を求め、導き出した。いくつもの事件を解決し、人々から頼られるあの感覚は心地よかった。同時に、命を狙われたり、嫌われるような立場にもなった。
「解決できない事件なんてないと思っていたのだがね」
シャリオは若い頃を思い出す。本当に解決できない事件などなかった。捜査を打ち切られたような事件もわずかな証拠から答えを導き出し、解決していった。それがどれほど目を背けたくなるような残酷な事件であってもだ。どんな難事件も解決した。
だが、ひとつだけ、シャリオが解決できなかった事件がある。正確に言えば、あと一歩のところでその道を閉ざされてしまった事件だ。
「心残りではあるが、僕の手から離れた後、解決されたと聞いて安心した」
シャリオは腹を撫でる。ズキリと嫌な痛みが走る。そこに傷口はないはずなのだが、嫌なことを思い出してしまう。
「まあ、僕が集めた証拠のおかげなわけで、手柄の九割は僕と言える」
シャリオは得意げに笑う。解決のためのピースは全て揃っていた。あとは、ピースを繋げて完成させるだけだった。それぐらいなら、シャリオでなくともできる。
「そうでしょうね」
車掌はシャリオが腹を押さえた腕を見逃さない。そこに傷口はないのだが、痛むのだろうか。
「まあ、その手柄はこれっぽっちも僕のところには入らないがね」
シャリオは肩をすくめる。手柄は入らないが、事件が解決できたことは素直に喜ばしいことだ。
依頼人が報われればいい。たとえ、自分がその場面を見届けられなくとも。
「真実を求め続けた一生だったよ」
幼い頃からそうだった。
空が青いのはなぜか。なぜ風は吹くのか。どうして花は咲くのか。
身の回りにある些細なことがきっかけだった。どうして、なぜ、から始まる。解決したと思ったら、また、どうして、なぜ、が始まる。その疑問を解決したり、できなかったり、真実や真理を追い求めた。
その中でも、夢中になったのは謎解きや推理であった。推理小説に影響されたことが一因だとシャリオは考える。様々な事件を解決する探偵に憧れたのは十代の前半。様々な知識を活かして真実に辿り着く。難事件を華麗に解決する探偵になりたいと思ったシャリオは多くの本を読むようになった。難しい本も読み、周りから物知り博士と呼ばれるようになった。
しばらくの間は恩師である探偵のもとで修業し、独立。以後、事件に関わるようになり、事件の真相を追い求め続けた。
真実を知りたい。そればかりを思った人生だ。
車掌は目の前の老人を見つめる。穏やかな表情だ。車掌は目の前の老人を見つめる。数々の修羅場をかいくぐり、昔は武闘派だと言った男は過去を振り返っている。昔を懐かしむようなその姿に後悔はほとんどなさそうだ。
「もしかしたら、あの星はひとつの真実を象徴しているのかもしれませんね」
車掌は白い星を見上げる。
暗闇にたったひとつぽつんと浮かぶ星。何もない暗闇にたったひとつだけ。真実を探し求めた探偵は、時には暗闇の中に眠る小さな光を掴み取るようなほど難しい事件に関わった。窓の外で輝くたったひとつの星は中々掴めない真実を暗示しているのかもしれない。
「なるほど。夜遅くまでコーヒーを相棒に事実をかき集めていたが……。これが僕が想う夜の形か」
だが、とシャリオは口端をわずかに上げる。
「ずっと独り身だったから、ぽつんと星があるのかもな」
車掌は一度まばたきをすると気まずそうに苦笑する。対して、シャリオは笑い飛ばす。喉の奥で笑うシャリオに合わせて、星が瞬く。
恋人はいた。いたにはいたが、探偵業にのめり込みすぎて、愛想をつかれて別れてしまった。結婚せずにこの歳まできてしまった。家庭を持てたらという願望はあったが、独り身であったことに後悔はない。命を狙われることが多かった人生だ。家族にも被害が及んだらと思うと家庭を持たずにいた方がよかったのかもしれない。
「冗談だ、冗談。僕は車掌さんの解釈の方が好きだよ」
真実を、真理を、答えを求め続けた象徴。とても光栄で、誇りに思う。
「ありがとうございます」
笑顔のシャリオに車掌はほっと胸を撫で下ろす。見た目に似合わずに豪快に笑う感じがどことなくロンドに似ている。
「さてさて、車掌さんのことも教えてよ」
「私のことですか?」
「そう。例えば、そうだなあ……」
シャリオは身を乗り出す。
「車掌に就いてどれぐらい経つのかな?」
「もう少しで八年になります」
「ほう……。思ったよりもベテランさんだ」
二十半ばほどに見える青年だ。経歴を聞く限りでは、二十後半、場合によっては三十代でもおかしくないのではないかと思うほどだ。
「まだまだ未熟者ですよ」
「そうか?」
「ええ。運転士には未熟だと耳に胼胝ができるほど言われています」
「随分と厳しいことを言う」
「事実ですから」
まだまだだな、そんなんだから、とくどくどと言われる。今日も彼に無理を言って頼み事をした。そのときにも、呆れられたものだ。何をそんなに迷うのだ、理解できない、と言われてしまった。そして、いい加減しゃきっとしろと一喝されたのだ。
苦笑する車掌にシャリオは首を傾げる。
「もしかして、今日のアナウンスはその運転士だったりするのか?」
「ええ。少し準備にばたついてしまって……」
「そうだったのか。君の声を聞いたとき、アナウンスと違う声だと思ったから」
アナウンスの声の方が幼かった。声変わりする前の少年のような声で、車掌の落ち着いた声とは違った。
「自分が悪いので、彼に文句は言えないのですが」
「ふーん」
きちんとしているように見える。穏やかで物腰も柔らかく、仕事を忠実にこなすような人間に見える。八年も車掌をしているような彼が何を準備に手間取ったのだろうか。
シャリオの頭が探偵モードに切り替わりつつある。無意識の内にそうなってしまうのは職業病か。
「何かアクシデントでもあったのか?」
「はい。ですが、列車の運行に影響はありません。お客様にご迷惑をおかけするようなことでもないのでご安心を」
「まだ解決していないのか?」
車掌の瞳が揺れる。今外に見える夜空とは違い、星が散りばめられた瞳から一瞬光が消える。
「僕がお手伝いしようか?」
「いいえ。お客様のお手を煩わせるわけにはいきませんので」
「そう?」
「はい。それに、この問題は私が解決せねばならない問題ですから」
車掌は一息つく。今日の旅路は通常の仕事に加え、ひとつ大きな仕事がある。これを片付けないことには、ララの元に戻ることもできない。まだ余裕はあるものの、時間との勝負となる大仕事だ。遅くなっては取り返しのつかない事態となる。
「それは失礼なことを言った」
「ありがたい申し出です」
ありがとうございます、と車掌は頭を下げる。白銀の髪が揺れる。
「緊張しているのか?」
車掌の声音が硬い。シャリオは頬杖をついて、顔を上げた車掌を見つめる。不安そうな面持ちの車掌は視線を下げる。
「……はい。似たようなことは今までにもあったのですが、その、今回はいつもと違うことで」
車掌は眉を下げるとすぐに首を振る。
「ごめんなさい。お客様にこのようなことを言って……」
不安にさせただろうか。客が快適な旅を過ごせるように努める。それが車掌の仕事だ。不安にさせては彼らの旅路がよくないものになってしまうだろう。
車掌はそう思うも、シャリオは平然として車掌を見つめている。知的な瞳がわずかに揺れると、シャリオは紺色の帽子を手に取り、帽子の下に広がる白銀を撫でる。サラサラとした白銀の髪は少し硬い。車掌の身体が強張ったのが明らかだ。
「僕はじじいだ。難事件を解決し、他の人が中々経験しえないことを経験したじじいさ。この
シャリオは皺の多い手で白銀をぽんぽんと撫でる。ゆっくりと顔を上げた車掌は不安そうな顔でシャリオを見つめる。
「老いぼれだなんて、そんな……」
「車掌さん。あの白い星は矮星だ。これから死に行く星だ。長い時を生きた星が終焉を迎える。僕もそうさ。死に行く僕が今まで生きた中で役に立ったことを君に教えてあげよう」
シャリオはゆっくりと立ち上がる。テーブルの端に掛けておいた杖を握り、ゆっくりと歩いて青年の横に立つ。縮こまった青年の背中を杖を持たない方の手で撫でる。
「不安なのはわかるが、まずは背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を向く」
シャリオはゆっくりと言葉を紡ぐ。そう言う自分の背中は丸くなっているが、まだ若い青年の背中はすぐに真っ直ぐになる。真っ直ぐになるも何も、この青年が入室したとき、きちんと背が伸びていた。星空を閉じ込めたような瞳も真っ直ぐにシャリオを見つめていた。
青年はチラリと視線だけを動かす。シャリオを見上げようとした視線を遮るように目を閉じなさい、とシャリオは鋭い声で言うと夜空色の瞳が小さく揺れた後に閉ざされる。
「そうだ。そして、深く呼吸をする。腹に空気をいれるようなつもりでゆっくりと吸って、ゆっくりと吐き出す」
呼吸は大切だ。呼吸の乱れは精神の乱れに繋がるとシャリオは考える。緊張することや不安になることもあった。そういうときは冷静に考えられないことが多い。そんなときは深呼吸をして頭の中を落ち着かせる。そうすることで新たなひらめきを得てきた。
青年はシャリオが言うようにゆっくりと息を吸う。腹を満たすつもりで澄んだ空気を取り込む。そして、吸った空気をゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返すと不思議と胸の辺りが落ち着き、じんわりと温かくなる。
「そのままその呼吸を続けなさい。今まで経験したことのないことと直面するときは呼吸が乱れがちだ。ゆっくりと意識して呼吸をする」
シャリオの言葉に青年は頷く。
「冷静になることは解決への糸口だと僕は思う。相手に舐められてはならないようなときはなおさらだ。格下だと思われてはいけない。焦りは禁物だ」
駆け出しの頃のシャリオがそうだった。こんな若造が本当に事件を解決できるのかと疑われたものだ。心を折られそうになったこともあったが、しっかりと呼吸をして堂々と自分の考えを述べたら認めてくれる人もいた。
「君は姿勢がいい。いつでも腹に力をいれて、呼吸をしっかりすること。前を見据えて、問題解決の糸口を探りなさい。探偵を長いことして得た僕の知恵さ。……と言っても、結構当たり前のことだと思うけどね」
シャリオは小さく笑うとまたゆっくりと歩いて腰を下ろす。
「少しは落ち着いただろうか」
青年の瞼が震える。そして、ゆっくりと夜空色が開かれる。夜空色の瞳を縁取る白銀がわずかに震えた後、真っ直ぐにシャリオを見据える。
「……はい」
凛とした返事だ。シャリオは小さく頷く。
「うん。それにしても、いかんな。どうも説教くさくなってしまうな」
シャリオは頬を掻く。弟子たちや関係者の若者たちに嫌なじじいだと思われていたかもしれない。
「いいえ、そんなことは……」
「そうだろうか?」
「はい。落ち着くということは大切なことですから」
情けないね、と例の運転士に言われそうだ。呆れている様子が簡単に想像できる。
「それと、ずっと考えることも大切だ」
シャリオは現場を目の前にするといつも考える。いつ、どこで、誰が、何をしたのか。残された証拠から真実を導く。現場から離れてもずっと考える。
常に考える。そうやってシャリオは真実に辿り着いてきた。犯人を問い詰めるときなんてとくにそうだ。舐められないように、真実をぶつける。相手の流れに乗せられないように常に冷静であれと意識している。
「君も今まで色々なことを考えてきたと思うし、今だって考えている。人という生き物は常に考える生き物だ」
「はい」
「考えて、考えて、考えろ。いつもと違うアクシデントだからってずっと振り回されてはいけないよ。ゆっくりと呼吸をして心を落ち着かせて、考えろ」
シャリオの知的な瞳に鋭い光が宿る。年老いた星が最後に輝きを放つような光だ。
車掌は、はい、と力強く頷く。
「……やっぱり、年寄りは口が説教じみてしまうな」
シャリオは喉の奥でクツクツと笑う。
「シャリオ様のおかげで心の準備ができました。ありがとうございます」
「こんなじじいの言葉が君の背中を押せたなら光栄だ」
ところで、とシャリオはテーブルの上で手を組む。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、とテーブル越しにも振動が伝わる。
「そのアクシデントとやらは、いつも君が対処しているのかな?」
「私はこの列車の車掌であり、責任者です。列車のアクシデントは私が解決すべきことですから」
「そうか。……今回はかなり特殊なのか?」
シャリオは知的な目を青年に向ける。青年の肩がわずかに震えるのをシャリオの目は見逃さない。
「僕はここの乗客を皆見たわけではない。けれど、この列車は七両編成でひとつの客室に乗客は基本一人。全ての客室が埋まっているのなら七人の客がいる。僕は君から六人の人物のことを聞いた。そして、ここは七号車で、僕が七人目の客というわけだ」
車掌はじっとシャリオを見つめている。夜空色の瞳が見据えるシャリオの後ろ。その存在をシャリオは知っている。それは七号車に乗車しているからこそ、すぐにわかるのだ。
「八号車があるのは八人目の客人のためかな?」
「……」
老人の鋭い斬りこみに夜空色の瞳の中の星がかすかに揺れる。
「僕が乗車して席に着こうとしたときだ。窓の外を見ていたら、後方に突然八号車が現れた。その八号車に一人の女性が飛び乗った。君と同じ年頃の栗色の髪の子だ」
栗色の髪の若い女性。出発を告げる汽笛を聞いて慌てて飛び乗ったようだった。彼女が飛び乗った直後にこの列車は発車した。
「夜想列車は七両編成。アナウンスでもそう言っていたし、僕が乗車する前はこの客室が最後尾だった。……八両目と八人目の客人は異例というわけか?」
何だこの列車は。シャリオは八号車の存在に驚いた。自分が最後尾かと思っていたら、車両が増えた。しかし、アナウンスでは七両編成と言っていた。アナウンスどおりなら、シャリオが乗車する七両目が最後尾となるはず。
では、あの栗色の髪の女性と八両目は一体何なのだ。探偵としてのシャリオの血が騒いだ。
「……」
車掌は深く息をつくとゆっくりと立ち上がる。
「……八号車と八人目の客は稀に現れます。ですが、今回は客人がよくない」
「と、言うと?」
「これ以上はどうか、聞かないでください。私の決心が揺らいでしまいます」
車掌の夜空色の瞳が悲しげに歪む。痛みを耐えるようなその姿にシャリオは、そうか、と小さく呟く。
「先ほども申し上げましたとおり、運行に支障はありません。お客様に何か影響が出ることもありません」
「……」
車掌が強く決心するほどのことが八号車にある。探偵としてのシャリオが胸の内で騒いでいる。しかし、これはシャリオが踏み込むべき領域ではない。
青年の瞳が物憂げなものだから。影のある瞳にシャリオは一歩下がるべきだと判断する。
「わかったよ。これ以上、深入りしない」
シャリオの言葉に車掌はほっと安堵の息をつく。
「はい。どうか、八号車の件について他言無用でお願いします」
「もちろん。他の者には言わない。僕と君と……運転士さんだけの秘密だ」
よいしょ、と言ってシャリオは立ち上がる。杖を手に取り、一歩足を踏み出す。
「僕は挨拶周りにでも行こうかな」
「え?」
シャリオはご機嫌な様子でゆっくりと歩いて行く。
「年寄りはおしゃべりが好きなんだ。足止めぐらいならしてやれる」
「え? いや、足止めだなんて」
「年寄りは耳が遠くてな」
うはは、とシャリオは上機嫌に笑いながら扉に手をかける。
「シャリオ様!」
「さーてさて。他の列車の景色はどんなものかな?」
七号車の景色は暗闇にたったひとつの星が輝くのみ。他の乗客はどんな夜を想っているのか、話を聞くのが楽しみだ。
じゃあな、と朗らかな声で言うわりにはシャリオの瞳には慈愛の光が宿されていた。
扉が閉じ、一人取り残された車掌は深く息をつく。
「本当に、まだまだだ」
名探偵に心の内を見透かされた。この調子では八号車に乗る人物と対面したときに上手くいかないかもしれない。
車掌は瞳を閉じて深呼吸をする。呼吸は大切だとシャリオが教えてくれた。
瞳を閉じて心を落ち着かせる。どんな状況であれ、冷静に対応すべきだ。それが解決の糸口に繋がるはずだと信じて。
「……行こう」
車掌は瞳を開ける。夜空色の瞳の中で星が強く瞬いた。
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