第5号車 傍を揺蕩う海の月

 外は深い瑠璃色に染まり、ぼんやりとした光が漂っている。その光はひどくゆっくりとした流れ星のようだ。明滅する光が漂う車窓の景色は何だか普通の景色とは違う。本来見えるような景色ではないはずだ。

 ソウは逞しい腕を上げ、座席の背もたれに寄りかかって肩の筋を伸ばす。ふう、と腕を下ろして一息つくと胸元のアクアマリンを埋め込んだペンダントを見つめる。


「……」


 透き通った海の色の石は淡く輝いている。穏やかな海を思い起こさせる色の石だ。

 ソウはペンダントに祈りを捧げるように握り、目を閉じる。どこからともなく波の音が聴こえるような気がする。寄せては返す、静かな波の音だ。

 無意識の内に深く呼吸をしてふつふつと沸きあがる不快感を抑え込む。心を落ち着かせ、目を開ける。窓の外は変わらずゆっくりと光が流れている。意を決するようにソウは窓枠に手をかけ、勢いよく開ける。心地のいい風が頬を撫でるが、それはここで嗅ぐことはないはずの香を運ぶ。

 潮の香だ。嗅ぎ慣れたその香が鼻をつく。間違えるはずのないその香にソウは静かに窓を閉める。

 おかしい。外の景色を見る限り海はない。それなのに、海の香がはっきりとする。


「どうなっているんだ……」


 ソウはガシガシと丸刈りにした頭を掻く。それと同時にコツコツコツ、と扉が叩かれる。それに不機嫌な声で返すと穏やかな声が、失礼します、と応じる。入室してきた男は紺色に身を包み、白銀の輝きを放つ星の飾りがついた帽子を脱いで一礼する。


「こんばんは、ソウ様」


「……車掌さんか」


 顔を上げた車掌はにこりと笑うも、その眉はすぐにひそめられる。すん、と鼻を啜った車掌は香の正体が外の景色と関係あるものだとすぐに気がつく。深い青に染まった列車の外を光がゆっくりと横断する。


「これは……」


「なあ、車掌さんよ。この列車は夜を想う列車。陸路を走ってるんだよな?」


「はい……。ですが、これは」


 車掌は窓辺に立つ。車掌の目の前をひらりと白いものがよぎる。

 クラゲ。白いふわふわとしたそれは何度見てもクラゲだ。ドーム状の体を持つクラゲはこちらのことなど関係なく自由気ままに泳いでいる。他にも小さな魚が淡い光を放ちながら泳ぎ、ゆっくりと流れる星を思わせる。ゆらゆらと揺蕩うような夜の景色に車掌は目を丸くする。

 

「これは夜空と言うよりも……」


 車掌は上を見上げる。ゆらゆらと揺れるその様と漂う生き物を見れば連想されるもの。空と同じで、広く、遠くまで延々と続く青だ。


「海の中みたいですね」


 列車の外は夜の海の中のようだ。見上げれば遥か遠くに海面が、見下ろせば暗闇が広がっている。美しい青のグラデーションの中を海の中の生き物たちが自由気ままに泳いでいる。列車のことなどお構いなしの彼らはぼんやりと発光している。その様は星空に似ている。


「ああ、そうだよ」


 ソウは忌々しそうに舌打ちする。


「よりにもよって、夜の海かよ……」


「夜の海はお嫌いですか?」


「嫌いも何も、俺は……」


 ソウは悔しそうに顔を歪める。握り締めた大きな拳をテーブルに叩きつける。


「……失礼なことを訊きました」


 申し訳ありません、と車掌は謝罪する。しんとした空間にその声は静かに吸い込まれる。

 夜を想うための列車。乗客の全員が夜を好むとは限らない。彼のように夜が嫌い、憎いと想う客もいるのだ。誰しもが夜のことを必ずしもよく想うというわけではないことは車掌もよくわかっている。今までの四人の客は夜を嫌いとは言わなかった。今日初めての夜を嫌がる客だ。

 車掌は帽子を被り直す。たとえ、夜が嫌いだと言われようが、夜想列車の車掌としてソウには快適な夜を過ごしてもらいたい。これ以上、夜のことを嫌いになってほしくないのだ。


「変えられないのか?」


「各客室から見える夜空はお客様が想う夜の形です」


「つまり、俺が望めば変わるのか?」


「ええ。……ただ、気になることが」


 車掌は窓の外に広がる海のような景色を見上げる。手を伸ばしても届きそうにないほど遥か遠くの海面。海面からさらに向こうの空がよく見えない。海面の様子を察するに、今夜見た夜空の中で一番暗い。光は生き物たちが発するものと、遠くに一筋だけ薄っすらと射しこんでいる光のみだ。


「嫌なら、カーテンを閉めるなどできたと思うのですが……。それをしなかったのはなぜですか?」


 車掌はまとめられたカーテンを一瞥してソウに問いかける。ソウは気まずそうに目を逸らす。


「それに、変えようと思えば変えられます。それもしなかった」


 車掌は一際暗い夜の景色に目を細める。自分の白銀の髪が窓にくっきりと写る。小さな魚がゆっくりと視界をよぎる。のんびりとした流れ星のようだ。


「それはなぜでしょうか?」


「……」


 車掌は窓を開ける。ふわりと潮の香が肺を満たす。車掌の白銀の髪を風が撫でるように吹き込む。すると、流れに身を任せていたクラゲが風にのって車内に入ってくる。ふわふわと頼りなく宙を漂うクラゲに続き、額から光の玉を垂らしたアンコウや、自ら発光するイカなど、海の生き物たちが入り込んでくる。小魚たちも群れをなして窓から入ってくるとスイスイと泳いでいる。

 入り込む海の生き物たちにソウは目を丸くする。


「……は?」


 彼らは水中でしか生きられない。そもそも、本来、窓の外が陸地であるにも関わらず、海のような環境であることが十分変なのだ。それでも、外の方が彼らが生きる環境に近そうだ。だが、クラゲたちはまるで客室も海であるかのように悠々と泳いでいる。車内が海水で満たされているかのような泳ぎだ。苦しむ様子もなければ、泳ぎに迷いがない。窓一枚隔てていても、環境は変わっていないかのようだ。


「ほほう。クラゲというのはこんなにもプルプルしているのですね」


 ソウとは対照的に、車掌は手近なクラゲをつついている。ゼラチン質の体は想像どおり柔らかい。透明な体は傘を広げたような形で、丸みを帯びたそのフォルムが可愛らしい。流れに身を任せているクラゲは車掌にされるがままだ。

 見た目よりも幼く見える笑顔を浮かべる車掌にソウは表情を険しくする。


「あまり気軽にそいつに触るな。毒性はそこまで強くないが、刺されたら腫れるぞ」


「ご忠告感謝します。が、大丈夫ですよ。彼らは本物ではありませんから」


 ほら、と車掌がそのクラゲを優しく撫でるとクラゲは泡となって空気に溶けるように消える。跡形もなく消えたクラゲにソウはまばたきを繰り返す。


「これはヒトデですね」


 車掌はまた流れ着いたヒトデを捕まえ、呑気に星型の体を手に収める。車掌の掌より大きいヒトデは大人しく収まっている。


「海の生き物とはあまり縁がなかったものですから、新鮮ですね」


「……そうなのか?」


「はい。船にも乗ったことがないですし、釣りもしたことがない。海に行ったこともありません。海のことは写真や本で読んだことぐらいで、本物の海を見たことがありません」


 車掌はヒトデを宙に返す。ヒトデは見えない流れに身を任せるように窓の外へと戻って行く。くるくると回りながら外に戻るその姿は風車のようだ。


「海から遠いところに住んでいたのか?」


「遠い……。そうですね、とても遠い存在です」


 車掌は寂しそうに言葉をこぼす。手を伸ばしても届くことのなかった場所だ。


「そうか。俺からすると、こうやって列車に乗ることの方が少ないからな」


 ソウは皮の厚い掌をじっと見つめる。日に焼けた腕がソウの職業を物語る。


「漁師だったから、船に乗ってばかりだ」


「海が近い環境ですか」


「家の目の前が海だ。移動手段も船がほとんどだから、列車のこの感じは慣れないな」


 ガタンゴトン、ガタンゴトンと揺れるこの振動は波で揺れる船の感覚と違う。


「車掌と漁師、陸と海、ね……」


 対照的だ。ソウは小さく笑うと息を深く吸う。潮の香が身体のすみずみまで染み渡る。幼い頃から知っている潮の香だ。


「海の生き物がそんなに珍しいか?」


「はい。本で読んだ程度のことしか知らないので」


 車掌は天井付近で遊泳する小魚の群れを見上げる。隊列をなし、群れから外れる魚が一匹もいない。照明の近くでは、アンコウの光の玉が張り合うようにして光っている。


「そうかい。あんたは海が好きか?」


「はい」


 車掌の夜空色の瞳が一際輝く。その瞳の色は海の色のようにも見える。眩い日差しを反射する海面のような瞳だ。


「ソウ様は?」


「俺は見飽きたな。生まれたときからいつもすぐ傍にあったから」


 そこに好きも嫌いもとくにない。そこにあることが当たり前で、好き嫌いという判別がつく前からの存在だからあまり気にしない。

 気にしないのだが。

 ソウの表情が曇る。白い波と泡と轟音が脳裏から離れない。


「今は嫌い寄りだな」


 車掌の眉が下がる。

 客のことを把握するのも車掌の務め。だから、車掌は目の前の巨漢のことを知っている。彼がどうしてこの列車に乗ることになったのか、過去に何があったのか。


「陸地で育った人間は海のことをどこまで知っているか知らないが、俺からすれば、海は怖いものだ」


 ソウは車掌が開けた窓を閉める。すると、車内を漂っていた生き物たちが泡となって消える。アンコウの光の玉も、長く靡くレースのようなクラゲの触手も、一糸乱れぬ小魚の隊列も真珠色の泡となってあっけなく姿を消す。儚く消えた生き物たちから視線を逸らしたソウは深く息をつく。


「海ってのは一度に多くのものを連れ去ってしまうことのできる怪物だ」


 穏やかな海であっても突然牙を向き、何もかもを流してしまう。大きな口を開けたクジラのように全てを飲み込んでしまう。もみくちゃにした後、どこか遠くへと持ち去って行ってしまう。


「その一面を美しさで隠している。……綺麗なのは本当なんだがな」


 ソウは目を閉じる。目の前に海が広がっている様子が容易に想像できる。

 船から飛び込み、海に潜る。バシャン、と水飛沫があがる音が聴こえる。ボコボコと小さな泡が消えると、澄んだ青の世界が飛び込んでくる。射しこむ日の光が梯子のようにいくつも下りている。海の中はずっと先まで見えそうなほど透き通っている。魚たちが思い思いに泳ぎ、美しいサンゴ礁が広がる海は確かに美しい。

 海面から顔を出せばふたつの青が共演する。空の青と海の青。異なるふたつの青を楽しむことができる。

 ソウは目を開ける。窓の外に広がる海中を模した景色はソウが見知った海よりも深く、暗い。正直、気が重くなる。


「皮肉なものだよな」


 ソウは諦めたような表情を浮かべる。深い瑠璃色と真珠のような泡とうるさいほどの轟音が脳裏にこびりついて離れない。忘れたくとも忘れられない。


「俺は海が怖い。だが、海が生みだした恵みを受けて生きている。俺のような漁師はその恵みを陸地の人々に届ける役割を持つ」


「……ええ。ソウ様のような漁師の皆さんのおかげで、私たちは海の恵みをいただくことができます」


 食べ物とそれに関わった人に感謝を。命をいただくことで自分が生きていける。それを忘れないようにと車掌は強く思っている。とくにこの列車に乗って、多くの人と関わりを持つとよくわかる。


「そう言ってもらえると漁師冥利に尽きるな」


 ソウはニカッと笑う。その笑顔は眩しい真夏の太陽のようだ。初めて車掌の前でこんなに明るい笑顔を浮かべた。眩しい笑顔に車掌は目を細める。爽やかで明るい笑顔は本当に海の男であるソウらしい。


「漁師さんのお仕事か……。一度体験してみたいですね」


「車掌さんが?」


 ソウは車掌を見上げる。ひょろっとしていて、線が細く見える。今度は立ち上がってじろじろと車掌を見る。ギョロッとした目は車掌を品定めすると、車掌の肩を掴む。見た目よりはしっかりしているが、ソウからすると薄い。

 ガシッと掴まれた車掌は深い青の瞳を見開き、ソウを見上げている。突然のことで思考が追いつかない。


「今の車掌さんじゃ難しいだろうな。ひょろひょろしてるし、体力がなさそうだ。すぐにバテちまう」


 ソウは緩やかに首を横に振る。


「なっ……。ひょろひょろしているように見えると先ほども言われたばかりなのですが、弱そうに見えますか?」


「おう」


 即答だ。車掌は自分の手を見つめる。確かに、ソウのように厚みのある手ではない。身体も逞しくはない。ソウと並ぶと余計に目立つだろう。

 車掌はソウの腕を見る。半袖のシャツから覗く二の腕は太く、筋肉が盛り上がっている。漁師が力仕事であることはわかっているが、ここまでの体格になるまで年単位を要するのではないかと簡単に推測できる。


「ま、鍛えればすぐだぞ」


「はあ……」


 ソウは車掌の肩を軽く叩き、手を離す。


「誰かにもひょろひょろと言われたようだが? もしかして、四号車のおばさんか?」


「え、まあ……」


「あの人、言いそうだよな。でも、車掌さんみたいな男もいいんじゃないか? 三号車の嬢ちゃんみたいな子に好かれそう」


 綺麗な顔立ちをしているとソウは思う。自分は無骨な顔だが、目の前の若い車掌はキラキラとして見える。白銀の髪と夜空色の瞳が相まってそう見えるのかもしれない。真珠のような髪と日差しを反射する海のような瞳、日焼けとは無縁の色白の肌。低すぎない落ち着いた声は穏やかで優しく、寄せては返す静かな波のようだ。


「あんたなら六号車の子も大丈夫だろうな。あの子、俺を見た途端、泣いてしまったからな」


 ソウは苦笑する。可愛らしく、大人しい少女を怖がらせてしまって申し訳なかった。そんなに厳つい顔をしているだろうかとショックも受けた。


「そうでしたか……。私も泣かれないといいのですが」


 車掌は列車の後方を見る。次に向かうのは六号車。ファイも気にかけていた六号車の客人は小さな子どもだ。小さな子どもが筋骨隆々で自分よりもはるかに大きなソウを見たら怖いと思ってしまうのは無理もないかもしれない。また、ソウの声は大きく、低い。車掌からすると厚みのある声だと思うが、小さな子どもはソウの大きな体も相まって余計に怖いと思ってしまうかもしれない。

 大きな熊と小さなリスを想像した車掌はすぐにそれをかき消す。絵面的にはそれっぽいが、二人に失礼だ。


「おばさんに言われたよ。気をつけないとぶつかって嬢ちゃんが吹っ飛んでしまいそうだって」


「やはり、小柄な方ですか?」


「おう。五歳ぐらいの女の子だ」


 これぐらいの、と言ってソウは腰より少し下の辺りに手を添える。


「これぐらいの子だったかな? 同じ年頃の子と比べると、やけに線が細く見える子だったな」


 小動物のようだった。ソウが声をかけようとしただけで、驚いて柱の後ろに隠れてしまったのだ。しくしくと泣く彼女をこれ以上怖がらせないように四号車の客人に任せたのだ。それ以降、遠目に二人のやり取りを見ていただけだ。人見知りをしているのか、四号車の客人に対しても中々心を開いていないようだった。


「あのおばさんが上手いことやってくれてよかったよ」


 泣き止んだ様子を見てとりあえず一安心した。乗車するときに、小さな身体を横目に見たのが最後だが、大丈夫だろうか。不安そうにクマのぬいぐるみを腕に抱いていた。


「そうでしたか」


 車掌は客たちがホームで待っているときの様子を知らない。乗車するまでは駅員たちの管轄になるため、車掌が客人たちと初めて接触するのは基本的には発車してからだ。

 ファイが六号車の小さな客人を気にかけていたのは一連のやり取りがあったからか。五歳ほどの小さな子が一人で列車に乗るという話を聞くだけでも心配になる。


「それにしても、あんなに小さい子もこの列車に乗るのか」


 ソウの声が低くなる。圧のあるその声に車掌は小さく頷く。その声はわずかに怒りを含んでいる。


「なあ、車掌さんよ。あんたも随分と若いよな。一瞬しか見ていないが、三号車の嬢ちゃんもそうだ」


「……」


「人それぞれってことか」


 ソウは窓の外を見やる。変わらず魚たちがふわふわと泳ぎ、穏やかな夜の海を思わせる景色だ。


「……車掌さん。俺がこの景色を見ないようにしなかった理由、聞いてくれないか?」


 ソウは話を戻す。気まずそうに俯いていた車掌が、聞いてもいいなら、と申し出るとソウは胸元のペンダントを見つめる。アクアマリンがはめられたペンダントは漁に出るときに必ず身につけていた。

 アクアマリンという石は海水を意味する名前で海と縁の深い石だ。船乗りたちのお守りとされる石でソウもお守りとしていつも身につけていた。

 澄んだ海の色をしている石からソウは目を逸らす。視線の先に広がる海は暗く、アクアマリンとは違う色をしている。アクアマリンよりも深く、暗い海の色、車掌の制服の色に近い。


「この夜の景色は俺の後悔と後戻りできない戒めだ」


 船乗りを導くという北の空に輝く星。北極星と呼ばれるかの星はいつも空で輝き、夜の海に出ることもあるソウを導いてくれた。その星が脳裏に浮かぶ。今の列車の外の夜空にその星は見えない。海面ですら遥か遠いのに、その先に広がる空の星が見えるわけがない。


「後悔と戒め……」


 車掌はソウの言葉を小さく繰り返す。


「夜の海が嫌いと言うよりも、無理して夜の海に出た俺が嫌だと思った」


 深い瑠璃色の海水、真珠を思わせる白い泡。揺蕩うクラゲは悠々としていた。

 深い深い海の底までは導き星の光は届かない。ずっと海面を見上げても見えることのない北極星。白い泡とうねる波が北の空に浮かぶ星をかき消す。


「これからどうなるのかわからないが、俺はずっとこの窓の外の景色を忘れられない。俺が想う夜の海がこんな形しかまともに浮かばないんだ」


 ソウは小さく笑う。諦めに近い笑みだ。もっと他の夜の海を知っている。凪いだ海を、海を照らす月も、子守唄代わりの静かなさざ波も、夜の海から吹く風も、夜空と海面の境が溶け合う姿も、いくつも知っている。

 それにも関わらず、激しく揺れる海面が、船乗りを導く光の届かない闇が、耳から離れない低い唸り声がこびりついて離れない。どの海も忘れたくても忘れられない光景なのだが、一際恐ろしい海の姿がずっと離れない。

 こんなに自分は弱い男だったか。海のようにどこまでも広く、おおらかで、細かいことはあまり気にしない人間であろうと心に決めているのに。


「悪いな、車掌さん。辛気臭い話をして」


 ソウは苦しそうに言う。胸の内の息を吐き出すような重い声だ。


「いいえ。ソウ様に尋ねたのは私の方ですから」


 車掌は気まずそうに答える。本来のソウの性格はもっと生き生きとしているはずだ。明朗快活な人間のはずなのだが、目の前の巨漢の身体は縮こまって見える。


「ごめんなさい。辛い記憶を蘇らせてしまいました」


「いいんだ。こっちこそ、話を聞いてくれてありがとう。そうだ。切符、見てもらってないな」


 えっと、とソウはズボンのポケットから切符を取り出す。不思議と潮の香がするそれを車掌に差し出す。

 車掌は無言で切符を受け取る。外の景色のせいか、夜空を模したはずの切符の色が、先の見えない海底の色のように見えてしまう。穴を開けてソウに返す。


「ありがとう、車掌さん」


「……」


「車掌さん?」


 ソウは深い色を浮かべる車掌の瞳を覗き込む。見れば見るほど、静かな夜空を思わせる不思議な瞳だ。夜の静かな海辺で潮風にあたっているときの様子が思い浮かぶ。

 その瞳が窓の外に向けられる。そして、白い手袋をした手が窓を開け放つ。先ほどとは違い、風が強く吹き込み、車掌の帽子を吹き飛ばす。


「何だ?」


 強い風にソウは腕をかざす。潮の香が強い。


「……私は夜想列車の車掌です。お客様が快適に夜を想う旅ができるようにする。それが私に課せられた使命です」


 低くなった車掌の声を何とか強風から拾い上げたソウは車掌の方に視線をやる。


「出過ぎた真似かもしれませんが、この景色を変えさせていただきます」


 車掌の瞳の中の星の輝きが強くなる。バタバタとカーテンがうるさいほどはためいている。

 ソウの近くを魚たちが流れていく。派手な色の小魚も、風車のように回転するヒトデも、大きく逞しい魚も風の流れに逆らえないようだ。そんな生き物たちの中から一匹の白いクラゲをソウの瞳が捉えた。そのクラゲは風の流れから抜け出すと、寄り添うようにソウの傍をゆっくりと旋回する。長い触手がソウを守るように囲むと淡く光り出す。真珠色の月のようなその光に目を奪われていると、聞き慣れた音が耳に飛び込む。

 風が弱まり海の香を運ぶ。その風が運ぶ音は寄せて返す波の音だ。窓の外を見てソウはその瞳を見開く。海の中のような景色であることに変わりはない。魚たちが思い思いに泳ぐ姿もそのままだ。ただ違うのは明るさだ。深い瑠璃色だった外にぼんやりとした光がふよふよと漂う。月の光のように淡いその光の正体は自分のすぐ近くにいるゼリー状の生き物だ。


「クラゲ……」


 ふわりふわりと漂うクラゲの向こうに一筋の光が射し込んでいる。深い海の底を思わせる景色に梯子を下ろしたような光の筋がはっきりと注がれている。


「ソウ様。遠い国では海の月と書いてクラゲと読むそうですよ」


「海の月……」


 それはソウも聞いたことがある。異国の漁師から聞いた。水の母、水の月とも書いてクラゲと呼ぶらしい。その漁師も別の異国の漁師から聞いたと言っていた。


「暗い夜の海を照らす存在があれば、少しは気が晴れるでしょうか?」


「……」


「今宵の夜を照らすのは海の月と漁師を導く星」


 車掌は自分自身の胸元に手を添える。


「私たちがソウ様の旅路を照らし、終点まで導きます」


「……ふっ、ははは!」


 ソウは腹から声を出して笑う。豪快な笑い声はビリビリと空気を振動させる。客室に響くその笑い声に車掌は驚きつつ、ぎこちなく一礼する。


「そうか、そうか! 今度こそ、北極星は……光は俺を導いてくれるか!」


 ソウは客室の隅に飛んでしまった車掌の帽子を拾うと、車掌のもとに歩み寄る。白銀の髪が潮風に揺れている。その頭を乱暴に撫でる。


「え、えっ?」


 車掌は突然のことにまばたきを繰り返す。皮の厚い、大きな手が車掌の髪がぐちゃぐちゃになるほど撫でる。ぐりぐりと撫でられ、車掌の視界が揺れる。


「ありがとう、車掌さん」


 ぼさぼさになった車掌の頭に帽子をのせたソウはまた腹の底から笑う。帽子の位置を直した車掌は理解ができない、という様子でソウを見上げる。


「なあ、車掌さん。今度は俺があの星……北極星に手を伸ばしても帰る場所を導いてくれるだろうか?」


 車掌は夜空色の瞳をゆっくりと細める。何か憑き物が落ちたような吹っ切れた笑顔に車掌は一筋の光を一瞥する。スポットライトのように真っ直ぐに降り注ぐその光は何かを導く道しるべのようだ。


「はい。あなたが願えば、窓から手を差し伸べてみてください」


 身を乗り出し過ぎないように、と車掌はつけ加える。

 キラキラと車掌の瞳の中の星が輝いている。車掌の瞳の輝きはあのポラリスのようだとソウは思った。


「そうか。……俺はあの光がほしかったんだろうな」


 海を想うのは後悔と戒め。暗く、沈んだ気持ちの中で無意識に救いを欲していたのかもしれない。心のもやもやがたった一筋の光を見ただけで晴れた。それが不思議で仕方ない。が、これ以上思いつめるのはやめだ。


「どうか、アクアマリンとポラリスのご加護があらんことを」


 車掌は深く一礼する。顔を上げたときにソウの胸元でアクマリンが堂々と美しい光を放つのを見て穏やかに笑う。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン、と揺れる五号車に海の香が漂う。わずかに明るくなった瑠璃色の景色に星がひとつ、流れ落ちる。真珠色の流星はそのまま海を漂う月の姿となり、軌跡は長い触手となる。ふわふわと漂うその月は自由気ままに車両の傍を泳いでいた。

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