からりと玄関が開く音がして、私はまな板から顔を上げ、前かけで手を拭きながら小走りに向かう。顔を覗かせると玄関で丁寧に靴を脱ぐ柊二の姿があった。彼はこちらを見て、疲れた様子を引っ込める。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい。今日はお義母様が秋刀魚を届けて下さったんです。とても良い秋刀魚で、あとで改めてお礼を言っておいて下さいますか」

「わかった、また伝えておくよ」

「お願いします。先に夕食になさいますか、お風呂も沸いてますよ」

「うーん、先にご飯だと嬉しいな」

「わかりました、すぐに支度しますね」

 鞄を受け取り、ネクタイを緩める柊二に華子の顔で微笑みかける。それに柊二は少しだけ微笑んで「いつもありがとう」と労いの言葉をかけるのだ。そのたびに私は笑いながら、どこか乾いた瞳で誰かが自分を見ているような、ひどく惨めな気持ちになる。


 結婚生活は思いの外、順調だった。

 柊二は本宅ではなく郊外に小さな家を買い、私たちはそこで暮らし始めた。

 お手伝いさんなども最初は入れるかという話だったが、柊二が断ったらしい。婚約時代から仲睦まじいと噂だったので、二人っきりの時間を邪魔されたくないのだと周囲は勝手に良い方に勘違いしてくれた。

 それは私にとっても都合がよかった。

 両親ですらお淑やかで手入れされている方が華子、粗野でお古の着物を着ている方が姉の方という見分け方をしていたくらい私たちはそっくりな双子だった。バレるわけがないとは思うが、家のどこにいても衆目があるのはやはり気疲れする。

 けれど結婚生活が順調であればあるほど柊二の慕う相手を探すのは迷走した。

 柊二は教本に載せたいほど模範的な夫で、朝六時に出勤し、夜の五時過ぎに帰宅する。そんな生活をもう三月も繰り返している。 

 別に私としては妾がいたとして何ら文句はなかった。現に父にも愛人がおり、その愛人との間に子供がいる。おまけにその庶子は男児らしいので、将来はその子供を引き取って後継にするつもりだろうと、母と揉めていたことを知っていた。そのことを伝えても、彼は「そんな人いないよ」と、少し目を伏せてはぐらかすだけだった。

 彼はいつもと同じ時間に家を出て、夜は陽も暮れない間に帰ってくる。廓通をしているふうでもない。どれほど物分かりのいい女でも、さすがに三月も音沙汰がないのでは愛想を尽かしてしまうだろう。それとも結婚を機にきっぱりと縁を切ったのか。

(でも、もう遅い)

 婚約が決まった時にでも縁を切ってくれていれば、きっと華子は死ぬことはなかったのに。そんな思いが私をこの人の妻たらしめていた。

 この人に復讐することだけが、私を私でいさせてくれた。


「ねえ君、この本、読んでみないか?」

 ある日柊二は帰宅して、鞄から一冊の本を取り出した。

 聞けば最近巷で流行っている大衆小説らしい。

「友人が書いたものなんだが、いろんな年代の人に読んで欲しいと言っていてね。君さえ良かったら、感想を貰えないだろうか」

「よろしいのですか? その……」

 外の風が吹きこんでも、未だ女人が学ぶことを良しとしない時代。女学校でも裁縫や琴は習うが、字の読み書きや算術は基本的に殿方の分野だった。本を読む女子など、目を悪くしたら不恰好だと眉を顰められる行為だ。

 でも私は昔から本が好きだった。読むことも知ることもどうしてもやめられなかった。将来は教職に就きたいと言って、両親をひどく怒らせたこともあった。だからこそ父も母も妹の華子に執着し、お前は姉のようになるなよと口を酸っぱくして言っていたのだ。

「構わないよ。これからはご婦人も色々なことを学ぶべきだと、僕は常々思っていたんだ。作者の友人は昔から文章を書くのが上手いんだけど、若い娘さんにもウケるかどうか知りたがっていてね。協力してくれないか?」

「……旦那様がそうおっしゃるなら」

「本当? ありがとう、友人も喜ぶよ。ああ、でもゆっくりで構わないからね」

「はい」

 受け取った本は私の予想を遥かに超えて面白かった。鬼と人との異類奇譚であり、主人公が複数人いる群像小説だった。鬼と人は食い食われる間柄でありながらも愛が芽生え、育てていく。そんな愛のお話だった。

 本を読むのは久しぶりだったというのもあり、私は夢中でその小説を読んだ。

 ゆっくりと時間をかけて、実際はその間に何度も読み込んで、華子ならこう言うだろうと言う、当たり障りのない感想を述べた。

 それからと言うものの、柊二は時折、本を私に薦めるようになった。それを、私は何日もかけて読み、感想を伝えた。華子ならこう思うだろう。あの子ならこういう場面に感動するだろう。そうやって華子の目線を追い続けた。

 そんなことが半年続いていた。私はまだ、この人の妻を続けている。

「最近、元気がないね」

 夕食の席でそう言われて、私は「そうですか?」と小首を傾げた。体調は別に悪くない。別に悩みがあるわけでもないし、この半年ずっと周囲が思い描くような従順で、楚々とした妻をやってきたつもりだ。そう言われるようなことに全く身に覚えがなかった。

「────」

 そう思った時、はっとした。いつの前にか華子として振る舞うことが当たり前になっていて、自分との境界線が曖昧になっていた。義母から「華子」さんと呼ばれることにも、何も思わなくなった。

 私が、あの子になったら、一体誰があの子を────私を悼んでくれるのだろう。

(まるで、呪いだ)

 早くあの子を死に追いやった女の影を見つけなくては。そう思った。そうじゃないと、私が私でなくなってしまう。

「……君が元気がないのは、嫌だな」

 ────嗚呼、今直ぐこの男を殺してやりたい。その日、私はあの夏に芽生えた熱を思い出した。

 

 

 一年が過ぎた。私は今も私から華子を奪った男の妻を続けている。

 華子の命日、私はいつも通り生活していた。あの子を殺した男のご飯を作り、掃除をして、洗濯を済ませ、あの男が買ってきた本を少しだけ読み、夕飯を作り、風呂を沸かして、寝る。

 何度も殺そうと思った。正体を明かして、お前のせいで華子は自殺したんだと、そう詰ってやりたい衝動に何度も駆られた。

 でも結局出来なかった。

 だって彼は、華子のことも、確かに愛してくれていた。

 彼は私を抱くたび、明日世界が終わっても悔いが残らないようと言わんばかりに、愛を囁いた。好きだ、愛していると言われるたびに、私は目の前の男への憎悪を募らせた。

 ────この男が憎かった。

 私から華子を奪った。たった一人の、私の妹。私の家族。

 ────この男が許せなかった。

 だって、そうでなければ。

 ────この男が嫌いだった。

 私たちはもうどこにも行けないのに、この人は今も眩しく生きている。

 ────この男を殺してやりたい。

 けれどあの子を、私を、愛してくれるのは、もう、

 ────この男を、この男を、もしも。

 

 愛してしまったら。

 


 

 私がここに生きている意味がない。

 


 

  

「今度の休みに少し遠出をしないか」

 ある日、柊二が久しぶりに連休をもらったので旅行に行かないかと言った。

 珍しいなと思った。一緒に暮らして初めてわかったが、彼は休みの日にどこかへ積極的に出かける人ではなかった。華子と婚約していた時は彼女のために出かけていたのだろう。観劇よりも縁側で静かに本を読むのが好きな人だった。

 そしてそれを、丁寧に私に分け与えてくれるような人だった。

「知り合いがやっている古本屋を畳むことにしたらしくて、好きな本を持って行っていいと言ってくれたんだ。近くにいい温泉宿もあるらしい。どうだろう」

「いいですね、是非お供させてくださいませ」

「そうか。よかった。君の話をしたら、先方も是非奥方とご一緒にと言って下さったんだ。もし君が気にいる物があれば遠慮なく貰っていって欲しいって」

「よろしいのですか?」

 親しい友人や家の中でなら世間も許してくれるだろうが、さすがに外でそのような話をしているとは驚きだった。それとも本当に時代に逆らっていくつもりなのだろうか。

 柊二がそういう人だとは思わなかった。初めて出会った時はもっと、世界に向かってどうでもいいと言わんばかりに、俯いていたのに。

 この人はいつから変わったのか。胸がいやに騒いだ。


「だって、君は昔から本が好きでしょう」

 

 ────頭を力一杯殴られたような衝撃だった。


 そんなはずないと私は自分に言い聞かせた。

 両親は華子の遺体を私として密かに弔った。この世界のどこにも久世家の長女は存在しない。あの日、私は私をこの手で殺した。私は華子になった。だって、だから、でも。


「旦那、様は」

 

 ────でも、この人はただの一度でも私に「華子」と呼んだことがあっただろうか。

 

「私の名前を、ご存知……ですか」


 突拍子もない問い掛けだった。気でも狂ったのかと思われても仕方のない質問だった。けれど、私にとっては何より大事なことだった。何を言ってるんですかと笑って欲しかった。当たり前じゃないですかと、もしくは不審がられたとしてもいい。そうしたらいくらでも取り繕える。あの子は死んでない。死んでない、生きてる。ここで、あの子が愛した男と一緒に。だから、お願い。祈るのような気持ちで私は顔を上げた。

 

 そこにいたのは、私のよく知るあなたで。

 

「……名で呼んでも、良いのですか」

 

 ────嗚呼。

 

 不意に夜の熱が耳元に甦ってくる。鳳仙花の実のように、触れられた部分から弾けてしまいそうな晩夏。私たちの境界線が溶けて、曖昧になって、なくなって。

 愕然とした。この半年、一体この人の何を見てきたのだろう。

 この人は最初から「私」を見ていた。街へ揃って出かけた時も、行くのは本屋ばかりで劇場や美術館にはただの一度も連れて行かれたことがなかったことも、今更に気付いた。

 春が雪に焦がれるように、その冷たそうな瞳に映っているのはもうこの世のどこにもいない女だった。死んだ女が今にも泣き出しそうな、ひどく惨めな顔をしていた。

(どうしたらいいの)

 途方に暮れるとはまさにこの事だろうと思った。

 頭の中でうるさいほど茅蜩が鳴いている。晩夏の陽炎が追いかけてくる。

 

 降り頻る雨と、それを眺める白い横顔を布団の中から盗み見ていた夜に、あの子は二度死んだ。

 



 ────妹を殺したのは、私だった。

 

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