第6号車 ラベンダーと子守唄

 ラベンダー色のリボンを髪に結び直したララは窓に映った自分を見つめる。あまり上手に結べず、片方だけ輪が大きくなったリボンは不格好だ。遊んでいる内に解けてしまったリボンを自分なりに結んでみたものの、母がしてくれるように綺麗に結べない。母ならもっと綺麗に結んでくれるのだが、どうして自分で結ぶと不格好になるのか。もう一度結び直すも、今度はリボンの輪が縦になってしまう。もう一度、と結び直しても上手くいかない。

 もういいや、とララは諦める。床に座らせた茶色のクマのぬいぐるみを抱き、小さな手で窓に触れる。白い星と青い星を繋げるように線を引くと、空にも線が引かれる。他の星と繋げ合わせると、蝶が夜空に描かれる。星と星とを繋いで書かれた夜空のキャンバスは動物、植物、食べ物、人の姿で埋め尽くしている。

 次は何を描こうか、と考えるララの耳に扉を叩く音がする。ララは反射的に扉の方を振り返る。


「ララ様。いらっしゃいませんか?」


 優しい男の声だが、知らない声。知らない人に声をかけられても返事をするのも、ついて行くのも駄目だと両親や祖父母にきつく言われた。眠る前に読んでもらった絵本の中にも、主人公の女の子が知らない者の声に応じて連れ去られてしまう物語があった。女の子は友達に助けてもらっていたが、今、この場にはララを助けてくれる人はいない。

 自分の身は自分で守らないと。ララは客室を見渡す。ソファの後ろに座っているララの背丈以上ある大きなクマのぬいぐるみの後ろに隠れる。手で口を塞ぎ、腕に収まるクマのぬいぐるみを抱きしめる。

 声を出さず、身動きしなければ見つからない。そう考えたララは息を殺しながら、男がどこかへ行くのを待つ。


「ララ様。切符の確認に来ました、車掌です。いらっしゃるのであれば、お返事をいただけるとありがたいのですが……」


 シャショウとは何だろうか。ララは首を傾げる。が、その声に反応してはいけない。


「ララ様?」


 扉が再び叩かれる。ララはぎゅっと目を閉じ、抱きかかえたクマのぬいぐるみに顔を埋める。返事をしては駄目だ。連れて行かれてしまうかもしれない。ララは息を潜め、身体を小さくするように膝を抱える。

 一方、車掌は扉の前で眉を下げていた。返事が一向にない。どこかへ出てしまったか、それとも倒れているのか。嫌な想像をしてしまった車掌は慌てて扉を開ける。


「ララ様!」


 車掌は客室を見渡す。客室はおもちゃに溢れ、床には色鉛筆で描かれた絵や可愛らしい絵柄の絵本が広がっている。幼い子どもの姿はぱっと見た限りでは見当たらない。

 車掌は床に広がるおもちゃや絵本、絵を踏まないように窓辺まで歩く。一際目立つ大きなクマのぬいぐるみの背後からラベンダー色のリボンが垂れた小さな背中が覗いている。車掌はそっと大きなクマのぬいぐるみに近づき、後ろを覗くと小さな身体がうずくまっている。


「ララ様。こちらにいらしたのですね」


 車掌は倒れていなくてよかったとほっと息をつく。すると、小柄な身体はぬいぐるみの後ろから飛び出し、警戒するように車掌から距離を取る。


「ララ様……」


 毛を逆立てるネコのようだ。ララは丸い瞳を吊り上げ、車掌を見上げている。ララの腕の中のクマのぬいぐるみは苦しそうなほど強く抱きしめられている。


「あの、ララ様。私は不審者ではなくてですね」


 不審者ほど、怪しい者ではないと言うような気がする。自分で言っておきながら、怪しさ満載。そう思いながらも、車掌は一歩近づくが、ララは三歩後ずさる。車掌の近寄り方は明らかに不審者を思わせる動きだ。

 きっと睨みつける丸い目がその証拠。ララは車掌から視線を逸らさず、車掌の動きを見定めているようだ。


「えっと、私はこの列車の車掌です」


「……」


 ララの警戒は解けない。ソウから大丈夫だろうと言われたが、これは本当に大丈夫だろうかと不安になる。ソウに驚いて泣いてしまったララを慰めたファイは一体どのようにして彼女を落ち着かせたのだろうか。

 どうしたものかと車掌はとりあえずしゃがんでララと視線の高さを合わせる。上から見下ろされるよりも、同じ目線になった方がまだ打ち解けてくれるかもしれない。


「怖がらせてしまっているのでしたらごめんなさい。ララ様が嫌だと言うのであれば、切符を確認してからすぐに出ていきますから」


「……きっぷ?」


 可愛らしい小さな声が車掌の言葉を繰り返す。


「はい、切符です。列車に乗る前に小さな青色の紙をもらいませんでしたか?」


 これぐらいの、と車掌は指で切符と同じサイズの長方形を宙に書く。


「ずっと持っていてくださいと言われた紙です」


「……! だいじなかみ!」


 ララは青色の紙を渡される際に大事な紙だからなくさないようにと言い聞かされたのを思い出す。


「はい。大事な紙です。それを見せていただけませんか?」


 車掌は手袋をした手をララに差し伸べる。


「だめ!」


「……え?」


 車掌は思わず固まってしまう。


「しらないひととおはなししちゃだめってママいってた!」


「え、ええ……」


 確かにその通りだ。少女が自分の身を守るための手段のひとつだ。親の言うことを覚えていて実行しているところを見ると、常日頃から言い聞かされていたのだろう。

 車掌が何も言えずにいるとララは柔らかそうな頬を膨らませる。本人は怖い顔をしているつもりなのだが、車掌から見ると威嚇する小動物にしか見えない。


「ですが、ララ様。それをチェックすることも私の仕事でして……。見せていただくだけで結構ですから」


 車掌が気を取り直して言うも、ララは嫌だと言わんばかりに一歩下がる。


「だいじなもの、しらないひとにみせちゃだめ!」


「そうなのですが……」


 しっかりしている。はっきりと言い切るその姿は立派なのだが、こちらとしても仕事だ。穴を開けられなくとも、せめて切符を持っているのかを確認したい。

 何とかできないだろうか、と車掌は客室を見渡す。都合よく近くに転がっている白いネコのぬいぐるみを手に取ると、足もとに座らせる。ララが抱きしめているぬいぐるみよりも少し大きめのぬいぐるみに帽子を被せ、ネコのぬいぐるみの背中を押す。すると、ネコのぬいぐるみの尻尾が揺れる。ふらり、とネコのぬいぐるみは立ち上がるとずり落ちかけた帽子を被り直す。


「……!」


 ララの瞳がきらりと輝く。ネコのぬいぐるみは車掌と目線を交わす。うん、とひとつ頷くとネコのぬいぐみは小さな足でトテトテとララのもとに歩み寄ると円らな瞳で見上げる。


「ララ様、こんばんは」


「しゃべった……」


 ララはしゃがんでネコのぬいぐるみをしげしげと見つめる。先ほどまで、ぴくりとも動かなかったぬいぐるみが自分のもとまで歩いてきただけでなく、喋ったのだ。


「ララ様とお話したくて」


 ネコのぬいぐるみは尻尾をゆらゆらと揺らす。


「おはなし、してくれるの?」


「うん。でも、その前に切符を見せてくれる?」


「わかった」


 ララはポケットからしわくちゃになった切符を差し出す。ネコのぬいぐるみはふむふむ、と切符を見つめるとにこりと笑う。


「ありがとう、ララ様。切符、しまっていいよ」


「いいの?」


「うん。見せてくれてありがとう。じゃあ、ちょっと待ってて。帽子返してくる」


 ネコのぬいぐるみはまた小さな足でトテトテと歩く。


「ただいま、車掌さん。ララ様、切符持ってたよ」


 ネコのぬいぐるみは帽子を車掌に差し出す。車掌はその帽子を被るとぬいぐるみの頭を撫でる。


「ありがとうございます、ネコの車掌さん」


 少し複雑だ。あれほど警戒していたララの心をネコのぬいぐるみはいともたやすく解きほぐした。羨ましくも思うが、彼のおかげでララが切符をちゃんと持っていることが確認できた。

 ネコのぬいぐるみは照れ笑いを浮かべつつも、撫でる手が心地よく、車掌の手にすり寄る。大優しく撫でる大きな手が気持ちいい。ネコのぬいぐるみの頭をすっぽりと包み込むほど大きな手だ。


「えへへ。この後、ララ様とおしゃべりしていてもいい?」


「はい。一緒に遊んでいてください」


「うん!」


 ネコのぬいぐるみはニコニコと笑う。車掌は頼みましたよ、とネコのぬいぐるみに託すと立ち上がる。


「ララ様。驚かせてしまってごめんなさい。私は出ていきますので、このネコさんと遊んであげてください。もしも、困ったことがありましたら、ネコさんに言ってください」


 それでは、と車掌は一礼し、扉に向かって歩き出す。


「まって」


 車掌は足を止めてララの方を見る。ララは恐る恐るといった様子で車掌に近づくと、抱きしめたクマのぬいぐるみを抱き直す。


「エル……クマさんも、おはなしできる?」


「はい。クマさんともお話してくださるのですか?」


「おはなししたい」


「わかりました。クマさんを貸してくれますか?」


 ララは小さく頷くと車掌にクマのぬいぐるみを渡す。車掌はクマのぬいぐるみを受け取る。受け取ったクマのぬいぐるみはよく見るとくたびれている。ララが生まれたときから傍にいるララの友達。ずっと抱きしめていたことからも、このクマのぬいぐるみは彼女にとって、とても大切な友達なのだろう。一人で列車に乗る不安をこの友達が和らげていたと思いたい。

 車掌が優しくクマのぬいぐるみの頭を撫でると、ぬいぐるみの耳がぴくりと動き、車掌の腕から飛び出す。軽やかに着地した彼女は円らな瞳でララを見上げる。


「こんばんは、ララちゃん。やっと、あなたとお話できる!」


 ララの瞳がぱあっと明るくなる。ララはクマのぬいぐるみに駆け寄る。


「エル? エルだよね?」


「うん、エルだよ。ララちゃんが小さい頃からずっと一緒にいるエルだよ」


 クマのぬいぐるみ、もとい、エルは嬉しそうに言う。


「やった! エルとあそべる!」


 ララはぴょんぴょんと飛び跳ねる。エルも一緒に小さな身体で飛び跳ねる。二人一緒に喜びを分かち合う。


「ララちゃんとお話できて、私、嬉しい」


 エルはニコニコと笑うと、背後で微笑ましそうに眺めていたネコのぬいぐるみに手を差し出す。


「ネコさんもよろしくね」


「クマさん……じゃなくて、エルもよろしく」


 二匹は互いに手を取り、空いた手をララに差し出す。ララは嬉しそうにその手を握る。


「よろしくね、エル、ネコさん!」


 ララは二匹を抱き上げると頬ずりをする。二匹はくすぐったそうに笑っている。

 その様子を見ていた車掌は寂しそうに笑う。ララの言うとおり、知らない人との接触は避けるべきであり、それが自分を守る術だ。幼いながらにそれを理解しているララのことを立派だと思うが、はっきりと拒絶されてしまうと辛い。ネコのぬいぐるみとエルを抱いて楽しそうに笑う姿を見ると、よかったと安心する反面、自分だけ仲間外れになってしまったことが寂しい。ソウのように泣かれなかっただけいいのかもしれないが、自分にも心を開いてほしいと思ってしまう。

 二匹を抱きしめるララを横目に静かに退室しようとドアノブに触れる。不安にさせてしまった車掌の長いは無用だ。それに、こんなにも楽しそうにしている三人の邪魔をするわけにはいかない。


「では、私はこれで」


 車掌は寂しさを隠すように穏やかに笑う。後程、ファイが様子を見に行くと言っていた。彼女にならララを任せられる。ララがファイに対してどこまで心を開いているのかはわからないが、一応面識のある人間だ。車掌が命を吹き込んだネコのぬいぐるみもいるし、ララが一人でいるよりは安全だろう。


「あ、あの」


 ララは車掌に駆け寄る。どうしたの、と二匹はララを見上げている。


「……ありがとう」


 照れたように言うララに車掌は自然と頬が緩む。


「どういたしまして、ララ様」


「えっと、しゃちょーさん?」


「車掌ですね」


「しゃしょーさん?」


 しゃしょーってなに?、と丸い瞳が問いかけている。


「はい。列車の運転士さんのお手伝いや、お客様を安全に目的地までお連れすることが車掌のお仕事です」


「そうなんだ。……あのね、しゃしょーさん」


「何でしょうか?」


 車掌は身を屈めてララと視線を合わせようとすると、ララはモジモジしながら車掌をチラチラと見ている。


「ん?」


 車掌は小さく首を傾げる。また何かお願いされるのかと思いつつ、ララの言葉を待つ。二匹も頑張れ、とララの腕の中から応援している。


「あの、あのね、しゃしょーさん」


「はい」


「えっと……しゃしょーさんもおはなし、しよ?」


「私も仲間にいれていただけるのですか?」


 車掌の声も表情も明るくなる。キラキラと輝く夜空のような瞳を見たララは小さく頷く。


「さっきはごめんなさい、しゃしょーさん」


 ララは肩を落とす。確かに両親の言葉は正しいと思う。知らない人に声をかけられても反応してはダメだと言われた。悪い人もいるから、と言っていた。けれど、目の前の車掌は悪い人ではないと思うのだ。ずっと夢に見ていたエルと一緒に遊びたいという願いを叶えてくれた。

 魔法使い。絵本の中に出てくる魔法使いにはいい魔法使いと悪い魔法使いが出てくる。悪い魔法使いはみんなを困らせる悪い魔法ばかり使う。みんなの願いを叶えてくれるいい魔法使い。彼はララの願いを叶えてくれたいい魔法使いの“しゃしょーさん”だ。ララを喜ばせてくれた魔法を使った車掌を悪い人だとは思えない。


「お気になさらず。ララ様がしっかりしている証拠ですから」


 ね、と車掌は二匹のぬいぐるみに同意を求めると、彼らも頷く。


「さて、どんなお話をしましょうか? それとも、遊びますか?」


 車掌がララに尋ねると、ララは表情を明るくさせる。


「あそぶまえに……。ネコさんのおなまえは?」


「ボク?」


 ネコのぬいぐるみは丸い瞳を車掌に向ける。晴れ渡る昼間の空の色の瞳が車掌をじっと見つめる。


「ネコさんの名前ですか……。そうですね……」


 車掌はネコのぬいぐるみを見つめる。彼には名前がないのだ。つい先ほど自我を持ったぬいぐるみだ。名前がなくて当然なのだが、エルと呼ばれているララの友達がいるのだ。彼にも名前があってもいいだろう。


「ここは六号車ですから、六という意味を込めてゼクスとするのはどうでしょうか?」


「ゼクスか……。ありがとう、車掌さん」


 ゼクスは嬉しそうに笑う。ネコさんという仮の名前ではない、れっきとした彼の名前だ。


「ボクはゼクス。よろしくね、ララ様とエルと車掌さん」


「うん! よろしく、ゼクス」


 ララはゼクスに頬ずりをする。微笑ましい光景に車掌は目を細める。

 名前とは大切なものだ。六号車で自我が芽生えたから六を意味するゼクス、と単純だ。白い毛並みや空色の瞳を元にした名前でも良さそうだったが、ゼクスが嬉しそうならいいと車掌は思う。


「さて、名前も無事に決まったことですし、何をしましょうか?」


「えっとね、おえかきしよう」


「お絵描きですね。わかりました」


 車掌は快く了承する。先ほどまで警戒していた様子はどこへ行ったのか、無邪気な笑顔が向けられ、内心安堵する。

 こっち、とララに手を引かれた車掌は窓辺に立つ。


「これはこれは……。空のお絵描きはすべてララ様が?」


「うん。あれがゼクスで、あっちがエル」


 小さな指が夜空を指す。歪な形をしているが確かにゼクスとエルらしき絵だ。彼ら以外にも様々な動物や植物、物の絵が描かれている。


「ボクたちも描いてくれたんだね」


「嬉しいね」


「えへへ」


 ララは二匹を抱き直すと顔を埋める。


「おほしさまをつないでおえかきしたの」


 ほら、とララは星と星を繋ぐように線を描く。どんどん繋がっていく星は列車の形になる。


「上手ですね、ララ様」


 車掌が拍手を送るとゼクスとエルも手を叩く。


「みんなでおえかきしよう」


「はーい」


 それじゃあ、とエルとゼクスはふわりと宙に浮く。二匹はララと同じ視線の高さでふわふわと浮く。


「え!?」


 ララは丸い目をさらに丸くする。


「お空にお絵描きするにはボクたちだと低くて届かないからね」


 ほら描こう、とエルは笑う。ララが大きく頷くとリボンが揺れる。


「おや、ララ様。リボンが解けそうです」


 不器用に結ばれたリボンの結び目が緩くなっている。


「え?」


 ララは窓に映るリボンを見る。不格好なリボンはいつの間にかさらに不格好になっていた。今にも解けそうなリボンをそのまま解く。じっとリボンを見つめたララは車掌に差し出す。


「しゃしょーさん、むすんでくれる? ララ、じょうずにむすべなくて……」


「わかりました」


 車掌は手袋を外し、リボンを受け取る。柔らかな材質のリボンだ。ララの細く、柔らかな子ども特有の髪を手に取る。どこからともなく現れたヘアーブラシでチョコレート色の髪が絡まないように注意しながら丁寧に梳く。


「……ふむ」


 普通に結ぶのでは芸がない。車掌はサイドの髪を三つ編みにしていく。ララは車掌が思っていたことと違うことをしているのに気づくも、大人しくされるがままだ。車掌の手元をぬいぐるみの二匹も見守る。

 二本の三つ編みを後頭部でまとめ、ラベンダー色のリボンで結ぶ。


「できましたよ」


「ありがとう、しゃしょーさん」


 ララは窓に映る自分を改めて見るも、肝心の後ろがどうなっているのか見えない。ララが身をよじって後ろを見ようとする様子を見た車掌は宙に手を翳す。


「ララ様、前を向いていてください」


 車掌の言葉にララは大人しく従う。車掌は宙から現れた鏡で後ろがどうなっているかを窓に映す。窓には三つ編みのハーフアップ姿の後頭部が映される。ラベンダー色のリボンも綺麗な蝶のように羽を広げている。


「ララちゃん、可愛いよ」


「うん、よく似合ってる!」


 ララはじっと自分を見つめる。少しお姉さんになった気分だが、母の髪型に似ているその髪型に少し寂しさがこみ上げてくる。


「しゃしょーさん、かわいくしてくれてありがとう」


 ララは寂しさを振り切るように車掌を見上げる。何かしてもらったらお礼をするのよ、と母からよく言われた。


「どういたしまして。とてもお似合いですよ」


 車掌は淡く微笑む。我ながらよくできたと思う。


「じゃあ、お絵描きしようか、ララちゃん」


 エルの言葉にララは頷くと、かくぞー、と手を挙げる。ララに続き車掌と二匹はおー、と同じように手を挙げる。

 星を敷き詰めた空に線が引かれる。星座図のようだ、と思いながら車掌は星を繋げていく。音符、ライオン、花、ミシン、船を描く車掌の隣でララは車掌の顔を描く。ぬいぐるみたちはそれぞれララの顔を描く。


「しゃしょうさん、かくのはやいね」


 次から次へと星を繋いで絵を描く車掌の手はやはり魔法使いの手なのか。ララが描く車掌の顔よりも上手に描いていく車掌の指は思いどおりに物を生み出していくようだ。


「簡単なものぐらいしか描けなくて……」


「じょうずだよ」


「ありがとうございます、ララ様」


 手先が器用な自信はあるが、それと絵を描く能力は違うと車掌は思う。実際、空に描かれた車掌の絵は何とも微妙な出来だ。特徴は捉えているが、上手かと言われればそうではない。図のような絵だと思うが、褒められると素直に嬉しい。


「うーん? しゃしょうさん、ずっとおとなことばばっかり」


「おとなことば?」


 子どもは不思議な言葉を使うことがある。独特な言葉は彼らなりの意思表示でもあり、ひとつの表現方法なのだ。

 車掌は首を傾げるも、すぐにララの言いたいことを理解する。


「難しい言葉でしたか?」


 できる限りかみ砕いた、簡単な言葉を使っていたつもりだ。しかし、ララは納得していないのか首を横に振る。


「おとなことばなの」


「おとなことば……」


 大人が使うような言葉というのはわかる。ララの反応を見る限り、意思疎通はできているため、言葉の意味を全く理解できていないというわけではないようだ。


「うーんとね、なんだろう……。せんせいとパパとママがおはなししてるときのことばといっしょ」


「先生とご両親……お父さんとお母さんがお話しているときの言葉と一緒……」


 大人同士の会話だ。彼らがどのような会話をしていたのかおおよその予想はつくが、ララの伝えたいことを汲み取れない。


「ごめんなさい、ララ様。では、どのようにお話すればいいでしょうか?」


「うーん……」


 ララちゃん、と彼女の肩の辺りをふよふよと浮いているエルが心配そうに見つめている。ちゃんと説明できるだろうか、とエルは不安そうだ。


「あのね、パパたちはララにおはなしするときはおとなことばじゃないの」


「……なるほど」


「敬語じゃないってことじゃない?」


 ゼクスが言うと車掌は合点がいった様子で手を叩く。


「そういうことですか」


 今までにも夜想列車に小さな子どもの客はいた。彼らも敬語は嫌だとか変な喋り方だとかそれぞれが言っていたのを思い出す。久しぶりの小さな客人に完全にそのことを忘れていた。


「けいご?」


 きょとん、としたララは丸い瞳でゼクスを見つめている。


「ララ様。ボクたちみたいな話し方は大丈夫だよね?」


「うん」


「……では、大人言葉はやめましょうか」


 車掌は小さく笑う。車掌は乗客の年齢に関係なく敬語を使う。時々崩れてしまうときはあるが、子どもであっても彼らは夜想列車の乗客だ。場合によりけりだと思うが、客人相手に馴れ馴れしい態度や言葉を使うのは違うと思うため、子ども相手でも敬語を使うようにしている。が、本人が敬語はやめてと望むのであれば、それに従うのみだ。


「うん! おとなことばじゃないのがいい」


「では、そのように」


「あとね、ララさまじゃなくていいよ。ララってよんで」


「わかったよ、ララ」


 ゼクスが返事をするとララは満面の笑みを浮かべる。絵本の中のお姫様が何とか様、と呼ばれているのは憧れるが、仲良くなったゼクスと車掌からそう呼ばれるのは何だか変な感じがするのだ。ララ様と呼ばれるよりも、ララやララちゃんと呼ばれた方が嬉しい。


「さあ、お絵描きの続きをしようよ、ララ」


 ゼクスが声をかけるとララは元気よく頷く。


「しゃしょーさんも」


「はい。次は何を描きましょうか」


「おとなことば!」


「あ……。えーっと、次は何を描こうか」


 敬語が癖になっている。子ども相手が久しぶりで少しだけ調子が狂い、ぎこちない言い方になってしまう。

 その後も夜空に絵を描く。次々と絵で埋め尽くされる夜空は賑やかになっていく。オリジナルの星座図ができるようだと思いながら、車掌も絵を描いていく。

 どれほどそうしていたか。そろそろ描く場所もわずかとなったとき、ララが大きな欠伸をする。目をこするララの顔をエルが覗き込む。


「眠くなってきた?」


「うーん……」


 また欠伸をしたララは涙を拭う。丸い瞳はゆっくりとまばたきを繰り返している。


「おや。少し寝ようか、ララちゃん」


 車掌はリスを描く手を止め、ララの顔を覗き込む。


「でも、もっとあそぶ……」


 ララは目をこする。まだまだ遊びたいのだ。お絵描きだけでなく、おままごとや積み木、絵本を読むなど、遊びたいことがたくさんある。


「一回寝よう。それから一緒に遊ぼうよ」


 ゼクスが、ね、とララの手を引く。まだ遊んでいたいのに、瞼が重くなっていく。ララは眠気に耐え切れず、渋々小さく頷く。


「ゼクスたちもいっしょにねよう」


「もちろん。ね、エル」


「ええ」


「しゃしょーさんも」


「僕も? ごめんね、ララちゃん。僕はこの後も仕事があって……」


「そんな……」


 ララは口を尖らせる。


「ララちゃんが寝るまで傍にいる。仕事が終わったら、また戻ってくるから一緒に遊ぼう」


 車掌はそう言うもララは嫌だと言うように首を横に振る。柔らかな髪が揺れるのを見て車掌は眉を下げる。


「……じゃあ、おきてる」


「とは言っても、眠そうだよ」


「ねむくないもん」


 そう強がるララだが、ふわあと欠伸は我慢できない。

 どうしたものか、と車掌は困ってしまう。今までにも子どもに引き留められたことがあった。その度に同じように頭を抱えたくなるような気持ちを抑えながら、結局は彼らを根気よく説得したものだ。


「……とりあえず、身体を横にしようか」


 ララには申し訳ないが、眠りについたのを見届けてから退室しようと心に決める。できるだけ早く仕事を切り上げれば、彼女が目覚める前に戻ってくることが可能だ。

 と言っても、今日は追加の仕事があるため、どうなるかわからない。車掌は心が痛むのを耐えながら、小さな手を引く。


「やだ」


 ララは動こうとしない。車掌とララのやり取りを見てエルとゼクスもどうしたものか、と心配そうに見つめている。

 仕方ない。そう思った車掌は窓の外に描かれた絵を探す。ララが描いてくれた自分の絵を見つけると、窓を開ける。可愛らしく描いてくれた自分の顔は少し歪だが、一生懸命描いてくれたことが嬉しい。そよそよと吹いている風が車掌の頬を撫でる。手を伸ばして、その絵を掴むように手を握ると、ゆらゆらと絵が揺れ、車掌の手に吸い込まれる。淡い光を集めたそれは、柔らかな質感に変わる。窓から手を引き、窓を閉めた車掌はそれをララに差し出す。白銀の髪に夜空を切り取ったような瞳、紺色の制服を身につけた自分とよく似たそれ。


「ララちゃん。このお人形さんを見てくれる?」


 ララは車掌の姿をした人形を見て目を丸くする。


「しゃしょーさん……」


「仕事が終わったらすぐに戻る。僕が戻るまでに間、このお人形さんがララちゃんの傍にいるから待っててくれるかな?」


「……」


 ララは車掌を見つめる。車掌の夜空色の目はキラキラと宝石のように輝いていて綺麗だ。その目が、お願い、と言っている。


「……わかった。約束だよ」


 ララは小指を車掌に見せる。車掌は破顔するとララの小指に自分の小指を絡ませる。


「約束」


「やくそくやぶったらおこるからね」


「はい。約束」


 それでもララは納得のいっていない顔をしている。むすっとした顔だ。


「ララ。ベッド行こう」


 ゼクスがララの手を引く。ベッドなんかここにはないのに、とララが思うのも束の間、振り返るとそこにはお姫様が寝るような可愛らしいベッドがそこにあった。他のぬいぐるみたちも並ぶベッドにララはまばたきを繰り返す。ほらほら、とララの腕を飛び出したエルももう片方の手を引く。

 天蓋つきのラベンダー色のベッドを見上げたララは気がつくとネグリジェ姿になっていた。ゼクスとエルがベッドに飛び込むのに続き、ララもベッドに飛び込む。甘い花の香りがかすかにするベッドは雲に飛び込んだと思うほどふわふわとしている。


「どうかな?」


 ゆっくりと歩いてきた車掌は微笑んでいる。


「おひめさまのベッドみたい……」


 横になろう、と二匹は袖を引く。


「……」


「ララちゃん?」


 エルが心配そうに顔を覗き込む。


「……せっかくしゃしょーさんがあたまかわいくしてくれたのに」


 車掌がいなくなってしまうことも、可愛くしてくれた髪を解くことも嫌なのだ。このまま横になれば間違いなく崩れてしまうし、かと言って解いてしまうのも惜しい。

 車掌の胸が痛む。初めはあんなに警戒していたのに、ここまで慕ってくれて嬉しい反面、申し訳なくなってくる。


「また可愛くするから」


「やくそくだよ」


「ええ、約束です」


「やくそくやぶったら、しゃしょーさんのこときらいになっちゃうから」


「それは困ったなあ……。仕事が終わったら、必ず、戻ってくるね」


 眉を下げて笑う車掌にララは小さく頷く。ほどいて、とエルに言うとエルはおずおずとリボンと三つ編みを解く。柔らかな髪が丁寧に解かれる。エルはリボンを綺麗に畳み、枕元に置く。ゼクスが横になるようにララを促すと、ララは横になる。


「あ、しゃしょーさんのおにんぎょう」


「うん。お願いします」


 車掌はララに自分の分身を渡す。ゼクスとエルよりも小さな人形をララは大事そうに受け取る。


「おくすり、のむ?」


「お薬? ……大丈夫だよ。お薬はもう飲まなくていいんだ」


 車掌は毛布をかけてやる。毛布から顔を覗かせた二匹は嬉しそうにララの身体にくっつく。


「えへへ。嬉しいなあ」


 エルがララに頬ずりする。くすぐったそうにするララも笑顔を浮かべる。

 ベッドの横に現れた椅子に腰かけた車掌は微笑ましい光景に頬が緩む。照明が暗くなり、照明の替わりに空に描かれた三日月が輝き出す。


「ララちゃん、子守唄を歌おうか?」


「うたってくれるの?」


「うん。お父さんやお母さんみたいに上手ではないかもしれないけど」


「パパとママのこもりうた、しってるの?」


 ララは目を丸くする。あの歌は両親しか知らないはずなのに、どうして車掌が知っているのか。

 魔法使いだから? そんなことをララが考えている頭上で車掌の瞳が細くなる。


「知ってるよ。さあ、皆、目を閉じて」


 優しい声音にララは父親の声を重ねる。おやすみの時間だよ、と父親が優しく言う声と似ている。

 夜空色の瞳をじっと見つめた後、ララは目を閉じる。ガタンゴトン、ガタンゴトン、と列車が揺れるのに混ざって優しい声が聴こえる。両親が歌ってくれる子守唄だ。両親と同じで優しい声がひどく安心する。静かに溶けていくような歌声にララの意識もゆっくりと溶けていく。久しぶりに聴く子守唄だと思いながら、ララは徐々に意識を手放していく。

 そろそろ終わり。そう思っていると優しい声が聞こえなくなってしまった。終わってしまったのかと思ったララはそっと目を開ける。夜空色の瞳と目が合う。ぼんやりとする視界で白銀が揺れる。


「ほら、目を閉じておやすみ、ララちゃん」


「……」


 ララはゆっくりとまばたきをすると重い瞼に逆らえず、目を閉じる。


『いい夢を、ララ』


『明日こそはきっと、もっとよくなるよ』


 両親の声が聴こえたような気がする。ララは心地のいい花の香に包まれながら、意識を手放した。

 スースーと規則正しい寝息が聞こえ始め、車掌はほっと息をつく。歌は苦手だ。正直、自分の歌声で眠ってくれるか不安だった。歌い終わって目を覚ましたララを見て駄目だったかと思ったが、今は深く眠っている。自分の人形を大切に抱いて眠るあどけない寝顔に微笑む。


「ゼクス、エル」


 車掌が囁くと二匹は丸い瞳を開ける。


「ララちゃんのこと、頼みますね。もしかしたら、四号車のお客様がいらっしゃるかもしれません。そのときは、応対をお願いします」


 二匹は小さく頷く。車掌は安心したように頷き返すとそっと立ち上がる。

 花の香、ラベンダーの香が名残惜しい。いってらっしゃい、と見送る二匹に手を振り返した車掌は帽子を被り、客室を出る。

 楽しくてついつい長居してしまった。切り替えなければ。車掌は軽く頬を叩き、車掌を待っているであろう七号車の客人のもとへと向かった。

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