終 午後六時の蝉時雨

 自分の人生は一本の川のようだと思っていた。

 真っ直ぐで、平坦で、整備の行き届いた川。逸れることも氾濫することもなく、決められた流れを舟でただ流されるまま下っていく。

 そうして死ぬまで自分の手で行き先を決めることなく、流されていくのだと思っていた。

 

 


 その女を初めて見た時、なんて自分勝手で陰気な女子であろうと思った。

 

 代々続く名家の子女と婚約の話が上がったのは十九の春の終わり。

 巷では自由恋愛を声高に掲げているが、自分にとってそんなのは未だ御伽噺のようなものだった。生まれた時からどんな習い事をし、どの学校へ行き、いくつでどのような資格を取り、家業を支えていくことが決められていた。

 婚姻もその一つだった。家柄、資産に合った家との縁を結ぶこと。決して出しゃばらず、家を支える女を娶ることが生まれた時から義務づけられていた。

 久世華子は両親が考える条件にぴったりと当てはまる女だった。一目見てそう思った。ああ、この娘は自分と同じだろうと。親から与えられた道をただただ真っ直ぐ歩いている。走ることも、少し逸れることも、寄り道することも許されない。

 でも、彼女は違った。

「あの、私もう部屋に戻って良いですか? 読みかけの本があるんです」

 初めての顔合わせの日、彼女はそう言い放って両家の親を唖然とさせた。

 華子と同じ顔、同じ背丈、同じ声音。服装だけが鮮やかな刺繍を施された華子の海老茶袴と違って、彼女は極々地味で控えめな女学生姿であった。彼女は唖然としているこちらに目もくれず、両親の叱責を受け流しながら本当に退出していった。

「上の娘が申し訳ありません! あの子は本当に顔は同じでも妹に比べて出来が悪くて」

「いえいえ、構いませんわ」

 微笑む母に先方は明らかにホッとしたような表情を浮かべた。それから親同士が話を纏めている間、お互いに時折振られた話題に相槌を打つくらいで話すことはなかった。

 しばらくして「柊二さんを庭に案内してあげなさい」とお約束のように二人で放り出された。二人連れ立って歩いていても会話らしい会話はない。お互い口数は多い方ではなかったが、華子は庭に植えられている花を一つ一つ、教えてくれた。あいにくと花に興味がなかったので、それらの名前は一切思い出せないが。

「あ、姉さん」

 ふと少女が庭の片隅にある木の下で本を読んでいる女を見つけた。彼女は一瞬、顔を上げて微笑んで、けれどすぐ妹の隣に自分がいるのを見て顔を顰めた。どうやらあまり好かれていないようだ。まあ、無理もない。

 彼女は軽く妹に手を振り、こちらに向かって会釈をしてから、本を小脇に抱えて屋敷の方へ歩いて行ってしまった。

「姉のこと、あまり悪く思わないでやって下さいね」

 華子が彼女の背を見送りながら言った。先程のことだろう。

「落ちこぼれだって周りからは言われてるんですけど、姉さんはすごく頭が良いんです。本をたくさん読んでらして、将来は先生になりたいって言ってました。両親は大反対してましたけど……」

 そりゃあそうだろう。女に学などと言われる時代だ。

 女だてら教職など、腐っても落ちぶれていても名家の子女がなるものではない。

「私、姉さんが、羨ましい」

 ふと隣を見れば、白い花顔はなかんばせに葉ばかりとなった桜木の影が出来ている。さわさわと揺れる葉音に紛れるほど小さな声で、独り言のように、己の未来の伴侶となる少女はそう言った。

 僕はその時、背筋をしゃんと伸ばして歩く女の背を眺めるばかりで、彼女の独り言になんと答えたのか、もうはっきりと思い出せない。

 

 華子との交際期間は驚くほど順調だった。

 二人の間に燃え上がるような恋情はなかったけれど、緩やかな風の吹く午後のような空気があった。時折時間を作って食事をし、観劇や美術館などを巡り、夕餉の時間までには家に帰す。実に清く正しい交際だった。 

「今日はありがとうございました。歌劇、とても面白かったです」

「なら良かった」

「はい。ではまた……」

 ぺこりとお辞儀をした華子が屋敷へ戻っていく。

 それを見送って歩き出すと、不意に視界の端に何かが映った。

 振り向くと、やはり庭の片隅で彼女が本を読んでいた。どうもあの場所は屋敷からは死角となるらしい。草臥れたブーツに包まれた両足を投げ出して、彼女は擦り切れた本の頁を大事そうに捲っていた。

 いつも鮮やかで、手入れの行き届いた着物を着ている華子と違い、彼女はいつも古ぼけた衣服を着ていた。使用人よりは上等だが、華子が身に付けているものとは格段に落ちる。妹ばかり可愛がられて、彼女が親から疎まれているというのは本当の話のようだった。

(生き辛いだろうに)

 流れに逆らっていくのは疲れる。それを自分は身をもって知っていた。ただの商人あがりの雪待ですらそうなのだから、名家の生まれである彼女を見る目はもっと厳しいだろう。

 彼女が何故、そうまでして親に、世界に逆らっているのかわからなかった。

 

 

 それから何度か華子と逢瀬を重ねた。彼女を送り届けるたびに庭を覗いてみたが、彼女の姿は見つけられなかった。夏になったので、さすがに暑くなったのかもしれない。

 予想は当たり、秋口になれば彼女はまたあの木陰で本を読むようになった。

 

 ある日、仕事帰りに車を止めていた時、ちょうど二人が並んで歩いているところを見かけたことがあった。女学校の帰りだろう。声を掛けようか逡巡していると、華子が姉へ何かを耳打ちし、すると彼女は顔を上げて、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。

 

 ────彼女は、あんな顔で笑うのか。

 

 自分の前にいる時、彼女はいつも全身で「世界が嫌いだ」と叫んでいた。でもそう思っていたのは自分だけで、彼女は世界を恨んでも憎んでもいなかった。それがわかった時、彼女が一層眩しく見えた。姉が羨ましいと言った華子は、まさしく自分と同じ場所に立っていた。

 きっかけはそんな些細なことだった。

 あの日から、ずっと胸の内側を爪で引っ掻かれているような痛みを抱えていた。

 親が浮かべた舟の上で、ただ流れるばかりだった。整備され、少しのイレギュラーも許されないその水面に、女が知らずの内に蹴っ飛ばした小石が落ちた。

 

 けれど、だからといって自分が自由になれるかと言えばそういうわけでもなく、華子との縁談はそのまま何事もなく続いた。夏が終わり、秋が過ぎ、冬になった。彼女はまた、庭で本を読まなくなった。

 石の落ちた水面はもうすっかり元の静謐さを取り戻していた。かのように見えた。

 

 ────そして迎えた春。

 

 花嫁の姿を見た時、すぐにわかった。周囲は誰も気が付いていない。彼女の両親でさえ、本当に華子がここにいるかのように振る舞っていた。

 しばらくして姉の方は大病を患い、亡くなったと聞かされた。慶事に水を差すこともないから黙っていたと、久世の両親はこともなしげに言った。それが真実でないことなど調べればすぐにわかるというのに。

 彼女との結婚生活は気が狂いそうだった。

 彼らの中では本当に、亡くなったのは姉で、生きているのが華子だということになっていた。今まで少しも省みてやらなかったのに、互いの両親は華子として彼女を可愛がった。何も変わっちゃいない。彼女は彼女なのに、彼女を中心にして、世界の方が変わっていった。

 その中で彼女は理想的な妻を演じていた。その姿は誰が見ても華子そのものだった。ひょっとしたら間違っているのは自分の方で、本当に彼女は亡くなってしまったのだろうかとさえ思う日もあった。

 けれど時折空を見上げる横顔が。こちらを食い殺さんばかりに射抜く瞳が、彼女の輪郭を作る。

 そのたびに胸の奥に落ちた小石につけられた傷が、ひどく傷んだ。

 

「ねえ君、この本、読んでみないか?」

 同僚に薦められた大衆小説。このくらいなら女性が読んでも許されるだろう。そう思って購入を決めた。尻込みする彼女を口八丁で宥めて、受け取らせた。

 案の定、彼女はすぐに本に夢中になった。夜中ふと部屋の前を通ると僅かに灯りがもれていたので足を止めると、燭台の下で彼女がじっと本の頁を捲っていた。

 灯りに照らされた横顔は僕が今まで見てきた彼女そのものだった。

 彼女に気付かれないように部屋に戻り、その夜は枕に顔を押し当ててただひたすらに泣いた。こんなふうに泣くのは、幼い時以来初めてだった。

 自分を見ている彼女ではなく、あの庭で静かに本を読む横顔の方が、彼女が生きているように思えてならなかった。

 そう思うだけで、全身が引き千切られそうだった。

(何てものを遺して死んでくれたのだ)

 あの陽だまりのような女の顔を思い出して遣る瀬無い気持ちに憤った。

 白無垢の女が顔をあげる寸前まで、あの少女と結婚する気でいた。それは確かだった。彼女とどうこうなりたいとは、あの時の自分は欠片も思っていなかった。

 でも、いざ、そうなってみて。

 この全てを押し流していくような激流を、なかったことになど出来ようもなかった。


 ────知っていたのか。


 自分ですら気付いていなかったこの感情を。

 あの少女は、知っていたのだろうか。


 ────じゃあ、彼女が死んだのは僕のせいじゃないか。


 隠し通すべきだった。自覚していないものは隠しようもないが、悟られたのは自分の落ち度だった。華子はきっと知っていた。自分がいなくなれば姉が自分として嫁がされることも。知っていたから、命を絶ったのだ。

 気付いてから、耳元で「許さない」と毎夜ごとに囁かれているような気がした。

 華子を死なせ、彼女を殺したのはこの心だった。あのままでいればよかったのだ。舟に乗せられた人形のように両親の流した川に身を任せるがまま、ただ生きていれば、誰も死なせずに済んだのに。

(でも、もう遅い)

 選択の時期はとうに過ぎ去って、ここにいるのは華子ではない。

 彼女を生かしてやりたい。

 彼女が、彼女として、生きていくために、自分は何をしたら良いのだろう。

 

 

 答えが出ないまま季節は静かに過ぎていった。

 相変わらず、彼女は雪待華子として振る舞っていた。こちらの両親はもちろんのこと、彼女の両親でさえとっくに死んでいった娘たちのことを忘れ、後ろめたさなどは微塵も感じさせなかった。

 彼らにとっては「雪待華子」こそが必要で、それが誰であっても構わないのだと、思い知らされた。

 苦しかった。そんな場所に彼女を追い込んだ自分が許せなかった。でもあの子のように自死を選ぶ度胸もないまま、この夫婦ごっこを続けた。自分を許せないと思いながらも、華子のように、彼女が自分の名前を呼んでくれるのが嬉しかった。

 最低だ。下劣で、自分勝手で、卑怯な人間だ。


 だから。 


「旦那様は、私の名前を、ご存知……ですか」

 

 とうとう、知られてしまった。バレてしまった。

 でもこの日が来るのを、どこか待っていた気持ちもあった。

(詰ってくれたらいい)

 気持ちが悪い、最低な男だ、華子が死んだのはお前のせいだと、罵倒してくれたら。

 そうしたらきっと彼女は楽になれる。悪いのは僕だ。婚約者がいながら、その姉に焦がれた自分が悪いのだ。

 でも彼女はただ「そう、でしたか」と言っただけだった。

 

 彼女は翌日もいつも通り生活した。話しかければ応えるし、家事に手を抜くこともなかった。事務的に、機械的に、彼女は毎日を繰り返した。

 ただ、決してこちらを見ようとはせず、彼女に贈った本は、手をつけられないまま高く積み上がっていった。

 

 

 だから、これは罰なのかもしれない。

 

 

「……妻が、事故に……?」

 事が起こったのは彼女が珍しく、女学校時代の友達と食事をしてくると言って出かけた夜だった。遅くならないようにすると言っていたのに八時を回っても帰宅しないので、変だなと思った頃、電話が鳴った。

 彼女が車に轢かれたという電話だった。

 目の前が真っ暗になった。一体どうやって病院まで行ったのか覚えていない。ただ、迎えに来てくれた兄によると、ずっと譫言のように「自分のせいだ」と言っていたそうだ。

 実際、その通りだ。目撃者によると、彼女は自ら車線に飛び出したのだという。

 僕は愚かだった。彼女の気持ちを、何一つ理解しようとしていなかった。

 華子を殺したのは僕の浅ましい恋心のせいだったが、その視線は自分に向いていたことを知った彼女がどれだけ自分を責めたのか、僕はわかっていなかった。それをこちらへぶつけてくれたらよかったのにと、自責の念に駆られた。

 彼女は今度こそ自分の手で、妹を殺したかったのだろうか。

 それともこんな馬鹿な男に愛された自分を許せなかったのだろうか。

 

 

 幸い外傷は足の骨折のみで済んだが、転んだ際に頭を強く打ち、彼女の意識は三日経っても戻ることはなかった。

 僕は仕事を休み、彼女に付きっ切りとなった。両親が何を言っても無視した。久世の両親は事態の発覚を恐れたのか、それとも本当に華子が意識不明になったと聞いて体調を崩したのか、体調不良を理由にこちらへ見舞いに来ることはなかった。

 三日が過ぎ、七日が経ち、それでも彼女は目覚めなかった。ここまで来ると仕事に出ざるを得ず、兄に頼んで出来るだけ定時で上がらせて貰うようにした。

 一月、二月と、時は残酷なまでに僕を置いていった。

 

 桜は散って葉ばかりになり、梅雨が明け、気が付けば夏がすぐ足元に迫ってきていた。

 

「あら雪待さん。今日も奥さんのお見舞いですか?」

「ええ、はい。いつも彼女がお世話になっています。これ、良かったら皆さんで召し上がってください」

「まあーご親切にどうもありがとうございます。そうそう、今日は奥さん、いつもより顔色が良いんですよ。少しですけど反応もありましたし」

 手土産の紙袋を渡して彼女の病室に入る。六畳ほどの個室の寝台に横たわる彼女は確かにいつもより顔色がいい気がする。担当看護師は寝台のすぐそばにあるカーテンを引き、窓を開けた。さわさわと木の葉を揺らす音が滑り込んでくる。

「雪待さーん。旦那さんがお見舞いに来られましたよ〜こんな優しい旦那さんがいるんだから、頑張りましょうね〜」

 その優しい旦那のせいで彼女がこんこんと眠り続けていることも知らずに、看護師は笑いかけながら検温と点滴を確認して「では何かあれば呼んでください」と退出していった。

 二人きりになって、椅子に腰掛ける。

「……君は今、どんな夢を見ているんだろうね」

 顔にかかる髪を払ってやろうとして、手を引っ込める。窓から入ってきた夏風にその髪が落ちた。

 彼女がもしも、このまま一生目を覚さなかったら。そういう話し合いはすでにこの数ヶ月で何度も行われた。雪待の両親は一貫して彼女と離縁すべきと言ったが、拒否した。

 自分のこれからの幸せを考えろと父も母も何度も諭した。でも僕は断固として首を縦に降らなかった。両親の言いつけに従わなかったのは、きっとこれが人生で初めてのことだった。

 その帰り道、久世の義父はただ「申し訳ない」と言い、そして「娘をどうかよろしくお願いします」と頭を下げた。その肩は前よりもずっと小さくなっており、随分と老け込んだように見えた。

 そんなこともつゆ知らず、彼女は茨姫がごとく眠り続けている。

 これが御伽噺なら、一体誰との真実の愛で彼女は目を覚ましてくれるのだろう。

「もしかして君は、僕がまだ生きているから、目を覚ましてくれないのかな」

 視界の端で、白いカーテンが揺れる。その向こうに広がる空はどこまでも青く、向こうに高く積み上がった積乱雲が見えた。夕方から一雨くるかもしれない。

「僕が、いなくなったら」

 ────君は、どう思うだろう。

 喜んでくれるだろうか。自分勝手だと、詰るだろうか。君が笑ってくれるのならもう命さえ惜しくなかった。自分の幸せなんていらない。ただただ、この人が心から笑えるだけの世界が欲しい。

「華子、どうかこの人を連れていかないでくれ……」

 酷いことを言っている自覚はあった。でも、もうだめだった。舟は石に引っかかってしまって、もうどこにも行けなくなっていた。

 その石をそこに置いたのは、紛れもなく自分だ。あの時、彼女が蹴っ飛ばした小石を拾って、握りしめたまま動けなくなってしまった。

 

 僕が代わりに、君といくから。

 

 だから、彼女を連れていかないで。

 

 

 夕方になり、予想通り雨が降り出した。

 窓を閉め、カーテンを引き、僕は病室を後にした。

 外に出てみるとむっとした空気が纏わり付いてきた。傘も差さず歩き出すと、激しい驟雨しゅううはあっという間に僕をずぶ濡れにし、ずっしりと肩が冷たく重くなる。まるで誰かが覆い被さっているみたいだ、とぼんやり思った。

 気がつくと僕は久世の屋敷の前にいた。彼女が事故に遭い、両親はこの屋敷を売り払って田舎の方へ引っ越した。

 主人を失った庭はひどく寂しげで、彼女がいつも本を読んでいた木陰は鬱蒼とした雑草に覆われ、見る影もなかった。

 彼女たち姉妹が生きていた痕跡は、もうどこにもない。

「────これが、罰なのか」

 わからない。

 何が正解なのか、どうすればいいのか、僕たちはいつから道を外れてしまったのか。

 華子が死んでから? 彼女の笑顔を見た時から?

 それとも初めて出会った時から、もう何もかもが狂っていたのだろうか。

 ぐっと手を握って、僕は踵を返す。雨が容赦なく降り注ぎ、のろのろと歩く僕に道行く人は迷惑そうに一瞥した後、足早に通り過ぎていった。久世の屋敷から歩いてすぐの橋の途中まで来たところでふと足を止める。

 いつだったか帰り道、姉妹が歩いているのを見かけた場所だった。

(いま、ここで死ねば)

 華子は許してくれるのか。彼女は目を覚まして、この世界に帰ってくるのか。

 今までの自分だったら馬鹿を言うなと言っただろう。どうかしている。死んだ人間に口はない。華子がどのような理由があって自ら命を絶ったのかなんて、結局のところ生者の妄想でしかないのだ。

 でも、その時、ごうごうと音を立てる川に華子が立っているのが見えた気がした。彼女の手を取ろうと、手を伸ばして、

 





「────、柊、二、さんッ!」

 

 欄干を掴んだ、その時だった。

 誰かが僕の名前を呼んで、顔を上げた。

 そこにいたのは彼女だった。白い病院着は同じように雨に濡れていて、髪と一緒に肌に張り付いている。何度も転んだのだろう。病院着も泥に塗れていた。

 突然飛び込んできた事態に思考が追いつかず、茫然としている僕の元に行こうとして彼女は一歩踏み出すけれど、そのまま足がもつれて転んでしまった。もう数ヶ月寝たりきだったのだから当たり前だ。病院からそう離れていないとはいえ、ここまで一人で来ること自体が無茶な話だ。

 慌てて駆け寄って彼女を抱き起す。見れば剥き出しのままの足は擦り傷や切り傷だらけだった。

「君、一体いつ目が覚めて……それより何でこんなとこに来たんだ、お医者さまは……」

「いま、死、だら、一生、うらみ、ます」

 僕の言葉を遮って、彼女は強い声で言った。この数ヶ月眠っていたせいで声は随分と枯れていたけれど、こちらをぐっと見上げる瞳はどこまでも強かった。

「……君も、気付いていただろう。僕は君が好きだった。華子も、たぶん、気付いていたと思う。彼女を死に追いやったのは僕だ。僕が彼女を殺したも同然だ」

「それなら、わ、たしだって、同罪、です」

「違う、君は勝手に思いを寄せられただけだ」

「いいえ、私は、もう、死んでる、んです。でも、華子も、どこ、にもいない。私たち、とっくに、要らない、んです。でも、あなた、だけ、は」

 

────彼女の瞳がただ、自分を向いている。


「私、を、愛して、くれた……あなたの、瞳にし、か、私たちは、もう、生きられない」


 ────痛みを超えて、彼女が、自分自身の言葉で伝えようとしている。 


「しんだら、わたしの、命は、ないと思って、ください。あなたが、死んだら、わたしもすぐに、後、を追ってやり、ますから」


 ────そのことが、こんなにも、嬉しいと思うのは罪なことなのだろう。

 雨の音も川を流れる激流も何も聞こえなかった。唯一、目の前の女の声だけが色を帯びていて、もう手も声も届かない人へ謝罪の言葉を並べながらその細い体を抱きしめた。

 お互い体はとっくに冷え切っていて、不恰好で、どうしようもない。

 初めから、誰かを傷付けるしか成就出来ない恋だった。

 

「君の名を……呼んで、構わないか」

 

 それに、彼女は小さく頷いて、そっと背中に彼女の手が触れた。

 驟雨はいつの間に上がり、白と灰色の混じった雲から橙色の光が伸びてくる。

 名前を呼ぶだけなのに初夜の夜よりもずっと緊張して、うまく声にならない。涙でぐしゃぐしゃになりながらも初めて呼べた彼女の名前は、雨上がりの蝉の声に掻き消されてしまって、目の前の彼女にしか届かなかった。なんて格好悪いのだろう。


 でも、彼女は笑ってくれたから。



 蝉時雨が降り注ぐ。

 世界はきっとこの時、本当に一度だけ、息を止めた。

 

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午後六時の蝉時雨 朝生紬 @hyd0

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