10

 そうして窓の外を流れていく桜の花々を眺めているうちに、私を乗せた電車は、目的の駅に到着した。


 よっこらしょっと、重たいお腹を抱えるようにして、私は座席から立ち上がる。

 まったく、毎週こうして病院通いしなくちゃいけないのは、なかなか面倒くさい。

 仕方のないことだけど。


 すこしお腹をさすってから、私は、春の日差しの光に照らされているホームを、眩しさから目を細めつつ歩き出す。

 そして歩きながら、なんとなく思い出し笑いをしてしまった。


 このお腹のなかにいるのが、男の子だと分かったとき、じゃあどんな名前をつけようかと夫と一緒にいろいろと相談した夜、私はふっと思い立って、「犬彦、って名前はどうかな」と、言ってみたときの夫の様子が頭に浮かんだから。


 彼は、いつかの私みたいに、その風変わりな名前を耳にして、戸惑った顔をしながら感想を述べた。



 「いぬひこ…? か、変わった名前だね」



 「私もそう思う」



 その後、いくつかの立候補の中から紆余曲折を経て、現在このお腹の子は、春彦(仮)と呼ばれている。


 ふと顔を上げると、どこからか風に運ばれてきた桜の花が、私の鼻を先をかすめて、過ぎ去っていった。


 そうだね、犬彦…彼は名前だけじゃなく、とにかく変わった人だった。


 助けてあげたとはいえ、17歳の女の子の戯れに真面目に付き合ってくれたあの人は、十年近く経った今なら、分かる、本当にあのとき私の…そして今も、紛れもないお兄ちゃんだったんだと。


 あれから私は、遠いところまで行くことができた。

 当時の私には想像もできなかった、それこそ宇宙の先にあるような、幸せな日常に。


 お兄ちゃんは今、どうしているだろう、元気にしているだろうかと思い出すことは度々ある。

 だけどまあ、あの彼のことだから、心配は無用だろうけど。

 案外お人好しな彼は、今頃は別の人のお兄ちゃんをやっていたりしてね。


 遠くへ流れ去っていく桜の花びらを見送ってから、私も歩き出した。


 私たちは、遠く離れた場所で、それぞれの人生を歩んで行く。


 だけど、兄の存在のあたたかさは、夜空の花吹雪の思い出とともに、いつも私のそばにある。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

兄妹ごっこ 桜咲吹雪 @fubuki-sakurazaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ